T2-6 恐れと葛藤
恐怖と正面から向かい合わなければならない経験をするたびに、力と勇気と信念が得られるのです。それは、自分にこう言うことができるからです。「私はこの恐怖にすら耐えたのだ。次に何が来ようと、怖いものか」と。

エレノア・ルーズベルト
Courage is not the absence of fear, but rather the judgement that something else is more important than fear.
勇気とは、恐れがないことではなく、恐れよりも重要なものがほかにあると判断することなのだ。

Ambrose Redmoon(James Neil Hollingworth)
アンブローズ・レッドムーン

今回は、テキスト第二章から、「恐れと葛藤」という一節をご紹介します。
恐れからの解放
本節では、恐れからの解放について述べられます。
恐れは、愛の対概念で、実在する愛の不在に名前を付けた状態で、愛のような積極的な実在性を持たないということでした。
つまり、恐れとは愛の欠如した状態に名前を付けただけのものであり、一見すると、愛と同じように積極的な実在性を持つものであるように思えるけれど、実は無だということです。
愛と恐れの関係性
この愛と恐れの関係性を如実に示すよい例になるのは、光と影の関係性です。
日差しと日陰であれば、光のある状態が日差しで光の欠ける状態が日陰だとすぐにわかりますが、投影装置のスライドで色や形や陰影を与えられてスクリーンに投影された像は、光の不在が部分的で小出しにされた光と影が入り混じり、また、形をなすことで、リアリティーを持ちます。
この仕組みに気づかずに、私たちは、恐れは本当にあり、死や争いや欠乏といった災厄が恐怖の源だと思っています。
けれど、死や争いや欠乏は、実在である生命や平安や豊かさの欠けた不在状態を概念化してそれに名前を付けてそう呼んでいるだけで、実体は実在性のない影でしかありません。
私たちが真に恐れていること
このような死や争いや欠乏といった災厄という隠れ蓑の影で私たちが真に恐れているのは、本当の自分が無限の力を持つ神の子であり、救済されて、大いなる愛とひとつに結ばれることなのだということです。

たしかに、私たちが現に恐怖を味わっているのは紛れもない事実であり、恐れは本当はないと言われても、そんなの信じられない!となるはずです。
しかし、そもそも恐怖を体験している私たち自身が本当は実在しない架空の存在だとしたら、当然、架空の存在である私たちの味わっている恐怖も実在しないことになります。
救済を脅威に感じるって矛盾じゃない?
私たちは、幻の存在であり、本当の自分である神の子が目を覚ましてしまうことは、影である私たちが本質通り無に帰してしまうことなので、幻想である私たちが真に恐れるのは神の子の救済だということになるわけです。
逆説的な答えではありますが、分離という偽りを信じて、本当の自己を否認して無力で卑小な生き物に自己同一化してその状態を維持しようとしている自己矛盾状態に身を置いているのだから、救済が脅威となるのは、むしろ当然だともいえます。
イェシュアの頼もしい言葉
本節では、解離性同一性障害を患う神の子の主人格であるイェシュアが、架空の存在である副人格である私たちに対して、頼もしい言葉をかけてくれています。
1.「My control can take over everything that does not matter, while my guidance can direct everything that does, if you so chose.
もしあなたがそうすることを選ぶなら、重要でないものはすべて私のコントロールの下に引き取ったうえで、重要なものはすべて私が指導して導いてあげられます。」
重要でないものは私たちからイェシュアが自らの制御下に引き取ってくれると。

やったー! 恐れから救い出してもらえる!と期待してしまいます。
全部お任せってわけにはいかないのー!?
しかし、それに続けて、重要なことは引き取ることはできず、イェシュアの指導の下で、私たちが自分でコントロールしなければならない、ということが述べられ、
「Fear cannot be controlled by me, but it can be self-controlled.
あなたの恐れを私が制御することはできません。しかし、あなたの恐れはあなたが自分でコントロールできます。」
と、恐れはこのうちの、引き取ってもらえないほうに分類されるということです。

イェシュアの信頼に応えて私たちにもできると見てもらいましょう!
私たちのほうで恐れはなんとかしなければならないとのことです。
ですが、自分でなんとかけりをつけられるほうが、よりありがたいといえるのもたしかです。
この重要でないものと重要なものについては、T4-1 正しい教えと正しい学びで、イェシュアには私たちが望めばエゴと入れ替わることができるけれど、霊と入れ替わることはできないという説明と連動しています。
「13. I will substitute for your ego if you wish, but never for your spirit.
もしあなたが望むなら、私はあなたのエゴと入れ替わるつもりです。しかし、私があなたの霊と入れ替わることは決してありません。
・・・
I can be entrusted with your body and your ego only because this enables you not to be concerned with them, and lets me teach you their unimportance.
私はあなたの身体とあなたのエゴを引き受けることができます。それはただ、そうすることで、あなたは自分の身体やエゴに煩わされなくて済むし、また、それによって、私は身体やエゴは重要ではないとあなたに教えることができるからです。」(T4-1 正しい教えと正しい学び)
つまり、エゴの活動領域が「重要でないもの」であり、私たちの霊、つまり、魂の領域が「重要なもの」であるということです。
後者は、大いなる光(Great Ray)のかけらとしての閃光(little spark)である小さな自己の中の決定者(decision-maker)を指し、私たちアバターに宿る神の子の分霊(といっても本当は分離していないが、自分は分離していると思い込んでいる一なる霊のひとつの側面)です。
麻痺した左手が回復するために麻痺から脱した右手にできること
イェシュアが恐れを引き受けることができず、成り代わることもできないこの部分は架空の人格ではない本当の神の子の部分です。
全身が麻痺や不随意運動を起こしている場合に、随意に動かせる健常部分が右手(イェシュア)だけだとして、右手は、麻痺している身体(私たち)をマッサージしたり、外傷を受けないよう保護したりして、手助けすることはできますが、右手自信が麻痺している身体の部位に成り代わって麻痺から脱することだけはできません。
たとえば、左手が麻痺から脱して身体の持ち主の意志に従って動くようになるには、右手にさすってもらったり、腕の曲げ伸ばしの訓練を手伝ってもらったりと、右手の手助けを受けながら、癒しを促進してリハビリして脳に通じる経路、神経が本来の働きを取り戻すようになるしかありません。
人間馬車説の馬車のイメージを刷新しよう

人間馬車説の喩えをたまにすることがありますが、馬車というとどうしても幌馬車のイメージがつきまとい、主人にはあまり活躍の場がないようなイメージになりがちかもしれません。
本節でイェシュアがエゴに入れ替わってくれるという話を聞いても、今ひとつピンと来ないとしたら、幌馬車でイメージしているせいかもしれません。
イメージとしては、バガヴァッド・ギーターでのアルジュナとクリシュナ神の乗る馬車を思い浮かべてもらうとよいでしょう。バガヴァッド・ギーターでは、英雄アルジュナはヴィシュヌ神の化身である友クリシュナに戦闘用馬車の御者として支援を受けます。
人間馬車説を考えるときには、幌馬車ではなく、オープンの戦闘用馬車(チャリオット)をイメージしていれば、主人は幌の奥で御者に命令することでしか対外的に作用できないというイメージから脱することができます。
むしろ、手綱を捌くので大忙しの御者よりも、敵陣に宣戦布告をしたり、味方の他の馬車や兵士に命令を発したり、敵と戦うために弓矢や槍を用いたり、といったふうに、戦闘用馬車の本来の役目は、馬車に立つ主人が活躍できるようにお膳立てすることです。
私たちもクリシュナ神に馬車の御者をしてもらったアルジュナのように、イェシュアにエゴの代わりを務めてもらい、イェシュアの指導を受けつつ、主人にしかできないことに専念するようにしましょう。

テキスト第二章
VI.Fear and Conflict
六 恐れと葛藤
1. Being afraid seems to be involuntary; something beyond your own control.
恐れを感じることは、無意識に起こることのように思えます。それは、あなたのコントロールの及ばない何かのようです。
Yet I have said already that only constructive acts should be involuntary.
しかし、私がすでに述べたように、無意識に起こるべきなのは、ただ建設的な行動だけです。
My control can take over everything that does not matter, while my guidance can direct everything that does, if you so choose.
もしあなたがそうすることを選ぶなら、重要でないものはすべて私のコントロールの下に引き取ったうえで、重要なものはすべて私が指導して導いてあげられます。
Fear cannot be controlled by me, but it can be self-controlled.
あなたの恐れを私が制御することはできません。しかし、あなたの恐れはあなたが自分でコントロールできます。
Fear prevents me from giving you my control.
恐れは、私からあなたに私の統制力を与えることを妨げてしまいます。
The presence of fear shows that you have raised body thoughts to the level of the mind.
恐れが存在することは、あなたが身体的な思考を心のレベルにまで引き上げてしまったことを示しています。
This removes them from my control, and makes you feel personally responsible for them.
これが、それらの身体レベルの思考を私のコントロールの下から引き離してしまい、それらの身体レベルの思考について、あなたに個人的な責任があるように感じさせてしまいます。
This is an obvious confusion of levels.
これは明らかなレベルの混同です。
2. I do not foster level confusion, but you must choose to correct it.
私がレベルの混同を助長することはありませんが、あなたはレベルの混同を修正することを選択しなければなりません。
You would not excuse insane behavior on your part by saying you could not help it.
あなたは、自分にはそうするよりほかに仕方がなかったなどと言って、自分の狂気の振る舞いについて弁解しようとなどしないはずです。
Why should you condone insane thinking?
それなのに、どうしてあなたは、狂気の思考については大目に見るべきだなどといえるのでしょうか。
There is a confusion here that you would do well to look at clearly.
ここに、あなたが刮目して見るべき混同があります。
You may believe that you are responsible for what you do, but not for what you think.
あなたはおそらく、自分が何をするかに関しては自分に責任があるとしても、自分が何を考えるかに関しては自分に責任はないと信じているのでしょう。
The truth is that you are responsible for what you think, because it is only at this level that you can exercise choice.
しかし、真実は、あなたは自分の考えることにこそ責任があるのです。なぜなら、あなたが選択権を行使できるのは、ただこの思考のレベルにおいてのみだからです。
What you do comes from what you think.
あなたが何を考えるかで、あなたがどう行動するかが決まります。
You cannot separate yourself from the truth by "giving" autonomy to behavior.
あなたは、自分の行動に自主性を「与える」ことによって、自分の思考に責任があるという真理から自分自身を切り離すことなどできません。
This is controlled by me automatically as soon as you place what you think under my guidance.
あなたが自分の思考を私の指導の下に置くや否や、自動的にあなたの行動は私のコントロールの下に置かれることになります。
Whenever you are afraid, it is a sure sign that you have allowed your mind to miscreate and have not allowed me to guide it.
あなたが恐怖を感じるときはいつも、それは、あなたが自分の心に誤って創造することを許し、私にあなたの心を指導することを許さなかった確かな印だと思ってください。

3. It is pointless to believe that controlling the outcome of misthought can result in healing.
誤った思考に基づく成り行きをコントロールすることによって、結果として癒しを実現できると信じても、それは無意味です。
When you are fearful, you have chosen wrongly.
あなたが恐れているとき、あなたはすでに間違って選んでしまっているからです。
That is why you feel responsible for it.
誤った思考の成り行きをコントロールできると信じているがゆえに、あなたは自分の誤った選択の結果として癒しが実現しないことについて責任を感じてしまうのです。
You must change your mind, not your behavior, and this is a matter of willingness.
あなたが変えなければならないのは、自分の行動ではなく、自分の心なのです。そして、これはまさしく意欲の問題です。
You do not need guidance except at the mind level.
心のレベル以外においては、あなたには導きなど必要ありません。
Correction belongs only at the level where change is possible.
修正を施すべきなのは、ただ変更が可能なレベルにおいてだけだからです。
Change does not mean anything at the symptom level, where it cannot work.
修正が作用できない症状として表れているレベルにおける変化には何の意味もないのです。
4. The correction of fear is your responsibility.
恐れるという間違った状態を修正することは、あなたの責務です。
When you ask for release from fear, you are implying that it is not.
あなたが恐れから解放してほしいと求めるとき、あなたは暗に恐れという誤りを修正するのは自分の責任だと思っていないことを示しています。
You should ask, instead, for help in the conditions that have brought the fear about.
あなたは、恐れからの解放を求めるのではなく、その恐れをもたらした状況の中に助けを求めるべきです。
These conditions always entail a willingness to be separate.
恐れをもたらした状況にはつねに、分離していたいという意欲が伴っているはずです。
At that level you can help it.
そのレベルでなら、あなたは分離していたいという気持ちをどうにか制することができるはずです。
You are much too tolerant of mind wandering, and are passively condoning your mind's miscreations.
あなたは自分の心があれこれ迷うことに対して、あまりにも寛容すぎるし、心が誤って創造することを、ただ受身の姿勢で大目に見てしまっています。
The particular result does not matter, but the fundamental error does.
重要なのは、個々の具体的な結果ではなく、根本的な誤りのほうです。
The correction is always the same.
修正の仕方はいつでも同じです。
Before you choose to do anything, ask me if your choice is in accord with mine.
何かをなそうとして選ぶ前に、あなたの選択が私の選択と一致しているかどうか私に尋ねてください。
If you are sure that it is, there will be no fear.
もしあなたが自分の選択が私の選択と一致していると確信するなら、そのとき、あなたには恐れなど微塵もないはずです。

5. Fear is always a sign of strain, arising whenever what you want conflicts with what you do.
恐れはつねに、あなたの欲することがあなたの行なっていることと矛盾するときに必ず生じる緊張状態の印です。
This situation arises in two ways:
こうした事態は二通りのプロセスで生じます。
First, you can choose to do conflicting things, either simultaneously or successively.
第一に、あなたが矛盾した複数の物事について、同時または順次いずれかで実行することを選べる場合です。
This produces conflicted behavior, which is intolerable to you because the part of the mind that wants to do something else is outraged.
矛盾した行動を選択すると、矛盾した行動を生み出します。この状態は、あなたにとって耐えがたいものです。なぜなら、心の中の何か別のことをしたいと欲する部分が憤慨するからです。
Second, you can behave as you think you should, but without entirely wanting to do so.
第二に、あなたは自分がそうすべきだと思うように行動できるものの、完全にそうしたいと望んでいるわけではない場合です。
This produces consistent behavior, but entails great strain.
これは行動に一貫性をもたらしはしますが、深刻なストレスを伴います。
In both cases, the mind and the behavior are out of accord, resulting in a situation in which you are doing what you do not wholly want to do.
どちらの場合も、心と行動が一致していないので、結果的には、自分が心の底から望んではいないことをしているという事態に至ります。
This arouses a sense of coercion that usually produces rage, and projection is likely to follow.
こうした事態は、強制されたような抑圧感を喚起し、決まって激しい怒りを生み出します。そして、たいてい投影がそれに引き続いて起こります。
Whenever there is fear, it is because you have not made up your mind.
恐れを感じるときは必ず、その理由はあなたがまだ決心していないせいなのです。
Your mind is therefore split, and your behavior inevitably becomes erratic.
したがって、あなたの心は分裂し、あなたの行動は一貫しないものになることを免れません。
Correcting at the behavioral level can shift the error from the first to the second type, but will not obliterate the fear.
行動のレベルで修正することは、誤りを第一のタイプから第二のタイプへと移すことはできても、恐れそのものを消し去ることにはなりません。

6. It is possible to reach a state in which you bring your mind under my guidance without conscious effort, but this implies a willingness that you have not developed as yet.
意識的な努力なくしてあなたが自分の心を私の導きの下に置く境地に到達することは可能です。しかし、この境地に到達するには、今のところあなたがまだ身につけてはいない自発的な意欲が必要です。
The Holy Spirit cannot ask more than you are willing to do.
聖霊が求めるのは、あなたが行う意欲を持つことだけなのです。
The strength to do comes from your undivided decision.
あなたが迷いのない決断を下せば、それに従って行動する力は生じるからです。
There is no strain in doing God's will as soon as you recognize that it is also your own.
神の意志が自分自身の意志でもあるとあなたが認めるや否や、あなたは神の意志をなすことに何の負担も感じなくなるでしょう。
The lesson here is quite simple, but particularly apt to be overlooked.
ここで得られる教訓はとてもシンプルなものですが、とりわけよく見落とされがちです。
I will therefore repeat it, urging you to listen.
そこで、あなたに耳を傾けてもらうために、もう一度繰り返しておきましょう。
Only your mind can produce fear.
恐れを生み出すことができるのは、あなたの心だけです。
It does so whenever it is conflicted in what it wants, producing inevitable strain because wanting and doing are discordant.
あなたが何を望むかについて心に葛藤があるときにはつねに、あなたの心は恐れを生み出します。なぜなら、欲することと行うことが一致していないので、逃れようのない緊張感が生じるからです。
This can be corrected only by accepting a unified goal.
この欲求と行動の不一致を修正するには、統一された目標を受け入れるしかありません。

7. The first corrective step in undoing the error is to know first that the conflict is an expression of fear.
誤りを取り消すための修正の第一歩は、まず葛藤が生じるのは恐れを抱いている印だと知ることです。
Say to yourself that you must somehow have chosen not to love, or the fear could not have arisen.
そして、次のように自分に言い聞かせてください。「どうしたことか、私は愛さないことを選んでしまったに違いない。さもなければ、恐れが生じるはずがないからだ」と。
Then the whole process of correction becomes nothing more than a series of pragmatic steps in the larger process of accepting the Atonement as the remedy.
そうすれば、修正のプロセス全体は、贖罪を救済の手段として受容するという、より大きなプロセスの中で辿る実践的なステップの連続でしかなくなります。
These steps may be summarized in this way:
この一連のステップは、次のように要約できます。
Know first that this is fear.
まず、これが恐れであると知りなさい。
Fear arises from lack of love.
恐れは、愛の欠如から生じます。
The only remedy for lack of love is perfect love.
愛の欠如に対する唯一の治療法は、完全な愛だけです。
Perfect love is the Atonement.
完全な愛こそが贖罪なのです。
8. I have emphasized that the miracle, or the expression of Atonement, is always a sign of respect from the worthy to the worthy.
私が強調しておいたように、贖罪の顕現である奇跡は、つねに価値ある者から価値ある者への敬意の印です。
The recognition of this worth is re-established by the Atonement.
この真価の認識は贖罪によって確立し直されます。
It is obvious, then, that when you are afraid, you have placed yourself in a position where you need Atonement.
そうだとすれば、あなたが恐れを抱いているとき、あなたがすでに贖罪を必要とする境遇に自分を置いてしまっているのは言うまでもありません。
You have done something loveless, having chosen without love.
あなたが愛をこめずに選んだために、あなたは何か愛に欠けることをなしてしまったのです。
This is precisely the situation for which the Atonement was offered.
まさしく、このような事態のためにこそ、贖罪が用意されたのです。
The need for the remedy inspired its establishment.
救済の必要性が、救済手段である贖罪の確立をもたらしたのです。
As long as you recognize only the need for the remedy, you will remain fearful.
あなたが単に救済手段が必要であると認めているだけである間は、あなたは依然として恐れを抱いたままでしょう。
However, as soon as you accept the remedy, you have abolished the fear.
しかし、あなたがその救済手段を受け入れるや否や、あなたは恐れを完全に廃したことになります。
This is how true healing occurs.
このようにして、真の癒しは起こるのです。

9. Everyone experiences fear.
誰もがみな、恐れを経験します。
Yet it would take very little right thinking to realize why fear occurs.
けれども、なぜ恐れが起こるのかを理解するには、ほんの少し正しい考え方をするだけで事足ります。
Few appreciate the real power of the mind, and no one remains fully aware of it all the time.
心が持つ本当の力の真価がわかる者はほとんどいないし、心が持つ本当の力をつねに完全に自覚し続けられる者はひとりもいません。
However, if you hope to spare yourself from fear there are some things you must realize, and realize fully.
しかしながら、もしあなたが恐れと訣別したいと望むなら、あなたには理解しておくべきことがいくらかあるし、あなたはそれらを完全に理解しなければなりません。
The mind is very powerful, and never loses its creative force.
心はきわめて強力であり、決してその創造する力を失うことはありません。
It never sleeps.
心は決して眠ることもありません。
Every instant it is creating.
心は刻一刻と創造し続けます。
It is hard to recognize that thought and belief combine into a power surge that can literally move mountains.
思考と信念とが結合して、文字どおり山をも動かすほどのひとつの大きな力のうねりにまで高まるとは、にわかには信じがたいことでしょう。
It appears at first glance that to believe such power about yourself is arrogant, but that is not the real reason you do not believe it.
一見すると、自分にそのような力があると信じるのは傲慢なことのように思えます。しかし、傲慢に思えるということが、あなたが自分の心の本当の力を信じようとしない真の理由であるわけではありません。
You prefer to believe that your thoughts cannot exert real influence because you are actually afraid of them.
あなたはむしろ、自分の思考には現実的な影響力を発揮することができないと信じていたいのです。なぜなら、あなたは実は、自分の思考が持つ力の強大さに恐れを抱いているからです。
This may allay awareness of the guilt, but at the cost of perceiving the mind as impotent.
たしかに、あなたの思考には現実的な影響力はないと信じることは罪の意識を和らげてはくれるかもしれません。しかし、その代償として、心を無力なものと知覚することになってしまいます。
If you believe that what you think is ineffectual you may cease to be afraid of it, but you are hardly likely to respect it.
もしあなたが自分が考えることには影響力がないと信じるなら、あなたは自分の思考に恐れを抱かずに済むかもしれません。けれども、そうなると、あなたは自分の思考力を尊重することがほとんどできなくなってしまいます。
There are no idle thoughts.
影響力のない思考などありえません。
All thinking produces form at some level.
いかなる思考もすべて、何らかのレベルにおいて形を生み出すのです。

