T26-3 国境地帯
この世で一番遠い場所は自分自身の心である。

寺山修司
あくる日になって、バスチアンはもう一度、自分のさがすもののことで、おばさまにはなしかけた。
「ぼく、生命の水、どこをさがせばいいの?」
「ファンタージエンの境。」アイゥオーラおばさまはいった。
「だけど、ファンタージエンには、境がないのでしょう?」バスチアンはたずねた。
「あるのよ。でもそれは、外にあるのではなくて、内にあるの。幼ごころの君が、すべてのお力をそこから受けておいでになって、しかも、ご自分はそこへいらっしゃれないところなのよ。」
「そこを、ぼくは見つけなくちゃならないんですね。」バスチアンは心配そうにたずねた。
「もう、手おくれじゃないかな?」
「そこを見いだすための望みは、たった一つしかないの。それが最後の望みなのよ。」
バスチアンははっとした。
「アイゥオーラおばさまアウリンがぼくの望みをみたしてくれるたびに、ぼくはいつも、何か忘れていったんです。今度も、そうなるのかしら?」
おばさまはゆっくりとうなずいた。
「でも、ぼく、なんにも気がつかないけど。」
「じゃあ、今まで、気がついたことがあったの?忘れてしまったものは、もう自分ではわからないわ。」
「ぼく、今度は何を忘れるんだろう?」
「それは、その時がきたら、いってあげましょう。そうしないと、あなたはそれをつかまえて放すまいとするでしょうから。」
「ぼく、何もかも失ってしまわなくちゃいけないのかしら?」
「何一つ失われはしないのよ。」おばさまはいった。「みんな、変わるの。」
「だったら、ぼく、」バスチアンは不安になっていった。「きっと急がなくちゃいけないんだ。ここにいつまでもぐずぐずしてちゃいけない。」
おばさまはバスチアンの髪をなでた。
「心配しなくてもいいのよ。時間はかかるだけかかるものなの。あなたの最後の望みが目覚めたら、そのときは、あなたにわかるわーーわたしにも。」

ミヒャエル・エンデ(「はてしない物語」より)

今回はテキスト第二十六章から、国境地帯という一節をご紹介します。
幻と現実との境目
この世界と天国との間には、天国の門を少し越えたあたりに、想念の国境地帯が存在します。
この国境地帯の別名は、"the Real world"、「真の世界」です。
そこは場所ではありませんが、この国境地帯でさまざまな思いが一堂に会し、相容れない価値観同士が出会い、すべての幻想が真理の傍に置かれて、そこですべての幻想は偽りとして裁かれ、一つひとつの思いは清らかでまったく単純なものにされます。
これが最後の審判であり、救済であり、贖罪の完了であり、旅路の終わりです。

はてしない物語でのアウリン
はてしない物語」では、物語世界ファンタージエンとバスチアンのいた現実の世界との境目としては、虚無の穴、南のお告げ所のスフィンクスの門を通り抜けた先の第二の門である魔法の鏡、アウリンの中にある白と黒の巨大な2匹の蛇が守護する生命の泉が出てきます。
本節の国境地帯は、アウリンの中の巨大なドームで陰陽二匹の蛇が守る生命の泉に相当するといえるでしょう。
はてしない物語の中では、アウリンは物語の主人公として旅する者だけが身につけるものでした。
アウリンは、それを身につけるのがファンタージエンの生き物か人の子かによって真逆の作用を発揮します。
アウリンは、それを身につけるファンタージエンの生き物にとっては聖なる導きとなり、羅針盤の働きをして物語のために主人公を正しく導きます。
これに対して、人の子に対しては、アウリンは、釈迦にとってのマーラ、イエスにとってのサタンのように、覚醒に導く助けとして登場する誘惑者として悪魔のような働きをします。

人の子に対してアウリンは、「汝の欲することをなせ」と命じ、彼の現実世界での記憶と引き換えに物語世界で望みを叶えさせ、誘惑にさらすことで、彼に自分が真に望むのは真実の愛であると気づかせる役目を果たしますが、誘惑に負けた者たちを廃人にしてしまう残酷な面があります。
私たちもエゴと聖霊の陰と陽が縁取るアウリンを持っている
私たちも自分の物語を生きる主人公であり、陰陽二匹の蛇が尾を噛み合って円環をなすアウリンを胸の内に持っています。
それは聖霊とエゴが拮抗し合う形で縁取られる個別の心です。
私たちは、アウリンを持つ人の子と同じように、エゴが主導する心に惑わされて、バスチアンのように、本当の自分を忘れることによって、美しい自分、強い自分、賢い自分、権力を持つ自分を追い求めます。
野望が潰(つい)えてからの放浪の旅の末、バスチアンは自分が真に求めていたのは、自分以外の偉大な何者かになることではなく、本当の自分自身であることの喜びであり、愛することができるという喜びだったのだと気づきます。
「生きる悦び 、自分自身であることの悦び 。自分がだれか 、自分の世界がどこなのか 、バスチアンには 、今ふたたびわかった 。新たな誕生だった 。今は 、あるがままの自分でありたいと思った 。そう思えるのは 、何よりすばらしいことだった 。あらゆるあり方から一つを選ぶことができたとしても 、バスチアンは 、もうほかのものになりたいとは思わなかっただろう 。今こそ 、バスチアンにはわかった 。世の中には悦びの形は何千何万とあるけれども 、それはみな 、結局のところたった一つ 、愛することができるという悦びなのだと 。愛することと悦び 、この二つは一つ 、同じものなのだ」(はてしない物語 ミヒャエル・エンデ作 上田 真而子、佐藤真理子訳 岩波文庫)。
友のために捧げるとき、アウリンは現実に通じる門を開く
アトレーユもバスチアンも、アウリンを胸に下げているときには、それが異世界に通じる門だとは気づきませんでした。
門が現れたのは、バスチアンが自分の首からアウリンを外して、友アトレーユの前に置いたときでした。
私たちのアウリンも、自分だけのものとして後生大事にしているかぎりは、エゴが私たちを惑わし迷走させて誘惑者の役目を忠実に遂行し続けます。
しかし、バスチアンがアウリンの誘惑にさらされて欲望に突き動かされ、廃人になる寸前にまで堕ち、すべての記憶を失い何も望むことができなくなるまで放浪することがなかったなら、物語は成立しないし、バスチアンは真の意味で生きる喜び、自分であることの喜び、愛することのできる喜びを得ることはできなかったはずです。
屈することさえなければ、誘惑と死にさらされて破滅の淵を歩む旅も、最後には正しい道となる
アイゥオーラおばさまの言葉を思い出しましょう。
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アイゥオーラおばさまはバスチアンを長いこと見つめていたが、やがていった。
「いいえ、わたしはそう思わないわ。あなたは望みの道を歩いてきたの。この道は、けっしてまっすぐではないのよ。あなたも大きなまわり道をしたけれど、でもそれがあなたの道だったの。どうしてだか、わかるかしら?あなたは、生命の水の湧きでる泉を見つければ、帰れる人たちの一人なの。そこは、ファンタージエンの一番深く秘められた場所なのよ。そこへゆく道は、簡単ではないわ。」
そしてしばらく口をつぐんでから、またことばをついだ。
「そこへ通じる道なら、どれも、結局は正しい道だったのよ。」
ーーーー
生命の泉に飛び込む
放蕩息子が愛に満ちた父の下に帰還するためには、彼はどうしても出奔する必要があったわけです。
私たち人類は、「元帝王たちの都」の住人として長らく暮らし、もう十二分に放蕩のかぎりを尽くしました。
もうそろそろ誘惑を本質を見極める機会として活用して、すべての物事の奥底には愛と愛を求める呼び声が潜んでいると見極めて父の下へと帰るときです。
エゴは実は敵ではなく、誘惑を通じて私たちを成長させる悪役を担う味方だったわけです。
私たちもバスチアンのようにアウリンを自分から外して、兄弟に聖なる輪の中に入るよう呼びかけることで、生命の水に飛び込むことができるようになるのでしょう(T14-5 心の中にある聖地)。

テキスト第二十六章
III. The Borderland
三 国境地帯
1. Complexity is not of God.
複雑さは、神に由来するものではありません。
How could it be, when all He knows is One?
神が知るのは一なるものだけであるのに、神に複雑さを生み出せるはずがないからです。
He knows of one creation, one reality, one truth and but one Son.
神が知るのはひとつの創造、ひとつの現実、ひとつの真理、そして、ただひとりの子だけです。
Nothing conflicts with oneness.
一なるものに対立するものなど何もありません。
How, then, could there be complexity in Him?
そうだとすれば、どうして神の中に複雑さがありうるでしょうか。
What is there to decide?
選ぶべき何が存在するというのでしょうか。
For it is conflict that makes choice possible.
というのは、選択を可能にするのは葛藤だけだからです。
The truth is simple; it is one, without an opposite.
真理は単純であり、相反するものを持たない一なるものです。
And how could strife enter in its simple presence, and bring complexity where oneness is?
どうして、その単純な存在の中に争いが入りこんで、一なる状態に複雑性をもたらすことができるでしょうか。
The truth makes no decisions, for there is nothing to decide between.
真理はいかなる決断もしません。なぜなら、その間でどちらにすべきか決めなければならないものなど何ひとつ存在しないからです。
And only if there were could choosing be a necessary step in the advance toward oneness.
だから、もしどちらにすべきか決めなければならないものがありえた場合にだけ、選択することは一なる状態に向けて進むために必要な一歩となりえます。
What is everything leaves room for nothing else.
すべてであるものには、そのほかの何ものも入りこむ余地はありません。
Yet is this magnitude beyond the scope of this curriculum.
とはいえ、このように規模の大きなことは、このカリキュラムで学習する範囲を超えています。
Nor is it necessary we dwell on anything that cannot be immediately grasped.
それに、私たちは、直ちに把握できないようなことについてあれこれ思案している必要はありません。
2. There is a borderland of thought that stands between this world and Heaven.
この世界と天国との間には、想念の国境地帯が存在します。
It is not a place, and when you reach it is apart from time.
そこは場所ではないし、あなたがいつそこに到達するかは、時間とは関わりのないことです。
Here is the meeting place where thoughts are brought together; where conflicting values meet and all illusions are laid down beside the truth, where they are judged to be untrue.
ここには、さまざまな思いが一堂に会する出会いの場があり、そこでは、相容れない価値観同士が出会い、すべての幻想が真理の傍に置かれて、そこですべての幻想は偽りとして裁かれます。
This borderland is just beyond the gate of Heaven.
この国境地帯は、天国の門を少し越えたところにあります。
Here is every thought made pure and wholly simple.
ここで、一つひとつの思いは清らかでまったく単純なものにされます。
Here is sin denied, and everything that is received instead.
ここでは罪は否定され、その代わりに存在するすべてが受け入れられます。

3. This is the journey's end.
ここで旅は終わります。
We have referred to it as the real world.
私たちはこれまで、この場所のことを真の世界と呼んできました。
And yet there is a contradiction here, in that the words imply a limited reality, a partial truth, a segment of the universe made true.
ただし、この呼び方には矛盾があります。つまり、真の世界という呼称には、ひとつの限られた現実やひとつの部分的な真理があるとか、宇宙の一区分が真実にされたというような意味合いが暗に含まれているからです。
This is because knowledge makes no attack upon perception.
このような矛盾的な意味合いが生じるのは、知識が知覚をまったく攻撃しないことによります。
They are brought together, and only one continues past the gate where oneness is.
知識と知覚は一緒にされ、ただ知識だけが一なるものが存在する門を通り越して存続することになります。
Salvation is a borderland where place and time and choice have meaning still, and yet it can be seen that they are temporary, out of place, and every choice has been already made.
救済とは、場所や時間や選択がまだ意味を持つ国境地帯です。とはいえ、そこでは、時間は一時的なもので、場所は場違いなもので、すべての選択はすでになされていることが理解できます。
4. Nothing the Son of God believes can be destroyed.
神の子が信じているものは何ひとつ破壊されることはありえません。
But what is truth to him must be brought to the last comparison that he will ever make; the last evaluation that will be possible, the final judgment upon this world.
しかし、神の子にとっての真理は、彼がこれからなすことになる最後の比較へともたらされなければなりません。この比較は、なされうる最後の評価であり、この世界に対する最後の審判です。
It is the judgment of the truth upon illusion, of knowledge on perception: "It has no meaning, and does not exist."
それは、幻想に対して真理が、知覚に対して知識が下す「この世界はまったく意味をも持たないがゆえに、存在しない」という審判です。
This is not your decision.
これは、あなたが決めることではありません。
It is but a simple statement of a simple fact.
それは、単純な事実を簡潔に表明しているだけです。
But in this world there are no simple facts, because what is the same and what is different remain unclear.
しかし、この世界には単純な事実はありません。なぜなら、この世界では、何が同じで何が異なるものなのか不明瞭なままになっているからです。
The one essential thing to make a choice at all is this distinction.
何にもまして選択をなすために必要なことは、この区別をつけることです。
And herein lies the difference between the worlds.
そして、ここにこそ、ふたつの世界の違いがあります。
In this one, choice is made impossible.
この世界では、選択は不可能になっています。
In the real world is choosing simplified.
真の世界では、選択は簡単になっています。

5. Salvation stops just short of Heaven, for only perception needs salvation.
救済は、天国のほんの手前で終わります。なぜなら、救いを必要とするのは知覚だけだからです。
Heaven was never lost, and so cannot be saved.
天国は一度も損なわれてはいないので、救われようがありません。
Yet who can make a choice between the wish for Heaven and the wish for hell unless he recognizes they are not the same?
しかし、天国を望むことと地獄を望むことの違いがわからないかぎり、いったい誰が自分は天国を望むのかそれとも地獄を望むのか決められるでしょうか。
This difference is the learning goal this course has set.
この違いを学ぶことが、このコースが設定している学習目標です。
It will not go beyond this aim.
このコースは、この目的を越えて進むことはありません。
Its only purpose is to teach what is the same and what is different, leaving room to make the only choice that can be made.
このコースの唯一の目的は、何が同じで何が違うかを教え、選びうる唯一の選択をする余地を残しておくことです。
6. There is no basis for a choice in this complex and over-complicated world.
この複雑であまりに錯綜しすぎた世界には、選択するための基準がまったくありません。
For no one understands what is the same, and seems to choose where no choice really is.
というのも、誰もが、何が同じものなのか理解しないまま、実際には選択の余地がないところで選ぼうとしているからです。
The real world is the area of choice made real, not in the outcome, but in the perception of alternatives for choice.
真の世界は、選択の結果ではなく、選ぶべき選択肢を知覚する点において、真に選択をなす領域です。
That there is choice is an illusion.
選択の自由が存在するというのは錯覚です。
Yet within this one lies the undoing of every illusion, not excepting this.
とはいえ、この選択の自由が幻想だと気づくことで、この幻想も含めたすべての幻想が取り消されます。

7. Is not this like your special function, where the separation is undone by change of purpose in what once was specialness, and now is union?
この仕組みは、あなたの特別な役割と似てはいないでしょうか。というのも、かつて特別であることだった目的がいまや和合することに変わることによって、あなたの特別な役割が果たされて、分離が取り消されるわけだからです。
All illusions are but one.
すべての幻想は、ひとつの幻想でしかありません。
And in the recognition this is so lies the ability to give up all attempts to choose between them, and to make them different.
だから、これが確かにその通りだと認識することによって、すべての幻想の中から選択して、それぞれの幻想を違うものにしようとする試みを全面的に放棄できるようになります。
How simple is the choice between two things so clearly unalike.
これほどまでに明らかに類似点のないふたつものの間で選択することは、なんと簡単なことでしょう。
There is no conflict here.
そこには何の葛藤もありません。
No sacrifice is possible in the relinquishment of an illusion recognized as such.
錯覚でしかないと認めた幻想を手放すことにおいて、いかなる犠牲も払うことはできません。
Where all reality has been withdrawn from what was never true, can it be hard to give it up, and choose what must be true?
一度も真実であったためしのないことから全面的に現実味が取り除かれたなら、幻想を放棄して、真実であるに違いないものを選ぶのは難しいことでしょうか。

