T12-3 現実への投資


あなたの求めるどんな認識内容も、あなたの知的財宝を蓄積するためのものなら、それはあなたを進むべき道からそらせる。しかしあなたの求める認識内容が人格を高貴にし世界を進化させるためのものであるなら、それは成熟への途上であなたを一歩前進させる。



Rudolf Steiner
ルドルフ・シュタイナー(「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」より)

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何かやりたくないことがあったら、毎日必ずそれをやることだ。
これが、苦痛なしに義務を果たす習慣を身につけるための黄金律だ。



Mark Twain
マーク・トウェイン

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No price is too high to pay for the privilege of owning yourself.
自分自身の主でいられるという特権のためなら、どれだけ高い代償を払っても足りないくらいだ。



Friedrich Nietzsche
ニーチェ

7でにええwdさ



It is not enough to have a good mind; the main thing is to use it well.
良い心を持つだけでは十分ではない。大切なことはその心をうまく使うことだ。

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René Descartes
ルネ・デカルト



The Battle Within
内なる戦い

I do not understand what I do.
私は自分のしていることがわかりません。

For what I want to do I do not do, but what I hate I do.
なぜなら、私は自分がしたいと望むことをせず、反対に、自分が決してしたくないことをしてしまうからです。

And if I do what I do not want to do, I agree that the law is good.
そして、私が自分のしたくないことをしているのだとしたら、それは、私には律法が正しいことがわかっているということです。

As it is, it is no longer I myself who do it, but it is sin living in me.
ですから、したくないことをしているのは、もはや私自身ではなく、私の中に巣食う罪なのです。

For I know that good itself does not dwell in me, that is, in my sinful nature.
というのも、私には、善良な正しさは私の中に居着いてはおらず、私の内面には邪悪な性質が居座っているのだとわかるからです。

For I have the desire to do what is good, but I cannot carry it out.
私は、正しいことを行いたいのに、どうもがいても、それができません。

For I do not do the good I want to do, but the evil I do not want to do—this I keep on doing.
私には自分のしたい正しいことができず、自分がしたくもない悪いことをしてしまい、どうしてもやめられないのです。

Now if I do what I do not want to do, it is no longer I who do it, but it is sin living in me that does it.
こうなると、もし私が自分ではしたくないことをしているとすれば、もはや、それをなしているのは私ではなく、私に巣食う罪がそれをしているというほかありません。

So I find this law at work: Although I want to do good, evil is right there with me.
こうして私は、自分では正しいことをしたいと望んでいるのに、すぐに邪悪さが自分を支配してどうしても悪いことをしてしまう、という法則が作用していることに気づきました。

For in my inner being I delight in God’s law; but I see another law at work in me, waging war against the law of my mind and making me a prisoner of the law of sin at work within me.
というのも、私は自分の内面の本質においては喜んで神の法に従いたいと望んでいるというのに、私の内的世界はすでに罪の法則の支配下にあり、その法則は私が心を委ねようとする他の法則に戦いを仕掛けて、私を自分の内面で作用している罪の法則に囚われた奴隷にしてしまうことがわかるからです。

What a wretched man I am!
私はなんとみじめで哀れな人間なのでしょう。

Who will rescue me from this body that is subject to death?
いったいだれが、死に隷属するこの身体から私を解放してくれるのでしょうか。

Thanks be to God, who delivers me through Jesus Christ our Lord!
我らが主であるイエス・キリストを通して私を解放してくださる神に感謝します。

So then, I myself in my mind am a slave to God’s law, but in my sinful nature a slave to the law of sin.
ですから、私の邪悪な性質は罪の法則の奴隷だとしても、私は自らの心を神の法に従うしもべとして捧げることにします。

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Romans 7:15-20
ローマ人への手紙 第7章




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今回は、テキスト第十二章から、現実への投資という一節をご紹介します。


間違った投資から正しい投資に切り替える

"Investment"には、投資という意味があります。
投資とは、見返りを得るために資本、元手を投下することです。

この世界では、通常、投資での投下資本としては、金銭がイメージされます。

次節の7.では、

「For spirit is will, and will is the "price" of the Kingdom.
 なぜなら、霊は意志であり、意志こそが王国の『代価』だからです。」

と、王国での"price"は、金銭ではなく意志なのだということが語られます。

本節での投資も、金銭ではなく意志を投下資本とするものであり、「投資」としてイメージするのは、救済という見返りを期待して思いを注ぎ込むことというニュアンスになります。

そして、救済をどのようなものとして捉えるかによって、投資の対象が変わることになります。

この質問は二段構えになっていて、①何が救われるべきか、②どのようにすればそれは救われうるか、という2つの質問です。

①はエゴか心か、②は攻撃か平安か、が答えとしての選択肢となり、①と②は連動します。

恐れを動機としてエゴを攻撃によって救うか、愛のために心を平安によって救うかしかありえず、正気であるかぎり、愛を動機とする以外のどんな反応も答えにはなりえないということです。

本当は自分がすべてであり自分がすべてを持っているという自分が神の子であるという正しい自己認識から出発すれば、無明によって分離を信じてしまっている自分の一部がいる場合、必要なのは、攻撃してさらに分離を助長することではなく、愛によって分離を癒し、自分との一体性を再確立して一なる心を救うことしか答えにはなりようがないはずです。

エゴと一体化して自分を救うために攻撃を進めていくのは、究極的には、ドラえもんの「どくさいスイッチ」のように、虚無へと行き着くことにしかなりません。


頭でっかちにならない

理屈ではコースの言っていることが正しいことは、一生懸命学べば、いくらでも理解できます。

私たちの本質が神の子で、この世界は幻想で、私たちも幻想なのだとしたら、そして、他者の攻撃は、愛を求める哀訴なのであり、返すべきは反撃じゃなくて愛に満ちた助けになるはずだということは理性的にまったく理解できます。

だから、私たちが自分のキャラを離れて、どこか別の世界にあるこの世界のコントロールセンターから高みの見物をして、駒のように自分を含めたアバターを思い通りに操縦できるなら、それこそイエス・キリストや釈迦のような聖者の振る舞いをさせるはずです。




私たちアバターは、ドローンよりも躾の必要な犬のようなもの

けれど、私たちは、このような高みの見物感覚をひとり静かに本を読んでいるときは維持できても、実際に、自分と敵対する人物と対峙し言い争いをしているような場面では、とうてい維持できず、エゴに支配されて感情の赴くままに相手を非難攻撃してしまいます。

そして、あとになって振り返って悔やむわけです。

激情型の暴力事件や性犯罪を犯す人の中には、普段はいい人で、実際に、犯行を終えてからは自分を振り返って省みて、裁判の場では、本気で罪を悔いて反省する人もいます。というよりも、ほとんどの人がそうです。

けれど、本気で反省したはずなのに、再犯に至ってしまうことも決して稀ではありません。

まるで昔はやった妖怪ウォッチの妖怪が取り憑いて本人の意図とは無関係に身体のコントロールを奪われてしまうように思えます。

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私たちがどんなに自覚を深めても、アバターとして生きるかぎり、眠らなければならないし、ご飯を食べなければいけないし排泄もしなければいけないし、人間としての欲求を免れることはありません。



競技場の犬が暴走して飼い主の指示が通らない!

まるで飼い主がコントロールセンターから、競技場内の建物や自分の愛犬以外の他の犬の状況等が完全にカメラで把握できていて、首輪についたスピーカーにトランシーバーを介して愛犬に指示を送って、宝物を獲得する競技をやっているようなもので、飼い主からすれば、愛犬の進むべき方向ややるべきことはすべてわかっているのに、犬のほうはと言えば、普段は優秀で指示が通り、おやつの誘惑なんかに惑わされずに目的に向けて突き進む有能犬だけれど、異性の犬にはめっぽう弱くて、ゴール直前にかわいい異性の犬がいたせいで気を惹かれてそちらにまっしぐらになってしまって飼い主はヤキモキするという状態に近いといえます。



これが犬ではなく、ドローンを操縦しているのだったら、楽なものでしょう。

私たちもコースを学び、頭では、いくらでも理屈を理解することはできますが、頭の理解は、コントロールセンターにいる飼い主に犬の置かれた状況を把握させることには役立っても、犬が飼い主の意向に沿って動けるようにしてくれる効果はまったく伴いません。


知的理解は実践の容易さを保証してはくれない

コースがテキストだけでなく、ワークブックで心の訓練を組み込んでいるのは、犬をしっかり躾けて、飼い主の意向通りに動けるようにしなければならないからです。

神経の病いによって、脳からの指令とは違う運動反応を右手が示してしまうような状態の右手に相当するのが、幻想世界の私たちの存在なわけです。

脳がいかに正しく右手を動かす意図を持って命令を出そうが、実際の神経伝達経路が修復されないかぎり、右手は間違った反応を示し続けるでしょう。

必要なのは、治療とリハビリのはずです。

頭での知的理解に比重を置きすぎないようにしましょう。



イエスも理解よりも行動を重視していた

イェシュアも、理解することよりも、その理解を実践し行動に移すことの大切さを説いています。


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イエス・キリスト



「23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。

25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。

26 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。

27 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」(マタイによる福音書第7章

「6:46わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 6:47わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。 6:48それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。 6:49しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」(ルカによる福音書第6章


「10:25するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。 10:26彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。 10:27彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。 10:28彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。 10:29すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。 10:30イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。 10:31するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。 10:32同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。 10:33ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、 10:34近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 10:35翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。 10:36この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。 10:37彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカによる福音書第10章


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テキスト第十二章

III. The Investment in Reality
三 現実への投資



1. I once asked you to sell all you have and give to the poor and follow me.
 私はかつてあなたたちに、自分の所有するものすべてを売り払って貧しい人々に与えてから私に付き従うように、と求めました。

 This is what I meant: If you have no investment in anything in this world, you can teach the poor where their treasure is.
 私が言わんとしたのは次のことです。それは、もしあなたがこの世界において見返りを期待して思いを注ぎこむ投資を何もしていなければ、あなたは貧しい人々に彼らの宝がどこにあるのか教えることができるということです。

 The poor are merely those who have invested wrongly, and they are poor indeed!
 貧しい人々とは、単に間違って投資してしまった者たちのことでしかありませんが、彼らが貧しいということは間違いありません。

 Because they are in need it is given you to help them, since you are among them.
 彼らは必要に迫られているので、あなたには彼らを手助けする機会が与えられているのです。なぜなら、あなたも彼らの中のひとりだからです。

 Consider how perfectly your lesson would be learned if you were unwilling to share their poverty.
 もしあなたが彼らの貧しさを共有することを不本意に思うようになったなら、そのとき、いかに申し分なく自分がレッスンを学んだことになるか、よく考えてみるとよいでしょう。

 For poverty is lack, and there is but one lack since there is but one need.
 というのは、貧しいというのは欠乏していることですが、ひとつの必要しか存在しないので、ひとつの欠乏しか存在しないからです。



2. Suppose a brother insists on having you do something you think you do not want to do.
 ある兄弟が、あなたが自分ではやりたくないと思うことをあなたにして欲しいと、しつこく要求していると仮定してみましょう。

 His very insistence should tell you that he believes salvation lies in it.
 その兄弟が実に執拗に求めていること自体、あなたにそれをしてもらえるかどうかに自分の救いがかかっていると彼が信じていることを物語っているはずです。

 If you insist on refusing and experience a quick response of opposition, you are believing that your salvation lies in not doing it.
 もしあなたが兄弟の求めを断固として拒絶しようとして即座に抵抗感を覚えたなら、あなたは兄弟の求めることをしないことによって自分は救われると信じているのです。

 You, then, are making the same mistake he is, and are making his error real to both of you.
 そのとき、あなたはその兄弟が犯しているのと同じ過ちを犯していることになり、彼の誤りをあなたたち双方にとっての現実にしてしまいます。

 Insistence means investment, and what you invest in is always related to your notion of salvation.
 強く主張することは何かに期待して思いを注ぎこんでいることを意味します。そして、あなたが何に対して思いを投資するかはつねに、あなたが救済をどのようなものとして考えているのかと関連しています。

 The question is always twofold; first, what is to be saved?
 質問は必ず二段構えになっています。第一は、何が救われるべきなのかという質問です。

 And second, how can it be saved?
 そして第二は、どのようにすれば、それは救われうるだろうかという質問です。

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3. Whenever you become angry with a brother, for whatever reason, you are believing that the ego is to be saved, and to be saved by attack.
 それがどんな理由にせよ、あなたが兄弟に怒りを覚えるときには必ず、あなたはエゴが救われるべきで、それも攻撃することによって救われるべきだと信じているのです。

 If he attacks, you are agreeing with this belief; and if you attack, you are reinforcing it.
 もし兄弟が攻撃するなら、あなたはこう信じることに同意しているのだし、もしあなたが攻撃するなら、あなたはこの信念を増強しているのです。

 Remember that those who attack are poor.
 攻撃する者は貧しいということを覚えておきなさい。

 Their poverty asks for gifts, not for further impoverishment.
 もっとも、彼らの貧しさが必要とするのは恵まれることであって、よりいっそう貧しくなることでありません。

 You who could help them are surely acting destructively if you accept their poverty as yours.
 あなたにはいくらでも彼らを助けることができたはずなのだから、もしあなたが自分も彼らと同じように貧しいと認めるなら、あなたが破壊的に振る舞っているのは間違いありません。

 If you had not invested as they had, it would never occur to you to overlook their need.
 というのは、もしあなたが彼らがそうしたように思いを注ぎこんで投資しなかったなら、彼らに必要なことをあなたが見落とすようなことは絶対になかったはずだからです。



4. Recognize what does not matter, and if your brothers ask you for something "outrageous," do it because it does not matter.
 重要でないものを見極めなさい。そして、もしあなたの兄弟たちが何か「とんでもないこと」をしてほしいとあなたに求めるなら、それはどうでもよいことなのだから、求められるがままにそれをしてあげればよいのです。

 Refuse, and your opposition establishes that it does matter to you.
 それを拒絶するなら、あなたが抵抗すること自体が、あなたにとってそれを重要なことにしてしまいます。

 It is only you, therefore, who have made the request outrageous, and every request of a brother is for you.
 したがって、兄弟の頼み事をとんでもないことにしてしまったのは、ほかならぬあなたなのです。だから、兄弟からの願いは、ひとつ残らずあなたのためになるものなのです。

 Why would you insist in denying him?
 あなたはなぜ、頑として兄弟を拒もうとするのでしょうか。

 For to do so is to deny yourself and impoverish both.
 というのも、兄弟を拒むことはあなた自身を拒むことであり、あなたと兄弟の両方を貧しくすることになってしまうからです。

 He is asking for salvation, as you are.
 その兄弟は、あなたと同じように、救いを求めているのです。

 Poverty is of the ego, and never of God.
 貧困はエゴから生じるものであり、決して神から来るものではありません。

 No "outrageous" requests can be made of one who recognizes what is valuable and wants to accept nothing else.
 何が大切で価値あるもなのか気づき、それ以外には何も受け入れることを望まない者から「とんでもない」要求がなされるはずがないからです。

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5. Salvation is for the mind, and it is attained through peace.
 救済は心のためのものであり、救済は平安を通して得られます。

 This is the only thing that can be saved and the only way to save it.
 心だけが救われうる唯一のものであり、平安だけが心を救うただひとつの方法です。

 Any response other than love arises from a confusion about the "what" and the "how" of salvation, and this is the only answer.
 愛以外のどんな反応も、「何が」、「どのようにして」救われるべきかという救済の対象と方法を取り違えることから生じます。したがって、愛を返すことだけが唯一の答えとなります。

 Never lose sight of this, and never allow yourself to believe, even for an instant, that there is another answer.
 決してこのことを見失ってはなりません。そして、たとえ一瞬でも、別の答えが存在するなどと自分が信じることを許してはなりません。

 For you will surely place yourself among the poor, who do not understand that they dwell in abundance and that salvation is come.
 さもないと、あなたはきっと自分自身を貧しい者のひとりに位置づけてしまうからです。貧しい者たちとは、自分がすでに豊かさの中に生きており、救いが到来していることを理解していない者たちのことです。



6. To identify with the ego is to attack yourself and make yourself poor.
 自分をエゴと同一視することは、あなた自身を攻撃し、あなた自身を貧しくすることです。

 That is why everyone who identifies with the ego feels deprived.
 だからこそ、エゴと一体化する者は誰もみな、自分は欠乏していると感じるのです。

 What he experiences then is depression or anger, because what he did was to exchange self-love for self-hate, making him afraid of himself.
 それゆえ、エゴと一体化する者は憂鬱になったり怒りを感じたりします。なぜなら、彼がなしたのは、自己愛を自己嫌悪と交換して、自分に自分自身のことを恐れさせることだったからです。

 He does not realize this.
 彼には、このことがわかっていません。

 Even if he is fully aware of anxiety he does not perceive its source as his own ego identification, and he always tries to handle it by making some sort of insane "arrangement" with the world.
 たとえ彼が自分の心が不安であることに十分気づいているとしても、彼が、その元凶が自分が自らをエゴと同一視しているせいだと知覚することはありません。そこで、彼はつねに、この世界と何らかの狂気の「協定」を結ぶことでこの不安に対処しようとします。

 He always perceives this world as outside himself, for this is crucial to his adjustment.
 彼は必ず、この世界を自分の外側にあるものとして知覚します。というのも、自分の外側に世界があると知覚することが、彼がこの世界に適応するために決定的に重要なことだからです。

 He does not realize that he makes this world, for there is no world outside of him.
 彼が気づいていないのは次のことです。それは、彼の外側には世界など存在しないのだから、彼がこの世界を作り出しているということです。

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7. If only the loving thoughts of God's Son are the world's reality, the real world must be in his mind.
 もし神の子の愛に満ちた思いだけがこの世界の本質なのだとすれば、真の世界は神の子の心の中にあるに違いありません。

 His insane thoughts, too, must be in his mind, but an internal conflict of this magnitude he cannot tolerate.
 他方で、神の子の狂気の思考もまた、彼の心の中にあるに違いありません。しかし、こんなにも大規模な内面的な葛藤に神の子が耐えられるはずがありません。

 A split mind is endangered, and the recognition that it encompasses completely opposed thoughts within itself is intolerable.
 この大きな内面的葛藤によって分裂した心は死滅する危機に瀕し、分裂した心は、その心自体の中に完全に対立する思いを抱えていると認めることに耐えきれなくなります。

 Therefore the mind projects the split, not the reality.
 そこで、心は現実ではなく、分裂のほうを投影することになります。

 Everything you perceive as the outside world is merely your attempt to maintain your ego identification, for everyone believes that identification is salvation.
 あなたが自分の外側の世界として知覚しているどんな物事も、あなたがなんとかして自分のエゴとの一体化を持続しようと試みていることを示しているだけです。というのは、誰もがみなエゴと同一化することで救われると信じているからです。

 Yet consider what has happened, for thoughts do have consequences to the thinker.
 しかし、その結果、何が起こったのかよく考えてみてください。なぜなら、思いはその思いを思考する者に確実に結果をもたらすからです。

 You have become at odds with the world as you perceive it, because you think it is antagonistic to you.
 あなたは自分の知覚する世界と対立するようになったのです。なぜなら、あなたは世界が自分に対して敵意を持っていると思っているからです。

 This is a necessary consequence of what you have done.
 これが、あなたのなしたことの必然的な結果です。

 You have projected outward what is antagonistic to what is inward, and therefore you would have to perceive it this way.
 あなたは自分の内面にあるものと相容れないものを外側に向けて投影しました。そのせいで、あなたは世界をこんなふうに知覚せざるをえなくなったのです。

 That is why you must realize that your hatred is in your mind and not outside it before you can get rid of it; and why you must get rid of it before you can perceive the world as it really is.
 これが、あなたが世界を本当にあるがままに知覚できるようになるためには、その前に、あなたが自分の憎しみを取り除かなければならない理由であり、これが、あなたが自分の憎しみを取り除けるようになるためには、その前に、自分の憎しみは自分の心の中にあるのであって自分の心の外にあるわけではないと理解しなければならない理由です。



8. I said before that God so loved the world that he gave it to his only begotten Son.
 私は前に、神はそれを自らのひとり子に与えるほど、世界をこよなく愛したと述べました。

 God does love the real world, and those who perceive its reality cannot see the world of death.
 神が真の世界を愛しているのはもちろんであり、真の世界が現実だと知覚する者たちには、死の世界を見ることはできません。

 For death is not of the real world, in which everything reflects the eternal.
 というのも、すべてのものが永遠を反映している真の世界に、死は属していないからです。

 God gave you the real world in exchange for the one you made out of your split mind, and which is the symbol of death.
 神は、あなたが自らの心を分裂させることで作り出した死の象徴である世界と引き替えに、あなたに真の世界を与えてくれたのです。

 For if you could really separate yourself from the Mind of God you would die.
 というのは、もしあなたが本当に自分自身を神の大いなる心から切り離すことができたとしたら、あなたはとっくに死んでしまっているはずだからです。

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9. The world you perceive is a world of separation.
 あなたの知覚している世界は、分離の世界です。

 Perhaps you are willing to accept even death to deny your Father.
 おそらくあなたは自らの大いなる父を否認するためなら、死でさえも厭うことなく進んで受け入れるでしょう。

 Yet he would not have it so, and so it is not so.
 しかし、神はそのようにさせることなど意図しませんでした。だから、現にそのようにはなっていません。

 You still cannot will against him, and that is why you have no control over the world you made.
 あなたは今もなお、神に反して意図できないままです。これが、あなたが自分で作り出した世界に対してまったくコントロールを及ぼすことができない理由です。

 It is not a world of will because it is governed by the desire to be unlike God, and this desire is not will.
 あなたの作り出した世界は、意志からなる世界ではありません。なぜなら、あなたの作った世界は、神とは違ったものになりたいという願望によって支配されており、こんな願望は意志ではないからです。

 The world you made is therefore totally chaotic, governed by arbitrary and senseless "laws," and without meaning of any kind.
 それゆえ、あなたの作り出した世界はまったくの混沌状態にあり、その世界は恣意的で無意味なさまざまな「法則」によって支配されているので、いかなる種類の意味もありません。

 For it is made out of what you do not want, projected from your mind because you are afraid of it.
 というのも、あなたの作り出した世界は、あなたがそれを恐れるがゆえに自分の心から投影したあなたの望まないものを素材にして作り上げられているからです。

 Yet this world is only in the mind of its maker, along with his real salvation.
 しかし、こんな世界はただその作り主の心の中にだけ存在するのであって、その作り主の心の中には彼の真の救済もともに存在しているのです。

 Do not believe it is outside of yourself, for only by recognizing where it is will you gain control over it.
 世界が自分の外側にあるなどと信じてはなりません。なぜなら、ただ世界が実は自分の内側にあると気づくことによってのみ、あなたは世界にコントロールを及ぼす力を得ることになるからです。

 For you do have control over your mind, since the mind is the mechanism of decision.
 というのも、心とは物事を決定する作用のプロセスなので、あなたは自分の心であれば確かにコントロールできるからです。



10. If you will recognize that all the attack you perceive is in your own mind and nowhere else, you will at last have placed its source, and where it begins it must end.
 もしあなたが自分が知覚する攻撃はすべて自分自身の心の中にあり、自分の心の中以外のどこにもないと認識するようになるなら、あなたはついに攻撃の源を探り当てたことになります。そして、攻撃は、それが始まるところで必ず終わることになります。

 For in this same place also lies salvation.
 なぜなら、その同じ場所に救いも見出されるからです。

 The altar of God where Christ abideth is there.
 そこには、キリストの住む神の祭壇があります。

 You have defiled the altar, but not the world.
 あなたは、その祭壇を穢してしまいましたが、世界を穢したわけではありません。

 Yet Christ has placed the Atonement on the altar for you.
 しかし、キリストはあなたに代わって、その祭壇に贖罪を置いてくれました。

 Bring your perceptions of the world to this altar, for it is the altar to truth.
 世界についてのあなたの知覚をこの祭壇に持ってきてください。なぜなら、この祭壇は真理を祀る祭壇だからです。

 There you will see your vision changed, and there you will learn to see truly.
 この祭壇において、あなたは自分の視覚が変容するのがわかるでしょう。そして、この祭壇で、あなたは真に見ることを学ぶようになります。

 From this place, where God and his Son dwell in peace and where you are welcome, you will look out in peace and behold the world truly.
 神と神の子が平安のうちに住み、あなたが喜んで歓迎されるこの場所から、あなたは心安らかに外に目を向けて世界を真に見るでしょう。

 Yet to find the place, you must relinquish your investment in the world as you project it, allowing the Holy Spirit to extend the real world to you from the altar of God.
 しかし、その場所を見つけるためには、あなたは自らが投影した世界に自分が注ぎこんできた思い入れを放棄して、聖霊が真の世界を神の祭壇からあなたへと拡張できるようにしなければなりません。


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