T19-4B 平安への障害2


合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。
世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。
合気道の極意は、己を宇宙の働きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。
合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、『我は即ち宇宙』なのである。
私はそのことを、武を通じて悟った。
いかなる速技で、 敵が襲いかかっても、私は敗れない。
それは 私の技が、敵の技より速いからではない。これは、速い、遅いの問題ではない。
はじめから 勝負がついているのだ。敵が、『宇宙そのもの である私』と争おうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。
すなわち、私と争おうという気持ちを起こした瞬間に、敵は すでに破れているのだ。



植芝盛平



The true soldier fights not because he hates what is in front of him, but because he loves what is behind him.
真の闘士は、自分の前にいる者が憎いがゆえに戦うのではない。そうではなく、自分の背後にいる者たちを愛するがゆえに戦うのだ。

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Gilbert Keith Chesterton
ギルバート・キース・チェスタトン





Morpheus: How did I beat you?
モーフィアス:なんで私に打ち負かされたと思う?

Neo: You… you’re too fast.
ネオ:あなたの動きが速すぎて追いつかない。

Morpheus: Do you believe that my being stronger or faster has anything to do with my muscles in this place? Do you think that’s air you’re breathing now?
モーフィアス:仮に私のほうが君より強くて速いとして、この仮想空間の中で、それが少しでも私の身体能力と関係があると本気で思うのか? 君は自分が今吸っているのは本当の空気だと思っているのか?




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テキスト第十九章から、平安への障害の続きで、第二の障害までをご紹介します。


身体が提供するものゆえに身体は価値を持つという信念

本節では、第二の障害として、身体が提供するものゆえに身体は価値を持つという信念について語られます。

本節では、前回出てきた恐れの使者と愛の使者が引き続き登場します。

恐れの使者と愛の使者は別の存在ではなく、同じ知覚がエゴと聖霊のどちらを主人とするかによって、罪悪感と平安のいずれを目的とするかが変わり、恐れを目的として自分を身体と同一視するか、愛を目的として身体を他者とひとつに結ばれて本当の自分に戻るための道具と見るかが変わります。

自分を身体だとみなすなら、愛で結ばれた状態から切り離される分離を体現するのが身体なのだから、身体は本質的に恐れと苦痛であり、身体の欲する快楽は、苦痛の裏返しで、快楽と苦痛はまったく同一のものということになります。


エゴは苦楽の混同により身体を目的にさせる

この苦痛は快楽だという想念こそ、身体が苦痛のしもべとして苦痛を忠実に追及することになる基盤です。

つまり、苦痛を味わうことに快感を覚えて苦痛を追い求め続けるわけで、苦痛と快楽には狂気の相関関係があるわけです。

この狂気の関連性はエゴの基盤であり、エゴは身体の快楽こそ幸福なのだと私たちに教え込んで、身体の快楽の追求は実は苦痛を求めることなのだと私たちに気づかせないようにします。

身体は目的ではなく道具、メッセージを伝える手段であることは言うまでもありませんが、エゴの教えに従うかぎり、身体は道具ではなく目的となります。

身体という伝達手段は、エゴと聖霊のどちらを主人とするかによって、恐れの使者にも愛の使者にもなり、恐れの使者となると、エゴによって、メッセージの送り手と受け手とは同じだという真実が覆い隠されてしまいます。


自らを相手の罪の生き証人にせず、相手の潔白さの証人となる

自分が届ける憎しみと攻撃のメッセージが自分のところに届くことになると理解さえしていれば、当然、誰もそんなメッセージを送ろうとはしないはずですが、私たちは、エゴによって自分の攻撃と罪のメッセージによって苦しむのは自分以外の他者であると信じ、たとえ自分が苦しむことがあるとしても、他者のほうがもっと苦しむことになるはずだと信じるがゆえに、自爆テロ的にそんなメッセージを送り出すことになります。


いつもの聖霊の3大レッスンのひとつが教えるように、攻撃する他者には自分が傷ついたことを示して罪悪感を与えようとするのではなく、自分が微塵も傷ついていないことを示して、相手に自らの潔白さを理解させるべきです。


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聖霊は私たちは分離しておらずひとつなのだという普遍かつ不変のひとつメッセージを送る道具として身体を使ってくれる

エゴは、これが真実ではないとわかっていながら、私たちに憎しみを全部ぶつけて自分を楽にしてしまえとけしかけ、他者を攻撃することで生まれる苦痛を快感と名付けて、私たちが攻撃をまぬかれた証拠として私たちに差し出すのです。

これに対して、聖霊はエゴと同じように送り手であると同時に受け手でもありますが、エゴのように、この真実を隠そうとはしません。

したがって、聖霊に従うなら、自分が届ける愛のメッセージは、兄弟の中にいる聖霊に届き、自分たちが分離してはおらず、同じひとつのものだという認識となります。


聖霊に従うなら、身体は愛を運び届ける愛の使者となる

そうなると、身体の快楽を追求することは苦痛を追い求め、分離を促進することでしかなく、身体を目的とすることは自らを苦痛に追い込む狂気の沙汰でしかないとわかるので、身体の位置づけは、目的から手段へ、攻撃と憎しみではなく、愛と優しさを兄弟に運び届けるための道具、愛の使者に変わることになります。

前節のT19-4Ai 平安への障害1−2が参考になると思います。




はたらく細胞的に考えるなら、同じ細胞が自分独自の利益を追求してほかの細胞を引きずり降ろして自分と同質化しようと、平等と公平の美名のもとに不平不満にまみれた攻撃と憎しみのメッセージを発信する癌細胞になることもできれば、自分と他人は違っていていいし、違う個性を持ち役目を果たすことはすばらしい、損得抜きにお互いが役目を果たして助け合えることは幸せなことだと気づいて、感謝の念を抱きながら、本来の役割どおり、自分と一体で自分の一部であるほかの細胞に愛と優しさのメッセージを届ける(赤血球なら酸素を運び、白血球なら外敵と戦う)こともできるようなものです。





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テキスト第十九章 

4節 平安への障害

B. The Second Obstacle: The Belief the Body is Valuable for What It Offers
B 第二の障害 ― 身体が提供するもののゆえに身体には価値あると信じること



1. We said that peace must first surmount the obstacle of your desire to get rid of it.
 以前に述べたように、平安が第一に乗り越えなければならないのは、平安を追い払いたいというあなたの願望です。

 Where the attraction of guilt holds sway, peace is not wanted.
 罪悪感の魅力が幅を利かせているようなところでは、平安が望まれることはありません。

 The second obstacle that peace must flow across, and closely related to the first, is the belief that the body is valuable for what it offers.
 平安が流れ渡らなければならない第一の障害と密接に関連する第二の障害は、身体が提供するもののゆえに身体は価値を持つという信念です。

 For here is the attraction of guilt made manifest in the body, and seen in it.
 というのは、この信念によって、罪悪感の魅力が身体に顕現したり、身体の中に見出されたりすることになるからです。

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2. This is the value that you think peace would rob you of.
 あなたは、この身体が持っている価値を、平安が自分から奪い去ってしまうと思っています。

 This is what you believe that it would dispossess, and leave you homeless.
 あなたは、平安が身体の価値をあなたから取りあげて、あなたを宿なしにしようとしていると信じています。

 And it is this for which you would deny a home to peace.
 だから、この理由のために、あなたは平安を宿すことを拒もうとするのです。

 This "sacrifice" you feel to be too great to make, too much to ask of you.
 あなたは、このような「犠牲」は払うには大きすぎるとか、自分に求められるには過大な要求だと感じています。

 Is it a sacrifice, or a release?
 はたしてそれは犠牲を払うことでしょうか、それとも、解放されることでしょうか。

 What has the body really given you that justifies your strange belief that in it lies salvation?
 身体の中にこそ救済があるというあなたの奇妙な信仰が正しいと証明するような、どんなものを身体は実際にあなたに与えてきたというのでしょうか。

 Do you not see that this is the belief in death?
 これが死を信仰することだということが、あなたにはわらないのでしょうか。

 Here is the focus of the perception of Atonement as murder.
 ここにこそ、贖罪のことを破滅として知覚させるための焦点があります。

 Here is the source of the idea that love is fear.
 ここにこそ、愛は恐ろしいものだという想念の源があるのです。



3. The Holy Spirit's messengers are sent far beyond the body, calling the mind to join in holy communion and be at peace.
 聖霊の使者たちは身体をはるかに超えて送り出され、小さな心に、聖なる交わりに加わって安らぐようにと呼びかけています。

 Such is the message that I gave them for you.
 この呼びかけこそ、私があなたのために聖霊の使者たちに与えたメッセージです。

 It is only the messengers of fear that see the body, for they look for what can suffer.
 身体を目にするのは、恐れの使者たちだけです。というのは、恐れの使者たちは苦しむことのできるものを探し出そうとしているからです。

 Is it a sacrifice to be removed from what can suffer?
 苦しむことのできるものから引き離されるのは犠牲を払うことでしょうか。

 The Holy Spirit does not demand you sacrifice the hope of the body's pleasure; it has no hope of pleasure.
 聖霊は、あなたに身体の喜びを得る望みを諦めるように要求しているわけではありません。そもそも身体には快楽を味わう余地がないのです。

 But neither can it bring you fear of pain.
 しかしまた、同じように、身体は、あなたに苦痛に対する恐れをもたらすこともできないのです。

 Pain is the only "sacrifice" the Holy Spirit asks, and this he would remove.
 聖霊が求める唯一の「犠牲」は苦痛だけであり、聖霊は、まさにこの苦痛を取り除こうとしているのです。

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4. Peace is extended from you only to the eternal, and it reaches out from the eternal in you.
 平安は、あなたからただ永遠なるものだけに向かって拡張され、そして、平安は、あなたの内なる永遠なるものから外に向かって広がってゆきます。

 It flows across all else.
 平安は、ほかのすべてを横切って流れ渡ります。

 The second obstacle is no more solid than the first.
 この二番目の障害は一番目の障害と同じく、確固たるものではありません。

 For you want neither to get rid of peace nor limit it.
 というのは、あなたは平安を手放したいとも、制限したいとも望んではいないからです。

 What are these obstacles that you would interpose between peace and its going forth but barriers you place between your will and its accomplishment?
 あなたが平安と平安の拡張の間に差し挟もうとするこれらの障害は、あなたが自分の意志とその成就の間に置く障壁にほかなりません。

 You want communion, not the feast of fear.
 あなたが望んでいるのは、恐れの饗宴ではなく、聖餐です。

 You want salvation, not the pain of guilt.
 あなたは、罪悪感から生じる苦痛ではなく、救済を望んでいるのです。

 And you want your Father, not a little mound of clay, to be your home.
 そして、あなたは自分の出自は、取るに足らない粘土の土塁などではなく、大いなる父であってほしいと願っているのです。

 In your holy relationship is your Father's Son.
 あなたの神聖な関係の中に、あなたの父なる神の大いなる子がいます。

 He has not lost communion with him, nor with himself.
 その子は神とも、自分自身とも、霊的交流を失ってはいません。

 When you agreed to join one another, you acknowledged this is so.
 あなたたちが互いにひとつに結びつくことに同意したとき、あなたはこれがまさにその通りだと認めたのです。

 This has no cost, but it has release from cost.
 あなたたちがひとつに結ばれることには何の代償もかかりません。それどころか、これは代償の支払いから解放されることです。



5. You have paid very dearly for your illusions, and nothing you have paid for brought you peace.
 あなたは自分の幻想のためにきわめて大きな代償を払ってきましたが、あなたが大きな代価を払ってまで得たもので、あなたに平安をもたらしてくれたものは何ひとつありませんでした。

 Are you not glad that Heaven cannot be sacrificed, and sacrifice cannot be asked of you?
 天国を犠牲にすることはできないし、あなたに犠牲が求められることがありえないと聞いて、あなたは嬉しくないでしょうか。

 There is no obstacle that you can place before our union, for in your holy relationship I am there already.
 あなたには、私たちがひとつに結ばれるのを妨げるようなどんな障害物も置くことはできません。というのも、あなたの神聖な関係の中にはすでに私がいるからです。

 We will surmount all obstacles together, for we stand within the gates and not outside.
 私たちは、すべての障害物を一緒に乗り越えるでしょう。というのも、私たちは天国の門の外側にではなく内側に立っているからです。

 How easily the gates are opened from within, to let peace through to bless the tired world!
 疲れ果てた世界を祝福するために平安を通らせるためであれば、天国の扉は内側からなんと容易に開くことでしょうか。

 Can it be difficult for us to walk past barriers together, when you have joined the limitless?
 あなたが無限なるものとひとつに結ばれたというのに、私たちが一緒に障壁を通り抜けるのが難しいはずがありません。

 The end of guilt is in your hands to give.
 罪悪感の終わりは、それを与えるようにと、あなたの手の内にあります。

 Would you stop now to look for guilt in your brother?
 もう自分の兄弟に罪悪感を求めるのはやめにしてはどうでしょうか。

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6. Let me be to you the symbol of the end of guilt, and look upon your brother as you would look upon me.
 私を、あなたにとって罪悪感の終わりを表す象徴にしてください。そして、私を見るつもりで、あなたの兄弟を見てください。

 Forgive me all the sins you think the Son of God committed.
 神の子が犯したとあなたが思っているすべての罪について、私を赦してください。

 And in the light of your forgiveness he will remember who he is, and forget what never was.
 そうすれば、あなたの赦しの光の中で、あなたの兄弟は自分が誰なのか思い出し、一度も存在しなかった罪など忘れてしまうでしょう。

 I ask for your forgiveness, for if you are guilty, so must I be.
 私はあなたの赦しを求めています。それは、もしあなたが有罪であるなら、必ず私も有罪ということになってしまうからです。

 But if I surmounted guilt and overcame the world, you were with me.
 逆に、もし私が罪を克服して、この世界に打ち勝ったとすれば、あなたも私と一緒に罪と世界を克服したはずなのです。

 Would you see in me the symbol of guilt or the end of guilt, remembering that what I signify to you you see within yourself?
 私があなたにとって意味する通りのものをあなたは自分自身の中に見出すことを忘れずにいるなら、あなたは、私を罪の象徴と見ようとするでしょうか。それとも、罪の終わりの象徴と見ようとするでしょうか。



7. From your holy relationship truth proclaims the truth, and love looks on itself.
 あなたの神聖な関係から、真理は真理を明らかに示し、愛は愛そのものを見つめます。

 Salvation flows from deep within the home you offered to my Father and to me.
 あなたが私の大いなる父と私に捧げてくれた住まいの奥深くから救いが湧き出しています。

 And we are there together, in the quiet communion in which the Father and the Son are joined.
 そして、私たちは一緒にそこにおり、その静かな霊的交わりの中において、大いなる父と子はひとつに結ばれます。

 O come ye faithful to the holy union of the Father and the Son in you!
 ああ、敬虔なる者よ、自らの内なる父と子の聖なる結合に加わるがよいでしょう。

 And keep you not apart from what is offered you in gratitude for giving peace its home in Heaven.
 そして、天国において平安にその住まいを与えてくれたことへの感謝に満ちた返礼としてあなたに差し出されているものから、自分を遠ざけたままにしないでください。

 Send forth to all the world the joyous message of the end of guilt, and all the world will answer.
 全世界に向けて、罪は終わったという喜ばしい知らせを送ってください。そうすれば、世界中が答えてくれるでしょう。

 Think of your happiness as everyone offers you witness of the end of sin, and shows you that its power is gone forever.
 誰もがあなたに、罪の終わりの証拠を差し出して、罪の力が永遠に消え去ったことを見せてくれるとしたら、自分がどれほど幸せに感じるか考えてみてください。

 Where can guilt be, when the belief in sin is gone?
 罪に対する信仰がなくなったら、罪悪感はいったいどこに存在できるでしょうか。

 And where is death, when its great advocate is heard no more?
 声高に死を擁護する声がもはや聞こえなくなったとき、いったいどこに死があるというのでしょう。

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8. Forgive me your illusions, and release me from punishment for what I have not done.
 あなたの幻想の数々について私を赦してください。そして、私がしてもいないことに対する処罰から私を解放してください。

 So will you learn the freedom that I taught by teaching freedom to your brother, and so releasing me.
 そうすれば、あなたも、自分の兄弟に自由を教えることで私を解放することになり、それによって、私が教えた自由を学ぶでしょう。

 I am within your holy relationship, yet you would imprison me behind the obstacles you raise to freedom, and bar my way to you.
 私はあなたの神聖な関係の中にいます。それなのに、あなたは、自分が自由に対抗して築いた障害物の背後に私を閉じこめて、私からあなたに通じる道を塞いでしまおうとしています。

 Yet it is not possible to keep away One Who is there already.
 しかし、聖霊を遠ざけておくことは不可能です。聖霊はすでにあなたの内にいるのですから。

 And in him it is possible that our communion, where we are joined already, will be the focus of the new perception that will bring light to all the world, contained in you.
 だから、聖霊の中で、私たちが霊的に交わることが可能となります。というのも、霊的交流である聖餐の中では、私たちの心はすでにひとつに結ばれているからです。新たな知覚は霊的な交流に焦点が合うようになり、この新たな知覚があなたの中に封じこめられていた光を全世界へともたらすでしょう。

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i. The Attraction of Pain
(1)苦痛の魅力



9. Your little part is but to give the Holy Spirit the whole idea of sacrifice.
 あなたのささやかな役割は、ただ犠牲という観念をまるごと聖霊に渡しきることだけです。

 And to accept the peace he gives instead, without the limits that would hold its extension back, and so would limit your awareness of it.
 そして、聖霊が犠牲という想念の代わりに与えてくれる平安を受け入れてください。平安を受け入れる際には、平安の拡張を押しとどめることによって、あなたが平安の拡張を自覚できなくしてしまう制限を課してはなりません。

 For what he gives must be extended if you would have its limitless power, and use it for the Son of God's release.
 というのは、もしあなたが聖霊の与えるものが持つ無限の力を得て、それを神の子の解放のために用いたいのなら、聖霊が与えてくれるものを拡張しなければならないからです。

 It is not this you would be rid of, and having it you cannot limit it.
 あなたが免れようとしているのはこの無限の力ではないし、無限の力を持っている以上、あなたにはそれを制限することはできません。

 If peace is homeless, so are you and so am I.
 もし平安に宿る家がないなら、あなたにも私にも家がないということになってしまいます。

 And he who is our home is homeless with us.
 そして、私たちの家である神も、私たちとともに漂泊することになってしまいます。

 Is this your wish?
 こんなことが、あなたの望みだとでもいうのでしょうか。

 Would you forever be a wanderer in search of peace?
 あなたは、永遠に平安を探し求めるさすらい人になりたいのでしょうか。

 Would you invest your hope of peace and happiness in what must fail?
 あなたは、必ず失敗に終わるものに、自分の平安と幸せの希望を託そうというのでしょうか。

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10. Faith in the eternal is always justified, for the eternal is forever kind, infinite in its patience and wholly loving.
 永遠なるものを信じることはつねに正しいと証明されます。というのも、永遠なるものはいつまでも優しく、無限の辛抱強さを持ち、完全に愛に満ち溢れているからです。

 It will accept you wholly, and give you peace.
 永遠なるものは、あなたを完全に受け入れて、あなたに平安を与えてくれるでしょう。

 Yet it can unite only with what already is at peace in you, immortal as itself.
 もっとも、永遠なるものは、それ自体と同じく不滅の存在であるあなたの中ですでに平安な状態にあるものとしかひとつに結びつくことができません。

 The body can bring you neither peace nor turmoil; neither joy nor pain.
 身体は、あなたに平安も混乱ももたらすことはできず、喜びも苦痛ももたらすことはできません。

 It is a means, and not an end.
 身体は手段であって目的ではありません。

 It has no purpose of itself, but only what is given to it.
 身体がそれ自体で目的を持つことはなく、ただ身体に与えられた目的を持つだけです。

 The body will seem to be whatever is the means for reaching the goal that you assign to it.
 身体は、あなたが身体に割り当てる目標に到達するためであれば、どんな手段にでもなりうるように思えます。

 Peace and guilt are both conditions of the mind, to be attained.
 心の安らぎも罪の意識もともに、獲得されるべき心の状態です。

 And these conditions are the home of the emotion that calls them forth, and therefore is compatible with them.
 そして、これらの心境は、平安と罪悪感を呼び起こす感情、したがって、平安と罪悪感のそれぞれと親和性のある感情を生み出す基盤となります。



11. But think you which it is that is compatible with you.
 しかし、平安と罪悪感のどちらを呼び起こす感情が自分にふさわしいか、考えてみてください。

 Here is your choice, and it is free.
 これはあなたが選択することであり、あなたは自由に選べます。

 But all that lies in it will come with it, and what you think you are can never be apart from it.
 ただし、あなたが選択したほうに内在するもののすべてが選択したものと一緒に付いてくることになります。そして、この選択から、あなたが自分を何者だと考えるのかということを切り離すことは決してできません。

 The body is the great seeming betrayer of faith.
 身体は、信頼をひどく裏切るものに見えます。

 In it lies disillusionment and the seeds of faithlessness, but only if you ask of it what it cannot give.
 身体の中には、幻滅と不信の種を見出せますが、実際に幻滅や不信が生じるのは、身体には与えることのできないものをあなたが身体に要求したときだけです。

 Can your mistake be reasonable grounds for depression and disillusionment, and for retaliative attack on what you think has failed you?
 あなたが自分の期待を裏切ったと思うものに失望したり幻滅したり報復攻撃を加えたりするうえで、あなたの勘違いがその合理的な根拠になりうるでしょうか。

 Use not your error as the justification for your faithlessness.
 自分が信頼しないでいることを正当化するために自分の誤解を用いてはなりません。

 You have not sinned, but you have been mistaken in what is faithful.
 あなたは罪を犯してなどいません。しかし、あなたは何が信頼に値するのかについては、ずっと間違ってきました。

 And the correction of your mistake will give you grounds for faith.
 だから、あなたの間違いを修正すれば、あなたには信頼する基盤が与えられることになります。

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12. It is impossible to seek for pleasure through the body and not find pain.
 身体を通して快楽を求めておきながら、苦痛を見出さずにいるのは不可能です。

 It is essential that this relationship be understood, for it is one the ego sees as proof of sin.
 この肉体の快楽と苦痛の間の相関関係を理解することがきわめて重要です。なぜなら、エゴはこの関連性を罪の証拠だとみなすからです。

 It is not really punitive at all.
 本当のところ、身体を通して快楽を求めて苦痛を味わうのはまったく懲罰的なことではありません。

 It is but the inevitable result of equating yourself with the body, which is the invitation to pain.
 これは単に自分自身を身体と同一視することの当然の結果でしかありません。自分を身体とみなすことは苦痛を招くことだからです。

 For it invites fear to enter and become your purpose.
 というのも、自分を身体と同一視することは、自分の目的になるように恐れを招き入れることだからです。

 The attraction of guilt must enter with it, and whatever fear directs the body to do is therefore painful.
 そうなれば、恐れと一緒に罪悪感の魅力も入りこんでくるに違いありません。それゆえ、恐れが身体にするように仕向けることは、それが何であれ苦痛を伴うのです。

 It will share the pain of all illusions, and the illusion of pleasure will be the same as pain.
 身体はすべての幻想に伴う苦痛を分担することになるので、快楽という錯覚はいずれ苦痛と同じものとなってしまいます。



13. Is not this inevitable?
 こうなるのは当然の成り行きではないでしょうか。

 Under fear's orders the body will pursue guilt, serving its master whose attraction to guilt maintains the whole illusion of its existence.
 身体は恐れに命令されて、罪悪感を追い求めます。というのは、身体は恐れという主人に仕えており、恐れが持つ罪悪感に訴えかける力で身体が存在するという錯覚全体が維持されているいるからです。

 This, then, is the attraction of pain.
 したがって、この罪悪感の魅力こそが苦痛の魅力なのです。

 Ruled by this perception the body becomes the servant of pain, seeking it dutifully and obeying the idea that pain is pleasure.
 この知覚に支配されて、身体は苦痛のしもべとなり、苦痛を忠実に追い求め、苦痛こそ快楽だという想念を遵奉します。

 It is this idea that underlies all of the ego's heavy investment in the body.
 エゴの身体に対する多大な投資のすべての基盤になっているのは、この苦痛は快楽だという想念なのです。

 And it is this insane relationship that it keeps hidden, and yet feeds upon.
 そして、この狂気の関連性こそ、エゴが隠し続けながらもエゴを支えているものなのです。

 To you it teaches that the body's pleasure is happiness.
 エゴはあなたに対して、身体の快楽こそが幸福なのだと教えます。

 Yet to itself it whispers, "It is death. "
 しかし、エゴは自分にはこっそりと、「これは死だ」と囁いているのです。

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14. Why should the body be anything to you?
 どうしてあなたにとって身体が重要なものでありうるでしょうか。

 Certainly what it is made of is not precious.
 言うまでもなく、身体を構成する成分は大したものではありません。

 And just as certainly it has no feeling.
 そして、それと同じように、身体が何の感情も持たないことは間違いありません。

 It transmits to you the feelings that you want.
 身体は、あなたが望む感情をあなたに伝えはします。

 Like any communication medium the body receives and sends the messages that it is given.
 どのような伝達手段もそうであるように、身体は自分に与えられたメッセージを受け取ったり送り出したりします。

 It has no feeling for them.
 身体は、それらのメッセージに対して何の感情も持ちません。

 All of the feeling with which they are invested is given by the sender and the receiver.
 メッセージにこめられている感情はすべて、送る者と受け取る者によって与えられるものです。

 The ego and the Holy Spirit both recognize this, and both also recognize that here the sender and receiver are the same.
 エゴと聖霊は、ともにこのことがわかっています。そして、両者はともに、この場合、送る者と受け取る者が同じだということもわかっています。

 The Holy Spirit tells you this with joy.
 聖霊は喜んで、このことをあなたに教えてくれます。

 The ego hides it, for it would keep you unaware of it.
 しかし、エゴはこのことを隠します。というのは、エゴは、あなたが送り手と受け手が同じだと気づかないままにさせておきたいからです。

 Who would send messages of hatred and attack if he but understood he sends them to himself?
 もしその人が、自分が送る憎しみと攻撃のメッセージが自分の許に届けられることになると理解してさえいたら、いったい誰が憎しみと攻撃のメッセージを他者に送ろうとなどするでしょうか。

 Who would accuse, make guilty and condemn himself?
 いったい誰が、自分自身を有罪にして咎めるために、他者を糾弾しようとなどするでしょうか。



15. The ego's messages are always sent away from you, in the belief that for your message of attack and guilt will someone other than yourself suffer.
 エゴのメッセージは必ず、あなたの攻撃と罪のメッセージによってあなた自身以外の誰かが苦しむことになるはずだと信じて、あなたから送り出されます。

 And even if you suffer, yet someone else will suffer more.
 そして、あなたは、たとえもし自分が苦しむことがあるとしても、ほかの誰かはもっと苦しむことになるはずだと信じます。

 The great deceiver recognizes that this is not so, but as the "enemy" of peace, it urges you to send out all your messages of hate and free yourself.
 巧妙な詐欺師であるエゴは、実はこれがその通りではないとわかっていながらも、平安の「敵対者」であるがゆえに、あなたに自分の憎しみのメッセージを全部送り出して自分を楽にするようにとけしかけます。

 And to convince you this is possible, it bids the body search for pain in attack upon another, calling it pleasure and offering it to you as freedom from attack.
 そして、これが可能だとあなたに納得させるために、エゴは身体に、他者を攻撃することで生じる苦痛を探すように命令し、その苦痛を快感と名づけて、それを攻撃から免れた証拠としてあなたに差し出します。

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16. Hear not its madness, and believe not the impossible is true.
 エゴの狂気に耳を貸して、不可能なことを真実だと信じてはなりません。

 Forget not that the ego has dedicated the body to the goal of sin, and places in it all its faith that this can be accomplished.
 エゴは、罪という目標のために身体を捧げており、こんな目標を達成できるものと身体に全幅の信頼を寄せていることを忘れないようにしなさい。

 Its sad disciples chant the body's praise continually, in solemn celebration of the ego's rule.
 エゴの哀れな信奉者たちは、エゴの支配を厳粛に祝うために、絶えることなく身体を賛美して詠唱します。

 Not one but must believe that yielding to the attraction of guilt is the escape from pain.
 誰もがみな、罪悪感の魅力に屈服することが苦痛から逃れる途だと信じて疑いません。

 Not one but must regard the body as himself, without which he would die, and yet within which is his death equally inevitable.
 誰もがみな、身体こそが自分だとみなして、身体なくしては自分は死んでしまうし、かといって、その身体の中にあったとしても、自分の死は同じように避けられないと思っているはずです。



17. It is not given to the ego's disciples to realize that they have dedicated themselves to death.
 エゴの信奉者たちには、彼らが自分で自分自身を死に捧げているのだと気づくことができません。

 Freedom is offered them but they have not accepted it, and what is offered must also be received, to be truly given.
 彼らには自由が差し延べられているのですが、彼らはその自由を受け入れてはいません。そして、差し延べられているものが真に与えられたことになるためには、差し延べられたものがただ差し延べられただけでなく受け取られる必要があります。

 For the Holy Spirit, too, is a communication medium, receiving from the Father and offering his messages unto the Son.
 というのは、聖霊もまたコミュニケーションを仲立ちする媒体であり、大いなる父からのメッセージを受け取って、そのメッセージを子へと差し延べるからです。

 Like the ego, the Holy Spirit is both the sender and the receiver.
 エゴと同じように、聖霊は送り手であるとともに受け取り手でもあります。

 For what is sent through him returns to him, seeking itself along the way, and finding what it seeks.
 というのも、聖霊を通じて送り出された愛の使者は、途中で自分自身である愛を探し求めて、自らの求める愛を見つけ出して聖霊の許に戻ってくるからです。

 So does the ego find the death it seeks, returning it to you.
 同様にエゴは自ら探し求める死を見つけ出し、その死を携えてあなたの許へと帰ってくるのです。


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