P2-II 心理療法と宗教


Religion is like a map.
宗教は地図のようなものです。

The route isn't important.
どの道を辿るかは重要ではありません。

It's the destination that matters.
重要なのは、目的地だけです。



Marianne Williamson
マリアン・ウィリアムソン

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Religion is just a path for finding truth: Religion is not truth.
宗教は、真理を見出すための道にすぎないのであって、宗教が真理なわけではありません。

It is just a path.
宗教は単に道でしかないのです。

And different people follow different paths.
だから、人々はそれぞれに異なるのだから、各自は異なる道をたどればよいのです。

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Anita Moorjani, Dying to Be Me: My Journey from Cancer, to Near Death, to True Healing
アニータ・ムアジャーニ(「喜びから人生を生きる!: 臨死体験が教えてくれたこと」より)

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『奇跡講座』の重要な特徴の一つは、それが宗教的な本であるという点です。単なる独習書ではありませんし、単なる堅実な心理学体系でもありません。もちろん、そのどちらでもあるわけですが、それだけではなく、非常に深い宗教性のある本です。



Kenneth Wapnick
ケネス・ワプニック(「奇跡の原理」167ページ)

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little philosophy inclineth man’s mind to atheism, but depth in philosophy bringeth men’s minds about to religion.
少し哲学を齧ると人の心は無神論に傾くが、深く哲学を極めると人の心は宗教へと赴く。



Francis Bacon
フランシス・ベーコン



A man without religion is like a horse without a bridle.
宗教を持たない人は、手綱の無い馬のようなものだ。

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ラテン民族の諺



Science without religion is lame, religion without science is blind.
宗教なき科学に進歩はなく、科学なき宗教は盲信となる。



Albert Einstein
アルベルト・アインシュタイン





Power without love is reckless and abusive, and love without power is sentimental and anemic.
愛なき力は無謀で暴力的なものであり、力なき愛は感傷的で無力なものである。

Power at its best is love implementing the demands of justice, and justice at its best is power correcting everything that stands against love.
最善の力とは、正義の求めを満たす愛であり、最善の正義とは、愛に立ちはだかるどんなものをも正す力だ。



Martin Luther King, Jr.
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア



God has no religion.
神はいかなる信仰も持たない。

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Mahatma Gandhi
マハトマ・ガンジー

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人々は宗教を軽蔑している。彼らは宗教を嫌悪し、宗教が真実であるのを怖れている。これを矯正するには、まず宗教が理性に反するものでないことを示してやらねばならない。



Blaise Pascal
ブレーズ・パスカル(「パンセ」より)



The world doesn’t need another Moses, and it was never J’s intention to start a religion.
世界は別のモーゼを必要としているわけではないし、イエスは決して宗教を始めることを意図していたわけではなかった。



Gary R. Renard
ゲイリー・R.レナード

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余が宗教を信ずるのは天国または極楽に行かんがためにあらず。人らしき人たらんがためなり。



内村鑑三



Religion is not a department of life; it is something that enters into the whole of it.
宗教とは、人生の一部を割り当てる特定の活動なのではない。それは人生の全体に溶け込む特別なあり方なのだ。

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Alan Watts
アラン・ワッツ

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「心理療法における宗教の位置づけ」をご紹介します。


なんで宗教じゃダメなの?

よく奇跡のコースは心理学であって宗教ではないというフレーズを耳にします。

しかし、次のような一般的な宗教の定義に照らすかぎり、奇跡のコースが宗教であることは否定する余地のない事実であり、コースは宗教ではないという主張には痛々しさすら感じてしまいます。なぜ宗教であってはいけないのでしょうか。

「神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。 また、それらの連関的体系」(広辞苑)

「①神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき
②経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系」(大辞林)

「超自然的、超人間的本質(すなわち絶対者、造物主、至高の存在等、なかんずく神、仏、 霊等)の存在を確信し、畏敬崇拝する心情と行為」(憲法学での宗教の定義)






自分をごまかさなければならないくらいなら、逆に潔く認めてしまいましょう!

現代日本では、誰もが無害に感じる葬式仏教を除いては、宗教に対する生理的嫌悪感が蔓延しており、自らの宗教的立ち位置を表立って明らかにすることすら憚られます。




超越的存在への憧れは人間であるかぎり誰もが抱くものですが、今の日本では、社会的に宗教臭を帯びることはタブーであり許されません。

これは、日本ではとくに、旧来の神道、仏教、キリスト教という伝統宗教以外の新宗教が江戸末期から広がりを見せ、明治維新後昭和の戦前まで、国教として国家神道が採用され、大本教弾圧を始めとする熾烈な宗教弾圧が行われた歴史があり、戦後には、信教の自由による庇護下で新宗教が乱立し、前世紀末にはオウム真理教事件が起こり、その他、現在も旧統一教会問題等、新宗教絡みの社会的問題が持続していることを考えれば、当然のことだといえます(日本に限らず、新宗教に対するタブー視は世界的に見られる風潮です(新宗教カルトセクト))。

しかし、というよりも、だからこそ、というべきか、宗教はタブー視しつつも、そのくせ誰もが初詣で神様にお賽銭をして自分の願望実現を助けてくれるようお願いしたり、いろんな占い師のところに通ったり、パワーストーンのブレスレットをつけたり、パワースポットとされる神社仏閣巡りをして自分の運気を上げることに必死になったりするし、風水の研究を始めて家具の配置にこだわって配偶者と喧嘩したりして、無自覚ながらも、超人間的本質への信仰心や依存心を抱いている実情があります。

これは、私たちは霊的体験をする人間ではなく、人間という体験をしている霊(ピエール・テイヤール・ド・シャルダン)なのですから、当然のように即物的なものごとだけで満足できるはずもなく、超越的存在への興味や畏敬の念を持たずに生きることは誰にもできないからです。



Pierre Teilhard de Chardin
ピエール・テイヤール・ド・シャルダン




けれど、人生の意味は何なのか、自分や他者や世界の本質を知りたい、魂とはなにか、輪廻転生はあるのか、悟りとはなにか、救済とはなにか、等々の、本来、宗教が受け皿となるべき精神性の面で誰もが抱く疑問や追い求める欲求でありながら、社会的なタブーゆえに誰も正面から答えてはくれないために、疑問は答えを求め続け、欲求ははけ口を探し求め続けることになります。

自分がはたしてどこから来てどこに帰るのか、それとも、偶然できた道端の水たまりのようなもので、いつか蒸発して消滅してしまう虚しい存在なのか、という自分の根源的な出自に関するストーリー、基盤を持たずに根無し草のように生きる苦痛は、自覚の有無にかかわらず心に大きな恐怖を抱えることになるので、気休めとなる慰み程度かもしれないとしても人生の意味や死後の世界について仮の物語を与えてもらえる宗教的バックグラウンドを持つ人たちと違って、宗教を持たない大多数の人は唯物論の毒気にさらされながら悶々として、自分が無となって消滅する死の到来に怯えながら、そして、運良く現世の栄達を遂げたところで、それは蜃気楼のような空疎なものでしかないという虚無感を抱えながら生きざるをえなくなります。




このような行き場のないスピリチュアル的な面での疑問や欲求を満たしたいというニーズが行き着く先として、男性の場合、成功法則や自己啓発本、女性の場合、引き寄せの法則をはじめとするスピリチュアル系の書籍を読むことにつながることは決して少なくありません。

このようなニーズを代替的に満たす代償行為を性的なポルノグラフィーになぞらえて揶揄する言葉として、自己啓発本やスピリチュアル本に傾倒することを称して、キャリア・ポルノ、スピリチュアル・ポルノと呼ぶことがありますが、本屋さんに行っても、キャリア・ポルノ、スピリチュアル・ポルノは厚い客層をガッチリと掴む一大ジャンルを成していることが確認できます。

キャリア・ポルノ、スピリチュアル・ポルノは、自分の人生を賭けて試してみるギャンブルのような側面も大きく持っているので、お金をかけるギャンブルに劣らない強い射幸性があり、ハマってしまう人も決して少なくはありません。

そして、幸か不幸か、このようなスピリチュアル・ポルノの一環として奇跡のコースに出会う人も少なくはないかもしれません。

もっとも、コースは、まず分量からして生半可に取り組めるものではないし、内容的にもエゴの栄達を目的とする多くのスピリチュアル・ポルノとはベクトルが真逆なので、手ごわすぎて、とうていポルノとして消費できるような代物ではありません。


むしろ、コースが宗教であるとともに心理学でもあるという実態(物事の実際の状態という意味、物事の本当の姿、実質、正体を意味する「実体」とは異なる)から、コースに出会ってからは憑き物が落ちたように、代償行為がなくなったという人もいると思います。

「7. As true religion heals, so must true psychotherapy be religious.
 真の宗教が癒すように、真の心理療法も宗教的なものであるに違いありません。」


名前や形の束縛から自由でいましょう

さて、上に述べたように日本社会の宗教、ことに新宗教に対するタブー視によってかかってくる圧は決して軽いものではないので、宗教臭に敏感になるのはやむをえないことではあります。




けれど、コースを学ぶことで自分が「宗教」に関わっていると思うことへの抵抗感、嫌悪感や拒絶反応を覚える人は、社会の影響によって心の自由度を奪われていると自覚してみてもよいかもしれません。

自分が正しいと信じ、よいものだと思うなら、本来なら、それが宗教であろうが心理学であろうが、自信を持って堂々としていればよいはずです。

それが「宗教」というレッテル貼りをされるとなったとたんに、世間に顔向けできないというようなうしろめたさを感じたり、コースを宗教視されることに小さくない反発を覚えるなら、宗教という概念に何らかの心理的なコンプレックスを持ってしまっているということであり、心に影、闇ができているということです。

世界を幻想と喝破するコースを学ぼうというのに、世間様の顔色を窺っていなければならないようでは、不甲斐ないというほかないでしょう。




さて、このように、奇跡のコースには、宗教という側面と心理学という側面が表裏一体として備わっていますが、心理学についてのイメージとして、一般的に科学という捉え方はされていないように思われます。

現に、日本では心理学科は、大学の学部等では人文系の学部に置かれており、いわゆる「文系」に位置づけられていますが、心理学の発展してきた欧米では科学の一分野として「理系」に位置づけられるようです。

人間の心や行動を対象に科学的手法で研究する学問なので、人体や疾患を科学的手法で研究する医学が科学であるように、心理学が科学であるのはむしろ自然なことで、心理学を非科学的な学問とみなすほうが不自然といえるかもしれません。

冒頭の言葉でアインシュタインの言うように、科学と宗教はお互いに補い合ってはじめて正しく機能する車の両輪のようなもので、この意味で奇跡のコースは、真理を究明し到達を目指す科学であり宗教でもあるといえるでしょう。

そして、宗教と科学の関係性は、愛である宗教が主人で力である科学がしもべとして奉仕する関係性であり、宗教なき科学は、手綱のない馬のような無謀で暴力的なものとなってしまう危険があります。

この点で、コースを単なる心理学でしかない言い張るのは、単にコースの本質を見損なうだけでなく、無意識ながらも、本来の愛と力に満ちた教えを骨抜きにして、学びの姿勢をマインド中心の知性一辺倒のものにしてしまい、ハートや肚を等閑視して、愛や意志の伴わない頭でっかちなアカデミックな学問のようなものへと貶めてしまうリスクを伴うものだといえます。


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宗教と呼ばれるならむしろ誇らしい!

宗教と訳される"Religion"は、ラテン語の"religio"から派生した言葉で、"religio"は、「再び」という意味の接頭辞 re- と「結びつける」という意味の"ligare"を組み合わせた「再び結びつける」という意味があり、「神と人を再び結びつけること」という趣旨があるようです。

まさに奇跡のコースの本質に即した言葉ではないでしょうか。

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神やキリストなどの超越的存在への憧憬の念を抱き、そこに近づこうという真摯な心情と学びである奇跡のコースを宗教と呼ばずしてなんと呼ぶというのでしょうか。

事実と解釈の峻別は知覚の修正としてコースが教えることですが、事実を受け入れがたいときに、知覚を歪めて自分に都合よく解釈する自己欺瞞はエゴに特徴的な典型的な反応です。

コースこそ"Religion"の語源にふさわしい真の宗教、しかも、愛だけで力を持たない宗教ではなく、科学でもある力を伴う宗教なのだから、奇跡のコースが宗教と呼ばれるなら、恥ずかしいどころかむしろ誇らしい、というくらいの捉え方でちょうどいいのではないでしょうか。

少なくとも、奇跡のコースが宗教かどうかなんてどうでもいい、というスタンスでいましょう!



M24 輪廻転生はあるか?が参考になると思います。



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II. The Place of Religion in Psychotherapy
心理療法における宗教の位置づけ



1. To be a teacher of God, it is not necessary to be religious or even to believe in God to any recognizable extent.
 神の教師になるためには、信仰心を持つことや、少しでも見分けがつく程度に神を信じることすら必要ありません。

 It is necessary, however, to teach forgiveness rather than condemnation.
 しかしながら、非難ではなく赦しを教えることは必要です。

 Even in this, complete consistency is not required, for one who had achieved that point could teach salvation completely, within an instant and without a word.
 赦しを教えるに際してすら、完全な一貫性を保つことは求められません。というのも、そのような域に到達した者は、一瞬にしてひとつの言葉も用いずに、救済を完全に教えることができるからです。

 Yet he who has learned all things does not need a teacher, and the healed have no need for a therapist.
 しかし、すべての物事を学び終えた者には教師は必要ないし、癒された者にはセラピストは必要ありません。

 Relationships are still the temple of the Holy Spirit, and they will be made perfect in time and restored to eternity.
 それでもなお、関係性こそが聖霊の宿る神殿であり続け、聖霊の宿る関係性は、時間の中で完全なものとされ、永遠へと戻されることになります。



2. Formal religion has no place in psychotherapy, but it also has no real place in religion.
 形式化した宗教には、心理療法において果たす何の役目もなければ、宗教として真に役割を果たすこともありません。

 In this world, there is an astonishing tendency to join contradictory words into one term without perceiving the contradiction at all.
 この世界では、驚くべきことに、矛盾をまったく知覚することもなく、矛盾する言葉をひとつの言い方で結びつけてしまうことがよくあります。

 The attempt to formalize religion is so obviously an ego attempt to reconcile the irreconcilable that it hardly requires elaboration here.
 宗教を儀礼化しようとする試みは、調和しようのないものを和解させようとするエゴの企てであることは歴然としているので、ここで詳細に説明するまでもありません。

 Religion is experience; psychotherapy is experience.
 宗教とは体験です。そして、心理療法も体験です。

 At the highest levels they become one.
 もっとも高いレベルにおいては、宗教と心理療法の両者はひとつのものになります。

 Neither is truth itself, but both can lead to truth.
 宗教も心理療法も、ともにそれ自体は真理ではありませんが、いずれも真理へと導くことができるからです。

 What can be necessary to find truth, which remains perfectly obvious, but to remove the seeming obstacles to true awareness?
 完全に明瞭であり続ける真理を見つけるためには、真に自覚することを妨げている見かけ上の障害を取り除く以外に何が必要となりうるでしょうか。



3. No one who learns to forgive can fail to remember God.
 赦すことを習得できれば、誰でも必ず神を思い出せるようになります。

 Forgiveness, then, is all that need be taught, because it is all that need be learned.
 したがって、教わる必要があるのは赦すことだけです。なぜなら、赦し以外に学ぶべきものはないからです。

 All blocks to the remembrance of God are forms of unforgiveness, and nothing else.
 神を思い出すことを妨げている障害はすべて、赦さない思いが形をとったものであり、それ以外の何ものでもありません。

 This is never apparent to the patient, and only rarely so to the therapist.
 このことは患者には決してわからないし、セラピストにもほんの稀にしか見抜けません。

 The world has marshaled all its forces against this one awareness, for in it lies the ending of the world and all it stands for.
 この世界はその勢力を総動員して、このひとつの気づきを阻もうとします。というのも、このひとつの認識が、この世界と世界が象徴するものすべてに終焉をもたらすからです。



4. Yet it is not the awareness of God that constitutes a reasonable goal for psychotherapy.
 しかし、神を自覚することを心理療法の目標として設定するのは適切ではありません。

 This will come when psychotherapy is complete, for where there is forgiveness truth must come.
 神の自覚は、心理療法が完結したときに訪れるものだからです。その理由は、赦しのあるところに真理は訪れるに違いないからです。

 It would be unfair indeed if belief in God were necessary to psychotherapeutic success.
 もし心理療法が成功するために神を信じることが必要だとすれば、それは実に不公平なことになるでしょう。

 Nor is belief in God a really meaningful concept, for God can be but known.
 それに、神を信じるということは、実のところ意味をなす観念とはいえません。というのも、神はただ知ることしかできないからです。

 Belief implies that unbelief is possible, but knowledge of God has no true opposite.
 信じるということは、信じないことが可能であることを前提とします。しかし、神を知ることには、真の対極など何もありません。

 Not to know God is to have no knowledge, and it is to this that all unforgiveness leads.
 神を知らずにいることは、何の知識も持たずにいることです。そして、すべての赦さない思いが導くのはこの知識を持たない状態です。

 And without knowledge one can have only belief.
 そして、知識を持たずにいると、人はただ信じることしかできなくなります。



5. Different teaching aids appeal to different people.
 人が変われば、教材も変わる必要があります。

 Some forms of religion have nothing to do with God, and some forms of psychotherapy have nothing to do with healing.
 神と何の関わりも持たないような形の宗教もあります。そして、癒しと何の関わりも持たないような形の心理療法もあります。

 Yet if pupil and teacher join in sharing one goal, God will enter into their relationship because He has been invited to come in.
 しかし、もし生徒と教師がひとつの目標を分かち合ってひとつに結びつくなら、神に入ってきてくれるようにと招かれたがゆえに、神は彼らが結ぶ関係の中に入ってきてくれるでしょう。

 In the same way, a union of purpose between patient and therapist restores the place of God to ascendance, first through Christ's vision and then through the memory of God Himself.
 同じような方法で、患者とセラピストの間の目的がひとつに結びついたら、最初はキリストのヴィジョンを通して、それから、神自身の記憶を通して、神を高みに位置づけ直すことになります。

 The process of psychotherapy is the return to sanity.
 心理療法のプロセスは、正気へと戻ることです。

 Teacher and pupil, therapist and patient, are all insane or they would not be here.
 教師と生徒、セラピストと患者は、みな狂気に陥っています。さもなければ、彼らはこの世界にいなかったはずです。

 Together they can find a pathway out, for no one will find sanity alone.
 一緒にであれば、彼らは脱出する道を見つけることができます。というのも、誰もひとりきりでは正気を見出すことはできないからです。



6. If healing is an invitation to God to enter into His Kingdom, what difference does it make how the invitation is written?
 もし癒しが神の王国の中へと入ってきてくれるようにと神を招待することであるなら、その招待状がどのように書かれているかによってどんな違いがあるというのでしょうか。

 Does the paper matter, or the ink, or the pen?
 招待状がどんな紙やインクやペンで書かれたかが問題になるでしょうか。

 Or is it he who writes that gives the invitation?
 あるいは、招待状を渡すのがその招待状を書いたその人かどうかが問題になるでしょうか。

 God comes to those who would restore His world, for they have found the way to call to Him.
 神は、神の世界を復元しようとする者の許になら誰のところにも訪れてくれます。なぜなら、その者は神に呼びかける方法をすでに見出しているからです。

 If any two are joined, He must be there.
 もしどのようなふたりであれ、彼らがひとつに結ばれるなら、神はそこに在るに違いありません。

 It does not matter what their purpose is, but they must share it wholly to succeed.
 その者たちが何を目的とするかは問題ではありませんが、成功するには彼らはその目的を完全に分かち合わなければなりません。

 It is impossible to share a goal not blessed by Christ, for what is unseen through His eyes is too fragmented to be meaningful.
 キリストによって祝福されないような目標を分かち合うのは不可能です。というのも、キリストの目を通して見えないものは、断片化しすぎていて意味をなさないからです。



7. As true religion heals, so must true psychotherapy be religious.
 真の宗教が癒すように、真の心理療法も宗教的なものであるに違いありません。

 But both have many forms, because no good teacher uses one approach to every pupil.
 しかし、宗教も心理療法も数多くの形をとります。なぜなら、優れた教師は、個々の生徒に一律の教え方を用いたりしないからです。

 On the contrary, he listens patiently to each one, and lets him formulate his own curriculum; not the curriculum's goal, but how he can best reach the aim it sets for him.
 むしろ、優れた教師は、辛抱強く一人ひとりの生徒に耳を傾けて、その生徒が自分自身に合ったカリキュラムを組めるようにしてあげるはずです。これは、生徒にカリキュラムの目標を決めさせるのではなく、カリキュラムが生徒のために定めた目的に到達しうる最善の方法が何かを決めさせるということです。

 Perhaps the teacher does not think of God as part of teaching.
 たぶんその教師は、自分が神について教えているとは思っていないないでしょう。

 Perhaps the psychotherapist does not understand that healing comes from God.
 たぶんそのセラピストは、癒しが神に由来するとは理解していないでしょう。

 They can succeed where many who believe they have found God will fail.
 それでも、自分は神を見出したと信じている多くの者たちが失敗してゆくのを尻目に、彼らは成功できるのです。



8. What must the teacher do to ensure learning?
 学びを確かなものとするために、教師は何をすべきでしょうか。

 What must the therapist do to bring healing about?
 癒しをもたらすために、セラピストは何をしなければならないのでしょうか。

 Only one thing; the same requirement salvation asks of everyone.
 たったひとつのことだけです。それは、救済がみんなに求めるのと同じ条件です。

 Each one must share one goal with someone else, and in so doing, lose all sense of separate interests.
 一人ひとりがほかの誰かとひとつの目標を分かち合い、そうすることで、分離した利害があるという感覚をまるごと払拭しなければなりません。

 Only by doing this is it possible to transcend the narrow boundaries the ego would impose upon the self.
 ただこうすることによってのみ、エゴが小さな自己に押しつけようとする偏狭な境界を超越することが可能になるのです。

 Only by doing this can teacher and pupil, therapist and patient, you and I, accept Atonement and learn to give it as it was received.
 ただこうすることによってのみ、教師と生徒、セラピストと患者、あなたと私は、贖罪を受け入れ、それを自分が受け取ったように与えることを学べるのです。



9. Communion is impossible alone.
 ひとりだけでは、霊的な交流である聖餐を遂げることは不可能です。

 No one who stands apart can receive Christ's vision.
 分離したままでは誰も、キリストのヴィジョンを受け取ることができないからです。

 It is held out to him, but he cannot hold out his hand to receive it.
 キリストのヴィジョンは、その人に差し延べられてはいますが、分離したままでは彼はそれを受け取るために手を伸ばすことができません。

 Let him be still and recognize his brother's need is his own.
 そこで、彼を落ち着かせて、彼に自分の兄弟が必要とするものは自分自身が必要とするものなのだと気づかせてあげなさい。

 And let him then meet his brother's need as his and see that they are met as one, for such they are.
 それから、彼が兄弟が必要としていることを自分自身が必要としていることとして満たしてあげられるようにして、その本来の姿の通りに、兄弟が必要としているものと自分が必要としているものがひとつのものとして満たされることがわかるようにさせてあげなさい。

 What is religion but an aid in helping him to see that this is so?
 宗教は、これがその通りだと彼が理解するのを助ける支援にほかならないのではないでしょうか。

 And what is psychotherapy except a help in just this same direction?
 そして、心理療法も、まさにこの同じ方向に向かう手助けにほかならないのではないでしょうか。

 It is the goal that makes these processes the same, for they are one in purpose and must thus be one in means.
 宗教と心理療法のプロセスを同じものにするのは、その目標なのです。というのも、宗教も心理療法もそのプロセスは目的においてひとつであり、したがって、手段においてもひとつであるに違いないからです。





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