A Course of Love 愛のコース


「愛のコース」が気になるぅ!

奇跡のコースを学ぶみなさんの中には、マリ・ペロン著「愛のコース」が気になっている方もいらっしゃると思います。




コースの続編っていううたい文句だけど、本当だろうか?でも、もし奇跡のコースと整合性がなくて、かえってコースの学びの妨げになるとしたら困りものだし、手を出してよいものか思いあぐねているという方もいらっしゃるかもしれません。




愛のコース


A Bridge

奇跡のコースと愛のコースについての橋渡しをしようという、その名も「A Bridge: Exploring the Connections Between A Course in Miracles & A Course of Love 」という本があります。



この本の中で、私たちが最も気にするポイント、テキストの序文が愛は教わることのできるものではないと語るつぎの文章との関連で生じる疑問について、愛のコースからの抜粋を引用する形で回答しています。


「The course does not aim at teaching the meaning of love, for that is beyond what can be taught.
 このコースは、愛の意味を教えることを目指してはいません。なぜなら、愛は教わることのできるものではないからです。

 It does aim, however, at removing the blocks to the awareness of love's presence, which is your natural inheritance.
 しかしながら、あなたが生まれながらに授かっている愛の存在を自覚するのを妨げている障害を取り除くことに、このコースが狙いを定めているのは確かです。」(テキスト序文


もし愛が教わることのできないものであるなら、なぜ「愛のコース」が存在しうるのか?

A Bridgeから引用します。

2. Why would there be “A Course of Love” if love cannot be taught?
もし愛が教わることのできないものであるなら、なぜ「愛のコース」が存在しうるのか?


GLENN: ACIM says that it does not aim at teaching the meaning of love, for that is beyond what can be taught. It does aim, however, at removing the blocks to the awareness of love’s presence, which is your natural inheritance. (Tx.I.2)
グレン:ACIMは、「愛は教わることのできるものではないので、愛の意味を教えることに狙いを定めてはいない。しかしながら、コースがあなたが生まれながらに受け継いでいる愛の存在を自覚するのを妨げている障害を取り除くことに、このコースが狙いを定めているのは確かである。」と言っています。

ACOL explains why love itself is beyond the curriculum: Love has no attributes, which is why it cannot be taught. (C:2.4)
ACOLは、愛それ自体がカリキュラムの範囲外である理由について、「愛はいかなる属性も持たない。これこそ、愛が教わることのできないものであるゆえんである。」と説明しています。

So how does Jesus propose to reveal love through his Course of Love?
それでは、イエスは、彼の語る愛のコースを通して、どのように愛を明らかにしようとしているのでしょうか。

In the same way as in ACIM, by removing the blocks to the awareness of love’s presence: Remember that your task here is to remove the barriers that keep you from realizing what love is.
それは、ACIMで用いたのと同じ方法、つまり、愛の存在を自覚するのを妨げている障害を除去する方法です。あなたの地上での任務は、あなたが愛が何であるか理解するのを妨げている障壁を取り払うことだということを思い出してください。

That is the learning goal of this Course—your awareness of what love is—and no earthly course can take you beyond this goal.
障害を除去してあなたが愛とは何かを自覚できるようにすること、これがこのコースの学習目標です。そして、地上でのいかなる学びの課程も、あなたをこの目標を越えたところに到達させることはできません。

It is only your willingness that is required. (C:11.5)
必要なのは、あなたの意欲だけです。

That is, a willingness to release fear.
それは、恐れを手放す意欲です。

Because you have not properly recognized fear as nothing, you have not properly recognized love as everything. (C:2.4)
なぜなら、あなたはまだ恐れが無であると正しく認識しておらず、あなたはまだ愛がすべてなのだと正しく気づいていないからです。

Which brings us back to the matter of attributes: It is because of the attributes you have given fear that love has been given attributes.
それは、私たちを属性の問題へと引き戻します。それは、あなたが愛に付与されてきたさまざまな属性を恐れに与えたからです。

Only separate things have attributes . . . (C:2.4)
分離した物事だけが属性を持ちます。

In other words, the mistake we made was identifying Love as being the attributes we assigned it.
別の言い方をするなら、私たちが犯した間違いは、大いなる愛を、自分勝手にそれに割り当てた属性を持つものだと思い込んでしまったことです。

Thus we could love hot chocolate without making the mistake of thinking that love IS hot chocolate.
したがって、私たちは、愛とココアがイコールだと思う間違いを犯すことなく、ココアを愛することができるのです。

How does Jesus go about removing our barriers to our true Self, which is love?
イエスは、どのようにして、愛である、私たちの真の大いなる自己に至る妨げとなっている私たちの抱く障害を取り除くのでしょうか。

Through relationships.
それは、関係性を通してです。

This can be no surprise, given the extraordinary emphasis on relationships in both Courses.
ふたつのコースいずれにおいても、関係性に並外れた比重が置かれていることに照らせば、これは驚くようなことではありません。

To think of achieving love “on one’s own” is ludicrous. (C:1.12)
「自分だけの力で」愛を獲得しようと思うのは馬鹿げています。

This is not a matter of entering nice or even loving “relationships” as we usually understand them, but for true forgiveness and “joining.”
関係性を通して愛に至る障害を除去するといっても、それは、私たちが通常の意味で捉えている別のもの同士の関係性という意味で、良好な(たとえそれが愛に満ち溢れたものであっても変わりはありません)「関係」を結ぶということでははなく、真の赦しによって「結ばれてひとつになること」を意味します。

Joining with Jesus, with God, and with all beings—especially the Christ “part” of us.
それは、イエスと結ばれてひとつになることであり、神とひとつになることであり、万物とひとつになることであり、それは、とりわけ、自分たちの「大切な部分」である神の子キリストとひとつになることです。

Reality, the truly real, is relationship. (C:6.1)
真に実在する現実は、関係性です。

True joining and relationship, he says, entails a mutual “ownership,” no longer two but one, in which we are each one another’s “own,” and that we are each God’s “own,” for what God has joined can never truly be separate.
イエスは言います。真にひとつに結ばれた関係性というには、各自がもはやふたつではなくひとつになって互いに共通して「自分に属するものといえる所有権」を持つ関係性が必要です。その関係性においては、私たちはお互いに相手に「属するもの」であり、そして、私たちはともに神に「属するもの」です。なぜなら、神がひとつに結び合わせたものを真に分かつことは決してできないからです。

It means a love deeper than any love you have known, for in not owning and possessing, in not being owned and possessed by, and in, union and relationship, you have not fully known love. (D:Day38.10)
それが意味するのは、あなたが知っていたどんな愛よりも深い愛です。なぜなら、自らに属していないものを所有し、自らが相手に属していないのに所有されることでは、つまり、ふたつが分離したまま結合する関係性の中では、あなたは愛を完全に知ることができなかったからです。


私たちのオープンマインド次第で世界のすべてを通じてイェシュアは私たちに語りかけてくれる

どうでしょうか。

コントロールを手放す(無条件の愛―キリスト意識を鏡として)で、イェシュアが「その意志のある人ならば、だれを通じても、わたしは語りかけることができます。」と述べているように、イェシュアは、世界の中のあらゆる人や物事を使って私たちにメッセージを伝えることができます。

自らの心を開いて自らの内なる聖霊に裁きの天秤を委ねるなら、世界を師として万物から学びを得られるはずです。

世界の中のすべての人は、聖者も賢者も愚者も含めて、イェシュアが仮面を被って仮名を名乗って変装した姿で、私たちに真理のメッセージを届けてくれているというのが本当のところなのでしょう。

つまり、兄弟が語ることが、疑う私たちの思いの通り偽りのままになるか、その奥にある真理が姿を現すかは私たち次第ということです。

内なる聖霊を権威とするならば、どんな人やものからもイェシュアの声を聴くことができ、内なる感覚によってそれがイェシュアの声であったかどうか、わかるはずです。

傷つくのを恐れて、主体性を放棄して、著名な指導者の判断に従って自分の外の誰かに権威を渡すスタンスで学ぶなら、たとえ奇跡のコースであっても、イェシュアの声を正しく伝えてはくれないでしょう。

マザー・テレサが病いや飢えに苦しむ目の前の弱者にイエス・キリストを見ていたように、私たちも、自分と兄弟の中に同じ聖霊がいることを自覚するなら、折り合いのよくない職場の同僚や上司、愛情を感じる配偶者や子供といった家族、街ですれ違う人々すべてに変装したイェシュアに気づくことができます。

安全で危険を冒さない広い門を通るのではなく、危険に満ちた狭き門を通って聖霊に先導してもらう姿勢を保ちましょう。


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第3部、刊行予定!

5月13日に出版予定とのことです。注文して楽しみに待ちましょう!!
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