T15-9 神聖な瞬間と神の魅力
I am not sure exactly what heaven will be like, but I know that when we die and it comes time for God to judge us, he will not ask, ‘How many good things have you done in your life?’ rather he will ask, ‘How much love did you put into what you did?’
私には天国がどのようなところなのか正確にはわかりません。けれど、つぎのことなら私にもわかります。私たちが死んで神が私たちを裁くときが来たら、神は、「あなたは自分の人生でどれだけ多く善いことをしましたか」とは聞かずに、「あなたは自分のしたことにどれだけ多くの愛を注ぎましたか」と聞かれるはずです。

Mother Teresa
マザー・テレサ

今回はテキストから、「神聖な瞬間と神の魅力」という一節をご紹介します。
神聖な瞬間に起こること
「1. As the ego would limit your perception of your brothers to the body, so would the Holy Spirit release your vision and let you see the Great Rays shining from them, so unlimited that they reach to God.
エゴがつねに、あなたが自分の兄弟たちを身体としてしか知覚できないよう制限するのに対して、聖霊はいつでも、あなたのヴィジョンを解放して、本当に無制限なので神に到達するほどの偉大な光線が兄弟たちから輝き出しているさまをあなたに見せてくれます。
It is this shift to vision that is accomplished in the holy instant.
神聖な瞬間において達成されるのは、このような肉眼からヴィジョンへの観点の切替えです。」
"Great Rays "「偉大な光線」=大いなる霊は、アバター各自の中に種火として残っている"little spark"「小さな閃光」=分霊である魂の本来の姿です。
「The power of one mind can shine into another, because all the lamps of God were lit by the same spark.
ひとつの心の力は、別の心の中に光を射し込むことができます。なぜなら、神の灯火はすべて、同じ閃光を種火として灯されたからです。
It is everywhere and it is eternal.
その閃光はあらゆるところにあります。そして、この閃光は永遠のものです。
8. In many only the spark remains, for the Great Rays are obscured.
多くの者たちの心には、そのような種火しか残っていません。というのは、大いなる光の輝きは覆い隠されてしまっているからです。
」(T10-4 病気の終焉)

神が光源であるなら、どんな投影もスライドを外せば神の拡張である光線であるはず
神道では、神様を数える際の助数詞(「一個」のように、数を表す語に添えて、どんな種類のものの値かを示す接尾語)として「柱」(はしら)を用い、一柱、二柱と数えます。
何の根拠もなしに、このような表現が生まれるはずがなく、古来、ヴィジョンを得た先達たちには、神という大いなる霊の光源から、その分霊たちがそれぞれ光線として拡張しているさまが見えていたことを物語っています。
身体の中にチロチロと種火が光るのが見えるという状態から、身体のあった場所に柱のように偉大な光線が輝きを放ち、身体はその光に包まれている透き通った影のように見えて、やがて姿を消すというヴィジョンは、私たちの実体が、「霊的体験をする人間」ではなく、「人間の体験をしている霊」だ(テイヤール・ド・シャルダン)ということを示します。

このヴィジョンは、個別に分離した魂がふわふわと霊界に浮遊しているのではなく、すべての霊は源である大いなる霊の拡張であり、一体であることも表します。
自分を身体とみなすことは、エゴというスライドで光源から届く光を制限すること
ヴィジョンの見せる真実とは反対に、エゴに従って自分たちを神の子ではなく身体だとみなすことは罪悪感の魅力に屈することであり、罪悪感の魅力は、神の吸引力を損わせ神から遠ざけることになります。
神の引き寄せる力は、愛そのものの作用であり、光が自らの光源とつながっているという自覚、自らの出自である経路を確保しようという欲求です。
水道水は、水源から蛇口まで通るパイプがきれいに水を運ぶことで水を供給できます。
光も光源から光線を遮ったり歪めたり色付けたりする障害物が介在しないことで、本来の純粋な光で照らすことができます。
身体が自分だという誤った自覚は、自分が光や水そのものであり、光源や水源からいくらでも無限に光や水を放出できるという真理を忘れて、自分をスクリーンの前に置かれたスライドや蛇口であると誤信して、自分に与えられた光や水の量には限りがあると信じている状態です。
身体が自分だという誤った自覚は、私たちが、自分が持ち合わせている薪をできるだけ長持ちするよう細々とくべて、身体の中に灯る小さな種火を一挙に燃え尽くしてしまうことのないように細心の注意を払いながら、精一杯エゴのレンズで歪んで色づいた陰影を映し出すことしかできず、持ち合わせた薪が切れて種火が燃え尽きたらお終いだと信じている状態です。
このように、自分のことを人生分だけ充電されたバッテリーを積んでいる電気自動車のように捉えて、なんとかバッテリーが切れるまでできるかぎり快楽を求め苦痛を避けて世界を味わい尽くしてやろうと、さもしくあてもなく走っているのがエゴに支配された私たちです。
現代社会、とくに宗教に対する嫌悪感の強い日本社会の常識では、車の運転手に相当する魂があるという想定すら許されないので、普通に育って常識人として成熟するかぎり、車が自分だと思うしかないわけですから、誰もが電池切れに近い状態と考える老いを忌避し、車の新しさやデザインのよさや性能のよさに相当する若さや容姿や知能の高さ等のスペックにしか関心が向かず、外面的なことにしか価値を置けなくなるのも仕方がありません。
他の身体は限られた資源を奪い合う敵でしかなく、自分の身体が死んだらすべてお終いなわけですから、救いがなく浮かばれません。。。
私たちは思考を強制されているわけではない(自ら喜んで染まっているだけ)
とはいえ、このようなお寒い世界観に毒されてきたとしても、まだ今は脳内の思考統制と管理がなされる社会ではなく、何を信じるかは個人の自由なのですから、まだ救いはあります。
世界は、教育や情報洪水を浴びせることで洗脳を維持しようとすることはできても、私たちが自分から喜んで、世界の提供するOSのアップデートに応じないかぎり、世界には私たちの内心を強制的に書き換える力はないからです。
蛇口が自分の使える水はプールしている分だけだと信じているとしても、客観的な真実は、自分で水道を遮断してそこまできている水を堰き止めて使わないでいるだけなんだから、やるべきことは、自分の不遇をかこって嘆き悲しんで不平不満を垂れいることではなく、自分の蛇口から水源までの水道のパイプをちゃんと水が通るように障害物を除去して、水が汚れないようにきれいに経路を磨くことだけです。
プールに溜め込まれて罪悪感という汚泥で淀(よど)んで穢(けが)れてしまっているまずい水に比べて、水源から届く新鮮な水の美味しさは、ますます水源への感謝と経路を磨こうという動機づけになるでしょう。
これが神の魅力であり吸引力です。
経路を掃除してきれいに磨くことで、光源からの混じり気のないきれいな光がそのまま拡張され影を投ずることがなくなるので、自分を通して照らす光は、そのまま光源と同じ光だとわかる、つまり、自分が見る世界は、かつては実在するものの不在である恐れや死を映し出す狂気の世界だったが、いまや実在する愛や生命だけを映し出す真の世界になっていることに気づくことになります。

テキスト第十五章
IX. The Holy Instant and the Attraction of God
九 神聖な瞬間と神の魅力
1. As the ego would limit your perception of your brothers to the body, so would the Holy Spirit release your vision and let you see the Great Rays shining from them, so unlimited that they reach to God.
エゴがつねに、あなたが自分の兄弟たちを身体としてしか知覚できないよう制限するのに対して、聖霊はいつでも、あなたのヴィジョンを解放して、本当に無制限なので神に到達するほどの偉大な光線が兄弟たちから輝き出しているさまをあなたに見せてくれます。
It is this shift to vision that is accomplished in the holy instant.
神聖な瞬間において達成されるのは、このような肉眼からヴィジョンへの観点の切替えです。
Yet it is needful for you to learn just what this shift entails, so you will become willing to make it permanent.
ただし、あなたは、こうした観点の転換に伴ってどのようなことが引き起こされるのか正確に学ぶ必要があります。それを学べば、あなたはこの転換を永遠のものにしたいと望むようになるはずです。
Given this willingness it will not leave you, for it is permanent.
もしこの意欲を得たなら、あなたの許からヴィジョンが去ることはないでしょう。なぜなら、ヴィジョンは永続するものだからです。
Once you have accepted it as the only perception you want, it is translated into knowledge by the part that God Himself plays in the Atonement, for it is the only step in it He understands.
ひとたびあなたがヴィジョンを自分の望む唯一の知覚として受け入れたなら、贖罪における役割を神自身が果たしてくれることによって、ヴィジョンは知識へと変換されます。なぜなら、ヴィジョンを知識へと変換することだけが神が理解する贖罪における唯一のステップだからです。
Therefore, in this there will be no delay when you are ready for it.
したがって、あなたにその準備ができ次第、少しの遅れもなくこの変換がなされることになります。
God is ready now, but you are not.
今このときも、神には準備ができていますが、あなたにはまだ準備ができていません。
2. Our task is but to continue, as fast as possible, the necessary process of looking straight at all the interference and seeing it exactly as it is.
私たちの課題は、できるだけ早く、障害となっているものすべてを真正面から見据えて、それらの障害をありのまま正確に見るという必要なプロセスを続けることだけです。
For it is impossible to recognize as wholly without gratification what you think you want.
というのは、自分が欲しいと思っているものをまったく満足できないものだとあなたが気づくことは不可能だからです。
The body is the symbol of the ego, as the ego is the symbol of the separation.
エゴが分離の象徴であるように、身体はエゴの象徴です。
And both are nothing more than attempts to limit communication, and thereby to make it impossible.
そして、両方とも、コミュニケーションを制限して、それによってコミュニケーションを不可能にしようとする試みでしかありません。
For communication must be unlimited in order to have meaning, and deprived of meaning, it will not satisfy you completely.
というのは、コミュニケーションが意味を持つためには、コミュニケーションは何の制限も受けない必要があるし、意味を奪われてしまったら、コミュニケーションがあなたを完全に満足させることはできないからです。
Yet it remains the only means by which you can establish real relationships, which have no limits, having been established by God.
しかし、依然としてコミュニケーションは、あなたが真の関係を確立できるようになる唯一の手段であり続けます。その真の関係とは、神によって確立されたがゆえに、一切の制限を受けないものです。

3. In the holy instant, where the Great Rays replace the body in awareness, the recognition of relationships without limits is given you.
神聖な瞬間において、偉大なる光線が身体に取って代わるのを自覚するようになるので、あなたは制限のない関係を認識できるようになります。
But in order to see this, it is necessary to give up every use the ego has for the body, and to accept the fact that the ego has no purpose you would share with it.
ただし、これを理解するためには、エゴが身体を利用して行おうとすることをことごとく放棄し、そして、あなたがエゴと共有したいと思うような目的をエゴは何ひとつ持ち合わせていないという事実を受け入れることが必要です。
For the ego would limit everyone to a body for its own purposes, and while you think it has a purpose, you will choose to utilize the means by which it tries to turn its purpose into accomplishment.
なぜなら、エゴは自らの目的のために誰でもみな身体に限定しようとするし、あなたがエゴにはそのようにするもっともな目的があると思うかぎり、あなたはエゴがその目的を達成しようとして使う手段を利用する選択をしてしまうからです。
This will never be accomplished.
エゴの目的が達成されることは絶対にありえません。
Yet you have surely recognized that the ego, whose goals are altogether unattainable, will strive for them with all its might, and will do so with the strength that you have given it.
もっとも、とうてい達しえないような目標を掲げるエゴは、目標を達成しようと自らの持てる力を総動員して奮闘するし、それも、あなたがエゴに与えた力をもってそうするはずだと、あなたはもう間違いなく気づいているはずです。
4. It is impossible to divide your strength between Heaven and hell, God and the ego, and release your power to creation, which is the only purpose for which it was given you.
あなたの力を天国と地獄、つまり神とエゴの間に分配しておきながら、あなたの力を創造のために解放するのは不可能です。あなたの力は、創造することだけを唯一の目的としてあなたに授けられたものだからです。
Love would always give increase.
愛はつねに増大させるものです。
Limits are demanded by the ego, and represent its demands to make little and ineffectual.
制限はエゴが要求するものであり、矮小で無力なものにすることをエゴが必要としていることを表しています。
Limit your sight of a brother to his body, which you will do as long as you would not release him from it, and you have denied his gift to you.
あなたが兄弟を身体の束縛から解放しようと思わないかぎり、あなたは兄弟のことを身体だとみなしてしまうはずですが、あなたがある兄弟を身体でしかないと見るなら、あなたは兄弟があなたに差し出してくれている贈り物を拒んでいるのです。
His body cannot give it.
兄弟の身体には贈り物を与えることはできません。
And seek it not through yours.
だから、あなたの身体を通じて贈り物を求めないでください。
Yet your minds are already continuous, and their union need only be accepted and the loneliness in Heaven is gone.
それに対して、あなたたちの心はもともと途切れることなくつながっているので、あなたたちの心がひとつに結ばれているという事実をただ受け入れさえすれば、天国で孤独を味わうことなどありえません。

5. If you would but let the Holy Spirit tell you of the Love of God for you, and the need your creations have to be with you forever, you would experience the attraction of the eternal.
もしあなたが聖霊に、神があなたに抱く大いなる愛や、あなたが創造したものたちが永遠にあなたとともにあることを必要としていることを教えてもらいさえすれば、あなたは永遠なるものに吸いこまれるような体験をするでしょう。
No one can hear Him speak of this and long remain willing to linger here.
聖霊がこのことを語るのを聞きながら、この世界に居残りたいと思う者はひとりもいないはずです。
For it is your will to be in Heaven, where you are complete and quiet, in such sure and loving relationships that any limit is impossible.
なぜなら、天国にいることはあなたの意志であり、天国ではあなたは完全で欠けるところがなく平穏であり、本当に確かな愛に満ちた関係にあるので、少しでも制限されることはありえないからです。
Would you not exchange your little relationships for this?
あなたは自分の卑小な関係を、この確実な愛に満ちた関係と交換したくはないでしょうか。
For the body is little and limited, and only those whom you would see without the limits the ego would impose on them can offer you the gift of freedom.
なぜなら、身体は卑小で制限されているので、ただエゴが彼らに押しつけようとする制限なしにあなたが見ようとする人たちだけが、あなたに自由という贈り物を差し延べることができるからです。
6. You have no conception of the limits you have placed on your perception, and no idea of all the loveliness that you could see.
自分の知覚に自分がどれほど大きな制限を課してきたか、あなたには思いもよりません。だから、自分にはどれほどの素晴らしさを見ることができるのかあなたには想像することすらできません。
But this you must remember; the attraction of guilt opposes the attraction of God.
しかし、あなたは次のことを覚えておかねばなりません。それは、罪悪感の魅力は神の魅力に反対するものだということです。
His attraction for you remains unlimited, but because your power, being His, is as great as His, you can turn away from love.
あなたにとって神の魅力は限りないものであり続けます。しかし、あなたの力は神に由来し、神の力と同じくらい強力であるがゆえに、あなたは愛に背を向けることもできてしまうのです。
What you invest in guilt you withdraw from God.
あなたが罪悪感に注ぎこむものを、あなたは神から遠ざけることになります。
And your sight grows weak and dim and limited, for you have attempted to separate the Father from the Son, and limit their communication.
そうすると、あなたの視力はどんどん弱まり、霞んで制限されてしまいます。というのは、あなたは父を子から引き離して両者のコミュニケーションを制限しようと試みているわけだからです。
Seek not Atonement in further separation.
よりいっそう分離することによって贖罪を見出そうとしてはなりません。
And limit not your vision of God's Son to what interferes with his release, and what the Holy Spirit must undo to set him free.
そして、神の子についてのあなたのヴィジョンを、神の子の解放を妨げるものや、聖霊が神の子を自由にするために取り消さなければならないような姿に制限しないでください。
For his belief in limits has imprisoned him.
というのは、神の子が制限を信じることが神の子を幽閉してきたわけだからです。

7. When the body ceases to attract you, and when you place no value on it as a means of getting anything, then there will be no interference in communication and your thoughts will be as free as God's.
身体があなたを惹きつけることがなくなり、あなたが何かを手に入れる手段として身体に何の価値も置かなくなったとき、コミュニケーションには何の障害もなくなり、あなたの思考は神の思考と同じように自由になるでしょう。
As you let the Holy Spirit teach you how to use the body only for purposes of communication, and renounce its use for separation and attack which the ego sees in it, you will learn you have no need of a body at all.
ただコミュニケーションを行う目的のためにのみ身体を用いて、エゴが身体の用途とみなしているように身体を分離と攻撃の手段として用いるのをやめる方法をあなたが聖霊から教わるなら、あなたは自分には身体がまったく必要ないことを学ぶでしょう。
In the holy instant there are no bodies, and you experience only the attraction of God.
神聖な瞬間においては、まったく身体は存在せず、あなたはただ神に引き寄せられることだけを体験します。
Accepting it as undivided you join him wholly, in an instant.
神の引き寄せる力を完全なものとして受け入れると、一瞬のうちに、あなたは完全に神とひとつに結ばれます。
The reality of this relationship becomes the only truth that you could ever want.
この関係の実在性こそ、あなたが望みうる唯一の真理となります。
All truth is here.
真理のすべてはここにあります。

