T23-3 妥協することのない救済

2014年08月15日
テキスト第23章(自分自身との戦い) 0

There is no path to peace. Peace is the path.
平和に至る道などない。平和こそが道なのだから。

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Mahatma Gandhi
マハトマ・ガンジー





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テキスト第二十三章から妥協することのない救済という一節をご紹介します。


救済には妥協がない

本節では、形態次第では、容認される攻撃もあるという観念を否認し、救済には妥協がないということを宣言します。

この世界という舞台上での出来事をこの舞台上で解決するという前提に立つかぎりは、世界が容認するように、正当防衛は認められるべきだし、平和維持のための戦争もやむをえないことであり、どの場合が正当で、どの場合が罰せられるべきか、原則と例外を定めて、無限のバリエーションに応じた適切な解決を模索した場合分けが必要になります。

けれど、舞台上での出来事が人形劇であり、どの人形が悪でどの人形を救うべきかという劇に没頭することによって、自分が人形だと思い込む状態から抜け出せなくなっていることに気づいて、舞台をひっくり返すという観点では、攻撃はどのような事情で行われるものであれどれも攻撃であり、この殺人はよくない殺人だが、この場合は正しい殺人になると価値判断したり解釈したりするスタンスそのものが、幻想を真理に格上げして舞台に立ち続けることを意味するので、救済とは相容れないベクトルだということになります。






たいてい世界や登場人物の実在性がいつのまにか議論の前提になっている

このテーマは、どうしても錯綜して混乱します。

世界の幻想性を前提に発想を始めたはずなのに、気がついたら、いつの間にか幻想の中の登場人物や幻想世界の実在性が議論の基盤に入り込んでいたという事態になるからです。


答えが出てこないときはつねに、戦場から上空に浮上して俯瞰した視点で、罪など実在の不在に名前をつけた概念が実在することを前提にしているのではとチェックしてみる

けれど、答えが出なくなるときは必ず、赦しの①罪が実在しない幻だと見極めて、②その認識通りに看過する、の①が抜け落ちて、上の人形劇の舞台に足を置いたまま②を行おうとしているからだということを思い出さなければなりません。

23章のタイトルに即して言うなら、飛び立ったつもりが、重力に縛り付けられて、足を地につけて戦場に身を置いたままでいて、戦場の上空に上昇していないということです。

上空から戦場を眺めたなら、舞台上の人形のひとつに感情移入して曇った視点に揺るがされることがないので、仮に戦場に戻ったとしても、そこでふさわしい対処を見出すことができます。

はたらく細胞的に、人体内で自己免疫疾患で自分の体内で自分の一部が別の自分の一部を攻撃する自分自身との戦いが起こっている場合でも、攻撃している抗体や免疫細胞も、攻撃されている特定の細胞も等しく愛すべき自分の一部であり、なすべきことは免疫系の間違った指令を正して、抗体の攻撃を止めるための免疫システムの異常の修正であり、攻撃している抗体や免疫細胞を攻撃して抹殺してもその場しのぎにしかならないということがわかります。







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テキスト第二十三章



III. Salvation without Compromise
三 妥協することのない救済



1. Is it not true you do not recognize some of the forms attack can take?
 攻撃がとるかもしれない形次第では、それが攻撃だとあなたが気づかないこともあるのは、真実ではないでしょうか。

 If it is true attack in any form will hurt you, and will do so just as much as in another form that you do recognize, then it must follow that you do not always recognize the source of pain.
 もしどのような形であれ、攻撃があなたを傷つけ、それが攻撃だと確実にあなたにわかるような別の形の攻撃と同じくらいあなたを傷つけるのが真実だとすれば、あなたは必ずしもつねに苦しみの源を認識しているわけではないと結論づけることができます。

 Attack in any form is equally destructive.
 どんな形をとろうとも、攻撃は等しく破壊的なものです。

 Its purpose does not change.
 攻撃の目的は変わらないからです。

 Its sole intent is murder, and what form of murder serves to cover the massive guilt and frantic fear of punishment the murderer must feel?
 攻撃する唯一の目的は殺すことです。そうだとしたら、殺害がどのような形をとれば、殺人者が感じるに違いない、殺害に当然に伴うとてつもない罪悪感や気が狂いそうになるほどの処罰への恐怖を覆い隠すのに役立つというのでしょうか。

 He may deny he is a murderer and justify his savagery with smiles as he attacks.
 その人は、自分は人殺しではないと否認したり、攻撃する際に笑って見せることで、自らの蛮行を正当化するかもしれません。

 Yet he will suffer, and will look on his intent in nightmares where the smiles are gone, and where the purpose rises to meet his horrified awareness and pursue him still.
 それでも、彼は確かに苦しむことになるし、自分の殺意を悪夢の中で見つめることになるでしょう。その夢の中では、笑顔は消え去り、殺意が湧いてきては、彼の恐れおののく自覚に直面し、なおも彼を追い回すでしょう。

 For no one thinks of murder and escapes the guilt the thought entails.
 というのは、殺すという思いを抱きながら、そんな思いに必然的に伴う罪悪感を免れる者は、誰ひとりいないからです。

 If the intent is death, what matter the form it takes?
 もし意図しているのが死であるなら、それがどんな形をとろうと関係ありません。



2. Is death in any form, however lovely and charitable it may seem to be, a blessing and a sign the Voice for God speaks through you to your brother?
 いかなる形であれ、どんなにそれが愛に満ちて慈悲深いものに見えようとも、死が祝福であって、神を代弁する大いなる声があなたを通して兄弟に語りかけている印であるはずがありません。

 The wrapping does not make the gift you give.
 包み紙が、あなたの与える贈り物を作るわけではないからです。

 An empty box, however beautiful and gently given, still contains nothing.
 空っぽの箱は、どれほど美しかろうが、どんなに優しく与えられようが、中には何も入ってはいないままです。

 And neither the receiver nor the giver is long deceived.
 そして、受け取るほうも与えるほうも、いつまでも騙されたままではいません。

 Withhold forgiveness from your brother and you attack him.
 兄弟に赦しを与えずにおくとき、あなたは彼を攻撃しているのです。

 You give him nothing, and receive of him but what you gave.
 あなたは兄弟に無を与え、自分が与えた無だけを彼から受け取るのです。

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3. Salvation is no compromise of any kind.
 救済とは、いかなる種類の妥協でもありません。

 To compromise is to accept but part of what you want; to take a little and give up the rest.
 妥協することは、自分が望むものの一部だけを受け入れることであり、少しだけ手に入れて残りは諦めることです。

 Salvation gives up nothing.
 これに対して、救済は何ひとつ諦めません。

 It is complete for everyone.
 救済は、誰にとっても完全なものです。

 Let the idea of compromise but enter, and the awareness of salvation's purpose is lost because it is not recognized.
 妥協という思いが入りこむのを容認するだけで、救済を見分けられなくなるので、救済という目的についての自覚は失われてしまいます。

 It is denied where compromise has been accepted, for compromise is the belief salvation is impossible.
 妥協を受け入れたら、救済は否認されます。というのも、妥協することは、救いは不可能だと信じることだからです。

 It would maintain you can attack a little, love a little, and know the difference.
 妥協は、あなたには少しだけ攻撃したり、少しだけ愛したりできるし、その違いを知ることもできると主張します。

 Thus it would teach a little of the same can still be different, and yet the same remain intact, as one.
 こうして、妥協は、同じもののごく一部だけを違うものにしておくことが可能で、それでいて、同じものは損なわれることなく、ひとつものであり続けることが可能だと教えようとします。

 Does this make sense?
 こんなことが意味をなすでしょうか。

 Can it be understood?
 これは理解できることでしょうか。



4. This course is easy just because it makes no compromise.
 このコースが容易なのはまさに、それがまったく妥協しないものだからです。

 Yet it seems difficult to those who still believe that compromise is possible.
 ただし、妥協が可能だと信じたままでいる者には、このコースは難しく思えます。

 They do not see that, if it is, salvation is attack.
 彼らには、もし妥協が可能だとすれば、救済とは攻撃だということになるのがわからないからです。

 Yet it is certain the belief that salvation is impossible cannot uphold a quiet, calm assurance it has come.
 しかし、救済は不可能だと信じていたら、すでに救いが訪れているという静かで穏やかな確信を維持できないのは間違いありません。

 Forgiveness cannot be withheld a little.
 赦しを少しだけ与えずにおくということはできません。

 Nor is it possible to attack for this and love for that and understand forgiveness.
 それに、このことについては攻撃するけれど、あのことについては愛することにしておきながら、赦しを理解しようとしても、それは不可能というものです。

 Would you not want to recognize assault upon your peace in any form, if only thus does it become impossible that you lose sight of it?
 もし無条件に赦すことによってのみ、自分が平安を見失わずに済むようになるのだとすれば、あなたは形を問わず平安に対して自分が仕掛ける攻撃を決して見逃すまいと思うのではないでしょうか。

 It can be kept shining before your vision, forever clear and never out of sight, if you defend it not.
 あなたが平安を守ろうとしなければ、平安は、あなたのヴィジョンの前で、永遠にはっきりと決して見失われることなく、その輝きを保ち続けることができるのです。

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5. Those who believe that peace can be defended, and that attack is justified on its behalf, cannot perceive it lies within them.
 平安は防衛できるものであり、平安を防衛するために攻撃することには正当な根拠があると信じる者には、平安が自分の内にあることが知覚できません。

 How could they know?
 どうして彼らにわかるというのでしょうか。

 Could they accept forgiveness side by side with the belief that murder takes some forms by which their peace is saved?
 自分たちの平安が無事に守られるのであれば、何らかの形での殺人すらその手段となりうるという信念を抱きながら、それでいて、その彼らが同時に赦しを受け入れることなどできるでしょうか。

 Would they be willing to accept the fact their savage purpose is directed against themselves?
 自分たちの残忍な目的が自分たち自身に向けられているという事実を、彼らが進んで受け入れようとするでしょうか。

 No one unites with enemies, nor is at one with them in purpose.
 誰しも、敵と手を結ぶことはないし、敵と同じひとつの目的を持つこともありません。

 And no one compromises with an enemy but hates him still, for what he kept from him.
 それに、敵と妥協する者は誰でも、敵がまだ自分に与えずに保っているもののゆえに、敵を憎まずにはいられません。



6. Mistake not truce for peace, nor compromise for the escape from conflict.
 休戦を平和と取り違えてはなりません。また、妥協を争いからの脱出と取り違えてもなりません。

 To be released from conflict means that it is over.
 争いから解放されることが意味するのは、争いが終わったことです。

 The door is open; you have left the battleground.
 扉が開かれ、あなたはその戦場から立ち去ったのです。

 You have not lingered there in cowering hope that it will not return because the guns are stilled an instant, and the fear that haunts the place of death is not apparent.
 あなたは、銃声が一瞬の間静まって死に場所につきまとう恐怖が姿を見せなくなったからといって、恐怖に身をすくめて再び戦闘が始まることがないようにと期待しながら、ぐずぐず戦場に留まったりはしなかったのです。

 There is no safety in a battleground.
 戦場には、いかなる安全も存在しません。

 You can look down on it in safety from above and not be touched.
 あなたは、戦場の上空からであれば、戦場を安全に見下ろせるし、何の影響も受けずにいられます。

 But from within it you can find no safety.
 しかし、戦場のさなかにあっては、あなたはいかなる安全も見出せません。

 Not one tree left still standing will shelter you.
 いまだに残って立っている木はどれひとつ、あなたを危険から守ってはくれないでしょう。

 Not one illusion of protection stands against the faith in murder.
 守られているという錯覚は、何ひとつ、殺害への信仰に対抗できません。

 Here stands the body, torn between the natural desire to communicate and the unnatural intent to murder and to die.
 ここでは、身体は、コミュニケーションをとりたいという自然な願望と、殺したり死んだりしたいという不自然な意図とに引き裂かれてしまっています。

 Think you the form that murder takes can offer safety?
 あなたは、それがとる形によっては、殺人が安全をもたらすことができると思っているのでしょうか。

 Can guilt be absent from a battlefield?
 戦場から罪悪感がなくなることなどありうるでしょうか。


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It’s not how much we give, but how much love we put into giving. – Mother Teresa

 松山 健 Matsuyama Ken
この記事を書いた人:  松山 健 Matsuyama Ken

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