レッスン351「私の罪のない兄弟は、私を平安へと導く案内役だ。私の罪深い兄弟は、私を苦痛に導く案内役だ。そして、私は自分が見ることを選んだほうを見ることになる」
Love is happy when it is able to give something.
自分が何かを与えることができるとき、愛は幸せになる。
The ego is happy when it is able to take something.
自分が何かを手に入れるときに、エゴは幸せになる。

OSHO
The thing human most for you. The case that makes no one do the thought that I'm embarrassed.
あなたが最も人として大切にすべきなのは、誰にも、自分を恥じるような思いを抱かせないようにすることだ。

Friedrich Nietzsche
ニーチェ

レッスン351です。
「私の罪のない兄弟は、私を平安へと導く案内役だ。私の罪深い兄弟は、私を苦痛に導く案内役だ。そして、私は自分が見ることを選んだほうを見ることになる」が今日のレッスンです。
まず、私とは何かをご覧ください。

赦しと救いの公式
ひとつ前のレッスンでも、神の子が神を思い出して救済を達成するためには赦しがその鍵となることが示されていました。
そして、ひとつ前のレッスンのエッセイで述べたように、赦しは兄弟抜きにひとりきりではなしえないものでした。
今日のテーマでは、まさに私たちが兄弟を有罪と見るか無罪と見るかで、同じ兄弟が地獄への案内役にもなれば天国への案内役にもなるということが示されています。
そして、私たちがこの世界にいるということは、私たちが自分の兄弟を罪深い他者とみなすことを選択し、そうすることで、自分を神の子ではなく恐れに満ちた世界の中に孤立無援で怯えている罪人だと宣言していることを示しています。
しかし、この知覚を選んだのはほかならぬ私たちなのだから、私たちには、この知覚を放棄できるし、兄弟を罪なき神の子とみなすこともできます。
これは、エゴに従うのをやめて聖霊に判断を委ねることです。
この理屈は、ここまでこられたみなさんならある程度理解できているはずです。
いざ赦しを実践するとなると難しい!
それでも、このテーマは実践の局面となると、俄然、難易度が高まります。
コースは、例外のないことが赦しの重要な要素だと言うので、原理主義的にコースを解釈するなら、自分を攻撃してくる敵に対するうえで、非武装、無防備で臨むべきだと敵に身を捧げるのが正しいということになります。
しかし、たとえば、暴漢が自宅に侵入して家族を蹂躙した挙句、惨殺しようとするのを目撃するような場面で、自分や家族を守るどころか、「この犯人は神の子で私の兄弟なのです。この惨事は実在しません。私は赦します!」などと唱えて傍観して満足しているような狂人をコースが育成しようとしているはずがありません。

T6-3 復讐してやりたいけど我慢しなきゃいけない?でもこのテーマを取り上げ、バガヴァッド・ギーターで、戦場で親族でもある敵将たちへの情から、戦うことへのためらい、ひるみを見せるアルジュナに対して、クリシュナ神がクシャトリヤとして戦い、相手を殺して戦士としての務めを果たすことは罪ではない、むしろ自らの務めを回避することのほうが迷いであり罪となると語るエピソードを紹介しました。
心をアバターにアイデンティティーを抱く束縛から解放することが要点
私たちはみな、幻想世界という舞台上でアバターとして割り振られた役を演じています。
赦しは、舞台上で演じられている劇は作り物であると気づいて、その認識通りに看過することで、投影先の幻想世界とその中の幻想であるアバターに囚われている状態から脱するための手段です。
したがって、投影先である舞台上で上演される劇をどんなに変えても、その劇が現実だと信じているかぎり、それは赦しには役立ちません。
自分を攻撃する敵に進んで虐げられるアドリブを展開しても、劇の筋書きがハチャメチャに混乱するばかりで、当人も自分がしていることの正しさに疑念を募らせ、後悔するばかりで、ますます劇の中で自分のアバターが世界から万力のように固く締めあげられるために、劇が現実であることを疑うことすら困難になります。
他方、敵役を演じている兄弟を表面上敵として遇したまま彼が本質は神の子で自分とひとつのものだと認識することは可能です。
心と世界、脚本家と舞台の関係性は、心が世界を投影するという仕組みで、心・脚本→世界・舞台という一方通行であって、結果である世界を変えることは心を変えることにはならないという理解の下では、無理に舞台上の劇の筋書きを変えようとする必要はなくなります。
このテーマは、究極的に「マクトゥーブ」と唱えて起こることを受け入れることしかできません。

Lesson 351
My sinless brother is my guide to peace.
私の罪のない兄弟は、私を平安へと導く案内役だ。
My sinful brother is my guide to pain.
私の罪深い兄弟は、私を苦痛に導く案内役だ。
And which I choose to see I will behold.
そして、私は自分が見ることを選んだほうを見ることになる。
1. Who is my brother but Your holy Son?
私の兄弟があなたの聖なる子以外の何者だというのでしょう。
And if I see him sinful I proclaim myself a sinner, not a Son of God; alone and friendless in a fearful world.
そして、もし私が兄弟を罪深い者と見るなら、私は自分自身を神の子ではなく、恐れに満ちた世界の中にいる孤立無援の罪人だと宣言することになります。
Yet this perception is a choice I make, and can relinquish.
しかし、私が自分で選択してこのように知覚しているのだから、私にはこの知覚を手放すことができます。
I can also see my brother sinless, as Your holy Son.
それだけでなく、私は自分の兄弟をあなたの聖なる子として、罪なき者と見ることもできます。
And with this choice I see my sinlessness, my everlasting Comforter and Friend beside me, and my way secure and clear.
そして、このように選択することで、私は自分が潔白であり、私の永遠に存続する偉大な慰安者にして大いなる友である聖霊が自分の傍らにおり、自分の歩む道が安全で見晴らしのよいものであることを見ることができます。
Choose, then, for me, my Father, through Your Voice.
ですから、わが父よ、あなたの大いなる声を通して、私のために選択してください。
For He alone gives judgment in Your Name.
というのも、聖霊だけがあなたの名において裁きを下すからです。

それでは、ブリトニーさんのレッスンです。

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