レッスン280「私が神の子にどんな制限を課しうるというのだろう」


神は個人の意志を抑圧しているわけではない。神は、神ご自身が望んでいることとは別のことを個人の意志が望まないように、それをご自分の自由にしている。それが意味することは、自由ということである。したがって、心は、神が望むこととは違うことを望むことはできないのである。そして、これはその束縛ではなく、それ自身の自由である。



Meister Eckhart
マイスター・エックハルト

神のエクハ




十四章 ミディアム

わたしに仕える事を希望し、キリスト教会や宗教団体、オカルト団体や修道会等に関わってきたあなた。彼らの仕事を助ける事でわたしを喜ばせる事ができ、特別な願い事も叶えてもらえるのでは、と信じてきたあなた ― これからわたしが話す事をよく聞き、これについて熟考してほしいのです。

まず、わたしは既にあなたの存在について喜び、満足しているのです。時にあなたは、自分自身の欲望を優先し、わたしの意思に反する事を行っていると感じているかもしれませんが、あなたが為す事全てをわたしが導いているのであり、結局はわたしの欲するところを、あなたは行っているのですから。

同様に、全ての意識に対し、全ての人生経験を与えているのも、わたしであるのです。これらの経験は彼らの身体を調え、心を賦活し、意識を進化させ、その結果彼らはわたしを理解する事ができるのです。そこから、わたしのイデアが、彼らを通して表現されていくのです。

彼らが人生を経験している間にもわたしは、彼らがわたしを、そしてわたしのイデアを垣間見る事ができるように、インスピレーションを与えています。このインスピレーションを通し、わたしは多くの者に語りかけているのです。その声を聞いた者はわたしの言葉を受け取り、本として残し、他の多くの者に対し教える事ができるのです。その筆者や教師が言葉の本当の意味を理解していない場合にも、わたしの言葉を受け取る用意ができている者に対しては、それが彼らの心と意識を賦活していくよう、わたしがはたらくのです。わたしの存在の光、イデアの一瞥を彼らに与え、彼らの意識を霊化した事により、多くの者が教師や指導者となっていきました。彼らは、教会や結社、教団等を築き、多くの求道者や信奉者を惹きつけました。その教師やリーダー達を通してわたしは語り、そしてわたしを認識できる者達の心と意識を刺激していったのです。

わたしが、つまり内在のインパーソナルな存在がこの全てを成し遂げているのであり、その教師や指導者達は、実に、何も行っていないのです。彼らはただ、わたしのイデアを人々に対し表現する媒体として働いているのです。

意識は媒体であり、知性は伝達手段のための道具でしかないのです。わたしのイデアを伝える必要がある場合には、いつであっても、どこにおいてでも、わたしは境界を超えて、それらを用いる事ができるのです。心が賦活され、わたしを受け入れられる程に大きく開かれない限り、例えその人を通してわたしのイデアが表現されたとしても、彼はその意味を理解する事はできません。限りある意識と知性によってでは、わたしの意味するところを理解できないのです。

わたしに仕えたいと願っているあなたはおそらく、驚くべき事を語る教師や指導者、特定のパーソナリティを思い浮かべる事ができるでしょう。わたしがその人を通して語っていて、彼らの心は神を内包していたのだと。

また、命令に従わなければわたしを怒らせてしまう、という恐怖感を抱き、疑いや不安の気持ちから、わたしを喜ばせようとしたあなた。あなたは、そういった内容を伝える教師や指導者を訪ねた事もあるでしょう。もしかするとそれは、高い地位にある司教や祭司といった人々だったかもしれません。あなたは、彼らを通してわたしのメッセージや助言を得られるのではと、そしてその‘マスター’や‘ガイド’から、何らかの助けを得られるのではと思ったのです。しかしながら、必然の結果として幻滅の時は訪れ、悲しみと屈辱の中、あなたは結局自分自身へと ― つまりは内なる教師、真のあなたであるわたしのもとへと、還る事となるのです。

実に、お金や奉仕は勿論の事、あなたの献身と熱意の全てを取上げてしまう全ての欺瞞、訓練、修行 ― 。あなたは、それがわたしのための仕事であると信じていましたが、それはあなたから盗み、あなたを利用し、彼ら自身の力と追従者の信心を築き、強化するための、利己的なものであったのです。彼らは、美しい霊的教義の調べを操りながら、巧みな詭弁によりあなたをおだてたり、霊的成長を約束したりして、あなたを彼らのもとに縛りつけようとするのです。それは彼らを絶えず礼讃させ、奉仕させるためであり、あなたが絶対的な信仰を持ち従順でなければ、神であるわたしを怒らせる事になる、とあなたを脅すのです。いかにも、その全てを許したのも、このわたしです。これらの体験もあなたが求め、望んだものなのであり、そしてあなたの願望というものは、実に、わたしの意思の媒体であるのです。

もしかするとあなたは、ここまで述べたような類には当てはまらない‘教師’に傾倒していた事があるかもしれません ― つまり、その善意・誠意がどれほどのものか、霊的智慧がいかほどのものであるかに関係なく、何らかの目に見えない存在に対して献身し、無償の愛と忠誠を捧げた事があるかもしれません。

そこから、あなたにとってはかけがえのない教えや導きを、実際に受け取ったかもしれません。そこで求めているものが見つかり、必要が満たされていると感じている間は、それはそれで良いのです。わたしはそういった願望についても、必要なものは全て与えます。しかし、覚えていてください。あなたが真に求めている結果を得るにあたっては、そういったものの全てが結局のところ無意味であり、非生産的なものであるのです。なぜならば、何か霊的な事を達成したいという願望・欲求はパーソナリティの領域に由来し、身勝手なものであるため、最終的にはあなたに失望、幻滅、屈辱を招く事となるのです。

このようにあなたが幻滅し、屈辱を感じた時こそが、真の結果を得られる時であるのです。人間である教師、または目に見えない存在である教師から助けを得ようとしたあなたに、その機会を与え導いたのもわたしであり、そしてその経験から得られた幻滅や屈辱も、あなたが今一度小さな子どものように謙虚に、素直になれるよう、わたしが意図的にあなたにもたらしたものであるのです。その時にこそ、あなたがわたしの声に聞き従う準備は整うのであり、そして遂にわたしに聞き従えるようになった時、あなたは、天の御国へと歩み入る事となるのです。

実に、自分の外側への探求は、このように終わりを迎えます。外の世界に答えを求めてきた事により疲弊し、裸になり、飢えたあなたは、ついにわたしの教えを喜んで聞くようになり、そのパン屑さえも欲しがる事になるのです(マタイの福音書 十五章二十七節)。それまで、頑なな心と自惚れがあったあなたは、その自尊心の故、わたしの言葉に価値など無いと判断していたのです。

そして今、あらゆる教義の数々やその教師達について、もう充分だと悟ったあなた。全ての智慧の源は自分の内側にあり、そしてその智慧の声は、あなたの心に、言葉にできない程の喜びをもたらす事を知ったあなた。その喜びこそが、あなた自身の内側で、何が真実であるかを確信させるものであるでしょう。

この事がまだ感じられず、橋渡し役・伝道者、ミディアムといった存在が必要だというあなた。あなたの罪を贖うため十字架にかけられたキリストの話を、わたしはあなたに与えてあります。それはあくまで、パーソナリティを十字架にかける事で、あなたの意識は天のものとなり、わたしとひとつになれるのだという事を教え、このように生きて欲しいという事を教えるものであったのです。

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イエス・キリスト(Joseph Benner ジョセフ・ベナー改訂版 インパーソナル・ライフ あなたは神とひとつである 」130ページ)

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レッスン280です。


「私が神の子にどんな制限を課しうるというのだろう」が今日のテーマです。


まず、キリストってなに?をご覧ください。







自由意志には意志を不自由にする自由もある

ここ一連のレッスンでは、神の子が自由であること、その自由意志を間違って用いることによって自縄自縛に陥ることができてしまうこと、そうだとしても、神の子の自由意志は父なる神から不死なる神の子が具える永遠の属性として与えられたものなので、神の子に不自由になる自由があるといっても、それはそう信じることができるだけで、神の子が神に創造されていない神の子ではない別の存在に変わることはありえないので、神の子が自縄自縛によって制限された状態は自分で誤解して信じている状態、錯覚でしかなく、自由であることが真実なので、それに気づくことで本来の自由に戻れることを再確認しました。

自由意志は自由な思考を可能にするものですが、自らを制限して本来の無限の状態から卑小なものへと歪曲することも可能であり(この成り下がり状態についてはレッスン26「私の攻撃的な思いが、私の傷つきようのない不滅性を攻撃している」のエッセイを参考にしてみてください)、その意味で、好き放題に思考しても問題ないというわけにはいかず、正しくない思考と正しい思考とがありうることがわかります。



コースは私たちの自己肯定感を高めて神の子としての自尊心を植え付けようとしているわけではない

コースは、私たちが身につけてしまった間違った思考体系をアンインストールして正しい思考法を身につけさせて本当の自分を思い出させてくれます。



自意識(アイデンティティ)と創り出す思考」(ロバート・フリッツ著)は、コースを学ぶ私たちにとって重要な観点を与えてくれる本です。

この本では、従来のセルプヘルプ本で語られている成功するために欠かせないとされる、自分が何者であるかという自意識、自尊心、自己肯定感はまったく何の役にも立たない、役立たないどころか挫折させる悪さをするだけだという、この手の本をよく読む私たちのような読者からすると、強烈な違和感を覚えるテーマを突き付けてきます。

「本書の要点は、単純明快である。自分自身にフォーカスを向けるのをやめ、創り出したい成果にフォーカスを合わせること、それだけだ。」(終章 真の創造プロセスに向かって)

それが自己肯定感であれ、自己卑下の感覚であれ、自意識は、個人の機能発揮の邪魔になるだけだというのは、エゴ(=自意識)を活躍させないようにというコースの主張を別の側面から語るものといえるでしょう。

コースは、アバター、人の子としての私たちに、自分は神聖な神の子であるという自尊心を植え付けようとしているわけではありません。



コースはアンラーンの学び

私たちが本気で人間としての自分が神の子だと信じるとしたら、それは身体礼賛、エゴ礼賛です。

コースが教えようとしているのは、そんな思い上がりではなく、人間としての自分は物語世界の登場人物と同じくらい架空の存在であること、私たちはたまに霊的体験をする人間なのではなく、人間という体験をしている霊なのであり、それも、個別分化した魂ではなく、すべての「私」現象の大元である一なる大いなる霊だということです。

人間としての自分が何者であるか、価値ある存在かどうかといったことは、もちろんエゴとしての私たちにとって最大の関心事ですが、個人としての成果をあげるうえでも、自己肯定感を高めようとすることがかえって自分の首を絞める結果になるだけだとしたら、スピリチュアル本や自己啓発本の世界での常識について改めて考えなおす必要があります。




はたらく細胞的に考えてみても、個々の細胞が幸せなのは、自分が何者なのかなんて少しも考えたりせずに、粛々と自分という存在がなしたい働きを思いの赴くままになし、ありのままの自分を全開にして在り、機能するときです(全機)。



アバターとしての自分については肯定も否定も必要ない

ありのままの自分を押し殺して憧れの自己イメージを思い浮かべてそのイメージに沿ったあり方や活動を無理にしようとしても、うまくいくはずがないし、仮になんとか成果が出たとしても、自分をすり減らしてボロボロにしてしまっているだけなはずです。


アバターとして生きるうえで、過剰な自己肯定感が仇になるということが事実だとしたら、あまり自己肯定感を高めることに躍起になるのは得策ではないので、そこそこにとどめておくのが望ましいと言えるでしょう。

他方で、自己否定感が悪さをしやすいのは紛れもない事実です。

自分はダメだというセルフトークや他者からのレッテル貼りによって引き起こされる無力感がアバターの自己像を荒廃させることによって、私たちはガス欠になった車のように、動けなくなってしまうからです。

真の自己にアイデンティティーを置いたうえで、このアバターも捨てたもんじゃないと、ささやかな自己肯定感を保つくらいが、ちょうどよいのかもしれません。



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Lesson 280

What limits can I lay upon God's Son?
私が神の子にどんな制限を課しうるというのだろう。



1. Whom God created limitless is free.
 神が限界のないものとして創造した者は自由だ。

 I can invent imprisonment for him, but only in illusions, not in truth.
 私は神の子が幽閉されている状態をでっちあげることはできるが、それは単に幻想の中でのことにすぎず、真実ではない。

 No Thought of God has left its Father's Mind.
 神の抱く大いなる思いは何ひとつ、その生みの親である神の心から一度も離れたことはない。

 No Thought of God is limited at all.
 神の大いなる思いで、少しでも制限されているものはひとつもない。

 No Thought of God but is forever pure.
 神の大いなる思いは永遠に純粋であるのみだ。

 Can I lay limits on the Son of God, whose Father willed that he be limitless, and like Himself in freedom and in love?
 父なる神が限界のないものであり、自由であることにおいても愛に満ちていることにおいても自分自身と同じものであるようにと意図した神の子に私が制限を課すことなどできるだろうか。



2. Today let me give honor to Your Son, for thus alone I find the way to You.
 今日こそ、私にあなたの子を讃えさせてください。というのも、そうすることでのみ、私はあなたへの道を見出せるからです。

 Father, I lay no limits on the Son You love and You created limitless.
 父よ、私は、あなたが愛し、限りないものとして創造したあなたの子にいかなる制限も課しません。

 The honor that I give to him is Yours, and what is Yours belongs to me as well.
 私が神の子に捧げる賞賛はあなたのものです。そして、あなたのものであるものは、私のものでもあるのです。


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それでは、ブリトニーさんのレッスンです。






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