T31-3 自らを咎める者
自分の人生の責任を転嫁する相手を探すのはやめなさい。あなたの中の真実を直視し、自分の誤りを正しなさい。

アイリーン・キャディ

今回は、テキスト第三十一章から、自らを咎める者という一節をご紹介します。
他者を咎めようとするのは、自責の念を抱く者だけ
罪という時限爆弾を抱えていると思うと、自分が手元に爆弾を抱えていることに耐えられず、他者に投げつけて楽になろうという衝動に駆られます。
このような投影が非難の根拠だとすると、私たちは決して他者の罪を理由に彼を憎むわけではなく、ただ自分自身の罪のゆえに彼を憎むという心理作用が無意識に起こっているということがわかります。
他者を咎めようとするのは、自責の念を抱く者だけなわけです。
他者の罪がどんな形に見えようと、それは単に、私たちが自分の罪を彼の罪として見ており、それゆえに「正当な」攻撃に値すると信じているという事実を覆い隠しているだけです。
私たちが他者の罪を許しがたいものだと思うのは、私たちがそれらの罪が自分の中にある自分の罪で許しがたいものであると信じ、自分を憎んでいるからです。
そして、私たちは自らが攻撃されるに値する罪人だと信じているからこそ、他者を攻撃することで爆弾を手元から放り出せると思って投影しますが、こうすることで私たちは自分が受けるに値すると信じているものと同じものを与えて、自分は有罪であると断言しているのです。
もし私たちが自分は攻撃されるに値すると信じなかったなら、誰かを攻撃することなど絶対に思いつきもしなかったはずです。
他者を攻撃しても何の得もないからです。
罪は行動として知覚されます。
自分は身体だと信じることで身体は心を幽閉する牢獄となる
行動は身体によってなされるので、身体が犯す罪について咎められるべきは身体であり、私たちが罪人だというなら、私たちは身体だという理屈になります。
もし私たちが罪人であるとすれば、私たちは心を身体の中に封じ込めたうえで、その心の目的をその牢獄に与え、この牢獄が心の代わりに行動することになり、看守である身体は命令に従う者ではなく、囚人である心に命令を押しつける存在だということになります。

心は自ら望んで囚人になっているだけ
しかし、そもそも身体は単なる物体であって思考する力はなく、学んだり赦したり、隷属させたりする力を持ち合わせていないのだから、身体のほうが囚人なのであって、心は囚人ではありません。
したがって、心が勝手に自分で自ら望んで身体に幽閉されることしか起こりえません。
こうして、身体は、心を囚人として幽閉する体(てい)をなしてはいますが、実質は心が主人なので、身体は心の命ずるままに病気にもなります。
そして、自発的に身体という独房に幽閉されようという心そのものが病んでいるので、身体は年老いて死ぬことになります。
学びによって変化することだけが脱出の手立て
この状態から脱するには、学ぶことで変化を引き起こすことだけが手立てとなりますが、その中でいかなる学習も起こりえない身体が変化することは決してできません(ただし、心が自らの与える目的に沿うように身体の外観を変えたいと思う場合は別です)。
これに対して、心は学習することができるし、心はあらゆる変化を起こせます。
この世界で、私たちは自分の信じるものを見るようになり、自分の信じることを変える力が与えられていることが福音となります。
ただ従うだけの身体に心が学ぶことを邪魔することはできません。
心と身体を一緒に監禁する状態、すなわち、自分を身体だと思うこと、または、身体の中に閉じ込められた心だと思うことから脱すれば、私たちは誰のことも、牢獄の囚人として見ることはなくなるでしょう。
自分が選んだ敵を罪悪感の中に縛りつけようとは思わないし、自分が友だと思っている者たちを、移り変わる愛の幻想に鎖でつなぎ留めようとも思わなくなるでしょう。

テキスト第三十一章
III. The Self-Accused
三 自らを咎める者
1. Only the self-accused condemn.
自責の念を抱く者だけが咎めようとします。
As you prepare to make a choice that will result in different outcomes, there is first one thing that must be over-learned.
あなたが以前とは違う帰結をもたらす選択をするための準備をするに際して、徹底して学ぶべきことがまずひとつ存在します。
It must become a habit of response so typical of everything you do that it becomes your first response to all temptation, and to every situation that occurs.
それは、どのような誘惑にさらされようとも、また、いかなる状況が生じようとも、それに対してあなたがまっ先に示す反応となるくらい普通の反応になるまで習慣化しなければなりません。
Learn this, and learn it well, for it is here delay of happiness is shortened by a span of time you cannot realize.
このことを学んでください。それも、しっかりと学んでください。というのは、そうすることで、幸せがやってくるのが遅れていた時間が自分でも信じられないほど短縮されるからです。
You never hate your brother for his sins, but only for your own.
あなたは決して自分の兄弟の罪のせいで彼を憎むのではなく、ただ自分自身の罪のゆえに彼を憎むのです。
Whatever form his sins appear to take, it but obscures the fact that you believe them to be yours, and therefore meriting a "just" attack.
兄弟の罪がどんな形をとるように見えようと、それは単に、あなたが彼の罪は自分にとっても罪だと信じており、それゆえに、それにふさわしい「公正な」攻撃に値すると信じているという事実を覆い隠しているだけです。
2. Why should his sins be sins, if you did not believe they could not be forgiven in you?
もしあなたが同じ罪を自分が犯した場合にそれが赦されうるものと信じていたなら、兄弟の罪が罪である必要はないはずです。
Why are they real in him, if you did not believe that they are your reality?
もしあなたが同じ罪が自分にとって本当の罪だと信じていなかったなら、兄弟の罪は兄弟にとって本当の罪とはいえないはずです。
And why do you attack them everywhere except you hate yourself?
それなのに、あなたが至るところで兄弟の罪を攻撃しているということは、取りも直さず、あなたが自分自身を憎んでいることを示しているはずです。
Are you a sin?
あなたは咎められるべき罪人なのでしょうか。
You answer "yes" whenever you attack, for by attack do you assert that you are guilty, and must give as you deserve.
あなたが攻撃するたびに、あなたは「はい」と答えているのです。というのも、攻撃することによって、あなたは自分は有罪であると断言しているのであり、自分が受けるに値するのと同じものを与えざるをえないからです。
And what can you deserve but what you are?
しかし、あなたは、本当の自分以外の何に値するというのでしょう。
If you did not believe that you deserved attack, it never would occur to you to give attack to anyone at all.
もしあなたが自分は攻撃されるに値すると信じなかったなら、あなたには誰かに攻撃を加えることなど絶対に思いつきもしなかったはずです。
Why should you?
なぜあなたは攻撃しなければならないのでしょう。
What would be the gain to you?
攻撃することで、あなたにとって何の得があるというのでしょうか。
What could the outcome be that you would want?
あなたが望む結果とは、どんなものでありうるでしょうか。
And how could murder bring you benefit?
そして、どうして、人を殺すことがあなたに利益をもたらすことがありうるというのでしょうか。

3. Sins are in bodies.
罪は身体の中に見出されます。
They are not perceived in minds.
罪は、心の中に知覚されるわけではありません。
They are not seen as purposes, but actions.
罪は、目的とみなされることはなく、行動とみなされます。
Bodies act, and minds do not.
身体は行動しますが、心は行動しません。
And therefore must the body be at fault for what it does.
したがって、身体こそが、身体が行なうことについて咎められるべきだということになります。
It is not seen to be a passive thing, obeying your commands, and doing nothing of itself at all.
身体は、あなたの命令に従い、身体それ自体では何かをすることなどまったくない受動的なものだとはみなされてはいません。
If you are sin you are a body, for the mind acts not.
もしあなたが罪人であるなら、あなたは身体だということになります。というのは、心は行動しないからです。
And purpose must be in the body, not the mind.
そして、目的は、心ではなく身体の中にあるに違いないということになります。
The body must act on its own, and motivate itself.
身体はそれ自体で行動し、それ自体を動機づけるに違いないということになります。
If you are sin you lock the mind within the body, and you give its purpose to its prison house, which acts instead of it.
もしあなたが罪人であるなら、あなたは心を身体の中に閉じこめたうえで、その心の目的をその牢獄に与え、この牢獄が心の代わりに行動することになります。
A jailer does not follow orders, but enforces orders on the prisoner.
看守である身体は命令に従うのではなく、囚人である心に命令に従うよう強制することになります。
4. Yet is the body prisoner, and not the mind.
しかし、身体のほうが囚人なのであって、心は囚人ではありません。
The body thinks no thoughts.
身体はいかなる想念も思考することはないからです。
It has no power to learn, to pardon, nor enslave.
身体には、学んだり赦したり、奴隷にしたりする力などありません。
It gives no orders that the mind need serve, nor sets conditions that it must obey.
身体は、心が従う必要のある命令を何も与えることはないし、心が従わなければならない条件を定めることもありません。
It holds in prison but the willing mind that would abide in it.
身体が幽閉できるのは、ただ自ら望んで身体の中に留まろうとする心だけです。
It sickens at the bidding of the mind that would become its prisoner.
身体は、身体の囚人となろうとする心の命ずるままに病気にもなります。
And it grows old and dies, because that mind is sick within itself.
そして、心そのものが病んでいるので、身体は年老いて死ぬことになります。
Learning is all that causes change.
学ぶことだけが変化を引き起こします。
And so the body, where no learning can occur, could never change unless the mind preferred the body change in its appearances, to suit the purpose given by the mind.
したがって、その中でいかなる学習も起こりえない身体が変化することは決してできません。ただし、心が自らの与える目的に沿うように身体の外観を変えたいと思う場合は別です。
For mind can learn, and there is all change made.
というのは、心は学習することができるし、心はあらゆる変化を起こせるからです。

5. The mind that thinks it is a sin has but one purpose; that the body be the source of sin, to keep it in the prison house it chose and guards and holds itself at bay, a sleeping prisoner to the snarling dogs of hate and evil, sickness and attack; of pain and age, of grief and suffering.
自分のことを咎めを受けるのが当然だと思いこんでいる心にはひとつの目的しかありません。その目的とは、心が自ら選んだ牢獄に自らを幽閉し、眠りこんだ囚人を、憎悪や不幸、病気や攻撃、苦痛や老化、悲嘆や苦難という牙を剥いて唸る犬たちによって追いつめて見張って支配するために、身体を罪の源にすることです。
Here are the thoughts of sacrifice preserved, for here guilt rules, and orders that the world be like itself; a place where nothing can find mercy, nor survive the ravages of fear except in murder and in death.
ここに数々の犠牲の想念が保存されています。というのは、ここは罪悪感が統治し、世界が罪悪感そのものと同じような場所、すなわち、何ものも慈悲を見出すことができず、恐怖の破滅的な荒波を乗り切るには殺害と死によるほかない場所になるように命ずるからです。
For here are you made sin, and sin cannot abide the joyous and the free, for they are enemies which sin must kill.
なぜなら、ここではあなたは咎められるべき罪人にされますが、罪人には、喜びに満ちた者や自由な者たちに我慢がならないからです。というのも、喜びに満ちた自由な者たちは罪人が抹殺すべき敵だからです。
In death is sin preserved, and those who think that they are sin must die for what they think they are.
死ぬことによって罪は温存され、自分は咎められて当然だと思っている者たちは、自分の抱く自己像のゆえにどうしても死ぬことになってしまうのです。
6. Let us be glad that you will see what you believe, and that it has been given you to change what you believe.
あなたは自分の信じるものを見るようになること、そして、あなたには自分の信じることを変える力が与えられていることを私たちで一緒に喜びましょう。
The body will but follow.
身体は、ただ従うだけです。
It can never lead you where you would not be.
身体には、あなたが行くつもりのないところにあなたを導くことは決してできません。
It does not guard your sleep, nor interfere with your awakening.
身体は、あなたの眠りを守ることも、あなたの目覚めを邪魔することもしません。
Release your body from imprisonment, and you will see no one as prisoner to what you have escaped.
あなたの身体を監禁状態から解放してください。そうすれば、自分がすでにそこを脱出しているがゆえに、あなたは誰のことも、牢獄の囚人として見ることはなくなるでしょう。
You will not want to hold in guilt your chosen enemies, nor keep in chains, to the illusion of a changing love, the ones you think are friends.
あなたは自分が選んだ敵を罪悪感の中に縛りつけようとは思わないし、自分が友だと思っている者たちを、移り変わる愛の幻想に鎖でつなぎ留めようとも思わなくなるでしょう。

7. The innocent release in gratitude for their release.
罪のない者は、自分たちが解放されていることに感謝して、喜んで解放します。
And what they see upholds their freedom from imprisonment and death.
そして、彼らの目にするものが、彼らが幽閉や死から解放されていることを裏づけてくれます。
Open your mind to change, and there will be no ancient penalty exacted from your brother or yourself.
変化に対してあなたの心を開いてください。そうすれば、兄弟やあなた自身に古来の懲罰が強要されることなどなくなるでしょう。
For God has said there is no sacrifice that can be asked; there is no sacrifice that can be made.
というのは、神は、いかなる犠牲も求められることはなく、いかなる犠牲も捧げることはできないと述べているからです。


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