P2-II 心理療法と宗教

心理療法 0

心理療法における宗教の位置づけ」をご紹介します。




よく奇跡のコースは心理学であって宗教ではないというフレーズを耳にします。

しかし、次のような一般的な宗教の定義に照らすかぎり、奇跡のコースが宗教であることは否定する余地のない事実であり、コースは宗教ではないという主張には痛々しさすら感じてしまいます。なぜ宗教であってはいけないのでしょうか。

「神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗なものから分離され禁忌された神聖な ものに関する信仰・行事。 また、それらの連関的体系」(広辞苑)

「①神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき
②経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系」(大辞林)

「超自然的、超人間的本質(すなわち絶対者、造物主、至高の存在等、なかんずく神、仏、 霊等)の存在を確信し、畏敬崇拝する心情と行為」(憲法学での宗教の定義)

現代日本では、誰もが無害に感じる葬式仏教を除いては、宗教に対する生理的嫌悪感が蔓延しており、自らの宗教的立ち位置を表立って明らかにすることすら憚られます。

けれど、そのくせ誰もが初詣で神様にお賽銭をして自分の願望実現を助けてくれるようお願いしたり、パワースポットとされる神社仏閣巡りをして自分の運気を上げることに必死になったりするし、風水の研究を始めて家具の配置にこだわって配偶者と喧嘩したりして、無自覚ながらも、超人間的本質への信仰心や依存心を誰もが抱いている実情があります。

超越的存在への憧れは人間であるかぎり誰もが抱くものですが、現代日本では、社会的に宗教臭を帯びることはタブーであり許されないので、男性の場合、成功法則や自己啓発本、女性の場合、引き寄せの法則をはじめとするスピリチャル系の書籍を読むことがこのようなニーズを代替的に満たす代償行為となるので、いわゆるキャリア・ポルノスピリチャル・ポルノにハマってしまう人も多いことでしょう。

そして、幸か不幸か、このようなスピリチャル・ポルノの一環として奇跡のコースに出会う人も少なくはないかもしれません。

もっとも、コースは、まず分量からして生半可に取り組めるものではないし、内容的にもエゴの栄達を目的とする多くのスピリチャル・ポルノとはベクトルが真逆なので、手ごわすぎて、とうていポルノとして消費できるような代物ではありません。


むしろ、コースが宗教であるとともに心理学でもあるという実態から、コースに出会ってからは憑き物が落ちたように、代償行為がなくなったという人もいると思います。

「7. As true religion heals, so must true psychotherapy be religious.
 真の宗教が癒すように、真の心理療法も宗教的なものであるに違いありません。」

コースを学ぶことで自分が「宗教」に関わっていると思うことへの抵抗感、嫌悪感や拒絶反応を覚える人は、社会の影響によって心の自由度を奪われていると自覚してみてもよいかもしれません。

自分が正しいと信じ、よいものだと思うなら、本来なら、それが宗教であろうが心理学であろうが、自信を持って堂々としていればよいはずです。

それがなぜだか、「宗教」というレッテル貼りをされるとなったとたんに、世間に顔向けできないというようなうしろめたさを感じたり、コースを宗教視されることに小さくない反発を覚えるなら、宗教という概念に何らかの心理的なコンプレックスを持ってしまっているということであり、心に影、闇ができているということです。

世界を幻想と喝破するコースを学ぼうというのに、世間様の顔色を窺っていなければならないようでは、不甲斐ないというほかないでしょう。








II. The Place of Religion in Psychotherapy
心理療法における宗教の位置づけ



1. To be a teacher of God, it is not necessary to be religious or even to believe in God to any recognizable extent.
 神の教師になるためには、信仰心を持つことや、少しでも見分けがつく程度に神を信じることすら必要ありません。

 It is necessary, however, to teach forgiveness rather than condemnation.
 しかしながら、非難ではなく赦しを教えることは必要です。

 Even in this, complete consistency is not required, for one who had achieved that point could teach salvation completely, within an instant and without a word.
 赦しを教えるに際してすら、完全な一貫性を保つことは求められません。というのも、そのような域に到達した者は、一瞬にしてひとつの言葉も用いずに、救済を完全に教えることができるからです。

 Yet he who has learned all things does not need a teacher, and the healed have no need for a therapist.
 しかし、すべての物事を学び終えた者には教師は必要ないし、癒された者にはセラピスト必要ありません。

 Relationships are still the temple of the Holy Spirit, and they will be made perfect in time and restored to eternity.
 それでもなお、関係性こそが聖霊の宿る神殿であり続け、聖霊の宿る関係性は、時間の中で完全なものとされ、永遠へと戻されることになります。



2. Formal religion has no place in psychotherapy, but it also has no real place in religion.
 形式化した宗教には、心理療法において果たす何の役目もなければ、宗教として真に役割を果たすこともありません。

 In this world, there is an astonishing tendency to join contradictory words into one term without perceiving the contradiction at all.
 この世界では、驚くべきことに、矛盾をまったく知覚することもなく、矛盾する言葉をひとつの言い方で結びつけてしまうことがよくあります。

 The attempt to formalize religion is so obviously an ego attempt to reconcile the irreconcilable that it hardly requires elaboration here.
 宗教を儀礼化しようとする試みは、調和しようのないものを和解させようとするエゴの企てであることは歴然としているので、ここで詳細に説明するまでもありません。

 Religion is experience; psychotherapy is experience.
 宗教とは体験です。そして、心理療法も体験です。

 At the highest levels they become one.
 もっとも高いレベルにおいては、宗教心理療法の両者はひとつのものになります。

 Neither is truth itself, but both can lead to truth.
 宗教も心理療法も、ともにそれ自体は真理ではありませんが、いずれも真理へと導くことができるからです。

 What can be necessary to find truth, which remains perfectly obvious, but to remove the seeming obstacles to true awareness?
 完全に明瞭であり続ける真理を見つけるためには、真に自覚することを妨げている見かけ上の障害を取り除く以外に何が必要となりうるでしょうか。



3. No one who learns to forgive can fail to remember God.
 赦すことを習得できれば、誰でも必ず神を思い出せるようになります。

 Forgiveness, then, is all that need be taught, because it is all that need be learned.
 したがって、教わる必要があるのは赦すことだけです。なぜなら、赦し以外に学ぶべきものはないからです。

 All blocks to the remembrance of God are forms of unforgiveness, and nothing else.
 神を思い出すことを妨げている障害はすべて、赦さない思いが形をとったものであり、それ以外の何ものでもありません。

 This is never apparent to the patient, and only rarely so to the therapist.
 このことは患者には決してわからないし、セラピストにもほんの稀にしか見抜けません。

 The world has marshaled all its forces against this one awareness, for in it lies the ending of the world and all it stands for.
 この世界はその勢力を総動員して、このひとつの気づきを阻もうとします。というのも、このひとつの認識が、この世界と世界が象徴するものすべてに終焉をもたらすからです。



4. Yet it is not the awareness of God that constitutes a reasonable goal for psychotherapy.
 しかし、神を自覚することを心理療法の目標として設定するのは適切ではありません。

 This will come when psychotherapy is complete, for where there is forgiveness truth must come.
 神の自覚は、心理療法が完結したときに訪れるものだからです。その理由は、赦しのあるところに真理は訪れるに違いないからです。

 It would be unfair indeed if belief in God were necessary to psychotherapeutic success.
 もし心理療法が成功するために神を信じることが必要だとすれば、それは実に不公平なことになるでしょう。

 Nor is belief in God a really meaningful concept, for God can be but known.
 それに、神を信じるということは、実のところ意味をなす観念とはいえません。というのも、神はただ知ることしかできないからです。

 Belief implies that unbelief is possible, but knowledge of God has no true opposite.
 信じるということは、信じないことが可能であることを前提とします。しかし、神を知ることには、真の対極など何もありません。

 Not to know God is to have no knowledge, and it is to this that all unforgiveness leads.
 神を知らずにいることは、何の知識も持たずにいることです。そして、すべての赦さない思いが導くのはこの知識を持たない状態です。

 And without knowledge one can have only belief.
 そして、知識を持たずにいると、人はただ信じることしかできなくなります。



5. Different teaching aids appeal to different people.
 人が変われば、教材も変わる必要があります。

 Some forms of religion have nothing to do with God, and some forms of psychotherapy have nothing to do with healing.
 神と何の関わりも持たないような形の宗教もあります。そして、癒しと何の関わりも持たないような形の心理療法もあります。

 Yet if pupil and teacher join in sharing one goal, God will enter into their relationship because He has been invited to come in.
 しかし、もし生徒と教師がひとつの目標を分かち合ってひとつに結びつくなら、神に入ってきてくれるようにと招かれたがゆえに、神は彼らが結ぶ関係の中に入ってきてくれるでしょう。

 In the same way, a union of purpose between patient and therapist restores the place of God to ascendance, first through Christ's vision and then through the memory of God Himself.
 同じような方法で、患者とセラピストの間の目的がひとつに結びついたら、最初はキリストのヴィジョンを通して、それから、神自身の記憶を通して、神を高みに位置づけ直すことになります。

 The process of psychotherapy is the return to sanity.
 心理療法のプロセスは、正気へと戻ることです。

 Teacher and pupil, therapist and patient, are all insane or they would not be here.
 教師と生徒、セラピストと患者は、みな狂気に陥っています。さもなければ、彼らはこの世界にいなかったはずです。

 Together they can find a pathway out, for no one will find sanity alone.
 一緒にであれば、彼らは脱出する道を見つけることができます。というのも、誰もひとりきりでは正気を見出すことはできないからです。



6. If healing is an invitation to God to enter into His Kingdom, what difference does it make how the invitation is written?
 もし癒しが神の王国の中へと入ってきてくれるようにと神を招待することであるなら、その招待状がどのように書かれているかによってどんな違いがあるというのでしょうか。

 Does the paper matter, or the ink, or the pen?
 招待状がどんな紙やインクやペンで書かれたかが問題になるでしょうか。

 Or is it he who writes that gives the invitation?
 あるいは、招待状を渡すのがその招待状を書いたその人かどうかが問題になるでしょうか。

 God comes to those who would restore His world, for they have found the way to call to Him.
 神は、神の世界を復元しようとする者の許になら誰のところにも訪れてくれます。なぜなら、その者は神に呼びかける方法をすでに見出しているからです。

 If any two are joined, He must be there.
 もしどのようなふたりであれ、彼らがひとつに結ばれるなら、神はそこに在るに違いありません。

 It does not matter what their purpose is, but they must share it wholly to succeed.
 その者たちが何を目的とするかは問題ではありませんが、成功するには彼らはその目的を完全に分かち合わなければなりません。

 It is impossible to share a goal not blessed by Christ, for what is unseen through His eyes is too fragmented to be meaningful.
 キリストによって祝福されないような目標を分かち合うのは不可能です。というのも、キリストの目を通して見えないものは、断片化しすぎていて意味をなさないからです。



7. As true religion heals, so must true psychotherapy be religious.
 真の宗教が癒すように、真の心理療法も宗教的なものであるに違いありません。

 But both have many forms, because no good teacher uses one approach to every pupil.
 しかし、宗教も心理療法も数多くの形をとります。なぜなら、優れた教師は、個々の生徒に一律の教え方を用いたりしないからです。

 On the contrary, he listens patiently to each one, and lets him formulate his own curriculum; not the curriculum's goal, but how he can best reach the aim it sets for him.
 むしろ、優れた教師は、辛抱強く一人ひとりの生徒に耳を傾けて、その生徒が自分自身に合ったカリキュラムを組めるようにしてあげるはずです。これは、生徒にカリキュラムの目標を決めさせるのではなく、カリキュラムが生徒のために定めた目的に到達しうる最善の方法が何かを決めさせるということです。

 Perhaps the teacher does not think of God as part of teaching.
 たぶんその教師は、自分が神について教えているとは思っていないないでしょう。

 Perhaps the psychotherapist does not understand that healing comes from God.
 たぶんそのセラピストは、癒しが神に由来するとは理解していないでしょう。

 They can succeed where many who believe they have found God will fail.
 それでも、自分は神を見出したと信じている多くの者たちが失敗してゆくのを尻目に、彼らは成功できるのです。



8. What must the teacher do to ensure learning?
 学びを確かなものとするために、教師は何をすべきでしょうか。

 What must the therapist do to bring healing about?
 癒しをもたらすために、セラピストは何をしなければならないのでしょうか。

 Only one thing; the same requirement salvation asks of everyone.
 たったひとつのことだけです。それは、救済がみんなに求めるのと同じ条件です。

 Each one must share one goal with someone else, and in so doing, lose all sense of separate interests.
 一人ひとりがほかの誰かとひとつの目標を分かち合い、そうすることで、分離した利害があるという感覚をまるごと払拭しなければなりません。

 Only by doing this is it possible to transcend the narrow boundaries the ego would impose upon the self.
 ただこうすることによってのみ、エゴが小さな自己に押しつけようとする偏狭な境界を超越することが可能になるのです。

 Only by doing this can teacher and pupil, therapist and patient, you and I, accept Atonement and learn to give it as it was received.
 ただこうすることによってのみ、教師と生徒、セラピストと患者、あなたと私は、贖罪を受け入れ、それを自分が受け取ったように与えることを学べるのです。



9. Communion is impossible alone.
 ひとりだけでは、霊的な交流である聖餐を遂げることは不可能です。

 No one who stands apart can receive Christ's vision.
 分離したままでは誰も、キリストのヴィジョンを受け取ることができないからです。

 It is held out to him, but he cannot hold out his hand to receive it.
 キリストのヴィジョンは、その人に差し延べられてはいますが、分離したままでは彼はそれを受け取るために手を伸ばすことができません。

 Let him be still and recognize his brother's need is his own.
 そこで、彼を落ち着かせて、彼に自分の兄弟が必要とするものは自分自身が必要とするものなのだと気づかせてあげなさい。

 And let him then meet his brother's need as his and see that they are met as one, for such they are.
 それから、彼が兄弟が必要としていることを自分自身が必要としていることとして満たしてあげられるようにして、その本来の姿の通りに、兄弟が必要としているものと自分が必要としているものがひとつのものとして満たされることがわかるようにさせてあげなさい。

 What is religion but an aid in helping him to see that this is so?
 宗教は、これがその通りだと彼が理解するのを助ける支援にほかならないのではないでしょうか。

 And what is psychotherapy except a help in just this same direction?
 そして、心理療法も、まさにこの同じ方向に向かう手助けにほかならないのではないでしょうか。

 It is the goal that makes these processes the same, for they are one in purpose and must thus be one in means.
 宗教と心理療法のプロセスを同じものにするのは、その目標なのです。というのも、宗教も心理療法もそのプロセスは目的においてひとつであり、したがって、手段においてもひとつであるに違いないからです。


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 松山 健 Matsuyama Ken
この記事を書いた人:  松山 健 Matsuyama Ken

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