T4-5 悪名高きエゴですが、打ち倒すべき強敵なのでしょうか?

2013年06月25日
テキスト第4章(エゴという幻想) 2

人生におけるすべての失敗の原因は、自分のことしか考えていないことにある。



アルフレッド・アドラー



ビジネスで成功する一番の秘訣は、人からいくら取れるかをいつも考えるのではなく、人にどれだけのことをしてあげられるかを考えることだ。



デール・カーネギー



If there is any one secret of success, it lies in the ability to get the other person’s point of view and see things from that person’s angle as well as from your own.
もし成功の秘訣というものがあるとしたら、それは他人の観点を採用し、自分の立場だけでなく同時に他者の立場からも物事を見ることのできる能力である。

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Henry Ford
ヘンリー・フォード



エゴが生まれるのは、魂の進化の過程にとって必要で、意味があるからです。私たちは自分の人生の目的を果たし、無条件に自分を愛するために、独立した自己として認識できる存在になる必要があるからです。私たちはみな、自分が課した制限から自由になる準備ができるまで、自分を守らなければなりません。しかし、エゴをもつことが、自分自身が何者であるかをしっかりと認識し、自分を愛するために必要なステップであるように、そこから自由になることもまた必要なステップなのです。私たちの中に気づきが芽生え始めると、私たちの心は自然に恐れに基づく防衛メカニズムを取り払うように働きかけます。そして、私たちはそれまでずっと押さえ込んでいた不快な感情を癒すことができるのです。なぜなら私たちはみな愛し、愛されたいと思っていて、幸せになるためには最終的に心の壁を壊す必要があることに気づくからです。私たちは人に対して心を開き、自分の闇と光を見せることに対する恐れを克服しなければなりません。私たちが常に他人と親しく深い関係になることを恐れていたなら、いつも自分を仮面で覆い、他人に成りすましていなければならなくなります。そして、孤独感と、自分は誤解されているという気持ちを抱えたまま生きることになるのです。同様に、エゴをもつ自分の側面を否定し続けていると、自分をジャッジしたり、批判したり、否定する行為によって身動きがとれなくなってしまいます。しかしありがたいことに、いったんエゴを完全に受け入れる準備ができたら、自分の本当の気持ちに沿って語り、行動することで、私たちは楽に、自分らしく人生を楽しめるようになるのです。



ブレイク・D・バウアー(「あなたは苦しむために生まれたんじゃない」171ページ)







The remedy for an absence is a presence.
何かが不在である欠乏状態を癒す方法は、在る状態で満たすことだ。

Evil is an absence and, therefore, it cannot be healed with an absence.
邪悪さとは善良さの欠けた状態であり、したがって、邪悪さは不在である欠乏によって癒されることはありえない。

By hating evil, or one who is engaged in evil, you contribute to the absence of Light and not to its presence.
邪悪さを憎むことによって、つまり、邪悪さに携わる人になることによっては、あなたは光の不在を後押しするばかりで、光を在らしめることに貢献することはない。

Hatred of evil does not diminish evil, it increases it.
邪悪さを憎むことは、邪悪さを衰弱させることにならない。それは、邪悪さを増大させることなのだ。

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Gary Zukav, The Seat of the Soul
ゲイリー・ズーカフ(「魂との対話」より)








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今回は、テキスト第四章からエゴと身体に関する一節をご紹介します。


エゴは抹殺すべき?

悪名高い「エゴ」ですが、私たちはエゴにどう対処すべきなのでしょうか?


奇跡のコースでは、エゴが幻にすぎないとして、そもそも実在しないものとして取り消すための理解と対処についていろんな角度から説明します。

それだけに、エゴを取り消すにしても、そのためにはどのようなスタンスで臨むべきなのか今ひとつ掴みきれないという感覚になってしまうことも多いのではないかと思います。

端的に言って、私たちは、エゴを敵としてエゴと対峙し、エゴをやっつけるために苦闘して倒し、最後にはエゴの息の根を止めなければならないのでしょうか?それともエゴと折り合いをつけて共存しながら、エゴを手なずけて自分の手下にしてしまうようにすべきなのでしょうか?

エゴが悪さをするということだけは、どこでも教えてくれて、よく理解できますが、それから先はどうなのでしょうか?


ラメッシ先生の言葉

この点について、多くの示唆を与えてくれますので、ラメッシ・S・バルセカール先生の言葉をご紹介しましょう。



「人々は、先生たちにエゴと戦うように、エゴを殺すように教えられます。でも私が言っていることは、エゴを受け入れなさい、ということです。それはユニークではありませんか? エゴと戦ってはいけません。エゴを受け入れなさい。なぜでしょうか? それは『あなた』がエゴを創造したのではないからです。源泉がエゴを創造し、そしてある場合において、源泉は、エゴを破壊する過程にあります。だから、あなたの頭はトラの口の中にあるのです。もう逃げることができません。仮にエゴと戦っても逃げることはできません。それが、私の言わんとしている要点です。もしあなたがエゴと戦いつづければ、トラは長い間口を開け続けるでしょう。でも、あなたがエゴを受け入れれば、トラはすばやくガブリとあごを閉じてしまうでしょう。」

「『あなた』がエゴなのです!その『自分』がエゴで、エゴは自殺する気はありません」

「本当の問題は、『自分』は決して行為者ではなく、することはただ起こるだけであるという完全な無条件な受け入れにどうやって到達するのかということです。」

「私の答えは、まず最初は知的に、自分は、分離した行為をしている他者から分離している個人ではない、ことを理解しなければなりません。それから、個人的経験によって、その必然的結論を無条件に受け入れるようにすべきです。」)




先を見るときには、いつでも自由意志によって自分がコントロールできるように思えますが、一日の終わりに出来事を振り返ってみると自分には一切コントロールできなかったことを結論づけざるをえない、つまり、自分には自由意志がないということに気づくという修行を繰り返すことだといいます。 

ただし、この自由意志がないという事実は、束縛も自由ももたらしはしないが巻きこまれることからの自由をもたらしてくれるといいます。

つまり、起こることは、私たちにかかわらず起こるとの理解は、罪悪感や恐怖や嫉妬からの解放をもたらしてくれるということです。

「個人的行為者という感覚からの自由は、エゴにとっては、自由の喪失を意味するということです。そして、混乱があるのは、エゴが、アシカと呼ばれる肉体精神機構とまだ一体化しているからです。このエゴはまだ残っていて、ひどく制限されているように感じるのです。」

「私が、『御心がなされますように』と言うとき、それが意味していることは、人間はどんな自由意志ももっていないということです。そして、それにもかかわらず、私はあなたに、『何でも自分の好きなことをしなさい。これ以上のどんな自由を、あなたは望むのですか?』と言います。あなたは、この明らかな矛盾した声明について問題がありますか?
・・・
その答えとは、あなたは自分の好きなことをしてもいいが、でも、あなたがしたいことは、その与えられた状況で、その瞬間にまさに神があなたにしてほしいと思っていることです。それゆえ、何も矛盾はありません。ですから、あなたがしたいと思うことをしてください。神はそれをどうやって管理しているのでしょうか?プログラミングを通じてです。あなたがしたいと思うことは、プログラミングにもとづいています。・・・もし起こることを自分がコントロールできないとすれば、自分の好きなことをする完全な自由は何の役に立つのでしょうか?あなたが自由意志をもたない程度だけです。」

「エゴが長年支配していた自由の印象は、役立たないというものです。」

「悟りの究極的効果は何でしょうか? ― それは、何が起こっても、それが問題ですか?というものです。思考は、『どうして、何も問題ではないなどと、あなたは言うことができるのですか?』というでしょう。もちろん、問題です。思考にとっては、すべてが問題です。ですから、『何も問題ではない』はハートからわき起こる結論、答え、感情です。賢人が毎瞬感じることは、起こることが何であれ、その何が問題ですか?というものです。でも、エゴは言います。「もちろん、それは問題です」。

「ハートがこの結論に到達することの重要性は何でしょうか?その重要性は、エゴが、起こっていると認識し、それが問題だと思っていることは何でも、実は幻想である、ということです。」



以上、「人生を心から楽しむ 罪悪感からの解放」ラメッシ・S・バルセカール著 高木悠鼓訳 マホロバアート 100ページ~127ページから引用と一部要約させていただきました。


エゴと同じ土俵に立って打ちのめす必要はない

なんだか気が楽にならないでしょうか?

十二国記

必ずしも「十二国記」で、麒麟が妖魔を折伏して使令に下すために(読まれていない方は、まったく意味不明だと思いますが、ご一読いただきたいので、あえて説明しません。)、孤独で過酷な戦いに打ち勝たなければならなかったように、エゴと向き合って苦闘を繰り広げてなくてもいいということです。

なぜって、私たちはエゴが自分自身だと感じていて、自分であるエゴが存在しないということ自体そもそも想定困難なので、エゴは本当にあるようにしか思えないけれど、エゴは幻にすぎないのですから。





エゴを抹殺しようとするのはエゴを支援すること

ラメッシ先生が教えてくださるように、エゴを敵視してエゴと格闘するというスタンスが得策ではないのは間違いないでしょう。

この点、私たちは、エゴはダメよと繰り返すコースを学んでいるので、ともすれば、エゴを絶対悪とみなして叩きのめさなければならないという発想に陥りがちです。

しかし、愛想のものである実在のみがあり、実在の不在である幻想はあるように見えているだけで本質は無であることに気づくことを求める奇跡のコースが、本当にエゴを敵視してエゴと格闘して抹殺せよと求めることがありうるのか、よく考えて見る必要があります。

というのも、このようなエゴを敵視するスタンスが帰結するのは、清純仮面を被った腹の底には毒念が渦巻き、仮面の裏側には悪意と欲望にまみれた醜悪な顔が隠れている偽善者であるのは間違いなく、偽善を嫌うイェシュアが偽善者を生み出すような教えを施すはずがないからです。

エゴを敵視するスタンスでいるなら偽善者にならざるをえないのは、ちょっと考えてみればわかることです。

ラメッシ先生が指摘してくださっているように、私たちがエゴなのであり、エゴには自殺する気はないのですから、私たちがエゴを抹殺しようとするなら、エゴは巧妙に投影を用いて仮面を被って表舞台に顔を出さないように隠れるだけだからです。

エゴを敵視して攻撃したり排除しようとすることは、明らかにエゴを温存するだけで、自分が望んでいるはずの結果とは正反対の結果を招く行為なわけです。


エゴを悪者にせずに愛する

ですので、発想としては、この逆を行くのがエゴを「消滅」(正しく光を当てて影としてのエゴを消して自我として昇華させる)させることになります。

これはもっともなことでしょう。

愛である実在の不在の落し子であるエゴを、愛が愛の不在である攻撃や非難で消し去ることができるはずもなく、ただ愛で満たすこと以外には何もすることはないはずだからです。

つくづく奇跡のコースというのは、読み方次第では命を落としかねない毒りんごであり、きわめて危険な書物だと思います。


コリン・C.ティッピングさんのラディカルな観点

コリン・C.ティッピングさんの「自分をゆるすということ」45ページを引用しておきます。








「『人間としての自我』(エゴ)は自分と他人との違いを明らかにし、さまざまな形をとって『わたし自身』として世の中に現れます。つまり、『自分』という人間を形成している原型と副人格はすべてあらかじめ決められている――それは『絶対的自我』が傍観し、支えている自我です。人間としての自我は人が超自然的な生き物であろうとする際に、他の副人格と切り離されるのを苦痛と感じながらも、精神の成長のためにそれを乗り越えようとします。
これは多くの場合『エゴ』と呼ばれ、絶対的自我と激しい対立関係にあります。この関係を突き詰めていくと、人がこの世に生きる目的はエゴを叩きのめし、さらにはわたしたちの人間性を否定することにある、という考えに行きつきます。自分とは何者かと自問する際、このことがわたしたちに罪悪感をもたらし、人としてこの世に存在することは大きな過ちである、と感じるようになるのです。
しかし、わたしの考えは正反対です。わたしはエゴを、自分を導き、より高尚な自我と手を結んで働いてくれるものと理解しています。エゴは人生の旅の中でわたしたちにずっと寄り添い、目的の場所へたどり着くための成長と学びのチャンスを与えてくれるもの。人生の旅で必要な分岐点にさしかかったとき、エゴはみずから姿を表し、人生とは何かがより明確になるでしょう。そのとき、わたしたちは初めて自分という人間に目覚め、人として生きていること、この世に生きるすべてのものとつながっていることを心から喜び、真の人生を始めることができます。それは多くの人々が言うような「エゴを叩きのめす」ことではなく、本当の意味で「エゴへのこだわりを捨てる」ことなのです。」

W2ST-12.エゴってなに?の冒頭のアニータさんの「エゴは私たちの大親友」を読んでいただければと思います。


エゴの生存戦略

さて、エゴは、幻想ですが、同じく幻想である宿主である私たち、すなわち、大いなる心の一区分に柵を設けて個別の心が存在するという錯覚している狂気の状態、夢物語の世界の主人公たちに寄生することで生き延びています。

私たちが、幻想を見ているかぎりは、エゴは安泰だと思っています。

ですが、私たちが、正気を取り戻して、幻想から目覚めてしまうと、エゴは居場所を失ってしまいます。

だから、エゴにとって大事なことは、私たちが幻想を夢見たまま正気を取り戻さないようにすることです。

恐怖は、エゴが存続するために必要な燃料のようなものです。

エゴにとっては神の思考は自分を消滅させてしまう受け入れがたいものですが、エゴには神の思考を無くすことなどできません。

そこで、エゴは、身体の「受け入れがたい」肉体的衝動と神の思考と区別せず、両方とも同じものだと知覚して脅威を感じます。

これはエゴの戦略です。もしエゴが、このふたつを識別したなら、エゴは確実に神の知識に直面してしまうことになるからです。それはエゴの解体を意味します。

こうして、エゴは、身体と神を混同してしまいます。

そして、エゴは、身体のことを自分の盟友として選び、住み処として選び、身体と同一化します。


「4. The ego cannot hear the Holy Spirit, but it does believe that part of the mind that made it is against it.
 エゴは、聖霊の声を聞くことはできません。しかし、エゴは、自分を作った心の一部分が自分に対立していると信じています。

 It interprets this as a justification for attacking its maker.
 エゴは、心の一部が自分に対立することを、自分の作り手を攻撃する正当な理由であると解釈します。

 It believes that the best defence is attack, and wants you to believe it.
 エゴは、最大の防御は攻撃だと信じ、あなたにもそう信じてほしいと思っているのです。

 Unless you do believe it you will not side with it, and the ego feels badly in need of allies, though not of brothers.
 確かにそうだと信じないかぎり、あなたはエゴの側には付こうとは思わないでしょう。そこで、エゴは、兄弟が必要だと思うことはないとしても、どうしても味方が必要だと痛切に感じています。

 Perceiving something alien to itself in your mind, the ego turns to the body as its ally, because the body is not part of you.
 エゴは、あなたの心の中に、エゴ自体との異質性を知覚しているので、エゴは身体を味方として頼りにするようになります。なぜなら、身体はあなたの一部ではないからです。

 This makes the body the ego's friend.
 このことが身体をエゴの盟友にします。

 It is an alliance frankly based on separation.
 エゴと身体の同盟は、明らかに分離に基づく同盟といえます。

 If you side with this alliance you will be afraid, because you are siding with an alliance of fear.
 もしあなたがこんな同盟の側に与するなら、あなたは恐れるようになってしまいます。なぜなら、それは恐怖の同盟に味方しているようなものだからです。」(テキスト 第六章 四 唯一の答え


エゴの陽動作戦に惑わされないためのキーワード

エゴは、身体と同一化しているときに、もっとも安心します。それは、身体の弱さ、滅びゆく身体の儚さは、私たちが神に属する存在などではないということを示す最大の論拠になるからです。自分たちが神にふさわしくないと信じているかぎり、私たちが神の声を代弁する聖霊の声が心の中にあっても、耳を貸すことはないでしょう。

しかし、だからといって、エゴは、身体をいつも大切にするわけではなく、満足のいく住み処なんかじゃないと文句をいい、むしろ身体のことを憎みすらします。

心は自分を守ってほしいので、「私はどこに行けばいいのか」とエゴに尋ねますが、エゴは、自分に任せておけと言います。

ですが、上述のように身体は、脆弱で頼りにならないものであり、この身体と一体化しているエゴから自分に任せておけと言われても、信頼できないので、心の質問は答えられないままになってしまいます。

答えの出せないエゴは、卑怯な裏技を用います。

それは、質問自体を覆い隠して心に意識させないようにしてしまうということです。

もっとも、これは、誤魔化しにすぎないので、心には不安や疑問は残ったままになります。

根本解決がなされていないので、いつまた疑問が頭をもたげてくるかわかりません。

私たちが真理について学ぶようなことは、この疑問を再び浮かび上がらせる危険のある行為です。

そこで、エゴはさらにそのうえでの工作を用意しています。

エゴが私たちの学びの進歩を妨げるためによく使うのは、解決できないように仕組まれた重要ではない問題に没頭させることだといいます。

このような陽動作戦に惑わされてエゴの思惑どおり、幻想の中への迷いこみを深めないために必要なのは、「何のために?」という質問を発することだといいます。

そして、この質問こそ、私たちがあらゆる物事に関して質問できるようにならなければならない質問だということです。

日常生活や仕事面での問題はもちろん、求道面での問題も当然、エゴが仕組んだ問題であるはずです。


「何が目的なのだろうか?」と。


この質問を投げかけることによって、エゴが多忙さや深刻さで誤魔化そうとしている「問題」が実は重要ではなかったということに気がつくことができるようになります。



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テキスト 第四章 

V. The Ego-Body Illusion
五 エゴと身体という幻想



1. All things work together for good.
 万物は、善のために力を合わせて働きます。

 There are no exceptions except in the ego's judgment.
 エゴの価値判断による場合を除いては一切、このことに例外はありません。

 The ego exerts maximal vigilance about what it permits into awareness, and this is not the way a balanced mind holds together.
 エゴは何を意識することを許可するかについて最大限の警戒心を働かせます。もっとも、意識する範囲を制限するという方法では、心にまとまりをもたせてバランスを保つことはできません。

 The ego is thrown further off balance because it keeps its primary motivation from your awareness, and raises control rather than sanity to predominance.
 エゴは自らの根本的な動機をあなたに意識させないままに保って、正気が優勢にならないように抑制を強めるので、エゴはよりいっそうバランスを失ってゆくことになります。

 The ego has every reason to do this, according to the thought system which gave rise to it and which it serves.
 エゴを生み出し、エゴが奉仕する思考システムに従うかぎり、エゴがこのようにするのも無理からぬところです。

 Sane judgment would inevitably judge against the ego, and must be obliterated by the ego in the interest of its self- preservation.
 正気で価値判断するかぎり、必ずエゴを否定する判断となるはずなので、エゴとしては、自己保存という利益を図るために、正気の価値判断を完全に覆い隠されなければならない羽目になるからです。



2. A major source of the ego's off-balanced state is its lack of discrimination between the body and the thoughts of God.
 エゴがバランスを崩した状態になるのは、エゴには身体と神の思考の相違を識別する力が欠けていることが主な原因です。

 Thoughts of God are unacceptable to the ego, because they clearly point to the nonexistence of the ego itself.
 神の思考はエゴには受け入れがたいものです。なぜなら、神の思考はまさしくエゴが存在しないことを明確に指し示すからです。

 The ego therefore either distorts them or refuses to accept them.
 そこで、エゴは神の思考を歪めるか、神の思考を受け入れることを拒絶するかのどちらかを選ぶことになります。

 It cannot, however, make them cease to be.
 いずれにせよ、エゴには神の思考を消去して存在しないようにすることはできません。

 It therefore tries to conceal not only "unacceptable" body impulses, but also the thoughts of God, because both are threatening to it.
 したがって、エゴは「受け入れがたい」肉体的衝動だけでなく、神の思考をも隠そうとすることになります。なぜなら、いずれもエゴに脅威を抱かせるものだからです。

 Being concerned primarily with its own preservation in the face of threat, the ego perceives them as the same.
 脅威に直面すると、エゴはまず何よりも自分自身の存続を心配するので、肉体的衝動と神の思考を同じものとして知覚します。

 By perceiving them as the same, the ego attempts to save itself from being swept away, as it would surely be in the presence of knowledge.
 知識を前にすれば、エゴは間違いなく一掃されてしまうので、自らに区別のつかない両者を同じものとして知覚することによって、エゴは自らが一掃されずに済むようにしようと試みるわけです。

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3. Any thought system that confuses God and the body must be insane.
 それがいかなるものであれ、身体を神と取り違えるような思考システムが狂気に陥っているのは間違いありません。

 Yet this confusion is essential to the ego, which judges only in terms of threat or non-threat to itself.
 しかし、この混同はエゴにとって絶対に必要なものです。なぜなら、エゴはただエゴ自体にとって脅威になるかならないか、その観点だけから判断するからです。

 In one sense the ego's fear of God is at least logical, since the idea of Him does dispel the ego.
 ある意味では、エゴが神を恐れることは少なくとも理に適っています。それは、神の想念はエゴを消し去ってしまうからです。

 But fear of the body, with which the ego identifies so closely, makes no sense at all.
 そうだとしても、エゴが、きわめて密接に自らを身体と一体視しておきながら、その身体のことを恐れるのはまったく意味をなしません。



4. The body is the ego's home by its own election.
 身体は、エゴが自ら選択したエゴの住み処です。

 It is the only identification with which the ego feels safe, since the body's vulnerability is its own best argument that you cannot be of God.
 エゴが安全を感じるのは身体と一体感を持つときだけです。というのも、身体の脆弱さは、あなたが神に属するものであるはずがないというエゴの主張の最大の論拠になるからです。

 This is the belief that the ego sponsors eagerly.
 あなたは身体であって神に属するものではないというこの信念を、エゴは熱烈に支持します。

 Yet the ego hates the body, because it cannot accept it as good enough to be its home.
 そのくせ、エゴは身体をひどく嫌います。なぜなら、エゴは、身体を自分の住み処として十分満足できるほどよいものだと受け入れることができないからです。

 Here is where the mind becomes actually dazed.
 ここが、心が本当に戸惑ってしまうところです。

 Being told by the ego that it is really part of the body and that the body is its protector, the mind is also told that the body cannot protect it.
 エゴが言うところでは、心は本当に身体の一部であり、身体こそが心の守護者であるはずです。ところが、その一方で、心はエゴから、身体には心を守ることができないと告げられることにもなるからです。

 Therefore, the mind asks, "Where can I go for protection? " to which the ego replies, "Turn to me."
 そこで、心は「守ってもらうために、私はいったいどこへ行けばよいのか」と尋ねます。これに対して、エゴは「私に任せておきなさい」と答えます。

 The mind, and not without cause, reminds the ego that it has itself insisted that it is identified with the body, so there is no point in turning to it for protection.
 そこで、当然ながら心は、エゴ自身がエゴと身体は一体だと主張していたので、そうだとすれば、心を守ることができない身体と一体であるエゴに守ってやるから自分に任せろと言われても無意味ではないかとエゴに指摘しようとします。

 The ego has no real answer to this because there is none, but it does have a typical solution.
 エゴは、この疑問に対する真っ当な答えを持ち合わせていません。なぜなら、答えなど存在しないからです。しかし、エゴにはいかにもエゴらしい独自の解決策があります。

 It obliterates the question from the mind's awareness.
 エゴは、心が自覚する意識からその質問を完全に覆い隠して、そもそも心が疑問を抱かないようにしてしまうのです。

 Once out of awareness the question can and does produce uneasiness, but it cannot be answered because it cannot be asked.
 とはいえ、いったんその疑問が意識されなくなったとしても、その疑問は落ち着かない不安感を生み出す原因となり、現に不安感を生み出します。しかし、それを質問することができないので、疑問には答えが与えられないままになってしまいます。

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5. This is the question that must be asked: "Where can I go for protection?"
 問うべきなのは、次の質問です。それは「守ってもらうために、私はどこへ行けばよいのか」という質問です。

 "Seek and ye shall find" does not mean that you should seek blindly and desperately for something you would not recognize.
 「探せよ、さらば、見出さん」と言われていますが、それは自分に見分けもつかないようなものを闇雲に死に物狂いになって探し求めるべきだという意味ではありません。

 Meaningful seeking is consciously undertaken, consciously organized and consciously directed.
 意味ある探求は、それに意識的に取りかかり、意識的に計画を組み立て、意識的に実行されなければなりません。

 The goal must be formulated clearly and kept in mind.
 その目標をはっきりと明確に定めたうえで、心の中に保持されなければなりません。

 Learning and wanting to learn are inseparable.
 学習と学習意欲とを切り離すことはできません。

 You learn best when you believe what you are trying to learn is of value to you.
 あなたは、自分の学ぼうとすることが自分にとって価値のあることだと信じるときに、最もよく学ぶことができます。

 However, not everything you may want to learn has lasting value.
 しかしながら、あなたが学びたいと思うことのすべてが永続する価値を持っているとはかぎりません。

 Indeed, many of the things you want to learn may be chosen because their value will not last.
 むしろ実際のところ、あなたが学びたいと思うことの多くは、その価値が長続きしないからこそ選んだものであるのかもしれないのです。



6. The ego thinks it is an advantage not to commit itself to anything that is eternal, because the eternal must come from God.
 エゴは、何であれ永遠に続くものには、自分のすべての力を傾注しないほうが得策であると考えます。なぜなら、永遠なるものは神に由来するに違いないからです。

 Eternalness is the one function the ego has tried to develop, but has systematically failed to achieve.
 永遠性は、エゴがわがものにしようと目論んできた機能のひとつですが、それを獲得しようとする試みにエゴはことごとく失敗し続けてきました。

 The ego compromises with the issue of the eternal, just as it does with all issues touching on the real question in any way.
 そこで、エゴは永遠に関わる問題については妥協を図ろうとします。それはちょうど、守ってもらうためにどこに行けばよいのかという真の問題に多少なりとも関連するあらゆる問題点についてエゴが妥協を図ろうとするのと同じです。

 By becoming involved with tangential issues, it hopes to hide the real question and keep it out of mind.
 本筋から脱線した問題点と関わることで、エゴは真の問題そのものを隠し、心の外に置いたままで済まそうと目論んでいるのです。

 The ego's characteristic busyness with nonessentials is for precisely that purpose.
 エゴに特徴的な重要でもないことにかまけての多忙さは、まさしくそんな目的を果たすためのものです。

 Preoccupations with problems set up to be incapable of solution are favorite ego devices for impeding learning progress.
 解決不能となるように仕組まれた問題に没頭することは、学習の進歩を邪魔するためにエゴが好んで用いる得意技です。

 In all these diversionary tactics, however, the one question that is never asked by those who pursue them is, "What for?"
 しかしながら、このような陽動作戦の中で、作戦を遂行する者たちが決して自問することのない唯一の問いがあります。それは「何のために?」という質問です。

 This is the question that you must learn to ask in connection with everything.
 これこそ、あなたがあらゆる物事に関して問うことを学ばなければならない質問です。

 What is the purpose?
 何が目的なのだろうか?、と。

 Whatever it is, it will direct your efforts automatically.
 その目的が何であっても、その目的があなたの行動を自動的に方向づけてくれるようになるはずです。

 When you make a decision of purpose, then, you have made a decision about your future effort; a decision that will remain in effect unless you change your mind.
 そうなれば、あなたが目的を決めると、あなたはすでに自分の未来の行動を決定したことになります。そして、その決定は、あなたが自分の心を変えないかぎりは、有効性を保ち続けることになるのです。


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It’s not how much we give, but how much love we put into giving. – Mother Teresa

 松山 健 Matsuyama Ken
この記事を書いた人:  松山 健 Matsuyama Ken

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Kino  

精神世界の真理追究は、本稿のラメッシさん/ACIMの図式のように、洋の東西・時代を問わず共通の概念ベース、共通項を基に論じられるのが誠に面白いです。共通の論題を別の言葉とニュアンスで伝えてくれるので、前に気付けなかったことに意識が行くようになったり。だから、自分にあった本や言葉を複眼的に読むのは良いのかなと感じました。多少ニュアンスは違えど、共通のお話をしてくれるという意味では、精神世界のご本は取っ付きやすい気がします。

エゴが生み出す恐れ・罪悪感などに飲まれて押し潰れそう、という原因とそれらの解放を目的に取り組んでいますが、目的に凝り固まりすぎてそれが新たな恐れの原因にならない程度に身を委ねていけたらと存じます!

いつも有難うございます。

2013年06月25日 (火) 20:00

ken  

ありがとうございます

Kinoさん、いつも読んでいただいて、どうもありがとうございます!

そうですね。洋の東西、時代を問わず、同じ原理が発現しているように感じると、故郷への道筋を思い出す手がかりを手に入れたような感じで、なんだか嬉しくなります。

一者の一つの原理が適用されることによって、森羅万象(幻想世界)が展開しているのだとすれば、究極的には、あらゆる出来事には共通の基盤が見い出せるはずということになります。

この原理を凝縮した文章として、錬金術の分野で「エメラルド・タブレット」の碑文というものがあります。

ラテン語訳からニュートンの訳まで多様な訳文がありますが、コースの参考にもなると思いますので、そのうちご紹介したいと思います。

2013年06月26日 (水) 18:18
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┣  テキスト第20章(神聖さのヴィジョン) (8)
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┣  テキスト第22章(救いと神聖な関係) (7)
┣  テキスト第23章(自分自身との戦い) (5)
┣  テキスト第24章(特別であるという目標) (8)
┣  テキスト第25章(神の正義) (9)
┣  テキスト第26章(移行) (10)
┣  テキスト第27章(夢を癒す) (8)
┣  テキスト第28章(恐れを取り消す) (7)
┣  テキスト第29章(目覚め) (9)
┣  テキスト第30章(新たなる始まり) (8)
┗  テキスト第31章(最後のヴィジョン) (8)
ワークブック・パート① (237)
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ワークブック・パート② (159)
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