レッスン312「私はあらゆる物事を自分がそう見たいように見ている」


あなたは自分の人生に起こる事柄を、自分の核となる信念や、その事件に引き起こされた感情の状態に基づいて解釈します。たとえば期待はずれの事件が起きれば、それは自分に欠けたところがある感じや罪悪感に直結していきます。

期待が叶えられないとき、あなたは単に軌道修正を受け取っているだけです。状況の真実を見ていないのだよ、と言われているだけです。自分の知覚を広げなさいと言われているだけです。

修正は攻撃ではありません。処罰でもありません。

思い通りにならない時に、自分が攻撃されている、罰せられていると感じるのは、まったく罪悪感のなせるわざです。罪悪感がなければ、修正を感謝して受け取り、理解が広がって、新たな知識がそこに加わるだけです。

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イエス・キリスト(Paul Ferrini ポール・フェリーニ著「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」より)

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I know for certain that God does not make mistakes, but he does make miracles. I am one. You are, too.
私にはよくわかっている。神は奇跡を起こすのであって、間違いを犯すのではないと。私はその奇跡のひとつなんだ。あなたもそうだ。



Nick Vujicic
ニック・ブイヂ




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レッスン312です。

「私はあらゆる物事を自分がそう見たいように見ている」が今日のレッスンです。




まず、最後の審判とは何かをご覧ください。


エゴに従うかぎり、知覚は願望に奉仕し続ける

幻想を見るために作り出されたがゆえに、知覚には価値判断に従って私たちの願望に奉仕する作用しか果たせません。

そのため、私たちは、見ようとするもの、見ることを選択したものを必ず見ることになります。


聖霊に委ねれば、真の世界を見るために活用してもらえる

この知覚の仕組みは、エゴに従うかぎりはエゴに奉仕しますが、聖霊に委ねれば、聖霊が真の世界を見るために活用してくれます。

見ようとするものを必ず見ることになるという知覚の仕組みゆえに、聖霊の目標を自らの目標として掲げる心には、正しい知覚によって真の世界しか見えないはずだからです。


思い通りにいかないときの合言葉

冒頭のイェシュアの言葉は、正解を追い求め、誤りや失敗、挫折を忌避する生き方を刷り込まれている私たちにとって、きわめて重要な福音です。

「期待が叶えられないとき、あなたは単に軌道修正を受け取っているだけです。状況の真実を見ていないのだよ、と言われているだけです。自分の知覚を広げなさいと言われているだけです。」

エゴに濁らされた眼で眺める私たちには、罪悪感に曇らされた世界しか知覚できないために、この真理が見抜けなくなっています。

不遇や災厄は、フィードバックによって私たちの知覚の曇りを知らせてくれる警報であるのだとしたら、思い通りに願望が実現できなかったと不平不満を抱いて自分を憐れむのはお門違いで、むしろ自分の目の曇りを晴らして知覚を正すありがたいチャンスをもらえたのだと感謝するのが本来ふさわしいリアクションだということになります。

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ネガティブな出来事が生じた際に、刺激に対する自動反応(猫パンチ)が生じるのをぐっとこらえて刺激と反応の間のスペースを確保し(T5-4 教えと癒し)、次のような呪文を唱えましょう。


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「思い通りにならない体験よ、ありがとう。あなたの本当の姿を見せてください」

「20年後の自分はきっと過去を振り返って、今のこの出来事について、あの経験をすることができて本当によかったと感謝しているはずだ!未来の自分に今私が学ぶべきことを教えてもらおうじゃないか」

このような、自分なりの合言葉を用意しておくとよいでしょう。

私たちはこの合言葉を毎日頻繁に使わずにはいられないはずですから(笑)、きっと役に立つはずです。




T29-4 夢の中の登場人物たちの役割

レッスン69「私の不平不満が私の中にある世界の光を隠してしまう」

が参考になると思います。



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Lesson 312

I see all things as I would have them be.
私はあらゆる物事を自分がそう見たいように見ている。



1. Perception follows judgment.
 知覚は価値判断に従います。

 Having judged, we therefore see what we would look upon.
 すでに価値判断して裁いているがゆえに、私たちはその裁きに従って、自分の見たいと思ったものを見るのです。

 For sight can merely serve to offer us what we would have.
 というのも、視覚には単に自分が得ようとするものを私たちに与える機能しか果たせないからです。

 It is impossible to overlook what we would see, and fail to see what we have chosen to behold.
 自分が見ようとするものを無視するのは不可能だし、自分が見ることを選択したものを見損ねるのも不可能です。

 How surely, therefore, must the real world come to greet the holy sight of anyone who takes the Holy Spirit's purpose as his goal for seeing.
 そうであるなら、見るに際しての自らの目標として聖霊の目的を受け入れる者なら誰でも、その神聖な視覚に真の世界が見えるようになるのは、なんと確実なことでしょう。

 And he cannot fail to look upon what Christ would have him see, and share Christ's Love for what he looks upon.
 そして、彼には、キリストが彼に見せようとするものを見損ねることはできないし、彼は自分の目にするものに対するキリストの大いなる愛を分かち合うことになります。



2. I have no purpose for today except to look upon a liberated world, set free from all the judgments I have made.
 今日、私には、私が下したすべての価値判断から解放された世界を見ること以外に何の目的もありません。

 Father, this is Your Will for me today, and therefore it must be my goal as well.
 父よ、これこそあなたが私のために意図することであり、したがって、それは私の目標であるに違いありません。


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それでは、ブリトニーさんのレッスンです。








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