レッスン237「今、私は、神に創造されたままの私になることにする」


私の経験によれば、欠点のない者には取り柄もないものだ。

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Abraham Lincoln
エイブラハム・リンカーン





どんな理由があろうとも、決して人を軽蔑してはいけない。軽蔑とは非難の最も危険な種類である。なぜなら、平衡力が働く結果、あなたは自分が軽蔑した人の立場に陥る可能性があるからだ。
失われた調和を回復するためには、こうすることが平衡力にとって最も手っ取り早くて簡単な方法である。
乞食やホームレスを軽蔑できようか? 自分自身が財産や家屋敷を失うこともある。そうなればバランスは回復する。
身体障害者を軽蔑できるだろうか? あなたが事故に遭うのもわけないことだ。アルコール依存症者や覚醒剤常習者を軽蔑できようか? 
難なく彼らと同じ立場に陥るのだ。そうなるように生まれたわけではないのに、様々な人生の状況によってそうなってしまったのである。このような状況はあなたを避けてくれるはずだなどと、なぜ考えられるだろうか?



Vadim Zeland
ヴァジム・ゼランド(「リアリティ・トランサーフィン 幸運の波/不運の波の選択」178ページ)

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一人ひとりに天の使命があり、その天命を楽しんで生きることが処世上の第一要件である。



渋沢栄一




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レッスン237です。

「今、私は、神に創造されたままの私になることにする」が今日のテーマです。

まず、救済とは何かに目を通してから、レッスンに入りましょう。




個別の霊、自我としての私たち

真の私たちは分離してはおらず一なる神の子です。

もっとも、幻想世界でエゴに従うことで、一なる霊は自分が多数に分離していると錯覚しているので、世界にいる私たちは、個別の心を持つ神の分霊たる魂だということになります。

ほかの記事でも出てきますが、神道の考え方で「一霊四魂」という概念があります。

ウィキペたん

「一霊四魂説のもっとも一般的な解釈は、神や人には荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま、さちみたま)・奇魂(くしみたま)の四つの魂があり、それら四魂を直霊(なおひ)という一つの霊がコントロールしているというものである[1]。和魂は調和、荒魂は活動、奇魂は霊感、幸魂は幸福を担うとされる[1]。」(ウィキペディア(Wikipedia)

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インド哲学の二元論のサーンキヤ学派では、プルシャという観照者と現象世界を作り替えていく心の根本資質プラクリティを対置し、プルシャの観照を契機としてプラクリティはトリグナ(3つの性質)、サットヴァ善性、ラジャス動性、タマス暗性のバランスが崩れて多様な世界が生滅変化するとします。

いずれも、観照する主体的存在として直霊やプルシャがあり、四魂やトリグナの混じり具合による多様な個性の発現という仕組みについて説明するものです。


アバターの持つ個性は悪なの?

私たち人間というエゴ・身体のアバターは、各自が個性を持っています。

奇跡のコースでは、エゴをあえて私たちから独立した存在、生き物のように表現してエゴを取り消すことについて語ります。

受け止めようによっては、エゴが諸悪の根源であり、抹殺すべき悪者であり、そして、エゴとは個別の心が持つ個性と同義であるように感じてしまうために、個性から発する事柄はすべてエゴに帰すべき属性であって、パーソナリティーとしての個人としての自我そのものを消し去るべき害悪であるというふうに解釈してしまうきらいがあります。

けれど、特別な関係についても、特別な関係を神聖な関係に昇華させるようにと述べるように、コースは決してこの世界で具体性を帯びる物事、事柄を全否定し、それらを攻撃しろと言っているわけではありません。

この世界で具体的、個別的であることは世界という幻想の性質上当然のことなので、それを否定するのではなく、個性や関係性を分離幻想に奉仕するエゴに導かせるのやめて一なる神の声である聖霊に導かれるようにせよと求めているのです。

したがって、自分が個性的であることを否認すべきことと捉える必要はありません。


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むしろ個性は受け入れて輝かせることが大切

むしろ、個性があるのは客観的には動かしがたい事実として受け入れることのほうが大切でしょう。

自我の持つ個性への光の当たり方によって影ができますが、この影のことをエゴと呼んでいるわけです。

影は光が斜めから当たることで生じます。

その個別の心、自我が、自らの特性に即した適切な役割を果たせる直霊、プルシャのいる中心に立てば、個性はあるままですが、すべての側面が等しく光に照らされて影ができることはありません。

影がなくなったからといって、無個性になったわけではなく、むしろ個性は自分の持ち味を生かしてより独自の光を放ち、自我の個性は他者を害することなく、その魂だけが担う天命を果たして全体に奉仕すべく有益な働きをするようになります。


エゴを敵視する発想の行き着く先は全体主義という別の狂気

したがって、個人にとって自分の持つ属性、個性をしっかり把握して、自我を健全に成長、成熟させ、自分の持ち味を存分に活かせる場所、自分にとっての中心を見つけて自分をそこに位置づけることは、だれにとっても、何よりも重要な人生の課題だと言えるでしょう。

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自我を滅却、放棄しなければいけないという発想の行き着く先は、はてしない物語に出てくるイスカールナリたちのような(レッスン106「私が心静かに、真理に耳を澄ませられますように」)平和ですべてを分かち合う一心同体ではあっても、愛に欠ける和合という別の狂気です。全体を構成する各自は、無個性なのっぺらぼうの個人で、目の前で仲間のひとりが惨殺されて消えてしまった直後でも誰も悲しむことなくニコニコと仲良く過ごしているというのは寒気がしないでしょうか。

ぜひ自分のエゴを殺そうとするのではなく、愛することで光を当てて健全な自我として活かし、闇の中で悪さをしていたものを光の中で役立つ個性へと昇華させて、いい持ち味を醸し出すようにしたいものです。

この世界での配役についてが参考になると思います。



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Lesson 237

Now would I be as God created me.
今、私は、神に創造されたままの私になることにする。



1. Today I will accept the truth about myself.
 今日、私は自分自身についての真理を受け入れることにする。

 I will arise in glory, and allow the light in me to shine upon the world throughout the day.
 私は栄光の中に身を起こし、私の中にある光が1日を通して世界を照らすようにする。

 I bring the world the tidings of salvation which I hear as God my Father speaks to me.
 私はこの世界に救済の便りをもたらす。その救済の便りは、父である神が私に語りかける通りに私が聞いたものだ。

 And I behold the world that Christ would have me see, aware it ends the bitter dream of death; aware it is my Father's Call to me.
 そして、私は、キリストが私に見せようとしてくれる世界を見て、その世界が過酷な死の夢を終わらせることを自覚し、その世界が父から私への呼びかけであることを知る。



2. Christ is my eyes today, and He the ears that listen to the Voice for God today.
 今日、キリストが私の目となり、キリストが神に代わって語る声を聞く耳となります。

 Father, I come to You through Him Who is Your Son, and my true Self as well.
 父よ、私は、あなたの子であり、私の真の自己でもあるキリストを通して、あなたの下へと参ります。

 Amen.
 アーメン。


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それでは、ブリトニーさんのレッスンです。






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