T3-5 知覚の超越
One of the main reasons that we lose our enthusiasm is because we become ungrateful, we let what was once a miracle become common to us.
私たちが情熱を失ってしまう主な要因は、私たちがかつては奇跡であったことを自分にとってありふれた出来事にしてしまって、ありがたく思う気持ちを忘れてしまうためです。

Joel Osteen, 'Your Best Life Now'.
ジョエル・オスティーン
The Sixth Day
第6日
Then God said, “Let Us make man in Our image, after Our likeness, to rule over the fish of the sea and the birds of the air, over the livestock, and over all the earth itself and every creature that crawls upon it.”
神はまた言われた。「我らは、我らに象って、我らの似姿として人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
So God created man in His own image; in the image of God He created him; male and female He created them.
こうして神は、神自身に似せて人を創造された。神は神に姿として人を創造され、神は人を男と女とに創造された。
God blessed them and said to them, “Be fruitful and multiply, and fill the earth and subdue it; rule over the fish of the sea and the birds of the air and every creature that crawls upon the earth.”…
神は彼らを祝福して言われた。「生めよ。増えよ。そして地に満ちて、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地上を這うすべての生き物とを治めよ」。
Then God said, “I give you every seed-bearing plant on the face of the whole earth and every tree that has fruit with seed in it. They will be yours for food.
神はまた言われた、「わたしは全地の表にある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。
And to all the beasts of the earth and all the birds in the sky and all the creatures that move along the ground—everything that has the breath of life in it—I give every green plant for food.” And it was so.
また地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべての生き物、すなわち生命の息吹を持つものには、食物としてすべての青草を与える」。そして、その通りになった。
God saw all that he had made, and it was very good. And there was evening, and there was morning—the sixth day.
神は自らの造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。

Genesis 1:26−31
創世記第1章26節
ありふれたことや、物事の当たり前に対して、どこか変だ、不気味だし、ひどく嘘っぽい、という感情を持つことは、めったにない啓示である。G・K・チェスタトンはかつてこう言った。ゴルゴンやグリフィンといった架空の生き物に目を見張ることはしばしばある。だが、サイやキリンのように、実在しているのに架空のもののように思われる生き物に目を見張るということは、それとはまったく別の、はるかに高級なことである、と。

アラン・ワッツ(「『ラットレース』から抜け出す方法」18ページ)

今回はテキスト第三章から、知覚の超越という一節をご紹介します。
"create" と"make"
本節では、"create" 「創造」と"make"「作り出すこと」の相違について説明されます。
神の現実においては、光源である光の拡張として創造された神の子は、父と同じように光を拡張して創造することがその役割です。
作り出すこと
これに対して、分離幻想を抱くことで罪を犯したと信じて罪悪感を抱き、処罰の恐怖の暗雲で光である自分自身を包み込んでしまった神の子は、光の拡張という機能を果たさず、暗雲をスクリーンにして、罪悪感から生まれ、罪悪感を糧に生きるエゴというスライドを通した影を投じてはその幻想を本物と信じる夢見状態に陥りました。
この投影、つまり、光を拡張するのではなく、光の前に障害を置いてスクリーンに影を投じるという創造力の誤った使い方、誤創造が天国での創造に対応するこの世界での創作、つまり「作り出すこと」です。
作り出すことは、欠乏マインドに基盤を置く知覚が欠乏を満たすために行われます。

創造
これに対して、創造は、豊かさマインドに基盤を置き、安定し確信に満ちた知識が自らの豊かさを抑えきれずに拡張するために行われます。
創造が光の拡張として満たされた状態を増大させることなのに対して、創作は光を障害で制限して作り出した影の欠乏を、それを埋め合わせるように思える別の影を作り出して満たしたつもりになる縮小作用なので、方向性は逆となります。
作り出すことと創造の混同
作り出すことが創造と混同されるかぎり、神の子は、本当の自分を忘れ、エゴ・身体というアバターが自分だという信念で自分を束縛したままです。
この状態で「いったい自分は何者なのか」という根本的な質問を自問することには、意味がありません。
本当は自分が誰なのか知っている神の子が私たちになりきってエゴと自己同一化することで、自分が誰なのかという知識を放棄して忘れた状態にあるわけなので、私たちが自分は何者なのかと自問することは、その答えを知らないエゴに問うことになるからです。
創造は私たちの真の役目ですが、創造は天国でなすものであり、この世界から天国に帰還するには、アバターとの一体化を解消し、自らが神の創造した奇跡である神の子だという知識を取り戻すために、赦しを実践して贖罪を達成することが必要です。
レッスン307「矛盾する願望が私の意志であるはずがない」が参考になると思います。

テキスト第三章
V. Beyond Perception
五 知覚の超越
1. I have said that the abilities you possess are only shadows of your real strength, and that perception, which is inherently judgmental, was introduced only after the separation.
私はすでに、あなたが持っている能力はあなたの真の力の影にすぎないこと、そして、本質的に価値判断する作用である知覚が生じたのは分離が起こったあとのことでしかないと述べました。
No one has been sure of anything since.
誰もが分離以来、何事にも確信を持てないようになってしまいました。
I have also made it clear that the resurrection was the means for the return to knowledge, which was accomplished by the union of my will with the Father's.
私はまた、復活とは知識へと回帰するための手段であったこと、そして、復活は私の意志と父の大いなる意志とがひとつに結ばれることによって成し遂げられたことも明確にしておきました。
We can now establish a distinction that will clarify some of our subsequent statements.
いまや私たちは、概念の区別を明確にすることによって、これから先、私たちで検討するテーマの意味を明確にすることができます。
2. Since the separation, the words "create" and "make" have become confused.
分離以来、「創造する」と「作り出す」という言葉が混同されるようになりました。
When you make something, you do so out of a specific sense of lack or need.
あなたが何かを作り出すとき、あなたは、何かが欠けていて必要だという具体的な感覚に駆られてそうします。
Anything made for a specific purpose has no true generalizability.
何であれ、ある特定の目的のために作られたものが真の普遍性を持つことはありません。
When you make something to fill a perceived lack, you are tacitly implying that you believe in separation.
知覚した欠乏感を満たそうとして何かを作り出すとき、あなたは暗黙のうちに自分は分離を信じていると示しています。
The ego has invented many ingenious thought systems for this purpose.
エゴはこの目的のために、数多くの巧妙な思考システムをでっちあげてきました。
None of them is creative.
もっとも、それらのエゴの思考システムは、どれひとつとして創造的なものではありません。
Inventiveness is wasted effort even in its most ingenious form.
エゴの凝らす創意工夫は、その最も精巧な形においてさえ、無駄骨というほかありません。
The highly specific nature of invention is not worthy of the abstract creativity of God's creations.
作り物が持つ高度に具体的な性質は、神の創造物たちが持つ抽象的な創造性が持つ価値には遠く及びません。

3. Knowing, as we have already observed, does not lead to doing.
すでに見てきたように、知ることが何かをするように導くことはありません。
The confusion between your real creation and what you have made of yourself is so profound that it has become literally impossible for you to know anything.
あなたがあまりに根深く、真に創造されたままのあなたと、自分で作り出した自己像とを取り違えて混同しているので、あなたにとって何かを知るということは文字どおり不可能になっています。
Knowledge is always stable, and it is quite evident that you are not.
知識はつねに安定していますが、あなたが安定していないことは歴然としています。
Nevertheless, you are perfectly stable as God created you.
それでもやはり、神に創造されたがゆえに、あなたは完全に安定しています。
In this sense, when your behavior is unstable, you are disagreeing with God's idea of your creation.
この意味で、あなたの行動が不安定なとき、あなたは、あなたの創造に関して神が抱く想念と解離しているのです。
You can do this if you choose, but you would hardly want to do it if you were in your right mind.
もしあなたが選ぶなら、あなたは神に創造された自分と食い違った状態のままでいることもできます。しかし、もしあなたが正しい心でいるなら、あなたは神に創造されたままの自分と不調和でいたいなどとはとても望めないはずです。
4. The fundamental question you continually ask yourself cannot properly be directed to yourself at all.
あなたが絶え間なく自分に問いかけている根本的な質問は、あなた自身に向けて問うことがまったく筋違いなものです。
You keep asking what it is you are.
いったい自分は何者なのか、とあなたは問い続けています。
This implies that the answer is not only one you know, but is also one that is up to you to supply.
自分が何者なのかと自問することは、自分がその答えを知っているだけでなく、その質問に答えるかどうかは自分次第であることも意味しています。
Yet you cannot perceive yourself correctly.
しかし、あなたには自分自身を正しく知覚することができません。
You have no image to be perceived.
あなたは本当の自分として知覚するべき像をまったく持ち合わせていないからです。
The word "image" is always perception-related, and not a part of knowledge.
「像」という言葉は必ず知覚と関連するものであり、知識の一部ではありません。
Images are symbolic and stand for something else.
像は象徴的なものであり、別の何かを代わって表すものです。
The idea of "changing your image" recognizes the power of perception, but also implies that there is nothing stable to know.
「自己像を変える」という観念は、知覚する力を認めてはいますが、同時に、確実に知ることができるものが何もないことも暗に意味しています。

5. Knowing is not open to interpretation.
知ることには解釈の余地がありません。
You may try to "interpret" meaning, but this is always open to error because it refers to the perception of meaning.
あなたは意味を「解釈」しようとするかもしれません。しかし、意味を解釈することは、つねに誤る危険にさらされます。なぜなら、意味を解釈することは、意味として知覚していることに照らし合わせて考えることだからです。
Such incongruities are the result of attempts to regard yourself as separated and unseparated at the same time.
この意味についての知識と知覚の不一致は、あなた自身のことを分離したものでありながら、同時に分離していないものであるともみなそうとする結果として生じます。
It is impossible to make so fundamental a confusion without increasing your overall confusion still further.
これほど根本的な混同をしておきながら、あなたの全体としての混乱をさらにいっそうひどく増大させずにおくことなど不可能です。
Your mind may have become very ingenious, but as always happens when method and content are separated, it is utilized in a futile attempt to escape from an inescapable impasse.
あなたの心はきわめて巧妙になってはいるかもしれません。しかし、それでも、手段と目的とが分離されると必ず起こってしまうように、巧妙な心は逃げ道のない袋小路から逃れようとする虚しい試みのために利用されることになります。
Ingenuity is totally divorced from knowledge, because knowledge does not require ingenuity.
巧妙さは知識とはまったく無縁です。なぜなら、知識は巧妙さなど必要としないからです。
Ingenious thinking is not the truth that shall set you free, but you are free of the need to engage in it when you are willing to let it go.
巧妙な考え方は、あなたを自由にする真理ではありません。とはいえ、もしあなたが自分でそれを手放す気にさえなれば、あなたは巧妙な考えを用いる必要があるという思いから自由になれます。
6. Prayer is a way of asking for something.
祈りとは、何かを求めるための方法です。
It is the medium of miracles.
祈りは、奇跡を起こす手段です。
But the only meaningful prayer is for forgiveness, because those who have been forgiven have everything.
ただし、唯一の有意義な祈りは、赦しを求める祈りだけです。なぜなら、赦された者たちはすでにあらゆるものを持っているからです。
Once forgiveness has been accepted, prayer in the usual sense becomes utterly meaningless.
いったん赦しが受け入れられたなら、通常の意味での祈りなどすっかり無意味になります。
The prayer for forgiveness is nothing more than a request that you may be able to recognize what you already have.
赦しを乞う祈りは、ただ自分がすでに持っているものを認識できるように求めることでしかないからです。
In electing perception instead of knowledge, you placed yourself in a position where you could resemble your Father only by perceiving miraculously.
知識の代わりに知覚を選んだことで、あなたは奇跡的に知覚することによってしか、自らの大いなる父に似たものになりえない立場に自分を置いてしまいました。
You have lost the knowledge that you yourself are a miracle of God.
あなたは、まさにあなた自身が神の奇跡であるという知識を失ってしまったのです。
Creation is your Source and your only real function.
創造こそが、あなたの大いなる源であり、あなたの唯一の真の役割なのです。

7. The statement "God created man in his own image and likeness" needs reinterpretation.
聖書の「神は、御自身のイメージに象って、その似姿として人を創り給うた」という言葉は解釈し直す必要があります。
"Image" can be understood as "thought," and "likeness" as "of a like quality. "
「イメージ」は「思考」と理解できるし、「似姿として」は「同じ素質で」と理解することができます。
God did create spirit in His Own Thought and of a quality like to His Own.
神が自らの大いなる思考の中に、そして、神自らと同じ素質を元にして、霊を創造したのは確かです。
There is nothing else.
それ以外には何も存在しないからです。
Perception, on the other hand, is impossible without a belief in "more" and "less. "
他方で、「より多い」とか「より少ない」ということを信じなければ、知覚することは不可能です。
At every level it involves selectivity.
いかなるレベルにおいても、知覚するためには選択することが必要になります。
Perception is a continual process of accepting and rejecting, organizing and reorganizing, shifting and changing.
知覚は、受け入れたり拒絶したり、系統立てたり再編成したり、交換したり変容させたりする継続的なプロセスです。
Evaluation is an essential part of perception, because judgments are necessary in order to select.
評価することは、知覚するために欠かすことのできない機能です。なぜなら、何かを選択するためには、その価値を判断することが必要だからです。
8. What happens to perceptions if there are no judgments and nothing but perfect equality?
もし価値判断による裁きが存在せず、ただ完全な平等性以外には何もないとしたら、知覚には何が起こるでしょうか。
Perception becomes impossible.
知覚することは不可能となるのです。
Truth can only be known.
真理は、ただ知られることしかできません。
All of it is equally true, and knowing any part of it is to know all of it.
真理に属するものはすべて等しく真実であり、真理のいずれかの部分を知るなら、それは真理のすべてを知ることになります。
Only perception involves partial awareness.
ただ知覚だけが、部分的に認識することを必要とします。
Knowledge transcends the laws governing perception, because partial knowledge is impossible.
知識は、知覚を支配する法則を超越しています。というのも、部分的な知識というものはありえないからです。
It is all one and has no separate parts.
知識は、すべてが一体となったものであり、知識には分離した部分などありません。
You who are really one with it need but know yourself and your knowledge is complete.
真に知識と一体であるあなたに必要なのは、ただ自分自身を知ることだけです。そうすれば、あなたの知識は完全なものとなります。
To know God's miracle is to know Him.
神の奇跡である者を知ることは、神を知ることだからです。

9. Forgiveness is the healing of the perception of separation.
赦しとは、分離があるという知覚を癒すことです。
Correct perception of your brother is necessary, because minds have chosen to see themselves as separate.
それには、あなたの兄弟を正しく知覚する必要があります。なぜなら、個々の心は、自分たちが分離しているとみなすことを選んでしまっているからです。
Spirit knows God completely.
霊は、神を完全に知っています。
That is its miraculous power.
神を完全に知ることこそ、霊の持つ奇跡的な力です。
The fact that each one has this power completely is a condition entirely alien to the world's thinking.
一人ひとりが神を完全に知る力を余すところなく持っているという事実は、この世界の常識からは完全にかけ離れた状態です。
The world believes that if anyone has everything, there is nothing left.
この世界では、もし誰かがすべてを持っているなら、あとには何も残らないはずだと信じられているからです。
But God's miracles are as total as His Thoughts because they are His Thoughts.
しかし、神の奇跡である者たちは神の大いなる思いと同じく完全なものです。なぜなら、神の奇跡である者たちは、神の大いなる思いそのものだからです。
10. As long as perception lasts prayer has a place.
知覚が続く間は、祈りには役に立つ余地があります。
Since perception rests on lack, those who perceive have not totally accepted the Atonement and given themselves over to truth.
知覚は何かが欠乏しているとみなすことを基礎とします。それゆえ、知覚する者たちはまだ完全に贖罪を受け入れていないし、自分自身を真理に明け渡してもいないことになります。
Perception is based on a separated state, so that anyone who perceives at all needs healing.
知覚は分離状態に基盤を置きます。だから、少しでも知覚する者は誰しも癒しを必要とします。
Communion, not prayer, is the natural state of those who know.
祈りではなく、聖餐こそが、知る者たちの自然な状態です。
God and His miracle are inseparable.
神と神の奇跡である者とを分かつことなどできないからです。
How beautiful indeed are the Thoughts of God who live in His light!
神の光のうちに生きる神の大いなる思いである者たちは、本当になんと美しいことでしょう。
Your worth is beyond perception because it is beyond doubt.
あなたに価値があることには疑いの余地がないので、あなたの真価は知覚を超越しています。
Do not perceive yourself in different lights.
神の光とは違ういかなる光の中にも自分を知覚したりしないようにしなさい。
Know yourself in the One Light where the miracle that is you is perfectly clear.
唯一の大いなる光の中にいるあなた自身を知りなさい。その大いなる光の中では、奇跡とはまさにあなたのことなのだということが完全に明らかになります。


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