最終レッスン
プレッシャーを楽しいと思った時、その人間は本物になれます

長嶋茂雄
小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただひとつの道だ。

イチロー
目覚めのプロセスには、華々しくてかっこうのよいところはありません。目覚めている人は、精神世界の有名指導者になったりしません。そういう人はただ空想を増殖させたりしないのです。そしてその人の持つ権威と自由に気づいた、ごくわずかの弟子だけがそれを認めます。
世間にもてはやされる指導者は、ごくごく表面的なレベルのことを教える傾向があります。世間というものは、具体的に結果が出ることを評価しますが、スピリチュアルな業績は目に見えないものであることが多いからです。
心を制御することを覚えても、社会からは特に重んじられません。人間としてはもっとパワフルな存在になれるかもしれませんが、そういう人が権力の座についていることはありません。つまり、そうした地位が提供されても固辞するのです。そうした人は外的な事象を操ったり動かしたりすることに、たいした関心を持ちません。
そういう人がむけてくる問いは、たったひとつです。「あなたは、いま現在幸福か?」もし、その答えが「イエス」であれば、もうすでにあなたは天国にいます。答えが「ノー」であれば、その人はあなたに端的に尋ねます。「なぜ、幸福になってはいけないのか」
・・・・
マスターといわれる人はみな「なぜ、そうなってはいけないのか?」と聞きます。何をし、何をすべきでないか、というようなことは言いません。なぜなら、したりしなかったりするということは、みなあなたの責任に属しているからです。マスターができるのは、いまここでその責任を行使するよう、促すことだけです。
こうせよ、こうしてはならないという指導者は、自分たちのスピリチュアルな未熟さを露呈しています。賢い指導者ならば、よい質問を向けこそすれ、めったに指示は与えません。

イエス・キリスト(ポール・フェリーニ著「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」157ページ)

コースを学んでも一瞥体験は起こらない
ワークブックも残りわずかになりました。
ここまで継続されたみなさん、ほんとうによく挫けずに継続されました!
はっきり言って、ワークブックをやり遂げること自体、なかなかできるものではありません。
途中でやめたくなるようなさまざまな誘惑にさらされてこられたことでしょう。
ここまでたどり着くことができたこと自体、誇らしいことだと自信を持ってください。
もっとも、レッスンはもうすぐ終わるというのに、おそらくワークブックを1回読み終えたからと言って、当初期待していたような劇的な意識の変化が起こったという自覚はないかもしれません。
がっかりでしょうか?
読者のみなさんの中には、覚醒体験、一瞥体験と呼ばれるようなものを得たいと願って奇跡のコースに取り組まれている方もいらっしゃるでしょう。
真理を求める人々にとって、華々しく悟りの境地に到達すること、光に満たされるような体験はある種の憧れのようなものとしてあるように思います。
世界の覚者たちが至った神聖で崇高な神秘体験とも言うべきものをぜひ自分も我がものにしたいというのは、魂が神聖さを欲する自然な欲求なのかもしれません。
けれど、コースは、荒行や長い年月をかけての瞑想の結果、突如として得られるような覚醒に至る神秘的な体験を獲得させようとするプログラムではありません(T18-7 何もしなくていい)。
神秘体験を得たいなら学ぶべきはコースではないかもしれない
はっきり言って、コースは、神の子の覚醒にのみフォーカスし、夢の登場人物である私たち人の子が夢の中で成功したり悟りを開いたりするかどうかになどまったく関心を向けてはおらず、神の子が私たちに自己同一化して、私たち夢の世界の登場人物を介してしか神の子に語りかけることができない仕組みであるために、やむなく私たちに語っているにすぎません。
つまり、コースは、学習者の魂の救済を図ろうとするのではなく、魂を持つ個別の人間が自分だとという信念(妄想)の牢獄という幻から実在する神の子を救い出そうという教えなのです。
個人としての霊的成長やアセンションを求めて学習するかぎり、コースの学びによってその学習者に神秘体験等の変化が起こらないのは当たり前なわけです。
むしろ、神秘体験を得たいなら、学ぶべきはコースではないというべきかもしれません。
荒行で身体による霊魂の束縛を強引に解除しようとしたり、言葉を介さない瞑想によって他者と通じる集合意識にアクセスする試みなどが首尾よく達成した場合、自他一体の真理をまさに体験することになります。
ただし、心や魂で直感的に体験することだけにその心境は「曰く言い難し」というべき境地であり、歴代の賢者たちを例に考えてみればわかるように、後進がその体験を彼らの語る言葉から辿ろうとしても煙に巻かれたような感覚にしか至らないということになりがちで、せっかく苦心して得た境地を上手に兄弟たちと分かち合うことも容易ではないことが多いでしょう。
これに対して、コースのアプローチは、荒行のような力技は用いないし、瞑想のように心の非言語的な側面に軸足は置かず(ワークブックのレッスンのパート2では、パート1の言葉中心のアプローチからは脱しますが)、ハートよりもマインドを主な道具として理知的な思考を用います。
理屈で論理的に説明して仕組みを理解するという手法なので、最初は頭だけの机上の空論的な理解から始まりますが、繰り返すことによって、徐々に頭から心に浸透して胸落ち、肚落ちするようになります。
コースは、このような仕組みで、荒行や瞑想で得ようとする心境に知的な面からのアプローチによって到達することを試みる学習システムです。
ですから、身体やハート重視のアプローチのようなドラマチックな形での覚醒体験はそもそも目指してはおらず、最初は頭だけでわかったつもりになっていたことが気がついたら胸落ちし、いつか腹の底まで落ちて自分のものになっていたというきわめて地味なマラソンのようなカリキュラム設計となっています。
コースのアプローチの利点
地味ではありますが、他のアプローチでは得られない利点があります。
すなわち、どのようなアプローチをとるにせよ、救済の障害となるエゴを克服することでいわゆる悟りの状態に到達する仕組みなわけですが、このエゴが巣食うのは、私たちの思考システムです。
荒行や瞑想は、身体を極限状態に置いたり、非言語的なイメージ認識による経路を使って言語の支配を超越することで、変性意識状態を作り出すことで、思考システムを飛び越えるという方法で到達します。
つまり、エゴの巣食う思考システムは手つかずのままなわけです。
これらのアプローチで悟り体験に達した場合に、いわゆる「悟後の修業」というものが必要になることが語られるのは、このような理由によります。
悟り体験によってその人が自他一体の境地に到達したこと自体は、その通り事実なのでしょう。
ただし、その境地はまさに一瞥するだけの非日常の神秘体験であり、そこから戻った先の日常には、いまだエゴが支配する思考システムが待ち受けています。
悟り体験が圧倒的なもので思考システムからエゴを追い払う場合も中にはあるかもしれませんが、多くの場合には、神秘体験をした自分は特別な尊い存在だというふうにエゴに逆手を取られてせっかくの体験を利用されてしまう危険のほうが大きいでしょう。
これに対して、コースは、真正面から思考システムに取り組みます。
地道ですし、悟りを追い求める他のアプローチの求道者が欲する神秘体験をこちらから願い下げるものです。
というのも、奇跡が起こるのが実は当たり前だということが真実だという認識に、世界や自己の認識、理解として到達することは、この幻想世界が真実だとみんなが信じ込んでいることのほうが狂気の沙汰だという気づきの裏返しとして、みんなが「神秘」「奇跡」と呼ぶような、世界からすれば異常な事態が実は正常だとわかるようになることだからです。
そして、なにより、他のアプローチでは、悟り体験だけは現にしていて、それが真実だとわかってはいても、どういう理屈でそうなのか、自分でもわからないし、他者に説明することも難しいということになりがちです。
ある種、右脳型天才スポーツ選手のようなものです。長嶋茂雄さんは不世出の天才ですが、直感型、右脳型であるがゆえに、なぜ自分に素晴らしいパフォーマンスができるのか、理屈で他者に伝わるよう説明することは困難だったようです。
「球がこうスッと来るだろ。そこをグゥーッと構えて腰をガッとする。あとはバァッといってガーンと打つんだ。」と。
身振りもつけて示してくれるので、準備のできた選手には、この言葉がむしろ開眼の鍵となりうるでしょうが、万人向きとは言えません。
これに対して、イチローさんも劣らず天才ですが、雄弁にイメージを左脳的に言語化して説明することができる努力型の天才です。
奇跡のコースのスタイルは、明らかに後者です。
そして、救済というものが神の子全員でなす共同事業(T4-6 神からのご褒美8.)であり、救いの公式が兄弟との関係の中で助け合うことである(レッスン275「今日、神の癒しの声があらゆるものを守ってくれる」、T19-4Di 平安への障害4−2)ことに照らせば、コースがひとりの直感型の天才の覚者を生み出そうとするのではなく、だれもが努力によって到達できるアプローチを選んでいるのは合理的といえるでしょう。
繰り返して血肉化することが何より大切
ですから、華々しい覚醒体験なんてこっちから願い下げだ!というくらいの覚悟で取り組みたいものです。
このような意味で、コースの学習には、一度、全体を読了したからといって、もう十分などと放り出したりせずに、何度も繰り返し読むようにすることがとても大切どころか、必須です。
このサイトでは、無味乾燥になりがちなコースの学習に少しでも馴染みと面白みをもってもらえるようエッセイを加えていますが、実は、コースの本文自体、何度も読んでいると、とても面白い読み物であり、イェシュアの思考パターンを辿って思考をすること自体が一種の瞑想体験であり、クジラやイルカが海面に浮上して新鮮な空気を吸い込んで呼吸することを必要とするように、奇跡のコースの文章に触れない日があると酸欠状態になったように感じるほど、癖になるくらいの中毒性があることに気づくと思います。
きっと私たちの魂がイェシュアの思考に触れることで喜んで、もっともっと触れていたいとせがむのでしょう。
ぜひ、繰り返し読んで、コースなしでは生きられない幸せを味わっていただきたいと思います。
さて、今回は最終レッスンの序論です。


Final Lessons – Introduction
最終レッスン ― 序論
1. Our final lessons will be left as free of words as possible.
私たちの最終レッスンは、できるかぎり言葉に縛られないようにしてあります。
We use them but at the beginning of our practicing, and only to remind us that we seek to go beyond them.
私たちは、実習を始める際にだけ言葉を用いますが、それはただ、私たちが言葉を超えて進もうとしていることを思い出すためでしかありません。
Let us turn to Him Who leads the way and makes our footsteps sure.
私たちで、道を先導して私たちの足取りを確かなものにしてくれる聖霊に頼ることにしましょう。
To Him we leave these lessons, as to Him we give our lives henceforth.
私たちはこれからの自らの人生を聖霊に託すのだから、ここから先のレッスンは聖霊に委ねることにしましょう。
For we would not return again to the belief in sin that made the world seem ugly and unsafe, attacking and destroying, dangerous in all its ways, and treacherous beyond the hope of trust and the escape from pain.
というのも、私たちは罪に対する信念を二度と抱くつもりはないからです。この罪の信念が、この世界を醜く危険で、攻撃的で破滅的な、あらゆる面で危機にさらされていて、信頼する希望もなく、苦痛から解放されることもまったく期待できない場所に見せていたのです。
2. His is the only way to find the peace that God has given us.
聖霊の道だけが、神が私たちに授けてくれている平安を見出すための唯一の道です。
It is His way that everyone must travel in the end, because it is this ending God Himself appointed.
それは、誰もがいつか必ず旅しなければならない道です。なぜなら、神自身が定めたのはこの結末だからです。
In the dream of time it seems to be far off.
時間という夢の中では、その結末は遠い先にあるように思えます。
And yet, in truth, it is already here; already serving us as gracious guidance in the way to go.
それでも、真理の中では、その結末はすでにここにあり、進むべき道を親切に案内しながら私たちを助けてくれています。
Let us together follow in the way that truth points out to us.
私たちで一緒に、真理が私たちに指し示してくれる道に沿って歩みましょう。
And let us be the leaders of our many brothers who are seeking for the way, but find it not.
そして、私たちで、道を探し求めながらも見出せずにいる多くの兄弟たちの導き手になりましょう。
3. And to this purpose let us dedicate our minds, directing all our thoughts to serve the function of salvation.
そして、この目的のために私たちの心を捧げることにして、私たちのすべての思考を救済という役目に奉仕するように方向づけましょう。
Unto us the aim is given to forgive the world.
私たちには、この世界を赦すという目的が与えられています。
It is the goal that God has given us.
それこそが、神が私たちに授けてくれた目標です。
It is His ending to the dream we seek, and not our own.
私たちが探し求めているのは、夢に対して神が定める終わりであり、私たちが自分で決める終わりではありません。
For all that we forgive we will not fail to recognize as part of God Himself.
というのは、私たちは自分が赦すものはまさに神の一部だと気づかずにはいられないからです。
And thus His memory is given back, completely and complete.
こうして、神の記憶が完全に戻ってきて完全なものとなります。
4. It is our function to remember Him on earth, as it is given us to be His Own completion in reality.
現実においては、神自身を完成させることが私たちの役目ですが、この地上では、神を思い出すことこそが私たちの役目です。
So let us not forget our goal is shared, for it is that remembrance which contains the memory of God, and points the way to Him and to the Heaven of His peace.
だから、私たちの目標が分かち合われていることを忘れないようにしましょう。というのも、それを思い出すことによって神の記憶が戻り、神への道と神の平安のある天国が示されるからです。
And shall we not forgive our brother, who can offer this to us?
だから、このことを私たちに差し延べることのできる兄弟のことを赦そうではありませんか。
He is the way, the truth and life that shows the way to us.
その兄弟こそ、道であり、真理であり、生命なのであって、私たちに道を示してくれる存在なのです。
In him resides salvation, offered us through our forgiveness, given unto him.
兄弟の中に救済があり、私たちが兄弟に与える赦しを通して、救済は私たちに差し延べられることになります。
5. We will not end this year without the gift our Father promised to His holy Son.
私たちは、私たちの父がその聖なる子に対して約束してくれた贈り物を得ないまま、この一年を終えるつもりはありません。
We are forgiven now.
もう私たちは赦されています。
And we are saved from all the wrath we thought belonged to God, and found it was a dream.
そして、私たちは、自分たちが神によるものと思っていたすべての天罰から救われており、それらは夢だったのだと気づきました。
We are restored to sanity, in which we understand that anger is insane, attack is mad, and vengeance merely foolish fantasy.
私たちは正気を取り戻しました。正気になることで、私たちは怒りは狂気であり、攻撃することは狂気の沙汰であり、そして、復讐することは単に愚かな空想でしかないと理解しました。
We have been saved from wrath because we learned we were mistaken.
私たちが天罰から救われたのは、自分は間違っていたと私たちが学んだからです。
Nothing more than that.
ただそれだけです。
And is a father angry at his son because he failed to understand the truth?
それに、わが子が真理を理解し損ねたからといって、父がわが子に腹を立てたりするでしょうか。
6. We come in honesty to God and say we did not understand, and ask Him to help us to learn His lessons, through the Voice of His Own Teacher.
私たちで真摯に神の下へと赴いて、私たちが理解していなかったことを告げて、神自ら遣わす大いなる教師の声を通して私たちが神のレッスンを学ぶのを手助けしてくれるよう神に求めましょう。
Would He hurt His Son?
神がわが子を傷つけるようなことをするはずがありません。
Or would He rush to answer him, and say, "This is My Son, and all I have is his"?
むしろ、神はわが子に答えるために駆け寄って、「これこそわが子であり、私が持っているものはすべて彼のものだ」と言ってくれるはずです。
Be certain He will answer thus, for these are His Own words to you.
神がこのように答えてくれると確信しなさい。というのも、この言葉は、まさに神があなたに語っている言葉だからです。
And more than that can no one ever have, for in these words is all there is, and all that there will be throughout all time and in eternity.
そして、誰も決してそれ以上のものを得ることはできません。というのも、これらの言葉の中に存在するすべてがあり、すべての時間と永遠性を通して存在しうるすべてがあるからです。
それでは、ブリトニーさんのレッスンです。
