レッスン319「私は、世界の救済のために来た」
自分自身にたっぷりの同情を持ってください。小さな一歩から進みます。自分自身の思考と感情を癒すことから始めます。あなたが自分の批判的な考えや分離の感情を癒すたびに、宇宙の中のすべての心とハートがそれを感じます。あなたのヒーリングはあなただけではなく、全存在に及ぶのです。
あなたが平和になれば、世界の平和はすでに内在するものとなります。あなたに他人に対する責任があるとしたら、このことだけです。つまりあなたが自分のハートに平和をもたらすことです。
そんなアドバイスは利己的で無責任だと考える人がいるかもしれません。そういう人は、幸福を見出すためには世界を救わねわならぬと信じています。その受け止め方は間違っています。自分がまず幸福を見出さないかぎり、世界は救われません。
理解し難いかもしれませんが、これが真実です。今あなたが幸福でないなら、あなたは決して幸福を見出せません。ですから、もし今自分が幸福でないとしたら、未来に幸福を探そうとするのをやめ、自分の注意を現在の瞬間に向けてください。そこにこそ、あなたの幸福があるのですから。

イエス・キリスト(ポール・フェリーニ著「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」より)
11 Dear friends, since God so loved us, we also ought to love one another.
親愛なる友よ、神が本当に深く私たちを愛してくれているのだから、私たちもまたお互いを愛すべきである。
12 No one has ever seen God; but if we love one another, God lives in us and his love is made complete in us.
誰も神を見たことはない。しかし、もし私たちがお互いに愛し合うなら、神は私たちの内に生き、そうして、神の愛は私たちの中で完璧なものとされる。
13 This is how we know that we live in him and he in us: He has given us of his Spirit.
これが私たちが神の中に生き、神が私たちの中に生きる方法である。それは神は私たちに神の大いなる霊を授けてくれているからである。
14 And we have seen and testify that the Father has sent his Son to be the Savior of the world.
だから、私たちは、大いなる父がそのひとり子を偉大なる救世主となるべく遣わしたことを目にしてそれを証言するのだ。
15 If anyone acknowledges that Jesus is the Son of God, God lives in them and they in God.
もし誰であれ、イエスが神の子であると認めるなら、神はその者の内に生き、その者は神の中に生きるのだ。
16 And so we know and rely on the love God has for us. God is love. Whoever lives in love lives in God, and God in them.
それゆえに、私たちは、神が私たちに抱く愛を知り頼みとするのだ。神は愛である。誰であれ、愛に生きる者は、神の中に生き、神が彼らの内に生きるのだ。
17 This is how love is made complete among us so that we will have confidence on the day of judgment: In this world we are like Jesus.
これが、私たちが確信をもって裁きの日に臨めるよう、私たちの中で愛を全きものにする所以である。この世にあっては、私たちはイエスと同じ者なのだ。
18 There is no fear in love. But perfect love drives out fear, because fear has to do with punishment. The one who fears is not made perfect in love.
愛に恐れはない。しかし、完璧な愛は恐れを追い払う。なぜなら、恐れは処罰に関連するからだ。恐れる者は愛を全きものにできていないのだ。

1John 4;13−16
ヨハネの第一の手紙第4章

レッスン319です。
「私は、世界の救済のために来た」が今日のレッスンです。
まず、最後の審判とは何かをご覧ください。
聖書をはじめとする世界の書物
冒頭のヨハネの手紙をはじめとして、このサイトでは新約に限らず聖書からの引用句を少なからず紹介しています。
コースでイェシュアの語るメッセージに通じる真理を語る聖句が聖書の中にあることを感じられる方も少なくないと思います。
数千年を経てなお、真理のかけらどころか真理の言葉が数多く残されている奇跡に驚かれるのではないでしょうか。
聖書にはすばらしい叡智が詰まっているけれど、その真の意味を理解することは決して容易ではありません。
また、このサイトでたくさん引用している「はてしない物語」も物語としての素晴らしさを誰もが味わい自分の中で眠りかけていた子ども心を呼び起こして大切なことに気づくかすかな気配を察知するところまでは行きますが、良質な読書体験のひとつで終わってしまうことがほとんどでしょう。
聖書も「はてしない物語」も、すばらしい何かを宿しているということは誰もが感じとります。
けれど、その秘められた宝を真に理解するのは決して容易ではありませんが、コースの学びはこれを可能にしてくれます。
そして、この仕組みは聖書等の聖なる書物に限らず、世界の中にある万物にあてはまるということができます。
私たちはコースを学ぶことで、世界を師としてすべては愛であるという真理を学ぶ機会に恵まれているわけです。
主体性をもって自分の内にいる聖霊を権威とするなら、外の誰かの評価や権威によるお墨付きがなくても、オープンマインドで心惹かれる感覚を頼りに、すべてから学ぶことができます。
もしコースを学ぶことで正しさにこだわって制限された思考を抱き、排除思考になって縮こまって世界が居心地が悪い場所になっているなら、立ち止まって、学び方について一度じっくり考えてみるタイミングだと思ってよいでしょう。
エゴとは制限の思考
「Only the ego can be limited, and therefore it must seek for aims which are curtailed and limiting.
制限されうるのはエゴだけなので、エゴは切り詰められて制限された目的を追い求めざるをえない。
The ego thinks that what one gains, totality must lose.
エゴは、ある者が得るものを全体は必ず失うことになると考える。」

すべてを持ちすべてである一なる神の子
所有と実在は等しく、神の子と神の王国は同義です(T7-3 神の王国の本当の姿とは)。
したがって、私たちの本質である神の子は神の唯一の創造物であり、万物を所有すると同時に万物そのものでもある存在です。
つまり、本当の私たちは、すべてである神の子だということです。
すべてということは、外にそれ以外の別の何かはないし、内にも異質な何かはないということです。
つまり、本当の私たちはひとつだということです。
心臓などの臓器は随意に制御できなくても自分の一部なのと同じくらい兄弟は自分
それなのに、この一なる神の子が、自分の外にある世界を妄想し、その世界の一部を占める無数の分離した人間の身体だけが自分だという信念であるエゴと一体化することで、制限された存在たちが制限された目的を奪い合うように追求するのが当たり前だと信じるようになり、一なるものではなく、すべてでもなく、すべてを持たない分離した存在が自分だと信じるようになります。
身体でも、脳障害や脊髄損傷等による神経障害によって、自分の身体の一部なのに知覚したり動かしたりできなくなる麻痺症状が起こることがあり、単純に随意に動かせなくなる麻痺にとどまらず、意に反して勝手な動きを始めることもあります。
たとえば、ハンチントン病(舞踏病)という疾患があります。
脳の中にある線条体と呼ばれる大脳基底核のある部位で神経細胞が失われていく進行性の神経変性疾患で、指先が勝手に動いたり、全身が不随意に動く舞踏運動が症状として現れます。
本当の私たちである神の子がすべてを持ちすべてでもある存在なのだとしたら、神の子はハンチントン病のような状態に陥っていて、本来の自分の一部だけが自分で、残りの自分は他者で敵ですらあるとみなして独自に活動している私たちは、神の子の陥った狂気が生み出した不随意運動のようなものだということもできます。
夜見る夢の登場人物はコントロールできないし心を知ることもできないけれど、自分が生み出している
夜見る夢では、夢の主人公については行動を事ロールできるし、自分であるという自覚を持ちますが、夢の世界の環境や他者である登場人物たちは、自分のコントロールが効かず、何を考えているかもわからない状態にあります。
けれど、コントロールできず自覚もないからといって、登場人物たちは、眠っている自分以外のほかの何者かが制御して動いているわけではなく、自覚のある夢の主人公と同じように、眠っている自分が生み出し動かしている自分の分身です。
このように、身体の臓器と身体の持ち主である魂の関係性、夢の登場人物と夢見るものの関係性のように、自覚やコントロールが及ぶかどうかがその対象が自分であるかどうかを左右することはないという仕組みは、この世界と神の子の関係性にもあてはまるということができます。

Lesson 319
I came for the salvation of the world.
私は、世界の救済のために来た。
1. Here is a thought from which all arrogance has been removed, and only truth remains.
ここに、あらゆる傲慢さが取り除かれたひとつの想念があり、そこには、ただ真理だけが残っている
For arrogance opposes truth.
というのも、傲慢さは真理に抵抗するものだからだ。
But when there is no arrogance the truth will come immediately, and fill up the space the ego left unoccupied by lies.
しかし、ひとつも傲慢さがなくなったとき、真理がすぐさまやってきて、エゴが偽りによって占拠するのをやめた場所を満たすだろう。
Only the ego can be limited, and therefore it must seek for aims which are curtailed and limiting.
制限されうるのはエゴだけなので、エゴは切り詰められて制限された目的を追い求めざるをえない。
The ego thinks that what one gains, totality must lose.
エゴは、ある者が得るものを全体は必ず失うことになると考える。
And yet it is the Will of God I learn that what one gains is given unto all.
それでも、ある者が得るものは全体に与えられると私が学ぶことこそが神の大いなる意志なのだ。
2. Father, Your Will is total.
父よ、あなたの大いなる意志は完全です。
And the goal which stems from it shares its totality.
そして、あなたの完全な意志から生じる目標はあなたの意志の完全性を分かち合っています。
What aim but the salvation of the world could You have given me?
世界の救済以外のどんな目的を、あなたが私に授けることができたというのでしょうか。
And what but this could be the Will my Self has shared with You?
そして、私の真の自己があなたと分かち合う大いなる意志が、世界の救済以外の何でありうるでしょうか。

それでは、ブリトニーさんのレッスンです。

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