T1-2 啓示と奇跡はどう違うの?時間とはどんな関係にある?
Music is ... A higher revelation than all Wisdom & Philosophy.
音楽こそ、どんな叡智や哲学よりも高みにある啓示なのだ。

Ludwig van Beethoven
ベートーヴェン
Ohne Musik wäre das Leben ein Irrtum.
Without music, life would be a mistake.
音楽のない人生なんて、まともな人生とは呼べない。

Friedrich Nietzsche
ニーチェ Twilight of the Idols
Next to the Word of God, the noble art of music is the greatest treasure in the world.
神の言葉の次に、音楽という気高い芸術こそ、世界で最も偉大な宝なのだ。

Martin Luther
マルティン・ルター
If I should ever die, God forbid, let this be my epitaph:
起こってほしくはないが、もし私が死ぬようなことがあれば、つぎの言葉を私の墓碑銘にしたい。
"THE ONLY PROOF HE NEEDED
FOR THE EXISTENCE OF GOD
WAS MUSIC"
「ただ音楽だけが
神の存在を信じるために
彼が必要とした唯一の証拠だった」

Kurt Vonnegut
カート・ヴォネガット
Everything is a miracle.
すべてのことは奇跡なのだ。
It is a miracle that one does not dissolve in one's bath like a lump of sugar.
人が風呂に入っても砂糖の塊のように溶けてしまわないことすら奇跡なのだ。

Pablo Picasso
パブロ・ピカソ

今回はテキスト第一章から、「啓示、時間そして奇跡」という一節をご紹介します。

啓示と奇跡
啓示は、イェシュア(このサイトでは、イエス・キリストのことを愛と親しみを込めて「イェシュア」と呼んでいます)を介して神から一方通行で降りてくる天啓です。
これに対して、奇跡は、私たちが分離幻想による知覚の誤りから脱して、すべてが愛によって結ばれていることに気づくことで起こる知覚の変化です。
啓示は神の意志であり、私たちの側でコントロールして受けられるものではありません。私たちにできるのは、啓示を受けることのできる用意を整えるところまでです。
これに対して、奇跡のほうは、神がすでにふんだんに与えてくれているすべてに満たされていることに私たちが目を塞いでいる状態から、私たち側が自分で蓋をしているのを開いたり、色眼鏡を外したり、フィルターを掃除したりして、他者との間にあると信じている隙間"gap"(分離幻想)を去らせて正しく知覚することで起こる自然現象なので、私たちが起こすことのできるものであり、神の意向は関係ありません。神のほうはもう、私たちを神自身である愛で包み込んで、すべてを渡し切ってくれているからです。
自分を中心点とする聖十字
啓示は神と私たちとの垂直の関係性、奇跡は私たち人間同士、私たちと世界という水平の関係性です。
啓示は、私たちが選択して起こせるものではありませんが、啓示を受ける準備を整えることはできます。
それは、神ーイェシュアー自分という垂直軸をまっすぐに正して、一霊四魂でいう直霊(なおひ)に戻ることです。
奇跡は、愛によって他者との分離がないと気づき、自分と兄弟や世界との平等性、一体性に気づくことで起こります。
自分の魂が特定の属性へと偏り、かつ、自他分離の錯覚に他者と自己との階層序列の錯覚を抱き、本来、この縦と横のラインがきれいに十字をなすべきところが、大いに歪んでいるのが私たちだということがイメージできると思います。

自分を中心点として、この縦と横の聖十字を保つことを意識することが大切だと思います。
マタイ福音書の訓令
マタイ福音書の次のふたつの訓令はこのことを語るものです。
Jesus replied: Love the Lord your God with all your heart and with all your soul and with all your mind.’
イエスは答えられた。「主であるあなたの神をあなたの全身全霊をこめて愛しなさい。」
This is the first and greatest commandment.
これは第一にして最大の訓令である。
And the second is like it: ‘Love your neighbor as yourself.’
そして第二の訓令は次のようなものである。「あなたの隣人を自分自身と同じように愛しなさい。」
All the Law and the Prophets hang on these two commandments.
大いなる法と預言は、もっぱらこのふたつの訓令にかかっているのだ。

Matthew 22:37-39
イエス・キリスト(マタイによる福音書第22章37-39節)

アンラーンの学び
さて、次の文章は、奇跡のコースが学習棄却、アンラーン(unlearning)の学びであることを如実に表していると思います。
3.「There is nothing about me that you cannot attain.
私の持ち合わせるもので、あなたたちが手に入れられないものは何ひとつありません。
I have nothing that does not come from God.
私の持つもので神に由来しないものは何ひとつありません。
The difference between us now is that I have nothing else.
今のところ、あなたたちと私との違いは、私が神から授かったもの以外には何も持っていないということです。
This leaves me in a state which is only potential in you.
このことが、あなたたちにとってはまだ可能性にとどまっている境地に私を置いているのです。」
私たちがイェシュアのようではないのは、余計なガラクタを身につけているため
イェシュアは神の子であり、私たちも神の子であるとコースは語ります。
そして、神にはひとり子があるだけなのだとすれば、これが意味するのは、私たちとイェシュアは同じひとつの神の子キリストだということです。
同一の存在であるのに、別の存在であるように見えているのは、私たちが目覚めていないからです。
私たちは、イェシュアのようになりたいと願いながらも、そうなれないのは、私たちに何かが欠けているためであり、私たちは至らない今の自分から成長するために、自分の外部から、自分の持ち合わせていない真理や知識を獲得しなければならないと意気込んでいます。
けれど、上の文章で述べるように、私たちがイェシュアのように自分が神の子であると自覚する境地に至っていない理由は、私たちが神に授かったもの以外のもの、つまり、実在しない影である幻想をたくさん持っているからです。
イェシュアが教えてくれているのは、私たちがイェシュアのようではないのは、余計なガラクタを身につけて本当の自分を忘れてしまっているせいだということ、必要なのは何かを習得する学びではなく、無用の障害を削ぎ落とす学びだということです。
すなわち、私たちは、この世界が現実であり、自分が人間であると信じて、エゴ・身体というアバター(コースでは「人の子」"son of man"という呼び方をします。T13-2 罪のない神の子、T25-Intro, 1 真理への絆、M12 キリストの言葉(世界を救うために必要な教師の数)、T24-7 出会いの場)が自分だと思い込んで、無数にいるアバター各自が神の意志とは異なる独自の意志を抱いていると考えています。
啓示を学ぶことはできないが奇跡を学ぶことはできる
神の子は、このように、幻想世界を現実だと妄想し、さらに、解離性同一障害を起こして自分を無数に分裂させた多重人格状態にあり、私たちはその副人格たち、「人の子」です。
啓示は、神と直接結ばれる体験であり、私たちから求めて得られるものではなく、私たちに準備ができたときにイェシュアの介在によって神からの一方通行で得られるものです。
「5. Revelations are indirectly inspired by me because I am close to the Holy Spirit, and alert to the revelation-readiness of my brothers.
啓示は私が間接的に呼び起こすものです。なぜなら、私は聖霊と近しいし、私は兄弟たちに啓示を受ける準備が整っているかどうかについても注意を怠らないからです。」
ですので、啓示は学んで習得するものではありません。
これに対して、奇跡は、私たちが分離しているということは錯覚で、心は本当はひとつであるという真理への気づきに応じて、人と人との関係の中で起こるものなので、私たちには、奇跡を学ぶことができます。
このように、奇跡のコースは「奇跡」を学ぶ学習課程であり、啓示を学ぶコースではありません。
イェシュアは、神の子の主人格として、ばらばらの人の子へと自己を分裂させた副人格たる私たちに、真の自己である神の子に自己統合する道を導き、人類の兄として、大いなる父と弟妹たちとの懸け橋となってくれます。

テキスト第一章
II.Revelation, Time and Miracles
二 啓示、時間そして奇跡
1. Revelation induces complete but temporary suspension of doubt and fear.
啓示は、疑いと恐れの停止を引き起こしますが、それは完全なものではあっても、一時的なものに留まります。
It reflects the original form of communication between God and his creations, involving the extremely personal sense of creation sometimes sought in physical relationships.
啓示は、ときに肉体的な関係において希求されるようなきわめて個人的な創造の感覚を含む、神と創造物との間でのコミュニケーションの原形を反映します。
Physical closeness cannot achieve it.
肉体的な親密さによっては、啓示を獲得することはできません。
Miracles, however, are genuinely interpersonal, and result in true closeness to others.
しかしながら、奇跡は純粋に人と人との関係において起こるので、結果として、ほかの人たちと真の親密さを生じます。
Revelation unites you directly with God.
啓示は、あなたを神と直接的に結びつけます。
Miracles unite you directly with your brother.
奇跡は、あなたを自分の兄弟と直接的に結びつけます。
Neither emanates from consciousness, but both are experienced there.
啓示も奇跡も、意識することで起こるものではありませんが、ともに意識において経験されるものです。
Consciousness is the state that induces action, though it does not inspire it.
意識することは行動を誘発する状態です。けれども、意識すること自体が行動を引き起こすわけではありません。
You are free to believe what you choose, and what you do attests to what you believe.
あなたには自分の選ぶものを信じる自由があります。そして、あなたが何をするかということが、あなたが何を信じているかを証明します。
2. Revelation is intensely personal and cannot be meaningfully translated.
啓示は、きわめて個人的な体験であって、それを十分に意味がわかるように翻訳することなどできません。
That is why any attempt to describe it in words is impossible.
それゆえ、啓示をどのように言葉で描写しようとしても、それは不可能です。
Revelation induces only experience.
啓示が引き起こすのは、ただ体験だけです。
Miracles, on the other hand, induce action.
他方で、奇跡が引き起こすのは行動です。
They are more useful now because of their interpersonal nature.
今のところは、奇跡のほうが役に立ちます。なぜなら、奇跡には人と人との関係において起こるという本質があるからです。
In this phase of learning, working miracles is important because freedom from fear cannot be thrust upon you.
学びのこの段階では、奇跡を起こすことのほうが重要です。なぜなら、恐れから解放されることをあなたに強制することなどできないからです。
Revelation is literally unspeakable because it is an experience of unspeakable love.
啓示は、文字どおり言葉では表現しきれません。なぜなら、啓示とは言葉に表せないほどの愛を体験することだからです。

3. Awe should be reserved for revelation, to which it is perfectly and correctly applicable.
畏敬の念は、啓示のために取っておくべきです。啓示に対して畏敬の念を抱くのは、この上なく自然でふさわしい反応だからです。
It is not appropriate for miracles because a state of awe is worshipful, implying that one of a lesser order stands before his Creator.
しかし、奇跡に対して畏敬の念を抱くのはふさわしい反応ではありません。なぜなら、畏敬の念を抱く心境は、崇めることであって、劣位の者が自らの創造主の前に立つことを意味するからです。
You are a perfect creation, and should experience awe only in the Presence of the Creator of perfection.
あなたは完全なるものとして創造されているのだから、ただ完全にしてくれた創造主に対してのみ、畏敬の念を抱くべきです。
The miracle is therefore a sign of love among equals.
したがって、奇跡は、同等である者たちの間における愛の印だということができます。
Equals should not be in awe of one another because awe implies inequality.
畏敬の念は平等ではないことを意味するので、同等の者同士は、お互いに畏敬の念を抱くべきではありません。
It is therefore an inappropriate reaction to me.
したがって、私に対する態度として畏敬の念を抱くことはふさわしくありません。
An elder brother is entitled to respect for his greater experience, and obedience for his greater wisdom.
兄は、より多大な経験をしてきたがゆえに敬意を払われるに値するし、より優れた英知を備えているがゆえに、忠順であるにも値します。
He is also entitled to love because he is a brother, and to devotion if he is devoted.
また、兄は、彼が同胞であるがゆえに愛されるに値し、もし彼が献身的な深い愛を捧げられるなら、それを受けるにも値します。
It is only my devotion that entitles me to yours.
私があなたたちから深く愛されるに値するとすれば、それはひとえに私が深くあなたたちを愛しているからにほかなりません。
There is nothing about me that you cannot attain.
私の持ち合わせるもので、あなたたちが手に入れられないものは何ひとつありません。
I have nothing that does not come from God.
私の持つもので神に由来しないものは何ひとつありません。
The difference between us now is that I have nothing else.
今のところ、あなたたちと私との違いは、私が神から授かったもの以外には何も持っていないということです。
This leaves me in a state which is only potential in you.
このことが、あなたたちにとってはまだ可能性にとどまっている境地に私を置いているのです。
4. "No man cometh unto the Father but by me" does not mean that I am in any way separate or different from you except in time, and time does not really exist.
「私によらずして、誰ひとり父の御許に至る者はない」との言葉は、私はあなたたちから少しも離れてはいないし、あなたたちとどのようにも違ってはいないことを意味します。私とあなたが分離した別の存在であるのは時間の中だけですが、時間は本当は存在しないのです。
The statement is more meaningful in terms of a vertical rather than a horizontal axis.
水平軸よりも垂直軸の観点を用いて説明したほうが、この言葉の意味がよりわかりやすいでしょう。
You stand below me and I stand below God.
あなたたちは私の下にいて、私は神の下にいます。
In the process of "rising up," I am higher because without me the distance between God and man would be too great for you to encompass.
「昇天」のプロセスにおいて、私はあなたたちよりも高みに立っています。なぜなら、私がいなければ、神と人との間の隔たりがあまりにも大きすぎて、あなたたちには乗り越えられなくなってしまうからです。
I bridge the distance as an elder brother to you on the one hand, and as a Son of God on the other.
私は、一方では、あなたたちの兄として、他方では、神の子として、その隔たりに橋を架けます。
My devotion to my brothers has placed me in charge of the Sonship, which I render complete because I share it.
兄弟たちへの深い愛によって、私は神の子全体の救済の任に就きました。そして、私は神の子としての身分を共有するがゆえに、神の子を完全にするために尽くすのです。
This may appear to contradict the statement "I and my Father are one," but there are two parts to the statement in recognition that the Father is greater.
このことは「私と大いなる父はひとつである」という言葉と矛盾するように思えるかもしれません。しかし、父がより大いなる存在であることを承認する点で、この言葉にはふたつの側面があるのです。

5. Revelations are indirectly inspired by me because I am close to the Holy Spirit, and alert to the revelation-readiness of my brothers.
啓示は私が間接的に呼び起こすものです。なぜなら、私は聖霊と近しいし、私は兄弟たちに啓示を受ける準備が整っているかどうかについても注意を怠らないからです。
I can thus bring down to them more than they can draw down to themselves.
したがって、私は兄弟たちが自分で引き出しうる以上に、より多くを彼らにもたらすことができます。
The Holy Spirit mediates higher to lower communication, keeping the direct channel from God to you open for revelation.
聖霊は、神からあなたへの直通の経路を啓示のために開いておくことによって、高いところから低いところへのコミュニケーションを取りなします。
Revelation is not reciprocal.
啓示は、双方向的には起こりません。
It proceeds from God to you, but not from you to God.
啓示は、神からあなたへと赴くものであって、あなたから神へと赴くものではないのです。
6. The miracle minimizes the need for time.
奇跡は、時間の必要性を最小化します。
In the longitudinal or horizontal plane the recognition of the equality of the members of the Sonship appears to involve almost endless time.
前後に時間が経過し水平に空間が広がる次元の中では、神の子全体を構成する者たちが等しいことに気づくには、ほとんど無限の時間を必要とするように思えます。
However, the miracle entails a sudden shift from horizontal to vertical perception.
しかしながら、奇跡は、水平的な知覚から垂直的な知覚への突然の移行を引き起こします。
This introduces an interval from which the giver and receiver both emerge farther along in time than they would otherwise have been.
この水平軸から垂直軸への突然の移行によって、奇跡の与え手と受け手の両者が、水平的な知覚のままであったなら、彼らがそこに留まっていたはずの時点と、彼らがともに本来さらにずっと進んだ先の時間において現れることになるはずの時点との隔たりが引き合わされることになります。
The miracle thus has the unique property of abolishing time to the extent that it renders the interval of time it spans unnecessary.
このように、奇跡は、それが及ぶ時間的隔たりを不必要にして、その範囲において時間を完全に無くすという独自の性質を持っています。
There is no relationship between the time a miracle takes and the time it covers.
ある奇跡に要する時間とその奇跡が及ぶ時間の間には、何の関係もありません。
The miracle substitutes for learning that might have taken thousands of years.
奇跡は、何千年もかかったかもしれない学びの代わりとなるのです。
It does so by the underlying recognition of perfect equality of giver and receiver on which the miracle rests.
奇跡は、与え手と受け手は完全に同一であるという奇跡の土台となる認識によってこれをなすのです。
The miracle shortens time by collapsing it, thus eliminating certain intervals within it.
奇跡は時間を崩壊させ、そうして、時間の中に含まれている一定の間隔を取り除くことによって時間を短縮します。
It does this, however, within the larger temporal sequence.
ただし、奇跡がこれをなすのは、より大きな時間的な連なりの中においてです。


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