レッスン305「キリストが私たちに授けてくれる平安が存在する」

「幼ごころの君って、いったいどういう方なんだろう?」
「どういう意味ですかな?」
「アウリンは、光の子も闇の子も区別なく、ファンタージエンの生きものすべてに力がある。おまえにもわたしにもだ。それでいて、幼ごころの君ご自身はけっして権力をふるわれない。まるで存在しておられないようだ。それなのに、すべてのものの内におられる。幼ごころの君はわれわれと同じなのだろうか?」
「そうじゃない。」フッフールがいった。「幼ごころの君はわれわれとはちがう方ですよ。ファンタージエンの生きものではない。われわれはみんな、幼ごころの君がおいでになるから生きているんですがね。だが、幼ごころの君ご自身は別なんです。」
「それじゃーー 」アトレーユはちょっとためらってから、たずねた。「それじゃあ、人間と同じような方なんだろうか?」
「いや、そうじゃない。」フッフールはいった。「人間のような存在ではないですよ。」
「それならつまり、」アトレーユはくりかえしたずねた。「つまり、どういう方なのだ?」
長い沈黙ののち、ようやくフッフールは答えた。
「それを知っているものは、ファンタージエンには一人もいない。知ることはできんのですな。それはわれわれの世界の最も深い神秘ですよ。一度、ある賢者がいうのを聞いたことがあるんですが、こういっていましたな。『その神秘がすっかりわかるものがいるとすれば、そのものは、わかったことで己が存在を消し去るわけだ』とね。どういう意味か、わたしにはわからんです。それ以上は説明できませんな。」
「それで今は、その神秘がわからないままに、幼ごころの君の存在もわれわれの存在も消えてしまうのだな。」アトレーユがいった。

ミヒャエル・エンデ(「はてしない物語」222ページ)

レッスン305です。
「キリストが私たちに授けてくれる平安が存在する」が今日のテーマです。
まず、キリストの再臨とは何かをご覧ください。

キリストと女王幼ごころの君
私たちは、知覚を用いて比較し、価値判断して裁くことによって、自他分離の錯覚を維持し、恐怖と非難、攻撃の応酬を生み出します。
キリストのヴィジョンだけを用いるなら、すべては等しい価値を持つものと見えます。
つまり、人体内のさまざまな細胞や臓器がそれぞれ異なる姿で異なる機能を果たしていても、等しく重要な存在で優劣などつけられないと言えるように、キリストのヴィジョンには比較や評価は入り込まないからです。
はてしない物語の女王幼ごころの君がファンタージエン国のすべての生き物を、善なるものも悪なるものも、美しいものも醜いものも、おどけものもまじめなものも、愚かなものも賢いものも、すべてみな分け隔てなく眺める目線と同じです。
特定の立ち位置、観点がなければ価値序列はありえない
エゴの観点からすれば、分離が基盤となりますので、美醜や優劣等の価値基準をもとに序列を設けるのは当然で、よりよい機能を発揮するものには価値があり尊重すべきだけれど、役に立たないものや害をもたらすものは無価値であり、軽視したり排除したりするのは当然という発想になります。
「働かざる者、食うべからず」です。
この発想になりうるには、特定の観点、立ち位置に立つことが必要となります。
優れているとか害悪という観念は、誰かの立場から見ないと出てきようがありません。
人間から害悪と判定された当の害虫からすれば、人間こそ害悪の権化となります。
我が身可愛さの根源は大いなる愛
誰しも自分や自分の大切な仲間は可愛いものです。
この自分と自分と同一視するものに肩入れする心理、偏愛の情は、「私」という現象の生じるすべての存在を中心として成り立ちます。
本当に愛する存在、自分自身や大切な家族や友人は、自分に何か益をもたらしてくれるからという機能的な価値ゆえに尊重するわけではありません。ただ存在してくれていることそのものが自分にとっての喜びとなることは誰でもわかります。
敵対する陣営から悪魔や鬼のように思われている集団の「極悪人」たちも、反対陣営の人たちが自分や家族を愛するように、彼ら自身や家族を愛しています。
大本の愛である神には女王幼ごころの君と同じように、万物を分け隔てなく等しく愛することしかできない
そして、すべての存在の「私」現象は、ひとつの同じ電気が端末の回路を通ることで機械の作用が生じるのと同じように、神という愛のエネルギーが個別のアバターというフィルターを通ることで生じているだけなのだから、「私」の大本である神としては、女王幼ごころの君と同じように、万物を分け隔てなく等しく愛することしかできないわけです。
エゴの目で見るかぎりはバラバラで葛藤しか見えなかった世界が、キリストのヴィジョンでは癒されて愛に満たされて平安であることしか見えなくなります。
女王幼ごころの君とファンタージエン国の生き物との関係性は、私たち幻想世界のアバターたる人の子と聖霊と神の子の関係性を考える参考になると思います。
レッスン345「私は今日、奇跡だけを与えることにする。というのも、私はその奇跡を自分の許へと戻してもらうつもりだからだ」のエッセイの渦巻きが参考になると思います。

Lesson 305
There is a peace that Christ bestows on us.
キリストが私たちに授けてくれる平安が存在する。
1. Who uses but Christ's vision finds a peace so deep and quiet, undisturbable and wholly changeless, that the world contains no counterpart.
キリストのヴィジョンだけを用いる者は、この世界の中にはそれに相当するものが何もない、本当に深く静かで何ものにも妨げられることのない完全に変わることのない平安を見出す。
Comparisons are still before this peace.
この平安を前にすると、比較しようという思いは静まる。
And all the world departs in silence as this peace envelops it, and gently carries it to truth, no more to be the home of fear.
そして、この平安が全世界を包みこんで穏やかに世界を真理の下に運ぶとき、全世界は静かに去ってゆき、もはや恐怖の巣窟ではなくなる。
For love has come, and healed the world by giving it Christ's peace.
というのも、愛がやってきて、キリストの平安を与えることによって世界を癒したからだ。
2. Father, the peace of Christ is given us, because it is Your Will that we be saved.
父よ、キリストの平安は私たちに授けられています。なぜなら、私たちが救われることこそ、あなたの大いなる意志だからです。
Help us today but to accept Your gift, and judge it not.
今日、私たちがただあなたの贈り物を受け入れ、それを裁かずにいられるように助けてください。
For it has come to us to save us from our judgment on ourselves.
というのも、あなたの贈り物であるキリストの平安は、私たちが自分自身に対して下す裁きから私たちを救うために、私たちの許へと訪れているからです。

それでは、ブリトニーさんのレッスンです。

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