レッスン274「今日は愛のものだ。私が恐れませんように」
We are not permitted to choose the frame of our destiny.
私たちには自分の運命のあらすじを変える自由は与えられていない。
But what we put into it is ours.
しかし、どんなふうに筋書きを演じるかは私たちに任されている。

Dag Hammarskjold
ダグ・ハマーショルド
映画の中で目覚めたからといって、無敵ではありません。あなたは映画の中にいるのですから、映画の中で起こることはあなたにも起こりうるのです。目覚めたからといって、映画が変わるわけではありません。あなたにとって好ましい映画を流すことがあなたの役割です。

Vadim Zeland
ヴァジム・ゼランド(「タフティ・ザ・プリーステス 世界が変わる現実創造のメソッド」253ページ)

レッスン274です。
「今日は愛のものだ。私が恐れませんように」が今日のテーマです。
まず、キリストってなに?をご覧ください。

私たちは神の子という光にできた影
神の子は自分自身とも神ともひとつであることによる愛に満たされた神聖で潔白な存在です。
それなのに、私たちは、自分を神から分離し、自分自身を無数の断片へと細分化して、自分が神聖で潔白な神の子であることを忘れ、反対に罪が実在するものと信じて、罪悪感を抱いてそれを投影して、非難し攻撃し、という恐れの応酬を繰り返して、愛を失ってしまっています。
私たちは、本当は神の子ですが、私たちが自分だと思っているエゴは神の子ではありません。
つまり、エゴに一体化する私たちは、光である神の子にできた影であり、実在しない狂気による妄想が生み出した幻です。
したがって、私たちが本当の自分を思い出して神の子としての自覚を取り戻すことは、エゴとしての私たちが消滅することです。
独我論に堕することに注意!
独我論(どくがろん、英: solipsism ソリプシズム、独: solipsismus ゾリプシスムス)という考え方があります。
独我論は、哲学における認識論の見方の一つで、自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神だけであり、それ以外のあらゆるものの存在やそれに関する知識・認識は信用できない、とする唯心論の一種といえる考え方です(Wiki)。
自分の本質は神の子である、世界は幻想である、というコースの主張するところを素朴に受け取ると、その解釈として、「世界には自分しかおらず、自分が世界を生み出している、世界の創造者である」(!)という捉え方、独我論的な発想に行き着きます。
けれど、この発想では、ひとりしかいない我を世界を生み出す源と位置づけることになりますが、その我は個としてのエゴなわけなので、どうがんばったところで、エゴの膨張を生み出すことしかできません。
スピリチュアル系の本などでよくある引き寄せの法則についての根拠づけのひとつで、「世界は私が創っている、原因である自分を変えて世界を変えよう!」という言説と同じエゴ全開のフルスロットルです。
本気で自分が世界の創造主であると内心で思っていて、私たち登場人物を創造したのは自分なのだと信じている人には、たとえその人が表面上人当たりのよい、いい人だったとしても、あまりお近づきになりたくない「静かな狂気」を感じないでしょうか?
たしかにコースは、心が原因で世界は結果であり、心を変えよと述べはします。
けれど、コースは、アイデンティティーを個別の心、エゴから大いなる自己にシフトすることに主眼を置き、心を変えるのはこの点であり、エゴが満足する世界を引き寄せるためではありません。
コースがひとりだけで救われることは不可能であるとして、他者との関係性を「救いの公式」として位置づけるのはなぜか、よく考えてみる必要があります。
アトレーユ「きみは狂っている。」
バスチアンには、「きみは狂っている。」と告げて、敵になってまで救おうとしてくれた友がいました。
私たちにも、偉大な兄イェシュアがついてくれていて、親愛なる友としてコースを通じて私たちに「きみは狂っている。」と伝えて救おうとしてくれています。
バスチアンのように友に剣を突き立て傷つけるような真似をせずに、冷静になって自分が狂っていることを素直に認めましょう。
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アトレーユがバスチアンの胸に剣の切っ先を突きつけていった。
「さあ、おしるしを渡したまえ。きみ自身のためなんだ。」
「裏切もの!」バスチアンはどなりかえした。「おまえはわたしがつくってやったんだぞ! 何もかも、わたしがつくったんだ! おまえもだ! そのわたしに逆らうのか? ひざまずいて、赦しを乞うんだ!」
「きみは狂っている。」アトレーユはいった。「きみは何一つつくっていない。みな幼ごころの君のおかげなのだ。さあ、アウリンをよこしたまえ!」
「取れるものなら、取ってみろ!」バスチアンはいった。
アトレーユはためらった。
「バスチアン。」かれはいった。「ぼくはきみを救おうとしているんだ。そのためにきみを打ち負かすようなことを、どうしてぼくにさせるのだ?」
バスチアンは剣のつかを手にかけ、力まかせにひっぱった。かれの大力は、自らとびだして手におさまるのではなしに、ついにシカンダの剣を抜いてしまった。と、その瞬間、恐ろしい響きが鳴りわたった。大門の前の大通りで戦っていたものたちも一瞬体をこわばらせて二人の方を見上げたほどの、すさまじい轟音だった。
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Michael Ende
ミヒャエル・エンデ(「はてしない物語」490ページ)

Lesson 274
Today belongs to love. Let me not fear.
今日は愛のものだ。私が恐れませんように。
1. Father, today I would let all things be as You created them, and give Your Son the honor due his sinlessness; the love of brother to his brother and his Friend.
父よ、今日、私はあらゆる物事をあなたが創造したままにさせて、あなたの子に彼の潔白さにふさわしい敬意を払い、神の子の兄弟と彼の大いなる友聖霊に兄弟としての愛を捧げます。
Through this I am redeemed.
こうすることを通して、私は救われます。
Through this as well the truth will enter where illusions were, light will replace all darkness, and Your Son will know he is as You created him.
こうすることを通して、かつて幻想のあった場所に真理が入りこみ、あらゆる闇に光が置き換わり、そして、あなたの子は自分があなたに創造されたままだと知ることになります。
2. A special blessing comes to us today, from Him Who is our Father.
私たちの父なる神から、今日、特別な祝福が私たちにもたらされます。
Give this day to Him, and there will be no fear today, because the day is given unto love.
今日という日を神に捧げてください。そうすれば、今日、いかなる恐怖もなくなるでしょう。なぜなら、その日は、愛へと捧げられるからです。

それでは、ブリトニーさんのレッスンです。

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