M10 価値判断の重圧から解放されるには?

2013年06月23日
マニュアル5~10 0

If you judge people, you have no time to love them.
あなたが誰かを裁くなら、あなたにはその人を愛するゆとりはないでしょう。



Mother Teresa
マザー・テレサ



The ability to observe without evaluating is the highest form of intelligence.
評価せずに観察する能力は、知性の最高位の形態である。



Jiddu. Krishnamurti
ジッドゥ・クリシュナムルティ




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今回は、マニュアルから第10節の価値判断の放棄をご紹介します。

「最後の審判」って恐ろしいものなの?(テキスト 第三章 VI. Judgement and the Authority Problem 六 価値判断と権威問題)と正義とは何かレッスン151「すべての物事は、神に代わって語る声のこだまだ」が価値判断に関する記事ですので、あわせて読んでいただければと思います。


個人には価値判断する力がありそれを磨くべきというのが世界の常識

私たちは、人生の一大事においてはもちろんのこと、日常生活を送るうえでの些細なことについても、物事の価値を評価して判断しなければ、生きていくことができないと考えています。

このように考えることは、この世界での常識です。

「判断力」は成熟した個人であるための必須の属性と考えられていて、だれもそのことに疑問を持とうともしません。

この節では、私たちが善悪や正邪の価値判断を行うということがいかに不可能なことか説得的に説明されます。




私たちは価値判断「すべきでない」のではなく、価値判断「することができない」

人間万事塞翁が馬の故事の通り、ある場面ではその人にとって不幸にしか思えないような出来事が、実は、その後の幸運を招く布石になっていたり、幸運に見えた出来事が、転落の引き金であったりということは、誰でも自分の人生の中で味わっているはずです。

人の人生での出来事を評価しようと思っても、誰の目線で、どのようなタイムスパンで、どのような判断基準で判断するかによって、さまざまに判断が分かれます。

真の意味で「正しい」価値判断をする素材も能力も、時間と空間に束縛された存在であるエゴとしての私たちが持ち合わせていないことは明らかです。

そして、この節は、なにより重要なことは、自分が価値判断「すべきでない」ということではなくて、自分には価値判断「することができない」のだと気づくことだと言います。

不可能な価値判断をしている「つもり」の私たちは狂気に陥って妄想しているということです。


エゴではなく聖霊を選択して価値判断を委ねる

この錯覚から脱するには、価値判断を放棄して、自分の中にいる聖霊に完全に完全に委ねてしまえばよいのだと言います。これはエゴではなく聖霊を選択するという決定です。

価値判断を手放さずに依然としてエゴに価値判断をさせているかぎり、これまでどおり、エゴの歪んだ知覚によって、孤独や喪失感、絶望や死の恐怖といった感情が生み出され、自分の周りは醜悪な物事で埋め尽くされてしまいます。

聖霊の知覚には一切の歪みがなく、聖霊は過去、現在、そして未来のすべての事実を知り、判断がすべての人々とすべての物事にどのように及ぶのか、そして、影響と結果のすべてを知る完全に公平な存在です。

だから、聖霊に価値判断を任せれば、絶対に間違うということがないということです(もちろん、エゴの観点からみれば、聖霊がした判断がその場面だけで切り取った姿としては、誤りにしか見えないことがあるであろうことは塞翁が馬のお話の通りです)。


心配事に思い悩むことからの解放という副次効果

そして、私たちは、聖霊に価値判断を委ねる選択をすることによって、価値判断という押し潰されてしまいそうな重荷を降ろし身軽になるだけでなく、心配事に思い悩まされることからも解放される恩恵を被ることができるということです。

なんだかほっとして、気が楽にならないでしょうか?


この世界でありうる唯一の価値判断とは?

さて、この節では、唯一の価値判断とは「神の子は潔白であり、罪は存在しない」ということだと述べられます。

これ以外の通常の意味での価値判断は不可能であり、一切放棄して聖霊に委ねるということです。

価値判断を放棄するということは、この世界での出来事にも、ほかの誰かについても、一切の価値を判断しないということです。

つまり、価値の高い物や値打ちのない物があったりとか、高貴な人間と下賤な人間があって、その高低や貴賎に序列や程度があるという評価をしないということです。

奇跡の難しさに序列がないということや他人は神の子が分裂した姿である点でみんな同等であり、究極的には自分であるという認識に至るには、当然のように価値判断は放棄しなければならないということです。






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Section 10
第10節

How Is Judgment Relinquished?
どのようにして価値判断を放棄するのか。



1. Judgment, like other devices by which the world of illusions is maintained, is totally misunderstood by the world.
 幻想の世界を維持することに奉仕するほかの仕掛けと同じように、この世界では、価値判断は完全に誤解されています。

 It is actually confused with wisdom, and substitutes for truth.
 価値判断は、現に分別のあることだと混同されているし、真理の代わりに用いられたりもします。

 As the world uses the term, an individual is capable of "good" and "bad" judgment, and his education aims at strengthening the former and minimizing the latter.
 この世界での価値判断という言葉の用い方によれば、個人は「良い」ことと「悪い」ことを判断できるし、個人の教育は「善き」を伸ばして「悪しき」を矯めることに主眼が置かれています。

 There is, however, considerable confusion about what these categories mean.
 しかしながら、このような分類が何を意味するかについては、かなり大きな混乱があります。

 What is "good" judgment to one is "bad" judgment to another.
 ある者にとって「良い」価値判断は、ほかの者にとって「悪い」価値判断となります。

 Further, even the same person classifies the same action as showing "good" judgment at one time and "bad" judgment at another time.
 さらに、同じ人物が、同じ行動について、あるときには「良い」価値判断を示すものとして分類しておきながら、別のときには「悪い」価値判断を示すものとして分類することすらあります。

 Nor can any consistent criteria for determining what these categories are be really taught.
 しかも、このような分類の仕方を決めるための首尾一貫したどのような基準も、満足に教わることはできません。

 At any time the student may disagree with what his would-be teacher says about them, and the teacher himself may well be inconsistent in what he believes.
 生徒は自分の教師であるはずの人の言う判断基準にいつでも納得できるとはかぎらないし、その教師自身も自分の信じている基準通りに一貫して判断できないかもしれません。

 "Good" judgment, in these terms, does not mean anything.
 このような観点で見るかぎり、「良い」価値判断は何も意味しません。

 No more does "bad."
 「悪い」価値判断が意味をなさないのも同じです。



2. It is necessary for the teacher of God to realize, not that he should not judge, but that he cannot.
 神の教師にとって重要なことは、自分が価値判断すべきでないということではなくて、自分には価値判断することができないのだと気づくことでです。

 In giving up judgment, he is merely giving up what he did not have.
 価値判断を放棄するとき、教師は単に自分がもとから持っていなかったものについて、それが自分のものではないと見切りをつけているだけです。

 He gives up an illusion; or better, he has an illusion of giving up.
 彼は幻想を手放すのです。より正確に言えば、彼は、手放すという幻想を抱くのです。

 He has actually merely become more honest.
 実のところ、彼は単にそれまでよりも偽りのない状態になっただけです。

 Recognizing that judgment was always impossible for him, he no longer attempts it.
 いつも自分には価値判断することなど不可能だったと認めることによって、彼はもはや価値判断しようとしなくなります。

 This is no sacrifice.
 これはまったく犠牲を払うことではありません。

 On the contrary, he puts himself in a position where judgment "through" him rather than "by" him can occur.
 それどころか、彼は、自分「によって」ではなく、自分「を通して」価値判断がなされうる状態に自分自身を置くことになります。

 And this judgment is neither "good" nor "bad."
 そして、彼「を通して」なされるこの価値判断は「良い」ものでも「悪い」ものでもありません。

 It is the only judgment there is, and it is only one:
 その価値判断は、存在しうるただひとつの価値判断であり、それは次のような唯一の価値判断です。

 "God's Son is guiltless, and sin does not exist."
 それは「神の子は潔白であり、罪は存在しない」ということです。



3. The aim of our curriculum, unlike the goal of the world's learning, is the recognition that judgment in the usual sense is impossible.
 私たちのカリキュラムの目指すところは、この世界の学習の目標とは異なり、通常の意味での価値判断は不可能であると認めることです。

 This is not an opinion but a fact.
 これは、ひとつの見解などではなく事実です。

 In order to judge anything rightly, one would have to be fully aware of an inconceivably wide range of things; past, present and to come.
 何かを正しく価値判断するためには、人は、過去、現在、そして未来に亘る信じがたいほど幅広い範囲の物事を完全に認識していなければならないはずです。

 One would have to recognize in advance all the effects of his judgments on everyone and everything involved in them in any way.
 人は、価値判断するに先立って、自分を含めたすべての人やあらゆる物事についての自らの価値判断が及ぼすあらゆる筋道でのすべての影響を認識している必要があるでしょう。

 And one would have to be certain there is no distortion in his perception, so that his judgment would be wholly fair to everyone on whom it rests now and in the future.
 さらに、その人は、今そして将来に、自分の価値判断が及ぶすべての人たちにとってその裁きが完全に公正なものになるように、自分の知覚に何の歪みもないことを確信していなければなりません。

 Who is in a position to do this?
 はたして誰がこんなことのできる立場にあるというのでしょうか。

 Who except in grandiose fantasies would claim this for himself?
 誇大妄想を抱く者を除いて、いったい誰が自分にこのような資格があると主張したりするでしょうか。



4. Remember how many times you thought you knew all the "facts" you needed for judgment, and how wrong you were!
 あなたがこれまでに、自分が価値判断をするために必要とするすべての「事実」を知っていると考えていたにもかかわらず、それが大きな誤りであったことがどんなに数多くあったか思い返してみるがよいでしょう。

 Is there anyone who has not had this experience?
 このような経験をしたことがない者などいるでしょうか。

 Would you know how many times you merely thought you were right, without ever realizing you were wrong?
 あなたは、素朴に自分は正しいと思い込んで、自分が間違っていることにちっとも気づかずにいたことがどれほどたくさんあったか、わかっているのでしょうか。

 Why would you choose such an arbitrary basis for decision making?
 どうしてあなたは、決断を下すために、こんなにもあてにならない身勝手な基準を選ぼうとするのでしょうか。

 Wisdom is not judgment; it is the relinquishment of judgment.
 分別があるというのは、価値判断することではありません。分別とは、価値判断を放棄することなのです。

 Make then but one more judgment.
 そこで、価値判断を放棄するために、もうひとつだけ価値判断をしてください。

 It is this: There is Someone with you Whose judgment is perfect.
 それは次のような判断です。すなわち、完璧な価値判断を下す大いなる存在があなたと一緒にいると判断することです。

 He does know all the facts; past, present and to come.
 その聖霊は、過去、現在、そして未来のすべての事実を確かに知っています。

 He does know all the effects of His judgment on everyone and everything involved in any way.
 聖霊は、自らの判断があらゆる面ですべての人々とすべての物事に及ぼすすべての影響と結果を確かに知っています。

 And He is wholly fair to everyone, for there is no distortion in His perception.
 そして、聖霊はすべての人に対して、完全に公平です。というのも、聖霊の知覚には一切の歪みがないからです。



5. Therefore lay judgment down, not with regret but with a sigh of gratitude.
 それゆえに、何の心残りもなく安堵の吐息とともに、価値判断を手放しなさい。

 Now are you free of a burden so great that you could merely stagger and fall down beneath it.
 あなたは今、あまりにも大きくてよろめいて、その下に押し潰されてしまいそうなほどの重荷から解放されたのです。

 And it was all illusion.
 そして、そんな重荷はすべて幻だったのです。

 Nothing more.
 幻以上の何ものでもなかったのです。

 Now can the teacher of God rise up unburdened, and walk lightly on.
 いまや、神の教師は重荷を降ろして立ち上がり、足取りも軽やかに歩みを進めることができます。

 Yet it is not only this that is his benefit.
 しかも、神の教師が恩恵を受けるのは、これだけではありません。

 His sense of care is gone, for he has none.
 何かを気にかけて思い悩むという感覚が彼の許から去ったのです。というのも、もはや彼には心配事が一切ないからです。

 He has given it away, along with judgment.
 彼は、価値判断と一緒に、一切の心配を手放したのです。

 He gave himself to Him Whose judgment he has chosen now to trust, instead of his own.
 彼は、自分自身で価値判断する代わりに、いまや聖霊の価値判断を信頼することを選んで、聖霊に自分自身を委ねたのです。

 Now he makes no mistakes.
 もはや、彼は何も間違うことはありません。

 His Guide is sure.
 彼の大いなるガイドは信頼できるからです。

 And where he came to judge, he comes to bless.
 そして、かつては価値判断するために来た場所に、彼は祝福するために来ることになります。

 Where now he laughs, he used to come to weep.
 以前は涙を流すために来た場所で、彼は今、笑うのです。



6. It is not difficult to relinquish judgment.
 価値判断を放棄するのは難しくありません。

 But it is difficult indeed to try to keep it.
 むしろ、価値判断し続けようとすることのほうが実に困難なことなのです。

 The teacher of God lays it down happily the instant he recognizes its cost.
 神の教師は、価値判断のために支払う代償の大きさに気づいた瞬間、喜んで価値判断を手放すことになります。

 All of the ugliness he sees about him is its outcome.
 神の教師が、自分の周りに目にするすべての醜悪な物事は、価値判断の産物なのです。

 All of the pain he looks upon is its result.
 彼が直面する苦痛のすべては、価値判断の結果なのです。

 All of the loneliness and sense of loss; of passing time and growing hopelessness; of sickening despair and fear of death; all these have come of it.
 孤独や喪失感のすべて、去って行く時間や募るばかりの絶望感、吐き気を催すような落胆や死の恐怖、これらの感覚のすべては価値判断から来ていたのです。

 And now he knows that these things need not be.
 そして、いまや、彼はこのようなものは必要ないと知ったのです。

 Not one is true.
 それらの感覚のうちのどれひとつとして真実ではないのです。

 For he has given up their cause, and they, which never were but the effects of his mistaken choice, have fallen from him.
 彼がこれらの感覚の原因である価値判断を放棄したので、彼の誤った選択の結果にすぎなかったそれらの感覚は、彼から剥がれ落ちてしまったのです。

  Teacher of God, this step will bring you peace.
 神の教師よ、この一歩があなたに平安をもたらすでしょう。

 Can it be difficult to want but this?
 これだけを望むのは難しいことでしょうか。


次

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It’s not how much we give, but how much love we put into giving. – Mother Teresa

 松山 健 Matsuyama Ken
この記事を書いた人:  松山 健 Matsuyama Ken

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