T19-4C 平安への障害3
Peace if possible, truth at all costs.
もし平安に至ることが可能だとしたら、必要なのは真理だけだ。

Martin Luther
マルティン・ルター
死を助言者とせよ。

カルロス・カスタネダ
無欲であるべきだとは言わなかったのと同様、私はここで、死を恐れるべきではないと言っているわけではない。死に対する恐怖を抑圧すると、かえってそれを強めることになる。今ある「私」とその他すべての「物事」は消え去るのだということを、いかなる疑念のかげりもなく知ること、その知識によって「私」や「物事」を手放さざるをえなくなるほどに知ること、ポイントはそれだけだ。――あたかもグランド・キャニオンのふちから落ちた刹那であるかのように、しっかりと”今”それを知ること。実際のところ、あなたは生まれたときに崖っぷちから突き落とされたのだ。そして、あなたと一緒に落ちてゆく岩にしがみついても、何の助けにもならない。もし死が怖いなら、怖がるがいい。要点は、それ――恐怖、幽霊、苦痛、はかなさ、消滅、そしてもろもろ――とともにあること、それがなすがままにまかせることだ。すると、これまでは信じられなかったような驚きがやって来る。けっして生まれなかったがために、あなたは死なないのだ。あなたは、自分が誰であるかをすっかり忘れてしまっていただけだ。

アラン・ワッツ(「タブーの書」57ページ)

今回は、テキスト第十九章から平安への障害の続きをご紹介します。第三の障害、死の魅力です。
実在の不在が持つ真空の吸引力
死に対する恐怖の本質は、実は死の魅力だということが冒頭で述べられます。
罪悪感は恐ろしいものだというふうに考えられていますが、罪悪感に対する恐怖も、実は罪悪感の魅力であり、罪悪感の魅力に惹きつけられて罪悪感を追求する者にしか支配力を及ぼすことができないという仕組みであり、死の魅力もこれとまったく同じだということです。
影は形を持ち「存在」はするが、実体を持たず、「実在」しない
死は、最大の幻想ではあっても、すべての幻想が、愛や光や平安等、実在するものの不在が影形を持った状態に名前を付けて、あたかも実在と同等の存在であるかのように観念したものでしかないように、生命の不在に名前を付けた観念、生命の影でしかありません。
日の光に照らされてできる影は、目に見えるし本当にそこにあるように見えはしますが、その実在性を信じる者が勝手に影響を受けることはありえても、影そのものは何の力も持ちません。
影同士の間では、濃い影や薄い影、大きな影や小さな影、尖った形の影や丸い形の影、影の色等多様なバリエーションがあり、大きく濃い影が小さくて希薄な影を潰して飲み込むように見える事態は起こりえます。
けれど、明るい外に出た私たちに当たる日の光が作り出した影には、私たちを傷つけたり、押したり、触れたりすることはできません。
実在である神の子が「死ぬ」(実在の不在となる)ことはできない
影を作り出している元の実在は、永遠の生命を持つ神の子です。

神の子は不死なる存在なので殺されることはありえないので、影でしかないエゴに殺されることは不可能なので、神の子が死ぬことができるとすれば、影であるアバターとしての身体が本当の自分だと信じることによってのみ、ごっこ遊びとして人形を壊すことを、「殺す」、「死」と呼ぶことだけです。
つまり、エゴが殺すことができるのは、神の子ではなく、神の子が自分だと思い込んだ影としての「私たち」だけであり、それも、その私たちがエゴのお気に入りでいようとエゴに従順に従うがゆえでしかありません。
私たちが従わなければ、影でしかないエゴには「私たち」を殺すことはできません。
エゴは、舞台の上で人形をバラバラに壊して、神の子を殺したぞ!神はこれを食い止めることもできない無力な存在だ!と叫んでいるわけです。
ゲームかぶれの息子に対するお母さんの冷酷さを身につけましょう(笑)

画面上でクッパにやられてマリオが死んで「僕は死んだ!」と真っ青になっている息子にお母さんは冷たく「ばか言ってないでもうゲームはやめなさい!」と言うでしょう。
この理屈なのに、リアリティーだけは超高精細、ハイレゾの極みで没入感だけは半端ないために、狂気が狂気だとは気づかれない不思議な事態が起こっているのです。
身体が幻想世界で操縦するアバターで幻であり、身体の死はアバターに閉じ込められた状態から解放されることであり、(エゴの束縛を解かれて個別の魂というさらなる束縛も錯覚であることに聖霊の教えによって気づくことができたら、)本当の自分は他者とひとつである神の子であることに気づき、それを受け入れることが正気を取り戻すことだと正しく知覚するなら、死の魅力は愛の魅力に屈して、死への恐怖は消え去るでしょう。

テキスト第十九章
C. The Third Obstacle: The Attraction of Death
C 第三の障害 ― 死の魅力
1. To you and your brother, in whose special relationship the Holy Spirit entered, it is given to release and be released from the dedication to death.
あなたと兄弟との特別な関係に聖霊が入りこんだので、あなたと兄弟には、死に対する献身から互いを解放し解放される機会が与えられています。
For it was offered you, and you accepted.
というのは、その機会はあなたに差し延べられ、そして、あなたはそれを受け入れたからです。
Yet you must learn still more about this strange devotion, for it contains the third obstacle that peace must flow across.
それでもなお、あなたは死に対する献身というこの奇妙な信仰についてさらに学ばなければなりません。というのは、平安が流れ渡らなければならない第三の障害が死への献身に含まれているからです。
No one can die unless he chooses death.
自分で死を選択しないかぎり、誰も死ぬことはできません。
What seems to be the fear of death is really its attraction.
死に対する恐怖のように思えているものは、実は死の魅力なのです。
Guilt, too, is feared and fearful.
罪悪感もまた、怖がられていて、恐ろしいものとされています。
Yet it could have no hold at all except on those who are attracted to it and seek it out.
しかし、罪悪感は、罪悪感に惹きつけられて罪悪感を追求しようとする者以外には支配力を及ぼすことがまったくできません。
And so it is with death.
死についても、それと同じことがいえます。
Made by the ego, its dark shadow falls across all living things, because the ego is the "enemy" of life.
エゴによって作られたがゆえに、死はその暗い影を命あるすべてのものに落とします。なぜなら、エゴは生命の「敵」だからです。
2. And yet a shadow cannot kill.
そうはいっても、影が殺すことなどできるはずがありません。
What is a shadow to the living?
生きているものにとって、影が何だというのでしょう。
They but walk past and it is gone.
生きているものが通り過ぎるだけで、影は消えてなくなります。
But what of those whose dedication is not to live; the black-draped "sinners," the ego's mournful chorus, plodding so heavily away from life, dragging their chains and marching in the slow procession that honors their grim master, lord of death?
しかし、生きないことに心を捧げている者たちにとってはどうでしょうか。彼らは、黒装束を身にまとった「罪人たち」であり、鎖を引きずりながら、エゴの悲しみに満ちた歌を合唱しながら、死の支配者である自分たちの残忍な主人を讃えるゆっくりした行進に加わって、本当に重い足取りでとぼとぼと生命から遠ざかってゆく者たちです。
Touch any one of them with the gentle hands of forgiveness, and watch the chains fall away, along with yours.
彼らのうちの誰かに赦しの手で優しく触れて、その人を縛る鎖があなたの鎖と一緒に外れ落ちるのを見てください。
See him throw aside the black robe he was wearing to his funeral, and hear him laugh at death.
彼が自らの葬儀のために身に着けていた黒装束を脱ぎ捨てるのを見て、彼が死を笑い飛ばすのを聞くがよいでしょう。
The sentence sin would lay upon him he can escape through your forgiveness.
あなたの赦しによって、彼は罪が彼に科そうとする刑罰から逃れることができます。
This is no arrogance.
これはまったく傲慢なことではありません。
It is the Will of God.
それこそ神の大いなる意志だからです。
What is impossible to you who chose his will as yours?
神の大いなる意志を自らの意志として選んだあなたにできないどんなことがあるというのでしょうか。
What is death to you?
あなたにとって死が何だというのでしょう。
Your dedication is not to death, nor to its master.
あなたが心を捧げるべきなのは、死でもなければ死の主人でもありません。
When you accepted the Holy Spirit's purpose in place of the ego's you renounced death, exchanging it for life.
あなたがエゴの目的の代わりに聖霊の目的を受け入れたとき、死を生命と交換することによって、あなたは死を放棄したからです。
We know that an idea leaves not its source.
私たちは、想念はその源を離れることはないと知っています。
And death is the result of the thought we call the ego, as surely as life is the result of the Thought of God.
だから、死が私たちがエゴと呼ぶ想念の結果であるのは間違いありません。それは、生命が神の大いなる思いの結果であるのと同じくらい確かなことです。

i. The Incorruptible Body
(1)朽ちることのない身体
3. From the ego came sin and guilt and death, in opposition to life and innocence, and to the Will of God himself.
生命と潔白さ、そして神自身の大いなる意志に対立するものとして、エゴから罪と罪悪感、そして死が生じました。
Where can such opposition lie but in the sick minds of the insane, dedicated to madness and set against the peace of Heaven?
狂気の沙汰に心を捧げて天国の平安に対抗しようとする狂気に陥った者の病んだ心の中でしか、このような対立は起こりえないのではないでしょうか。
One thing is sure; God, Who created neither sin nor death, wills not that you be bound by them.
確かなことがひとつだけあります。それは、神は、罪と死のどちらも創造しなかったのだから、あなたが罪と死に縛られることを意図していないということです。
He knows of neither sin nor its results.
罪も罪の結果も、神の与り知るところではありません。
The shrouded figures in the funeral procession march not in honor of their Creator, Whose Will it is they live.
死装束を着て葬送の列を歩む者たちは、自らの大いなる創造主を讃えて行進しているのではありません。創造主の大いなる意志は彼らが生きることだからです。
They are not following his will; they are opposing it.
彼らは創造主の意志に従っているのではなく、創造主の意志に逆らっているのです。
4. And what is the black-draped body they would bury?
だとしたら、彼らが埋葬しようとしている黒装束に覆われた身体とはいったい何なのでしょうか。
A body which they dedicated to death, a symbol of corruption, a sacrifice to sin, offered to sin to feed upon and keep itself alive; a thing condemned, damned by its maker and lamented by every mourner who looks upon it as himself.
彼らが死に捧げた身体は腐敗の象徴であり、罪の餌食にして罪を生きながらえさせるよう罪に差し出された罪に対する生贄です。それは、その身体を自分自身として見つめる会葬者たち一人ひとりから悼まれる、その作り主から死刑判決を受けて地獄送りにされたひとつの物体です。
You who believe you have condemned the Son of God to this are arrogant.
自分が神の子をこのように運命づけたのだとあなたが信じているなら、それは傲慢というものです。
But you who would release him are but honoring the Will of his Creator.
しかし、あなたが神の子を解放しようとするなら、それは彼の創造主の大いなる意志を讃えることにほかなりません。
The arrogance of sin, the pride of guilt, the sepulcher of separation, all are part of your unrecognized dedication to death.
傲慢にも罪を犯したと考え、有罪であることを誇り、分離という墓に納まることはすべて、あなたが無自覚にも死に心を捧げていることの一端です。
The glitter of guilt you laid upon the body would kill it.
あなたが身体に押しつけた罪悪感のぎらつきが、身体を殺すことになります。
For what the ego loves, it kills for its obedience.
というのは、エゴは、自らのお気に入りを自分への従順さのゆえに殺すからです。
But what obeys it not, it cannot kill.
しかし反対に、エゴには、エゴに従わない者を殺すことはできないのです。

5. You have another dedication that would keep the body incorruptible and perfect as long as it is useful for your holy purpose.
あなたには専心すべきものが別にあり、それによって、身体はあなたの神聖な目的に役立つかぎり、朽ちることなく完璧なままに保たれるのです。
The body no more dies than it can feel.
身体は感じることができないのと同じように、死ぬこともできません。
It does nothing.
身体は何もすることはありません。
Of itself it is neither corruptible nor incorruptible.
それ自体では、身体は朽ちうるものでも朽ちえないものでもありません。
It is nothing.
身体は無なのです。
It is the result of a tiny, mad idea of corruption that can be corrected.
身体は、腐敗という取るに足らない狂気の想念の結果ですが、その想念は修正できます。
For God has answered this insane idea with his own; an Answer which left him not, and therefore brings the Creator to the awareness of every mind which heard his Answer and accepted It.
というのは、神はこの狂気の想念に対して、自身の大いなる想念で答えてくれているからです。その大いなる答えは神から離れてはいません。したがって、その大いなる答えは、それを聞いて受け入れたすべての心に創造主を自覚させてくれます。
6. You who are dedicated to the incorruptible have been given through your acceptance, the power to release from corruption.
不壊なるものに心を捧げたあなたはすでに、自ら神の大いなる答えを受け入れたことによって、腐敗から解放する力を授かっています。
What better way to teach the first and fundamental principle in a course on miracles than by showing you the one that seems to be the hardest can be accomplished first?
奇跡のコースの第一の根本原理を教えるうえで、何はさておき、最も難しそうに思える奇跡が達成できることをまずあなたに示して見せる以上に、よりよい方法はないはずです。
The body can but serve your purpose.
身体はあなたの目的に奉仕することしかできません。
As you look on it, so will it seem to be.
身体とはこういうものだとあなたがみなす通りのものに、身体は見えてくるはずです。
Death, were it true, would be the final and complete disruption of communication, which is the ego's goal.
もし死が真実だとすれば、死はコミュニケーションの決定的かつ完全なる遮断だということになります。そして、それこそエゴが目標にすることです。

7. Those who fear death see not how often and how loudly they call to it, and bid it come to save them from communication.
死を恐れる者たちは、自分たちがいかに頻繁にどんなに大声で死に呼びかけ、コミュニケーションから自分を救うために死にやってきてほしいと頼んでいるのかわかっていません。
For death is seen as safety, the great dark savior from the light of truth, the answer to the Answer, the silencer of the Voice that speaks for God.
というのも、死こそが安全であり、真理の光からあなたを救ってくれる偉大な闇の救い主であり、神の大いなる答えに対する答えであり、神に代わって語る大いなる声を聞こえなくさせてくれるものだとみなされているからです。
Yet the retreat to death is not the end of conflict.
しかし、死へと逃げ込むことは、葛藤を終わらせることにはなりません。
Only God's Answer is its end.
神の大いなる答えだけが葛藤に終止符を打ちます。
The obstacle of your seeming love for death that peace must flow across seems to be very great.
平安が流れ渡らなければならない障害である、死に対してあなたが抱く愛のように見えるものは、非常に大きな障害に見えます。
For in it lie hidden all the ego's secrets, all its strange devices for deception, all its sick ideas and weird imaginings.
というのは、その中にはエゴの秘密のすべて、エゴが欺くための奇妙なからくりのすべて、エゴの病的な想念や異様な想像の産物の一切合財が隠されているからです。
Here is the final end of union, the triumph of the ego's making over creation, the victory of lifelessness on Life Itself.
ここにおいて、心の結びつきは決定的にとどめを刺され、エゴの作り出したものが創造物を打ち倒し、生命なきものが大いなる生命そのものに対して勝利を収めるというのです。
8. Under the dusty edge of its distorted world the ego would lay the Son of God, slain by its orders, proof in his decay that God himself is powerless before the ego's might, unable to protect the life that he created against the ego's savage wish to kill.
エゴが作り出した歪んだ世界の埃にまみれた片隅に、エゴは自らの命令によって殺された神の子を横たえようとします。エゴは、神の子が腐敗することこそが、エゴの力を前にしては神ですら無力であり、神には自ら創造した生命を殺したいというエゴの残忍な欲求から守ることもできない証しだというのです。
My brother, child of our Father, this is a dream of death.
私の兄弟よ、私たちの大いなる父の子よ、こんなものは死の夢なのです。
There is no funeral, no dark altars, no grim commandments nor twisted rituals of condemnation to which the body leads you.
身体があなたを導いてゆくような葬列や暗い祭壇や峻厳な戒律はまったく存在しないし、有罪を宣告する倒錯した儀式も存在しません。
Ask not release of it.
身体から解放されることを求めてはなりません。
But free it from the merciless and unrelenting orders you laid upon it, and forgive it what you ordered it to do.
そうではなく、あなたが身体に課した無慈悲で容赦のない命令の数々から身体を解放し、あなたが身体にするように命じたことについて身体を赦してください。
In its exaltation you commanded it to die, for only death could conquer life.
ただ死だけが生命に打ち勝つことができるという理由で、あなたは身体を高い位置に祭り上げることで、身体に死を命じました。
And what but insanity could look upon the defeat of God, and think it real?
神が打ち負かされるのを見て、それを現実だと思えるとしたら、それは狂気の沙汰以外の何でありうるでしょうか。

9. The fear of death will go as its appeal is yielded to love's real attraction.
死の魅力が愛の真の魅力に屈するとき、死に対する恐怖は去ってしまうでしょう。
The end of sin, which nestles quietly in the safety of your relationship, protected by your union with your brother, and ready to grow into a mighty force for God is very near.
罪の終わりが間近に迫っています。罪の終わりである救済は、あなたの関係が備える安全性の中で心地よく横たわっており、あなたが兄弟とひとつに結びつくことによって守られ、神のための強大な力へと成長する準備を整えています。
The infancy of salvation is carefully guarded by love, preserved from every thought that would attack it, and quietly made ready to fulfill the mighty task for which it was given you.
揺籃期にある救済は、愛によって注意深く守られ、それを攻撃しようとするあらゆる思いから保護され、大いなる任務を果たせるように静かに準備を整えています。その偉大な任務を遂行するために、救済はあなたに与えられたのです。
Your newborn purpose is nursed by angels, cherished by the Holy Spirit and protected by God himself.
あなたの生まれたての目的は天使たちによって大切に育まれ、聖霊によって慈愛をこめて世話をされ、神自身による加護を受けています。
It needs not your protection; it is yours.
もっとも、その目的はあなたに守ってもらう必要はありません。その目的のほうこそが、あなたを保護するものなのです。
For it is deathless, and within it lies the end of death.
というのは、それは不死なるものであり、そして、その中に死の終わりがあるからです。
10. What danger can assail the wholly innocent?
いかなる危険が、完全に潔白なる者を悩ますことができるでしょうか。
What can attack the guiltless?
いったい何が罪悪感のない者を攻撃できるでしょうか。
What fear can enter and disturb the peace of sinlessness?
いったいどんな恐れが、罪のない状態に入りこんで、その平安をかき乱すことができるでしょうか。
What has been given you, even in its infancy, is in full communication with God and you.
まだ幼年期にあるとはいえ、あなたに与えられた救いの幼子は、神ともあなたとも十分なコミュニケーションを保っています。
In its tiny hands it holds, in perfect safety, every miracle you will perform, held out to you.
救いの幼子は、その小さな手に、あなたが行うことになる奇跡のすべてを申し分く安全に握っており、それをあなたに差し出しています。
The miracle of life is ageless, born in time but nourished in eternity.
時間の内に生まれはしても、永遠の中で育まれた生命という奇跡は、歳を取るということがありません。
Behold this infant, to whom you gave a resting place by your forgiveness of your brother, and see in it the Will of God.
自分の兄弟を赦すことによってあなたが安息の場を与えたこの幼子をよく見つめ、その赦しの中に神の大いなる意志を見出してください。
Here is the babe of Bethlehem reborn.
ここに、復活したベツレヘムの嬰児がいます。
And everyone who gives him shelter will follow him, not to the cross, but to the resurrection and the life.
この子を庇護するために宿す者は誰もみな、その子に従うようになり、十字架ではなく、復活と生命へと向かうでしょう。

11. When anything seems to you to be a source of fear, when any situation strikes you with terror and makes your body tremble and the cold sweat of fear comes over it, remember it is always for one reason; the ego has perceived it as a symbol of fear, a sign of sin and death.
あなたにとって何かが恐怖の源であるように思えるときや、何らかの状況があなたを恐怖におののかせてあなたの身体を震え上がらせ、恐怖による冷や汗が全身に吹き出すようなとき、その理由はつねにたったひとつだと覚えておいてください。それは、エゴがその物事や状況を、恐怖を象徴する罪と死の印として知覚しているということです。
Remember, then, that neither sign nor symbol should be confused with source, for they must stand for something other than themselves.
そこで、印も象徴も、その源と混同すべきではないと覚えておいてください。というのは、印や象徴は必ずそれ自体以外の何か別のものを代わって表すものだからです。
Their meaning cannot lie in them, but must be sought in what they represent.
印と象徴の中に意味を見出すことはできません。それらが意味することは、印や象徴が代わって表しているその何か別のものの中に探さなければなりません。
And they may thus mean everything or nothing, according to the truth or falsity of the idea which they reflect.
それゆえ、印や象徴が反映する想念が真理であるか虚偽であるかということ次第で、印や象徴は、すべてを意味することにも無を意味することにもなります。
Confronted with such seeming uncertainty of meaning, judge it not.
この象徴のような一見して意味がはっきりしないものに直面したとき、それを裁こうとしてはなりません。
Remember the holy Presence of the One given to you to be the Source of judgment.
そんなときは、裁きの大いなる源になるようにとあなたに与えられた聖なる存在があなたの内にいることを思い出してください。
Give it to him to judge for you, and say:
あなたに代わって裁いてもらうために、それらの印や象徴を聖霊に渡しながら、次のように言ってください。
Take this from me and look upon it, judging it for me.
私からこれを受け取って、それをよく見たうえで、私に代わって裁いてください。
Let me not see it as a sign of sin and death, nor use it for destruction.
私が、これを罪や死の印と見たり、これを破滅のために使うことがありませんように。
Teach me how not to make of it an obstacle to peace, but let You use it for me, to facilitate its coming.
どうすればそれを平安に至るうえでの障害にすることなく、平安の到来を促進するために、私に代わってあなたにそれを使ってもらえばよいか、私に教えてください。

