T27-1 磔刑の絵


芸術家や詩人の課題は、デーモンや暗闇の経験を十分に書き、名付けることだというのが私の意見です。どっちみち、私はグリューネヴァルトヒエロニムス・ボッシュゴヤの絵を断念したくありません。私がとりわけ高く評価する著者に、ゲーテヘルダーリンだけでなく、カフカベケットも入ります。

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Michael Ende
ミヒャエル・エンデ

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たとえば、あなたの個人的な使命を果たすには、虐待行為のはびこる家庭に生まれ、身をもって虐待を体験し、虐待とは何かを被害者あるいは加害者として知ることが必要かもしれません。でも、いったん転生したら、あなたが同意した使命に関する記憶は消えてしまうということを忘れないでください。もし自分の使命を覚えていたら、被害者でいる気持ちやエネルギーを十分に経験できないでしょう。被害を受けるという経験をすることでのみ、あなたは被害者という幻想の背後に潜むもの、すなわち、自分の罪悪感の投影に気づくチャンスを得るのです。加害者という幻想の向こうにあるものを見つめ、虐待行為は愛を求めるがゆえのものだと気づけるなら、そして愛を込めてすべてを受け入れる姿勢をとるなら、被害者のエネルギーは変容され、関わっているすべての人々の意識は高まります。加えて、虐待という習慣を支えているエネルギーは消え去り、虐待的な行為はただちにやみます。これが変容させるということです。
一方で、状況の中にある真実に気づかないまま、あるいは幻想の向こうにあるものを見ないまま、物理的な状況を変えようと試みるなら、私たちは虐待という習慣を支えているエネルギーを固定して何もかわらないことになります。



Colin C. Tipping
コリン・C.ティッピング(「人生を癒すゆるしのワーク」139ページ)

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人間がどのように進化しようと、文明が進もうと、人間が自然の一部であることには変わりはない。



手塚治虫





Be assured that if you knew all, you would pardon all.
もしあなたがすべてを知っていたなら、あなたはすべてを赦すことになるのは間違いはない。

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Thomas à Kempis
トマス・ア・ケンピス

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今回は、テキスト第二十七章から「磔刑の絵」という一節をご紹介します。


被害者アーキタイプ

自分は被害者だという信念を抱くことで無意識に被害者としての行動をとってしまう「被害者アーキタイプ」(コリン・C. ティッピング著「人生を癒すゆるしのワーク」))がこの世界にはびこっています。

この点については、ワークブックのレッスン31が参考になると思います。


ふたつの絵

本節では、ふたつの絵が出てきます。

ひとつ目は、エゴの描く私たちの肖像であり、自分の身体が磔刑にされた絵で、自分自身を兄弟が有罪であることの生き証人にしようという狂気の願望に満ちた絵です。

もうひとつは、聖霊の差し出す自画像であり、依然として身体が描かれていますが、攻撃の手段にも対象にもなりえない神の子の潔白さが自分自身とすべての兄弟を癒す愛に満ちた幸せな絵です。

私たちは、他者の過ちないし故意によって害悪を被った際に、罪のない自分が罪深い他者に蹂躙される犠牲者であることを証明して加害者である他者の悪辣さを明かしてその者に罪悪感を抱かせることができさえするなら、どんな犠牲も惜しくないという心情、情念が自分の心の動きとして生じて蠢(うごめ)くのがわかります。




自分を傷つけた相手に思い知らせてやりたいという心理

4.「Death seems an easy price, if they can say, "Behold me, brother, at your hand I die."
 病人には、もし自分が一言、『兄弟よ、私を見よ。お前の手にかかって私は死ぬのだ』とさえ言えたなら、死ぬことすら安い代償のように思えます。

 For sickness is the witness to his guilt, and death would prove his errors must be sins.
 というのは、病気はその兄弟が有罪である証拠であり、死がその兄弟の誤りが罪に違いないと証明してくれるからです。」

この復讐心、報復感情から自由でいられる人はほとんどいません。

モンテクリスト伯、韓ドラ「ザ・グローリー~輝かしき復讐~」等、小説やドラマや映画のテーマとして復讐ものはいつの世も、物語に視聴者等を引き込む最右翼コンテンツです(Wiki:復讐を題材とした小説)。


主人公がいじめ、その他の犯罪被害等によってひどい苦しみを味わい、くじけずに復讐だけを燈火にして耐えに耐えて、ときがきたときに見事な復讐を遂げたときには、溜め込んだ毒をすべて排出したような精神の浄化、カタルシスを味わいます。


復讐心が湧いてくるのは他者はこうあるべきという期待があるから

この復讐心という心理作用は、自動的な反応として起こる自然なもののように感じがちですが、それは錯覚です。

というのも、この心情が湧いてくるには、価値中立な素朴な事実認識に対して、特定の価値観を基にした価値判断を下して、事実について評価する、というふうに、事実と評価の間に解釈のプロセスをかませなければならないからです。

私たちは、同じ被害を被っても、それが台風や地震等の自然現象(人間以外の動物によるものも含めて)によって受けた被害であれば、悲しむことはあっても、仕方のない運命として受け入れ、自然に対して怒りを覚えて報復して思い知らせてやろうとは思いません。

けれど、人の関与した事件・事故となると、とうてい受け入れられません。

他者は、ルールを守るべき、少なくとも、自分に危害を与えることだけはあってはならない、という他者はこうあるべきという期待があるからです。

この自分が他者に与えた役目を他者が果たし損ねたことが他者を攻撃して処罰することを正当化することになるという仕組みについては、T29-4 夢での役割が明解に述べているので、参考にしてください。


横たわる自由意志幻想

さて、この期待を他者に求める根本には、自由意志幻想が横たわっています。

人間は、自然の中で自分たちだけは特別な存在だという思い(思い上がり)があります。

私たちは、自然環境に対して、人工環境を対置して、神の作りたもうた世界に対して、人間は神の意志を無視して科学技術で自然ではない人工的変化を加えることができる、環境破壊できる(神をも凌ぐ)存在なので、環境破壊を止めてエコロジーを実現するしないも人類のさじ加減一つだと本気で信じています。

どうしてすべての生物の中で人間のやることだけが神の意志やコントロールを脱することができるのでしょうか。

シロアリの作り出す蟻塚は、神の容認する自然環境の一部だけれど、人間の建築する高層ビルはそうではないというのは傲慢でしかありません。

そもそも、生物の身体という生命現象自体、その生命体の外部からタンパク質等の素材を取り込んで遺伝子のDNAの塩基配列という設計図に従って身体という構造物を建築、維持する作用であり、その意味で、人類が建物や機械等の人工物を作る作用が神への挑戦だというなら、身体を持つこと自体が神への反逆だと言わなければなりません(実は、コースの観点からすればその通りであるわけですが、それはいったん脇に置いておきましょう。)。

ほかの生物は神の支配する自然の一部だから、熊に襲われて被害を受けても、落石事故と同じように受け入れるしかないということになりますが、これが被害を加えたのが熊ではない人間だと絶対に許せなくなります。

動物や自然だと怒りが湧かないのに、擬人的にイメージ可能な神となると、神に怒りを覚えることが可能になりはじめることに、このからくりの本質が見て取れます。

私たちが大好きで信奉する自由意志です。


エゴは自由意志の否認であるがゆえに、エゴは自由意志の錯覚を生み出すことしかできない

自分が自由意志を持っていると実感し、行動を制御できると思っているので、他者も当然そうできるはずなのに、意図的にあるいは不注意やまずい判断で結果を起こしてしまったがゆえに非難に値するというわけです。

本当に、私たちは自分の自由意志を持っていて、自分の思考や行動、運命、人生をコントロールできているのでしょうか?

「It is not your will to be imprisoned because your will is free.
 囚われの身となることは、あなたの意志ではありません。なぜなら、あなたの意志は自由だからです。

 That is why the ego is the denial of free will.
 だから、エゴとは自由意志の否定なのです。」(テキスト第八章 二 幽閉と自由との違い 3)

端的に言えば、この世界において、エゴ・身体と一体化しているかぎり、私たちは、感覚としての自由意志を味わうことはできても、真の自由意志を持ってはいません。

このことはほかのところでもたびたび触れていますが、私たちは幼児が抱く万能感が挫かれた名残りとして内心の自由だけは確保できていると実感し、素朴に意思自由論を信奉しているので、コースがこのようなスタンスをとることにとても違和感を覚えます。

けれど、エゴに従う私たちに価値判断をする能力も自由もないと主張するコースとしては、私たちには価値判断の前提となる自由意志もないと言わざるをえないわけです。


リンカーンの信念

デール・カーネギー先生の「道は開ける」で、次のようなリンカーンの信念が紹介されています。



Dale Carnegie
デール・カーネギー

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Abraham Lincoln
エイブラハム・リンカーン



「リンカーンは、法律事務所を共同経営していたハーンドンによれば、『人は何をしたかによって褒め称えられるべきではないし、したことやしなかったことによって弾劾されるべきではない』と固く信じていたという。なぜならば『われわれ人間はすべて、状況や境遇、環境や教育、身につけた習慣、現在と未来の姿を決める遺伝子によって作られるものだからだ』
 おそらくリンカーンは正しい。もし自分たちが、敵が受け継いだのと同じ肉体、精神、情緒的性格を受け継いでいたならば、そして人生において彼らが経験したのと同じことを経験していたならば、自分たちも敵とまったく同じ行動をするだろうし、たぶん他の行動はとりえないだろう。
 有名な弁護士クラレンス・ダロウも言っているように『すべてを知ることはすべてを理解することである。そうなれば、判断や非難が入り込む余地はなくなる』のだ。だから、敵を憎むのではなく哀れみ、自分たちが彼らのようにならなかったことを神に感謝しよう。敵に対する恨みつらみを募らせるのではなく、理解と同情、救いと許し、そして祈りをささげよう。」(デール・カーネギーの悩まずに進め: 新たな人生を始める方法)


グルジエフやマーク・トウェインの人間機械論(レッスン175「レッスン159と160の復習」)も参考になると思います。



グルジエフ

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Mark Twain
マーク・トウェイン

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スティーブン・R.コヴィー先生が「第3の案」でカレル・チャペック(チェコの小説家、劇作家、ジャーナリスト、園芸家。ロボットという言葉の作者といわれる)の「最後の審判」の概要を紹介してくださっているくだりを抜粋します。

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他者の話を深く理解すれば、必ず思いやりの気持ちが湧いてくるものである。
愛する人の心のなかを見て涙し、愛する人の気持ちを感じとれたら、二人の関係は変わる。私たちのパラダイムは根本的に変化する。
生意気なだけだと思っていた十代の娘や息子が、実は孤独で悩みを抱えていたことがわかる。無口でいつも不機嫌な夫が、実は精神的な不安や悲痛、落ち込みといつも闘っていたことがわかる。年老いて偏屈な親の心のなかに、遠い昔につかみきれなかったチャンスを悔い、先細っていくわが身の人生に絶望している姿を見る。どんな人の心も敏感である。心という敏感なものに触れるというのは、聖なる場所に足を踏み入れることなのだ。

チェコの作家、カレル・チャペックの『最後の審判』は、残忍な殺人者の魂が天国の法廷で裁かれるという短編小説だ。
裁くのは三人の退屈そうな判事。判事たちは証人を召喚する。「金の星を散りばめた青いマントを着た、威厳のある並はずれて大きい老人」である。この老人が唯一の証人だということが明らかになる。なぜなら「全知全能の神様」だからだ。

被告は証人の話に口を挟んではいけないと警告される。「この方はなにごとも知っておられるのだから、否認してもだめですよ」というのである。証人は、被告が犯した残虐行為を証言する。だが証言はそれで終わりではない。子どもの頃、被告は母親を心から愛していたが、その気持ちを表すことができなかった。六歳の時、持っていたたった一つの玩具、色ガラスのビー玉をなくして泣いた。七歳の時、バラを一輪盗んだ。女の子にプレゼントするためだった。その子は大人になると彼を振って金持ちの男と結婚した。若い時にホームレスになった被告は、他の路上生活者に食べ物を分けてやったりした。「彼は良い行いもした。女には親切で、生き物を愛し、約束を守りました」それでも予想どおり、判事たちは被告に終身刑を宣告した。

ある時、被告は「どうしてまたあなた……神様のあなたが、自分で裁判をなさらないんですか」と神に尋ねた。
神はこう答えた。「それはね、わしがなにもかも知っているからだよ。裁判官がなにもかも、完全になにもかも知っていたら、裁判なんてできやしない。なまじっか、なにもかもわかるようになると、心が痛んでしょうがないのだよ……わしはおまえのことはなにもかも知っているのだからね。なにもかもなのだ。それでわしにはおまえを裁くことができないのだ」

この小説が教えているのは、だれかのことを理解するほど、その人を愛おしむ気持ちになり、その人の人間的価値を決めようとは思わなくなる、ということだろう。
逆に相手を理解していなければ、その人を「モノ」として見る。「モノ」であるから、簡単に決めつけ、操ろうとし、拒絶するのである。

子どもや年老いた親、パートナーなど、家族のだれかが困難な状況にある時、まずあなた自身が自分のことを話せば、その家族も自分のことを話す気になり、お互いに共感し合える家族文化ができていく。まずはあなたの共感する能力を鍛えよう。家族はどんな対立に直面しているのか、どんな誤解をしているのか尋ね、その闘いの物語に耳を傾けよう。家族と共感の絆ができれば、親切な反応が返ってくるだろう。共感は伝染力が強いのだ。



Stephen R. Covey
スティーブン・R.コヴィー(「第3の案 成功者の選択」242ページ)

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西諺に「すべてを知るはすべてを許すなり」というものがあります。冒頭のトマス・ア・ケンピスの言葉もこのことわざと同じ趣旨を語るものです。



聖霊の認識、すべての時間、空間に及ぶ原因と結果のなりゆきを見通す全知の見地からすれば、一局面だけで切り取ったら、どうみても許しがたい悪行も、実は、そもそも、一度も起こっていない幻想世界の出来事に善悪や聖俗の評価を加えようがないという根本基盤に照らして、本質が無である物語の一エピソードでしかないし、世界という物語の土俵に乗るとしても、その物語の展開上必要なエピソードとして織り込まれているということがわかり、ただ赦すことしかできません。



マクトゥーブ

さて、私たちが自由意志を所有し存分に行使しているつもりでいながら、決められた通りの人生ライン(世界線)を歩んでいるというのが事実だとしたら、人生で降りかかる他者の手による害悪について、犯人をとっちめてやることは、実は見当違いであるだけでなく、キリストの顔にかかるヴェールが取り払えない状態を固定化する闇への転落であるというのが本当のところとなります。

アラブ人の言葉「マクトゥーブ」(すべてはクルアーン(コーラン)に書かれている)に私たちは学ばなければなりません。


聖霊の3大レッスン

本節で述べられる、自分のことを、相手に罪悪感を抱かせるための生き証人にしてはならないという教えは、聖霊の3大レッスン(攻撃を愛を求める哀訴として正しく知覚し、愛に基づく助けで返すこと(T12-1 聖霊の審判)、私たちを怒らせる他者は私たちの振り上げた剣を振り下ろすか背けるかによって、私たちと相手を一緒に幽閉するか解放するかを選ぶチャンスを与えてくれている救い主だ(レッスン192「私には、神が私に果たさせようとする役目がある」)、私たちの本質は神の子なのだから、兄弟の攻撃には自分を相手の罪の生き証人にして罪悪感を抱かせようとするのではなく、自分が傷ついていないことを示して、相手に自らが無罪だと自覚させること)のひとつとして、他の記事でもたびたび引用しているきわめて重要なレッスンです。

T14-3 無罪を自覚する決意が同じレッスンについて述べているので参照してください。






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テキスト第二十七章

I. The Picture of Crucifixion
一 磔刑の絵



1. The wish to be unfairly treated is a compromise attempt that would combine attack and innocence.
 不当に扱われることを願うのは、攻撃しながらも潔白でいられるように妥協を試みることです。

 Who can combine the wholly incompatible, and make a unity of what can never join?
 いったい誰がまったく両立しないものを両立させたり、絶対に結びつきようのないものをひとつに結びつけたりできるでしょうか。

 Walk you the gentle way, and you will fear no evil and no shadows in the night.
 穏やかな道を歩みなさい。そうすれば、あなたはどんな害悪も恐れず、闇の中のどんな影も恐れないでしょう。

 But place no terror symbols on your path, or you will weave a crown of thorns from which your brother and yourself will not escape.
 ただし、自分の進む道に恐怖を象徴するものを一切置いてはなりません。さもなくば、あなたは荊の冠を編むことになり、あなたの兄弟もあなた自身もそれから逃れられなくなってしまうでしょう。

 You cannot crucify yourself alone.
 あなたは自分ひとりを磔刑にするだけでは済みません。

 And if you are unfairly treated, he must suffer the unfairness that you see.
 もしあなたが不当な扱いを受けたら、あなたが経験する不公正に兄弟も必ず苦しむことになります。

 You cannot sacrifice yourself alone.
 あなたは自分ひとりを犠牲にするだけでは済まないわけです。

 For sacrifice is total.
 というのは、犠牲というのは全体的なものだからです。

 If it could occur at all it would entail the whole of God's creation, and the Father with the sacrifice of His beloved Son.
 もし犠牲が少しでも起こりうるなら、犠牲は必ず神が創造したすべてのものを巻き添えにして、父に自らの愛し子を失う犠牲を強いることになります。



2. In your release from sacrifice is his made manifest, and shown to be his own.
 あなたが犠牲から解放されることによって、兄弟が解放されていることが明らかになって、あなたの解放が彼の解放でもあることがわかります。

 But every pain you suffer do you see as proof that he is guilty of attack.
 しかし、あなたは、自分が苦しい思いをするたびに、それを兄弟が攻撃という罪を犯している証拠だとみなします。

 Thus would you make yourself to be the sign that he has lost his innocence, and need but look on you to realize that he has been condemned.
 こうして、あなたは自分自身を兄弟が潔白さを失ったことの印にして、あなたを一目見さえすれば、彼に自らが有罪宣告されたとわかるようにしようとします。

 And what to you has been unfair will come to him in righteousness.
 そして、あなたにとって不公正であったことが、彼の許に当然の報いとして訪れることになります。

 The unjust vengeance that you suffer now belongs to him, and when it rests on him are you set free.
 あなたが苦しんでいる不公正はいまや彼がその報いを受けるべきものとなり、彼がその報いを受けることで、あなたは解放されるというのです。

 Wish not to make yourself a living symbol of his guilt, for you will not escape the death you made for him.
 自分自身を兄弟が有罪であることの生き証人にしようとなど願ってはなりません。なぜなら、あなたが彼のために作り出す死をあなたも免れなくなるからです。

 But in his innocence you find your own.
 反対に、兄弟の潔白さの中にこそ、あなたは自分の潔白さを見出せるのです。

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3. Whenever you consent to suffer pain, to be deprived, unfairly treated or in need of anything, you but accuse your brother of attack upon God's Son.
 あなたが苦痛を味わったり、困窮したり、不公平な扱いを受けたり、何かを必要とする立場に立たされたりすることに同意するときはいつでも、あなたはまさに神の子を攻撃した廉で自分の兄弟を糾弾しているのです。

 You hold a picture of your crucifixion before his eyes, that he may see his sins are writ in Heaven in your blood and death, and go before him, closing off the gate and damning him to hell.
 あなたは兄弟の目の前に、自分が磔刑にされた絵を掲げて、彼のあまたの罪は、あなたの血と死をもって天国に記され、彼より先に天国の扉を閉ざして、彼の地獄行きが決まっていることが彼にわかるようにします。

 Yet this is writ in hell and not in Heaven, where you are beyond attack and prove his innocence.
 しかし、こうしたことは地獄に記されているのであって天国に記されているのではありません。というのも、天国では、あなたは攻撃の及ばない存在なので、彼に罪がないことを証明することになるからです。

 The picture of yourself you offer him you show yourself, and give it all your faith.
 あなたが彼に差し出すあなたの自画像によって、あなたは自分自身を示すことになり、その自画像にあなたは全幅の信頼を寄せます。

 The Holy Spirit offers you, to give to him, a picture of yourself in which there is no pain and no reproach at all.
 聖霊は、兄弟に渡すようにと、ひとつのあなたの肖像を差し延べてくれます。その絵には、何の苦痛もいかなる咎めも描かれてはいません。

 And what was martyred to his guilt becomes the perfect witness to his innocence.
 そして、かつて兄弟の罪に殉じて犠牲となっていた者は、いまや彼の潔白さを完璧に示す証人となるのです。



4. The power of witness is beyond belief because it brings conviction in its wake.
 証言は、証人が経験した内容を証言するという過程を通じて確信をもたらすので、証言は信念を上回る力を持ちます。

 The witness is believed because he points beyond himself to what he represents.
 証人が信じられるのは、証言が彼が彼自身で思いつける範囲を超える彼の実際の体験を指し示すものだからです。

 A sick and suffering you but represents your brother's guilt; the witness that you send lest he forget the injuries he gave, from which you swear he never will escape.
 病気になったり苦しんだりすることで、あなたは自分の兄弟の罪を表現しようとしているだけです。すなわち、病気や苦痛は、あなたが彼を絶対に許さないと誓った彼に負わされた傷を彼に忘れさせないように証言させようとして用意した証人たちなのです。

 This sick and sorry picture you accept, if only it can serve to punish him.
 ただ彼を罰する役に立ちさえするならと、こんな病んで哀れな絵をあなたは受け入れているのです。

 The sick are merciless to everyone, and in contagion do they seek to kill.
 病人は誰に対しても無慈悲に、病気を感染させて死なせようとします。

 Death seems an easy price, if they can say, "Behold me, brother, at your hand I die."
 病人には、もし自分が一言、「兄弟よ、私を見よ。お前の手にかかって私は死ぬのだ」とさえ言えたなら、死ぬことすら安い代償のように思えます。

 For sickness is the witness to his guilt, and death would prove his errors must be sins.
 というのは、病気はその兄弟が有罪である証拠であり、死がその兄弟の誤りが罪に違いないと証明してくれるからです。

 Sickness is but a "little" death; a form of vengeance not yet total.
 病気は「小さな」死でしかなく、復讐の一形態ではあっても、まだ完遂してはいません。

 Yet it speaks with certainty for what it represents.
 それでも、病気は間違いなくそれが象徴する死を代弁しています。

 The bleak and bitter picture you have sent your brother you have looked upon in grief.
 自分が兄弟に送りつけた寒々として痛ましい絵を、あなたは深い悲しみのうちに見てきました。

 And everything that it has shown to him have you believed, because it witnessed to the guilt in him which you perceived and loved.
 そして、その絵が兄弟に示したすべてのことをあなたは信じてきました。なぜなら、その絵は、兄弟の中に罪が存在することを証明しており、あなたはその罪を喜んで知覚したからです。

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5. Now in the hands made gentle by His touch, the Holy Spirit lays a picture of a different you.
 今、聖霊に触れられて優しくなったその手に、聖霊は違うあなたが描かれた絵を置いてくれます。

 It is a picture of a body still, for what you really are cannot be seen nor pictured.
 それは依然として身体が描かれた絵です。というのも、本当のあなたは見ることも描写することもできない存在だからです。

 Yet this one has not been used for purpose of attack, and therefore never suffered pain at all.
 しかし、この絵に描かれた身体は攻撃という目的のために使われたことがないので、いまだかつて苦痛を味わったことがまったくありません。

 It witnesses to the eternal truth that you cannot be hurt, and points beyond itself to both your innocence and his.
 この身体は、あなたが傷つけられることはありえありないという永遠の真理を証明して、その身体自体を越えてあなたの潔白さと兄弟の潔白さをともに示しています。

 Show this unto your brother, who will see that every scar is healed, and every tear is wiped away in laughter and in love.
 この絵をあなたの兄弟に見せてください。そうすれば、その兄弟は、すべての傷が癒され、笑い声と愛の中ですべての涙が拭い去られるのを目にするでしょう。

 And he will look on his forgiveness there, and with healed eyes will look beyond it to the innocence that he beholds in you.
 そして、彼は、赦されている自分をその絵の中に見て、癒された目で、その絵の向こう側に彼があなたの中に見ている潔白さを見るようになります。

 Here is the proof that he has never sinned; that nothing which his madness bid him do was ever done, or ever had effects of any kind.
 ここにこそ、彼が決して罪を犯したことはなく、彼の狂気が彼にするように命じたことなど実際には何ひとつ行なわれてはおらず、いかなる種類の結果も生じてはいない証拠があります。

 That no reproach he laid upon his heart was ever justified, and no attack can ever touch him with the poisoned and relentless sting of fear.
 だから、彼が自分の心に浴びせたいかなる非難も正当化されたことはないし、容赦ない恐怖の毒針によるいかなる攻撃も彼に危害を加えることはできないのです。



6. Attest his innocence and not his guilt.
 兄弟が有罪であることではなく、彼が無罪であることを証明しなさい。

 Your healing is his comfort and his health because it proves illusions are not true.
 あなたが癒されることで、幻想は真実ではないと証明されるので、あなたが癒されることが兄弟の安らぎとなり健やかさとなります。

 It is not will for life but wish for death that is the motivation for this world.
 生きようとする意志ではなくて、死にたいという願望がこの世界の原動力です。

 Its only purpose is to prove guilt real.
 罪が実在すると証明することだけが、世界の唯一の目的だからです。

 No worldly thought or act or feeling has a motivation other than this one.
 この世界における思考や行動や感情には、これ以外の動機はありません。

 These are the witnesses that are called forth to be believed, and lend conviction to the system they speak for and represent.
 これらの現世的な思考や行動や感情が信用できる証人として召喚され、それらが代弁し象徴するシステムを確信させることに助力します。

 And each has many voices, speaking to your brother and yourself in different tongues.
 証人たちそれぞれがさまざまな声を持っており、あなたの兄弟とあなた自身に違う言葉で語りかけます。

 And yet to both the message is the same.
 それでも、兄弟にとってもあなたにとっても、そのメッセージは同じものです。

 Adornment of the body seeks to show how lovely are the witnesses for guilt.
 身体を飾り立てることは、有罪の証人たちがどれほど素晴らしいか見せようとすることです。

 Concerns about the body demonstrate how frail and vulnerable is your life; how easily destroyed is what you love.
 身体に関する気遣いは、あなたの生命がいかに脆くて傷つきやすいものか、また、あなたの愛するものがいかに簡単に破壊されてしまうかを実証します。

 Depression speaks of death, and vanity of real concern with anything at all.
 憂鬱は死を物語り、何事も本気で関わっても虚しいだけです。

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7. The strongest witness to futility, that bolsters all the rest and helps them paint the picture in which sin is justified, is sickness in whatever form it takes.
 どのような形をとろうとも、病気は、最も力強く空虚さを語る証人であり、その他の証拠をすべて補強して、それらの証拠が罪を正当化する絵を描き出す手助けをします。

 The sick have reason for each one of their unnatural desires and strange needs.
 病人は、不自然な欲望を抱いたり異常なものを求めたりしますが、その一つひとつにそれ相応の理由を持っています。

 For who could live a life so soon cut short and not esteem the worth of passing joys?
 というのは、自分の人生がかくも短く中断されると思ったら、誰しも、束の間の喜びに価値を置かずには生きていられないからです。

 What pleasures could there be that will endure?
 永続するどんな楽しみが、儚い人生に存在しうるというのでしょう。

 Are not the frail entitled to believe that every stolen scrap of pleasure is their righteous payment for their little lives?
 薄命な者には、掠め取った快楽のかけらの一つひとつが自分たちのつまらない人生に対する当然の支払いだと信じるくらいの権利はあるはずだということにならないでしょうか。

 Their death will pay the price for all of them, if they enjoy their benefits or not.
 彼らが盗み取った快楽を享受しようがしまいが、彼らはいずれ、自分たちの死をもって、そうしたものすべての代償を支払うことになるのです。

 The end of life must come, whatever way that life be spent.
 どのように人生を過ごそうとも、生命の終わりが必ずやってきます。

 And so take pleasure in the quickly passing and ephemeral.
 だから、あっと言う間に過ぎゆく儚さの中に喜びを見出さなければならない、というわけです。



8. These are not sins, but witnesses unto the strange belief that sin and death are real, and innocence and sin will end alike within the termination of the grave.
 このように、短い人生だから束の間の喜びを大切にして生きようと考えること自体は、罪ではありません。しかし、それは、罪や死が実在しており、潔白であろうと有罪であろうと、墓場に入ればお終いなのはどちらも同じだという異常な信念を抱いている証拠ではあります。

 If this were true, there would be reason to remain content to seek for passing joys and cherish little pleasures where you can.
 もしこんなことが真実だとすれば、自分にできるかぎりの束の間の喜びを追い求め、ささやかな快楽を大切にすることに甘んじているべき理由にはなるでしょう。

 Yet in this picture is the body not perceived as neutral and without a goal inherent in itself.
 しかし、この絵の中では、身体は中立でそれ自体に固有の目標を持たないものだとは知覚されていません。

 For it becomes the symbol of reproach, the sign of guilt whose consequences still are there to see, so that the cause can never be denied.
 なぜなら、身体は非難を象徴する有罪の印となり、有罪であることの結果が身体の中に依然として見えるので、その原因としての有罪を絶対に否定できないからです。

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9. Your function is to show your brother sin can have no cause.
 あなたの役目は、罪が原因を持つことなどありえないと自分の兄弟に示すことです。

 How futile must it be to see yourself a picture of the proof that what your function is can never be!
 絶対にこれが自分の役目であるはずがないと証明する絵として自分自身を見るのは、なんと虚しいことでしょうか。

 The Holy Spirit's picture changes not the body into something it is not.
 聖霊の絵は身体を身体以外の何かに変えるわけではありません。

 It only takes away from it all signs of accusation and of balefulness.
 聖霊の絵は単に、身体から、非難や悪意の印をすべて取り除くだけです。

 Pictured without a purpose, it is seen as neither sick nor well, nor bad nor good.
 何の目的もなしに描かれたら、身体は病気とも健康とも見られないし、悪いものとも良いものとも見られません。

 No grounds are offered that it may be judged in any way at all.
 いかなる形であれ、身体に対して価値判断を下すことに役立つ根拠は何も提供されはしません。

 It has no life, but neither is it dead.
 身体は、生命を持ってもいなければ、死んでもいません。

 It stands apart from all experience of love or fear.
 身体は、愛や恐れの体験のすべてから独立しています。

 For now it witnesses to nothing yet, its purpose being open, and the mind made free again to choose what it is for.
 というのは、いまや身体はまだ何も目撃しておらず、身体の目的は白紙になっているので、心は身体を何のために使うかを再び自由に選べるようになるからです。

 Now is it not condemned, but waiting for a purpose to be given, that it may fulfill the function that it will receive.
 いまや身体は有罪の宣告を受けてはおらず、自らが担うことになる役目を果たすために、ただ目的を与えられるのを待っています。



10. Into this empty space, from which the goal of sin has been removed, is Heaven free to be remembered.
 罪という目標が取り除かれた何もないこの空間の中では、何の妨げもなく天国を思い出すことができます。

 Here its peace can come, and perfect healing take the place of death.
 ここには天国の平安が訪れることができるので、完全な癒しが死に取って代わります。

 The body can become a sign of life, a promise of redemption, and a breath of immortality to those grown sick of breathing in the fetid scent of death.
 身体は生命の印となって、救いを約束するものとなり、死の腐臭の中で息をすることに嫌気がさしている者にとっての不滅の生命の息吹となることができます。

 Let it have healing as its purpose.
 身体に、癒しという目的を持たせてください。

 Then will it send forth the message it received, and by its health and loveliness proclaim the truth and value that it represents.
 そうすれば、身体は自らが受け取ったメッセージを送り出し、自らの健やかさと美しさによって、自らが表す真理と価値を宣言するようになります。

 Let it receive the power to represent an endless life, forever unattacked.
 身体に、永遠に攻撃されることのない終わりなき生命を表現する力を受け取らせてください。

 And to your brother let its message be, "Behold me, brother, at your hand I live."
 そして、身体から、あなたの兄弟に次のメッセージを伝えてください。「兄弟よ、私を見てください。あなたに手を差し延べてもらうことで私は生きるのです」。

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11. The simple way to let this be achieved is merely this; to let the body have no purpose from the past, when you were sure you knew its purpose was to foster guilt.
 これを成し遂げるための簡単な方法は単に次のことだけです。すなわち、かつてあなたは身体の目的は罪悪感を助長することだと自分は知っていると確信していましたが、このような過去に由来するいかなる目的をも身体に持たせないようにすればよいのです。

 For this insists your crippled picture is a lasting sign of what it represents.
 というのは、過去からの目的は、欠陥のある姿として描かれたあなたの絵を示して、その絵が描写するあなたの姿が永続する印だと主張するからです。

 This leaves no space in which a different view, another purpose, can be given it.
 これでは、身体に異なる観点から別の目的を与えるための余地が残りません。

 You do not know its purpose.
 あなたは、本当に身体の目的がわかっていません。

 You but gave illusions of a purpose to a thing you made to hide your function from yourself.
 あなたはただ、自分の役目を自分自身に隠すために自分で作り出した物体に、目的という幻想を与えただけだったのです。

 This thing without a purpose cannot hide the function that the Holy Spirit gave.
 目的を持たなければ、こんな物体に聖霊の与えてくれた役目を隠すことはできません。

 Let, then, its purpose and your function both be reconciled at last and seen as one.
 それゆえ、今こそ、身体の目的とあなたの役割の両方を一致させて、ひとつものとして見てください。


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