P2-IV 病気のプロセス
病気は神が私たちを裁いていることの表れではなく、私たちが自分自身を裁いていることの表れです。神が私たちの病気を創造したと考えたとしたら、癒しを求めて神にすがることはできません。すでに明らかにしてきたように、神は善なるもののすべてです。神は愛だけを創造します。したがって、神は病気を創造しませんでした。病気は幻影であり、実際に存在するものではありません。それはこの世界における夢であり、私たちが自分で作り出す悪夢です。私たちは神に向かって、どうぞこの夢から目を覚まさせてくださいと祈るのです。

マリアン・ウィリアムソン(「愛への帰還」240ページ)
Knowing your own darkness is the best method for dealing with the darknesses of other people.
他者の抱える心の闇に向き合ううえで最善の手法は、自分自身の心の闇を知ることです。

Carl Jung
カール・ユング

心理療法から、病気のプロセスについての一節をご紹介します。
すべての病気は心理的な病い
心理療法全体の序文で、病むことができるのは心だけなので、癒されうるのは心だけだから、存在しうる治療法は心理療法のみだということが示されていました。
本節では、これを裏側から、すべての病気は心理的な病いであることが述べられます。
その心理的な病いとは、神の子に対して間違った価値判断を下して裁くことによって、真理を虚偽とみなして偽りを真実だと狂信することによって自らが潔白で神聖な存在ではなくなったことを悔いて抱くことになる悲嘆と罪悪感の発露だということです。
このように病気は心が抱く罪悪感の影です。
醜いものの影なので、当然、病気は醜悪なものとなります。
心の中の決断の影は、心の中での決断を変えることによって変わります。
神の子は有罪だという決断の影として、病気と死と悲惨さが心の投影先の世界に蔓延します。
しかし、比較的軽微な疾患はもちろん、いかに深刻で不可逆的で治療の難易度が0に近い手の施しようのない病いであろうと、実体が影だとすれば、等しく幻想でしかなく、単に他の幻想に比べて取り消すことが困難に見える形の幻想でしかないということになります。
したがって、癒しは、心の決断の誤りを修正する心理療法によって達成するものであり、どんなにリアルに見えても、すべては幻に過ぎないという気づきを病人にもたらすことにほかなりません。
待ち受ける落とし穴
このように心が病気の源だと気づくことは大切な出発点ではあります。

けれど、心が病気の源だと気づくことができても、病気の心には自分自身を治療することができると信じる誤りが落とし穴として待っています。
そもそも、すべての病気は、自己を脆弱で傷つきうるもので、不幸で、危険にさらされていて、それゆえに、つねに防衛を要する存在だとみなしていることの帰結だということができます。
そうだとすれば、そんな無力で脆弱な自己に自分を防衛することなど不可能なはずです。
それゆえ、この観点で求められる防衛策は魔術に頼るものになものにならざるをえません。
つまり、その脆弱で防衛を要する不十分な小さな自己が本当の自己であることを前提として、その小さな自己が抱えるあらゆる制限を克服して、旧来の脆弱で防衛を要するような自己に逆戻りしないような強靭でより優れた新たな自己概念を作り出すことが防衛策として求められることになります。
いつの間にか虚構を実在視する前提に立っているといういつもの仕組み
これは言ってみれば、誤りを本物として受け入れたうえで、幻想で丸め込むことです。
小さな自己が自分だという錯覚を維持したままなので、真の自己の下に私たちを呼び戻そうと、大いなる愛が差し延べる救いの手は、いまや脅威でしかなく、救済による「侵略」になんとか対抗しなければならないという事態になります。
このように、間違いの「正しさ」を先に確立しておいて、それから、その間違いを見過ごそうとする方法では修正を達成できないとは、赦しについてさんざん論じて強調されていることでした。
癒しにも、まったく同じ仕組みが当てはまります。
もし病気が本物であるなら、真に病気を看過することなどできません。というのは、現実であるものを無視するのは狂気の沙汰だからです。
それでも、それこそが魔術の目的、つまり、間違った知覚を通して幻想を本物にすることなので、私たちは容易にこのカラクリに惑わされてしまいます。
幻想がまとう多様な姿かたちは幻が程度差などない無であることを見抜けなくさせる
病気は狂気であり、その病いにはいかなる程度も存在しません。
しかし、病気の深刻さがまとう外観は実に多種多様なので、病気のとる形によってその脅威の程度も異なるはずだと信じるのももったもだということになって、病気には治せないものもあるという事実がリアリティーを帯びます。
ここにこそ、あらゆる誤りの基盤があります。
そして、そもそもの自己概念についての誤認識を解消しないままでいるかぎり、誰もがたやすくこの難易度のリアリティーに騙されてしまいます。
偽りの自己像を抱いて、それに一体化している狂人は、自分が見ている幻想の中に自らの救いを見ているがゆえに、自分の見る幻想を守ろうとします。

マリオにアイデンティティーを抱くならマリオワールドが実在世界となり、お母さんのキノピオは敵となる
マリオが自分だと信じているかぎり、マリオのいる世界の平安やマリオや仲間たちの幸せが大切になります。

このために、マリオになりきっている子供は、夕飯の準備ができたため、ゲーム世界から彼を救い出そうとキノピオになってゲーム世界に参加して(未来のVR版のマリオでテレビ画面の前で呼びかけただけでは呼び戻せないという前提で考えます)「夕飯できたよ」のメッセージを伝えようとするお母さんが自分を攻撃しているものと信じて、キノピオを攻撃することになります。

この攻撃と防御の奇妙な循環は、心理セラピストが取り組まなければならない最も困難な課題のひとつであり、心理療法の核心です。
セラピストは患者の攻撃に反撃せずに対処しなければならない
セラピストは、患者が自分の財産として最も大切にしているもの、つまり、彼の操縦しているキャラクター、自分自身についての自画像を攻撃する存在だとみなされ、患者は、この自画像のことを自分を守ってくれる守護者どころか自分自身だと知覚しているので、セラピストは、攻撃されて当然で殺されても仕方のない危険の真の源とみなさざるをえないというわけです。
攻撃に反撃で対応するなら、幻想世界内にいる特定の人間が自分だと信じ込んでいる患者の信念を補強することにしかならないので、心理セラピストは、攻撃に対して反撃することなく、したがって、防御せずに向き合わなければなりません。
お母さんの操るキノピオがマリオと戦ってマリオを屈服させたとしても、マリオになりきっている子供が抱いている自分はマリオだという思い入れを強めこそすれ、自分が本当はマリオではなく、現実世界にいる子供だと思い出すことには少しも役立たないからです。
マリオのゲーム世界は、敵と戦ってステージを進むことが基本設定になっており、自分を防衛して敵を攻撃することがデフォルトモードどころか、それ自体が世界の目的となっています。
「フォートナイト(FORTNITE)」や「あつまれどうぶつの森」のように、ゲームの本来的な利用法以外に、ゲーム世界を用いてバーチャル・イベントを開催したりできる自由度の高いゲームように、世界というものは基本設定以外の使い方をすることが可能です。
ゲームのデフォルト・モード以外でのプレイの仕方
私たちもエゴに従うかぎりは防衛と攻撃の循環が当たり前の標準モードとして設定されている世界に生まれ育ちましたが、聖霊に従うことで防衛をしないでゲームプレイすることを試すことができます。
そして、防衛は必要ではなく、防衛しないことこそが強さなのだと実証することが心理セラピストの務めであり、学ぶべき課題が正気になって無防備であることは安全であることだと学ぶことなので、セラピストは、防衛しないことが強さだと教えなければなりません。
しかし、防衛と攻撃が狂気であるとしても、狂気に陥っている者には、危機に面しているのに防衛を放棄するなんて狂気の沙汰だとしか思えず、狂気の者は正気を脅威だと信じてしまうことは言うまでもありません。
中の人からすれば外の正気は狂気の沙汰
マリオになりきっているその子からすれば、現に自分の居るマリオ・ワールドから本当の自分がいるという異世界に送還されることは、自分のいると信じる世界での自分の死、身体の喪失、苦楽を共にした仲間や、せっかく苦労してためたコインやクリアしてきたステージなど大切な持ち物すべてを奪い去られることだとしか思えないからです。
狂気の者が正気を脅威だと信じてしまうことは、本当に強く強調しておかねばなりません。
この狂気の信念は、有罪であることが現実であり、完全に理に適ったことだと信じる「原罪」からの当然の帰結です。
「原罪」とは、原初の誤りであり、それは根本的な分離幻想を抱くこと、つまり、個別に分離しているという自覚のことです。
「The means of the Atonement is forgiveness.
贖罪の手段は赦しです。
The structure of "individual consciousness" is essentially irrelevant because it is a concept representing the "original error" or the "original sin."
『個別化した意識』の構造は、本質的に重要なことではありません。なぜなら、個別の意識は、『原初の誤り』つまり『原罪』を表す概念だからです。
To study the error itself does not lead to correction, if you are indeed to succeed in overlooking the error.
もしあなたが本当に誤りを無視できるようになりたいなら、誤りそのものを研究しても修正にはつながらないでしょう。
And it is just this process of overlooking at which the course aims.
そして、このコースが狙いを定めているのは、まさに、このように誤りを無視するプロセスなのです。」(用語解説 序文)
それゆえ、自分が神から分離し、自分自身からも分離する罪を犯したということは本当ではなく、それゆえに、神が罪を犯したわが子を罰するはずだと信じて罪悪感を抱くのは当然のことではないと教えることが、心理セラピストの役目であり、救済が教える罪悪感の放棄という唯一の原理こそ、すべての治療が目指す目標です。

IV. The Process of Illness
病気のプロセス
1. As all therapy is psychotherapy, so all illness is mental illness.
すべての治療が心理療法であるように、すべての病気は心理的な病気です。
It is a judgment on the Son of God, and judgment is a mental activity.
病気は、神の子に対して価値判断して裁くことであり、そして、価値判断は心理的な作用です。
Judgment is a decision, made again and again, against creation and its Creator.
裁きは、何度も何度も、創造物とその大いなる創造主に対して下されるひとつの決断です。
It is a decision to perceive the universe as you would have created it.
それは、宇宙のことを、あなたがそれを創造したものであるかのように知覚する決断です。
It is a decision that truth can lie and must be lies.
それは、真理は偽ることができるし、真理は偽りであるに違いないと決断することです。
What, then, can illness be except an expression of sorrow and of guilt?
そうだとすれば、病気とは、悲しみと罪悪感の発露以外の何でありうるでしょうか。
And who could weep but for his innocence?
そして、誰にも、自らが潔白ではなくなったことを悔いてしか涙を流せないのではないでしょうか。
2. Once God's Son is seen as guilty, illness becomes inevitable.
いったん神の子が有罪であるとみなされると、病気になるのを避けることはできません。
It has been asked for and will be received.
病気は、求められたがゆえに、受け入れられることになります。
And all who ask for illness have now condemned themselves to seek for remedies that cannot help, because their faith is in the illness and not in salvation.
そうなればもう、病気を求める者たちはみな、いまや自分たちを、助けにならない治療法を探すように運命づけたことになります。なぜなら、彼らの信頼は救済ではなく病気に置かれているからです。
There can be nothing that a change of mind cannot effect, for all external things are only shadows of a decision already made.
心の変化が影響を及ぼせないものなど何もありません。というのも、すべての外部的な物事は、単にすでになされた決断の影でしかないからです。
Change the decision, and how can its shadow be unchanged?
決断を変えてください。そうすれば、決断の影も変わらざるをえません。
Illness can be but guilt's shadow, grotesque and ugly since it mimics deformity.
病気は罪悪感の影でしかありえません。その影は異形のものを模倣するがゆえに、グロテスクで醜いものです。
If a deformity is seen as real, what could its shadow be except deformed?
もし歪んで欠けたものを本物とみなすなら、その影も歪んだものにしかなりえないでしょう。
3. The descent into hell follows step by step in an inevitable course, once the decision that guilt is real has been made.
いったん本当に有罪だという決断が下されたなら、地獄への堕落が避けようのない進路として一歩いっぽと続いてゆきます。
Sickness and death and misery now stalk the earth in unrelenting waves, sometimes together and sometimes in grim succession.
病気と死と悲惨さがいまや、衰えることのない波の中で、ときには一緒に、ときには立て続けに容赦なく、地上に広がってゆきます。
Yet all these things, however real they seem, are but illusions.
しかし、これらのすべてのことは、いかに本物のように見えるとしても、単なる幻想でしかないのです。
Who could have faith in them once this is realized?
ひとたびそれがすべて幻にすぎないと気づいたなら、いったい誰が病気や死や悲惨さを信じていられるでしょうか。
And who could not have faith in them until he realizes this?
そして、どんなに本物に見えてもすべては幻でしかないと気づかないかぎり、いったい誰が病気や死や悲惨さを信じずにいられるでしょうか。
Healing is therapy or correction, and we have said already and will say again, all therapy is psychotherapy.
癒しは治療であり、修正であり、すでに述べたし、これからも再び述べるように、すべての治療法は心理療法なのです。
To heal the sick is but to bring this realization to them.
病人を癒すことは、単にどんなに本物に見えても、すべては幻に過ぎないという気づきを病人にもたらすことでしかありません。
4. The word "cure" has come into disrepute among the more "respectable" therapists of the world, and justly so.
「治癒」という言葉は、世界のより「良識ある」治療者たちの間では好意的に受け入れられてはいませんが、これは当然のことです。
For not one of them can cure, and not one of them understands healing.
というのも、「良識ある」治療者たちのうちの誰ひとりとして癒すことはできないし、彼らのうちの誰ひとりとして、癒しを理解していないからです。
At worst, they but make the body real in their own minds, and having done so, seek for magic by which to heal the ills with which their minds endow it.
悪いことに、「良識ある」治療者たちは、ただ自分たちの心の中で身体を本物としておくばかりで、そうしておきながら、自分たちの心が身体に割り当てた病気を、魔術を用いて癒そうと求めているのです。
How could such a process cure?
このようなプロセスで、どうして治療できるでしょうか。
It is ridiculous from start to finish.
初めから終わりまで、馬鹿げています。
Yet having started, it must finish thus.
しかし、ひとたび始まったからには、治療はそのようなプロセスを通して終わるほかありません。
It is as if God were the devil and must be found in evil.
それはまるで神が悪魔であって、神は邪悪さの中に見出されるはずだというようなものです。
How could love be there?
どうして邪悪さの中に愛がありうるでしょうか。
And how could sickness cure?
そして、どうして邪悪さの中で病気が治療されうるでしょうか。
Are not these both one question?
これらの二つの質問は両方とも、一つの質問ではないでしょうか。
5. At best, and the word is perhaps questionable here, the "healers" of the world may recognize the mind as the source of illness.
ここで「治療者たち」という言葉を用いるのがふさわしいか甚だ疑問ではありますが、うまくすれば、この世界の「治療者たち」も、心が病気の源だと気づくことがあるかもしれません。
But their error lies in the belief that it can cure itself.
しかし、彼らの誤りは、病気の心がそれ自体を治療することができると信じているところにあります。
This has some merit in a world where "degrees of error" is a meaningful concept.
心が病気の源であると認識することには、「誤りの程度」が意味を持つと考えられているこの世界においては、いくらかのメリットはあります。
Yet must their cures remain temporary, or another illness rise instead, for death has not been overcome until the meaning of love is understood.
しかし、彼らの治癒は一時的なものにとどまり、また別の病気が代わりに生じてくるに違いありません。というのも、愛の意味が理解されないかぎり、死はいまだ克服されてはいないからです。
And who can understand this without the Word of God, given by Him to the Holy Spirit as His gift to you?
そして、神からあなたへの贈り物として神によって聖霊に与えられた神の大いなる言葉なくして、いったい誰にこのことが理解できるでしょうか。
6. Illness of any kind may be defined as the result of a view of the self as weak, vulnerable, evil and endangered, and thus in need of constant defense.
どんな種類の病気も、自己を脆弱で傷つきうるもので、不幸で、危険にさらされていて、それゆえに、つねに防衛を要する存在とみなす観点の帰結だと定義できるでしょう。
Yet if such were really the self, defense would be impossible.
しかし、もしそんなものが本当に自己だとしたら、防衛することなど不可能なはずです。
Therefore, the defenses sought for must be magical.
それゆえ、求められる防衛策は魔術的なものにならざるをえません。
They must overcome all limits perceived in the self, at the same time making a new self-concept into which the old one cannot return.
求められる防衛策は、その小さな自己の中に知覚するすべての制限を克服すると同時に、その中に古い自己が戻ってこられないような新たな自己概念を作り出すものでなければなりません。
In a word, error is accepted as real and dealt with by illusions.
一言で言えば、誤りが本物として受け入れられ、幻想によって丸め込まれたということです。
Truth being brought to illusions, reality now becomes a threat and is perceived as evil.
真理が幻想の許へともたらされるので、現実はいまや脅威となり、邪悪なものとして知覚されるようになります。
Love becomes feared because reality is love.
現実とは愛のことなので、愛は恐ろしいものとなります。
Thus is the circle closed against the "inroads" of salvation.
こうして、救済の「侵略」に対抗するための堂々巡りの円環が閉じられます。
7. Illness is therefore a mistake and needs correction.
それゆえ、病気は間違いであり、修正を必要とするのです。
And as we have already emphasized, correction cannot be achieved by first establishing the "rightness" of the mistake and then overlooking it.
そして、私たちはすでに、間違いの「正しさ」を先に確立しておいて、それから、その間違いを見過ごそうとする方法では修正を達成できないと強調しておきました。
If illness is real it cannot be overlooked in truth, for to overlook reality is insanity.
もし病気が本物であるなら、真に病気を看過できるはずがありません。というのは、現実であるものを無視するのは狂気の沙汰だからです。
Yet that is magic's purpose; to make illusions true through false perception.
しかし、それこそが魔術の目的なのです。すなわち、間違った知覚を通して幻想を本物にすることです。
This cannot heal, for it opposes truth.
魔術は真理を妨害するものなのだから、魔術によって癒せるはずがありません。
Perhaps an illusion of health is substituted for a little while, but not for long.
もしかすると、しばらくの間は、健康の幻想が代わりになるかもしれませんが、そう長くは続きません。
Fear cannot long be hidden by illusions, for it is part of them.
恐れは幻想の一部なので、いつまでも幻想によって恐れを隠したままにしておくことはできないからです。
It will escape and take another form, being the source of all illusions.
恐れはあらゆる幻想の源なので、恐れは逃げおおせては、別の形をとることになります。
8. Sickness is insanity because all sickness is mental illness, and in it there are no degrees.
病気は狂気です。なぜなら、すべての病気は心理的な疾患であり、その病いにはいかなる程度も存在しないからです。
One of the illusions by which sickness is perceived as real is the belief that illness varies in intensity; that the degree of threat differs according to the form it takes.
病気が本物だと知覚させる幻想のひとつは、病気の深刻さにはバリエーションがあるので、病気のとる形によってその脅威の程度も異なるはずだという信念です。
Herein lies the basis of all errors, for all of them are but attempts to compromise by seeing just a little bit of hell.
ここにこそ、あらゆる誤りの基盤があります。というのは、それらのすべては、ほんの小さな地獄のかけらにだけ目を向けることで妥協を図ろうとする試みにすぎないからです。
This is a mockery so alien to God that it must be forever inconceivable.
こんなことはあまりに神とは相容れない茶番なので、永遠に想像すらできないものです。
But the insane believe it because they are insane.
しかし、狂気の者たちは、狂っているがゆえに、茶番を信じてしまいます。
9. A madman will defend his own illusions because in them he sees his own salvation.
狂人は、自分が見ている幻想の中に自らの救いを見ているがゆえに、自分の見る幻想を守ろうとします。
Thus, he will attack the one who tries to save him from them, believing that he is attacking him.
このために、狂人は、幻想から彼を救い出そうとする者が自分を攻撃しているものと信じて、相手を攻撃することになります。
This curious circle of attack-defense is one of the most difficult problems with which the psychotherapist must deal.
この攻撃と防御の奇妙な循環は、心理セラピストが取り組まなければならない最も困難な問題のひとつです。
In fact, this is his central task; the core of psychotherapy.
事実、これこそ、心理セラピストの中心的な課題であり、心理療法の核心です。
The therapist is seen as one who is attacking the patient's most cherished possession; his picture of himself.
セラピストは、患者が自分の財産として最も大切にしているもの、つまり、彼の自分自身についての自画像を攻撃する存在だとみなされます。
And since this picture has become the patient's security as he perceives it, the therapist cannot but be seen as a real source of danger, to be attacked and even killed.
そして、患者はこの自画像が無事であることが自分の安全だと知覚するようになっているので、自分を攻撃してくるセラピストを攻撃するのは当然のことであり、セラピストは殺されても仕方のない危険の真の源とみなさざるをえないというわけです。
10. The psychotherapist, then, has a tremendous responsibility.
したがって、心理セラピストには途方もない責任が伴います。
He must meet attack without attack, and therefore without defense.
心理セラピストは、攻撃に対して反撃することなく、したがって、防御せずに向き合わなければなりません。
It is his task to demonstrate that defenses are not necessary, and that defenselessness is strength.
防衛は必要ではなく、防衛しないことこそが強さなのだと実証することが心理セラピストの務めだからです。
This must be his teaching, if his lesson is to be that sanity is safe.
もし学ぶべき課題が正気とは安全であることだと学ぶことであるなら、心理セラピストは、無防備であることこそが強さだと教えなければなりません。
It cannot be too strongly emphasized that the insane believe that sanity is threat.
狂気の者が正気を脅威だと信じてしまうことは、本当に強く強調しておかねばなりません。
This is the corollary of the "original sin"; the belief that guilt is real and fully justified.
狂気の者が正気を脅威と信じることは、「原罪」からの当然の帰結であり、有罪であることが現実であり、罪悪感を抱くのはまったく当然のことだという信念です。
It is therefore the psychotherapist's function to teach that guilt, being unreal, cannot be justified.
それゆえ、有罪であることは現実ではないがゆえに、罪悪感を抱くのは当然のことではないと教えることが、心理セラピストの役目となります。
But neither is it safe.
しかし、罪悪感は単に根拠に欠けるだけでなく、安全なものでもありません。
And thus it must remain unwanted as well as unreal.
したがって、罪悪感は、ありえないだけでなく、望ましくもないと肝に銘じるべきです。
11. Salvation's single doctrine is the goal of all therapy.
救済が教える罪悪感の放棄という唯一の原理こそ、すべての治療が目指す目標です。
Relieve the mind of the insane burden of guilt it carries so wearily, and healing is accomplished.
へとへとになるまで背負いこんでいる罪悪感という狂気の重荷を降ろして、心を楽にしてください。そうすれば、癒しが成就します。
The body is not cured.
身体は癒されるのではありません。
It is merely recognized as what it is.
身体はありのままに認識されるだけです。
Seen rightly, its purpose can be understood.
正しく見られることで、身体の目的は理解可能なものとなります。
What is the need for sickness then?
そうなったら、病気でいるどんな必要があるでしょうか。
Given this single shift, all else will follow.
このたったひとつの変化が起これば、それに引き続いてほかのすべての変化が生じるでしょう。
There is no need for complicated change.
込み入って複雑な変化など、必要ありません。
There is no need for long analyses and wearying discussion and pursuits.
長ったらしい分析や退屈な議論や研究を行う必要はありません。
The truth is simple, being one for all.
一なるものがすべてを表しているので、真理とは単純なものだからです。
