レッスン261「神は、私を無事に保護して私の安全を保障してくれる」


“The law, I suppose, declares that it is best to keep quiet as far as possible in calamity and not to chafe and repine, because we cannot know what is really good and evil in such things and it advantages us nothing to take them hard, and nothing in mortal life is worthy of great concern, and our grieving checks the very thing we need to come to our aid as quickly as possible in such case.”
「私が思うに、法はきっとこう言うはずだ。惨事に際しては、できるかぎり平静を保って感情をたかぶらせないことが最も望ましい。その理由はこうだ。まず、私たちには、そうした出来事が本当に善いことなのか悪いことなのかを知ることができない。そして、惨事を困難と捉えたところで、私たちに好都合になることは何ひとつない。それに、そもそも限りある人生においては大きな関心を寄せるに値するものは何ひとつない。なにより、私たちが悲嘆に暮れることは、そのような状況で、私たちが必要としていて私たちの助けとなるべく私たちの許に到来すべき大切なものが速やかに訪れるのを妨げるだけなのだから。」と私は言った。

“What thing,” he said, “do you mean?”
「悲嘆に暮れることで、どんな大切なものが訪れるのが妨げられるとおっしゃるのですか?」と彼が尋ねた。

“To deliberate,” I said, “about what has happened to us, and, as it were in the fall of the dice, to determine the movements of our affairs with reference to the numbers that turn up, in the way that reason indicates would be the best, and, instead of stumbling like children, clapping one's hands to the stricken spot and wasting the time in wailing,ever to accustom the soul to devote itself at once to the curing of the hurt and the raising up of what has fallen, banishing threnody by therapy.”
「それは、自分に起ったことについて熟慮する機会だ。悲嘆に暮れているかぎり、サイコロを振ってどんな数字が出るかでそれを最善である相応の根拠をもつものとして自分のなすべき行動を決めたり、あるいは、落とし穴を前にした幼い子どもたちのように、泣きじゃくって自分の手をばたつかせながら時間を無駄に過ごすことで、ようやくその状態に慣れた魂が傷を癒すことに専念できるようになって、落ちこんでしまった気力を奮い立たせ、癒しによって憐憫が追い払われるときが来るのを待つことになるだけだ。」と私は言った。

“That certainly,” he said, “would be the best way to face misfortune and deal with it.”
「確かにそれこそ、不運に面してどう対処するかについての最善の方法だと思います。」と彼は言った。

“Then, we say, the best part of us is willing to conform to these precepts of reason.”
「だから、私たちの担う最善の役目は、このような理性の勧告に喜んで従うことなのだと、私たちは言うのだ。」

“Obviously.”
「確かにその通りです。」

“And shall we not say that the part of us that leads us to dwell in memory on our suffering and impels us to lamentation, and cannot get enough of that sort of thing, is the irrational and idle part of us, the associate of cowardice?”
「だから、私たちは、人々を自らの苦悩の記憶に留まらせて、彼が悲嘆に暮れるように強いて、結局、そうすることで何の満足も得られない状態に導くことは私たちの役目ではないと言うべきだし、それは不合理で私たち役割を果たすのを怠ることであり、卑怯なことだと考えるべきなのだ。」



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プラトン(「国家」より)






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レッスン261です。

「神は、私を無事に保護して私の安全を保障してくれる」が今日のテーマです。


まず、身体とは何かをご覧ください。






エゴに守ってもらおうとするから世界は敵になる?

今日のレッスンでは、私たちが自分を安全で強く思わせるものに自己同一化しようとすることが示されます。

私たちの現状は、危険極まる世界の中でエゴ・身体を維持することが自分を安全にすると思っているので、私たちはエゴ・身体というアバターに自己同一化して、他者を攻撃することで自分が平安を得られると誤解して、自分を防衛する殻を分厚くしてどんどん縮小していくことになります。

これに対して、聖霊は、自分の殻を打ち破って自他の分離感から心を解放してすべてをひとつのものとして包含する神にアイデンティティーを抱くことで神の子としての真の平安を得るようにと教えます。

エゴ・身体が自分だという感覚を実感している私たちが、この神にアイデンティティーを抱く状態にシフトするのは相当困難です。


カプセル内視鏡での体内旅行

そこで、ひとつ思考実験をしてみましょう。

現在でもカプセル内視鏡は存在していますが、将来、ナノサイズの微小サイズのものができて、自分の身体の中に内視鏡を入れて極微サイズのカメラやマイクや触覚機器という内視鏡の知覚器官を用いて観察しながら体内旅行ができるようになるでしょう(インナースペースミクロの決死圏)。


この世界の中で暮らす私たち人間というアバターと永遠の現実にいる神の子の関係性をこのカプセル内視鏡と身体に置き換えると、内視鏡がアバター、身体の持ち主である私たちが神の子という位置づけになります。

アバターである内視鏡から見える自分の体内世界を眺めながら見物している私たちからすれば、体内世界でアバターたるカプセル内視鏡の出会うものすべて、例えば、血管内を旅している際には、白血球や赤血球のような周囲の組織から分離して独自に動き回れるように見えるものだけでなく、血管壁のように地面や土手のように見える存在も、血漿のように魚にとっての水、陸上生物にとっての空気のように、自分たちを取り巻く環境のように見えるものもひっくるめて、すべてが自分自身だということがわかります。

カプセル内視鏡を体内に侵入した異物と解釈して白血球たちが攻撃を仕掛けてきても、内視鏡から自分の体内世界を見ているその人は、内視鏡生活があまりに長くなって我を忘れ切っているのでもないかぎり、「よくもやりやがったなあ!」と怒りを覚えて攻撃してくる白血球に反撃したりしません。相手が自分の一部だとわかっているからです。


自分が操縦するアバターだけにいい思いをさせようとがんばることは実は自滅行為?

この世界で私たちが、ひとつのアバターに肩入れして他者を犠牲にしてでも、自分だと思っているアバターがいい思いをするようにせっせと精を出すことは、これと同じくらい滑稽なことであるはずです。

自分が内視鏡から自分の体内を覗き込んでいることを忘れていないかぎり、その人は、体内世界の細胞や器官たちは等しく愛すべき自分自身であって、脳や眼球は優秀だから特別に手厚く愛するに値するけれど、肛門や腎臓は汚れ仕事をする卑しい身分の下等な存在なので捨て置けばいい、いじめて虐待してもいいなどと思うわけがないし、例えば、体内世界のどこかで自己免疫疾患等で内戦が起こっているような場合には、心を痛めてなんとか誤解を解いて平和を取り戻してほしいと願うはずです。


我を忘れて役目をこなすのが本来の自然な健康状態のはず

体内世界が平和なときには、全細胞・器官は、忘我の境地でそれぞれ自分が何者かなど気にすることなく、自分に与えられた役割を担うことだけを欲し、役目を果たすことに喜びを感じ、自分より他を羨んだり見下したりしません。自分の役目を果たすことで全体に奉仕し、それが自分たちを益することを実感しています。

しかし、その身体を持つ人が心身を過酷に虐げて体内世界が欠乏状態に陥り危機にさらされたような場合には、それを契機に、体内世界のどこかの住人である細胞たちが自意識を抱いて自分たちの権利を主張して不平不満を訴え始めます。

自分たちがろくに満足な配給も受けずに、こんなに苦労して辛い仕事をしているのに、上の方の世界の脳や目の細胞たちは飽食に明け暮れているというじゃないか、不平等だ、ほかの奴らに貢献するなんて呑気なことは言ってられない、仲間同士で一致団結して自己防衛しようじゃないか、と反政府組織を作って、闇のメッセージを体内世界各地に送り始め、体内に本来の役目を放棄して自分たちと同じになるよう平等を旗印に周囲を取り込んでいく組織が魔手を広げてゆくということにもなるでしょう。


このような体内世界への置き換えで想像してみると、この世界がどれほど健康な状態からかけ離れた異常な状態にあるか、その病理の深刻さがまさに狂気の沙汰と呼ぶにふさわしいことがよくわかると思います。



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Lesson 261

God is my refuge and security.
神は、私を無事に保護して私の安全を保障してくれる。



1. I will identify with what I think is refuge and security.
 私は、自分を無事に保護して安全を保障してくれると思うものと同一化しようとする。

 I will behold myself where I perceive my strength, and think I live within the citadel where I am safe and cannot be attacked.
 私は、自分の力強さを知覚するところに自分自身を見ようとして、自分が安全で攻撃されることがありえない城砦の中に自分が住んでいると思いこもうとする。

 Let me today seek not security in danger, nor attempt to find my peace in murderous attack.
 今日こそ、私が危険の中に安全を探そうとしたり、残虐に攻撃することで自分の平安を見つけようとしませんように。

 I live in God.
 私は神の中に生きている。

 In Him I find my refuge and my strength.
 私は神の中に自分の保護と自分の力強さを見出す。

 In Him is my Identity.
 神の中にこそ、私の真のアイデンティティーがある。

 In Him is everlasting peace.
 神の中にこそ、永続する平安がある。

 And only there will I remember Who I really am.
 そして、神の中においてのみ、私は自分が本当は何者なのか思い出すことになる。



2. Let me not seek for idols.
 私が偶像を求めませんように。

 I would come, my Father, home to You today.
 わが父よ、今日こそ、私はあなたの下へと帰郷します。

 I choose to be as You created me, and find the Son whom You created as my Self.
 私は、あなたが創造してくれたままの自分となり、あなたが私の真の自己として創造してくれた大いなる子を見出すことを選択します。


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それでは、ブリトニーさんのレッスンです。







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