T9-3 誤りの修正
エゴは、あなたがそれに反対することから栄養を摂ります。それは、あなたがそれと戦うことから栄養を摂るのです。でも、栄養を摂り続けられなければエゴは弱まり、理解はますます深まります。だから私は「エゴと戦わずに、エゴを受け入れなさい」と言うのです。
多くの人たちはこのことを困難に思います。なぜなら、たいていの本、たいていのマスターたちは、エゴこそが問題で、あなたはエゴを殺さなければならないと教えるからです。

ラメッシ・S・バルセカール
最も困難なことは自分自身を知ることであり、最も簡単なことは他人に忠告することだ。

タレス

今回はテキスト第九章から誤りの修正についての一節をご紹介します。
他のエゴを批判することはエゴを支援すること
エゴにとっては、誤りを指摘して、それを修正してあげることは親切で正しく良いことであり、他のエゴに対してダメ出しして批判することは有意義なことです。
しかし、誤りを生み出している元凶はエゴなわけですから、誤りを修正できるかどうかはエゴを放棄できるかどうかにかかっています。
それなのに、兄弟の誤りを修正しようと、兄弟にお前は間違っていると教えることは、聖霊に耳を貸さずに、自分のエゴを通して兄弟のエゴを見て、エゴの生み出す誤りを知覚することは、エゴが確固としてあり意味をなしていることを認めることであり、端的に言って、エゴを支援することです。
エゴの作り出すものは何ひとつ意味をなさないと知っているので、聖霊はエゴを理解することもエゴを裁くこともしないので、誤りに少しでも反応するなら、それは聖霊に耳を貸していないことになります。

必要なのは、他者を矯正するのではなく正しく見ること
「6. You cannot correct yourself.
あなたには、自分自身すら修正することができません。
Is it possible, then, for you to correct another?
そうだとすれば、そのあなたに他者を修正することなどできるでしょうか。
Yet you can see him truly, because it is possible for you to see yourself truly.
しかし、あなたは自分自身を正しく見ることはできるので、あなたは他者を正しく見ることならできます。
It is not up to you to change your brother, but merely to accept him as he is.
自分の兄弟を変えるのはあなたの責任ではありません。そうではなく、単に、彼をありのままに受け入れることだけがあなたの責任なのです。
His errors do not come from the truth that is in him, and only this truth is yours.
その兄弟の誤りは彼の内なる真理から生じるものではありません。そして、ただこの真理だけがあなたのものです。
His errors cannot change this, and can have no effect at all on the truth in you.
兄弟の誤りには、このことを変えることはできないし、あなたの中にある真理に少しでも影響を及ぼす力を持つことはできません。
To perceive errors in anyone, and to react to them as if they were real, is to make them real to you.
誰かの中に誤りを知覚し、その誤りがまるで実在するかのように反応するなら、その誤りはあなたにとって現実のものとなります。」
他者の完全性に気づけるようになるには思いやりが必要
「This is because healing rests on charity, and charity is a way of perceiving the perfection of another even if you cannot perceive it in yourself.
その理由は、癒しは慈悲の心による思いやりに基づくものだからです。そして、思いやりこそが、たとえあなたが自分自身が完全だと理解できなくても、他者の完全性に気づけるようになるための方法です。
・・・
10. Charity is a way of looking at another as if he had already gone far beyond his actual accomplishments in time.
思いやりは、ほかの人のことを、あたかも彼が時間の中で現に到達しているところよりもはるか遠くまですでに進み終えているかのようにみなす方法です。
Since his own thinking is faulty he cannot see the Atonement for himself, or he would have no need of charity.
その人が抱いている考え方は不完全なので、彼は自分だけで贖罪を理解することができません。そうでなければ、彼には思いやりなど必要なかったことでしょう。
The charity that is accorded him is both an acknowledgment that he needs help, and a recognition that he will accept it.
彼に対して抱くのがふさわしい思いやりとは、彼には助けが必要であると認めること、そして、彼がその助けを受け入れるだろうと認めることの両方です。」(T2-5 ミラクル・ワーカー)
ゲームテーブル自体をひっくり返す
「許し」と「赦し」その他、コースに出てくるこの世界に「存在」するものと神の現実に「実在」するものとの相違、無と有の違いを反映する概念すべてに通じるものですが、世界内の出来事として見るかぎり正しいことも、世界という舞台が作り物でしかなく、世界自体が誤りだという認識によると土台が崩れ去り、親亀がこけるために子亀もこけて誤りとなるという仕組みです。
親亀である世界という舞台の上で演じられる劇をよりよくするうえでは、子亀である人の子たちの誤りを修正したり、非難し攻撃することはまったく意味をなします。
というよりも、そうしてこそ、劇がより味わい深く見ごたえあるものになるというものです。
しかし、舞台から離れることを目的とするなら、舞台上で演じられる物語世界の中での正義の達成や、誤りや罪を修正したり罰したりすることなどどうでもよいことであり、架空の世界の中での正しさに囚われて自分以外の子亀の誤りを正そうと舞台に立ち続けることは、ますます劇の迫真性を増して舞台から離れられなくなる作用しかない無意味なことだといえます。

テキスト第九章
III. The Correction of Error
三 誤りの修正
1. The alertness of the ego to the errors of other egos is not the kind of vigilance the Holy Spirit would have you maintain.
聖霊には、エゴがほかのエゴたちの誤りに油断なく目を光らせるような種類の警戒心を、あなたに維持させるつもりはありません。
Egos are critical in terms of the kind of "sense" they stand for.
エゴが賛成する種類の「良識」という点では、エゴは批判的です。
They understand this kind of sense, because it is sensible to them.
エゴは、批判的な種類の良識は理解します。なぜなら、エゴにとっては批判することは意味をなすからです。
To the Holy Spirit it makes no sense at all.
聖霊にとっては、批判することはまったく意味をなしません。
2. To the ego it is kind and right and good to point out errors and "correct" them.
エゴにとっては、誤りを指摘して、それを「修正」してあげることは親切で正しく良いことです。
This makes perfect sense to the ego, which is unaware of what errors are and what correction is.
誤りを指摘して修正することことがエゴにとって完璧に意味をなすのは、エゴには誤りとは何なのか修正とは何なのかわかっていないからです。
Errors are of the ego, and correction of errors lies in the relinquishment of the ego.
誤りはエゴから生じるので、誤りを修正できるかどうかはエゴを手放せるかどうかにかかっています。
When you correct a brother, you are telling him that he is wrong.
あなたがある兄弟を正そうとするとき、あなたはその兄弟に彼が間違っていると教えていることになります。
He may be making no sense at the time, and it is certain that, if he is speaking from the ego, he will not be making sense.
その時点では、その兄弟の話は意味をなしていないかもしれません。そして、もし彼がエゴに基づいて話しているなら、彼の話が意味をなさないのも当然でしょう。
But your task is still to tell him he is right.
それでも、あなたの務めはなおも、その兄弟に彼は間違っていないと教えてあげることです。
You do not tell him this verbally, if he is speaking foolishly.
もし当人が馬鹿げたことを話しているのなら、あなたは彼に、彼が正しいと言葉で告げる必要はありません。
He needs correction at another level, because his error is at another level.
その兄弟の誤りは別のレベルにあるものなので、彼に必要なのは別のレベルでの修正だからです。
He is still right, because he is a Son of God.
愚かなことを語っているとしてもなお、その兄弟は正しいのです。なぜなら、彼は神の子だからです。
His ego is always wrong, no matter what it says or does.
ただし、その兄弟のエゴは、たとえそのエゴが何を言おうが何をしようがつねに間違っています。

3. If you point out the errors of your brother's ego you must be seeing through yours, because the Holy Spirit does not perceive his errors.
もしあなたが兄弟のエゴの誤りを指摘するなら、あなたは自分のエゴを通して見ているに違いありません。なぜなら、聖霊がその兄弟の誤りを知覚することはないからです。
This must be true, since there is no communication between the ego and the Holy Spirit.
これは真実に違いありません。なぜなら、エゴと聖霊の間にはコミュニケーションがないからです。
The ego makes no sense, and the Holy Spirit does not attempt to understand anything that arises from it.
エゴは意味をなさないので、聖霊は、エゴから生じるものは何であろうと理解しようともしません。
Since he does not understand it, he does not judge it, knowing that nothing the ego makes means anything.
というのも、エゴの作るものは何ひとつ意味をなさないとわかっているので、聖霊はエゴを理解することもエゴを裁くこともしないからです。
4. When you react at all to errors, you are not listening to the Holy Spirit.
あなたが少しでも誤りに反応するなら、あなたは聖霊に耳を貸していないのです。
He has merely disregarded them, and if you attend to them you are not hearing him.
聖霊がそれらの誤りをただ無視しているだけだというのに、もしあなたが誤りに注意を向けるなら、あなたは聖霊の言うことを聞いていないのです。
If you do not hear him, you are listening to your ego and making as little sense as the brother whose errors you perceive.
もしあなたが聖霊の言うことを聞かないなら、あなたは自分のエゴに耳を貸しているのであって、あなたが誤りを知覚しているその兄弟と同じくらい、あなたもまったく意味をなしていないことになります。
This cannot be correction.
こんなことが修正になるはずがありません。
Yet it is more than merely a lack of correction for him.
それどころか、それは単にその兄弟のための修正がなされないというだけにとどまりません。
It is the giving up of correction in yourself.
それは、あなた自身の修正まで放棄することになってしまうのです。

5. When a brother behaves insanely, you can heal him only by perceiving the sanity in him.
ある兄弟が狂気の振る舞いをするとき、あなたは、ただ彼の中に正気を知覚することによってのみ、その兄弟を癒すことができます。
If you perceive his errors and accept them, you are accepting yours.
もしあなたがその兄弟の誤りを知覚してその誤りを受け入れたりすれば、あなたは自分の誤りを受け入れていることになります。
If you want to give yours over to the Holy Spirit, you must do this with his.
もしあなたが自分の誤りを聖霊に渡したいのなら、あなたはその兄弟の誤りについても聖霊に渡すようにしなければなりません。
Unless this becomes the one way in which you handle all errors, you cannot understand how all errors are undone.
あなたがすべての誤りにこの方法でのみ対処するようにならないかぎり、あなたはどのようにしてすべての誤りが取り消されるのか理解することができません。
How is this different from telling you that what you teach you learn?
これは、あなたが教えることをあなたは学ぶとあなたに言うのと同じです。
Your brother is as right as you are, and if you think he is wrong you are condemning yourself.
あなたの兄弟はあなたと同じように正しいのです。だから、もしあなたがその兄弟は間違っていると思うなら、あなたは自分自身を咎めているのです。
6. You cannot correct yourself.
あなたには、自分自身すら修正することができません。
Is it possible, then, for you to correct another?
そうだとすれば、そのあなたに他者を修正することなどできるでしょうか。
Yet you can see him truly, because it is possible for you to see yourself truly.
しかし、あなたは自分自身を正しく見ることはできるので、あなたは他者を正しく見ることならできます。
It is not up to you to change your brother, but merely to accept him as he is.
あなたには自分の兄弟を変えることはできません。そうではなく、あなたにできるのはただ、彼をありのままに受け入れることだけです。
His errors do not come from the truth that is in him, and only this truth is yours.
その兄弟の誤りは彼の内なる真理から生じるものではありません。そして、ただこの真理だけがあなたのものです。
His errors cannot change this, and can have no effect at all on the truth in you.
兄弟の誤りには、このことを変えることはできないし、あなたの中にある真理に少しでも影響を及ぼす力を持つことはできません。
To perceive errors in anyone, and to react to them as if they were real, is to make them real to you.
誰かの中に誤りを知覚し、その誤りがまるで実在するかのように反応するなら、その誤りはあなたにとって現実のものとなります。
You will not escape paying the price for this, not because you are being punished for it, but because you are following the wrong guide and will therefore lose your way.
あなたはきっと、この誤りの現実化について代償を払う羽目になります。それは、あなたがそれについての報いとして罰を受けるためではなくて、あなたが間違った案内役に従っているために、自分の道を見失ってしまうためです。

7. Your brother's errors are not of him, any more than yours are of you.
あなたの誤りがあなたに属するものでないのと同じように、あなたの兄弟の誤りも彼に属するものではありません。
Accept his errors as real, and you have attacked yourself.
その兄弟の誤りを実在するものとして受け入れるなら、あなたは自分自身を攻撃したことになります。
If you would find your way and keep it, see only truth beside you for you walk together.
もしあなたが自分の道を見出してその道を辿りたいなら、あなたの傍をあなたのために一緒に歩んでくれている真理だけを見るようにしてください。
The Holy Spirit in you forgives all things in you and in your brother.
あなたの中にいる聖霊は、あなたと兄弟の中にある一切を赦しています。
His errors are forgiven with yours.
兄弟の誤りはあなたの誤りと一緒に赦してもらえます。
Atonement is no more separate than love.
愛と同じように、贖罪も分離してはいないからです。
Atonement cannot be separate because it comes from love.
贖罪が分離することなどありえません。なぜなら、贖罪は愛から生じるからです。
Any attempt you make to correct a brother means that you believe correction by you is possible, and this can only be the arrogance of the ego.
それがどのような試みであれ、あなたがある兄弟を修正しようと試みるなら、それは、あなたが自分には修正することができると信じていることを意味します。そして、こんなことは、ただ単にエゴの傲慢さでしかありえません。
Correction is of God, Who does not know of arrogance.
修正は、傲慢さなど知るところではない神から訪れます。
8. The Holy Spirit forgives everything because God created everything.
神があらゆるものを創造したがゆえに、聖霊はあらゆるものを赦します。
Do not undertake his function, or you will forget yours.
聖霊の役目を肩代わりしようとなどしないでください。そんなことをすれば、あなたは自分の役目を忘れることになってしまいます。
Accept only the function of healing in time, because that is what time is for.
時間の中では、ただ癒すという役目だけを受け入れてください。なぜなら、時間は癒しのためにあるからです。
God gave you the function to create in eternity.
永遠において、神はあなたに創造するという役目を授けました。
You do not need to learn that, but you do need to learn to want it.
あなたは創造することを学ぶ必要はありません。しかし、あなたは創造したいと望むことを学ぶ必要はあります。
For that all learning was made.
そのためにこそ、すべての学びが作られたのです。
This is the Holy Spirit's use of an ability that you do not need, but that you made.
これが、自分には必要もないのにあなたが自分で作り出してしまった能力についての聖霊の活用法です。
Give it to him!
あなたの能力を聖霊に渡してください。
You do not understand how to use it.
あなたは、それをどのように使ったらよいのか理解していないからです。
He will teach you how to see yourself without condemnation, by learning how to look on everything without it.
聖霊は、どのようにしてあらゆるものを非難することなく見るかを学ぶことによって、あなたに自分自身を非難せずに見る方法を教えてくれるでしょう。
Condemnation will then not be real to you, and all your errors will be forgiven.
これを学ぶなら、非難することはあなたにとっての現実ではなくなり、すべてのあなたの誤りは赦されるでしょう。

