T23-1 相容れない信念
自分自身を知るということ―この大切なことを私たち人間は無視しがちです。自分自身を知ることこそ、何かを築きあげることができる唯一の土台なのです。

ジッドゥ・クリシュナムルティ
讃歌
在るのは神のひとり子
そしてあなたと彼のみ
彼からあなたは受け取り
あなたは彼に与える
自分自身を見るときは
思い出すがよい
兄弟を見るときも
思い出すがよい
恐れて顔を背けるとき
次のことだけを思い出すがよい
主体と客体
愛するものと愛されるもの
それらはふたつではなく
同じひとつのもの
あなたの与えるもの
そしてあなたの受け取るもの
それはお互いの
鏡の反映にすぎないのだ

イエス・キリスト(ポール・フェリーニ著「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」8ページ)
When we encourage others with no personal motives, we raise high, very high, Humanity's progress-standard.
私たちが私心なく他者を応援して勇気づけようとするとき、私たちは人類の進化の標準を高く、大いなる高みへと引き上げる。

Sri Chinmoy, Sri Chinmoy's Heart Garden: A Book of Aphorisms for Joy and Inspiration
シュリ・チンモイ
一角獣(ユニコーン)は夢見るようにアリスを見つめて言いました。「子供、なんかしゃべれ」
アリスは、口を開きながらも口元がゆるむのをおさえられませんでした。「ねえ知ってた、あたしのほうもずっと、一角獣って空想上の怪物だと思ってたのよ!生きているのを見るのはこれが初めて!」
「ふーむ。じゃあ、こうしてお互いに相手を見たことだし、あんたがおれの実在を信じてくれれば、おれもあんたの実在を信じよう。取引成立、かな?」と一角獣。
「ええ、一角獣さんさえよければ」とアリス。
・・・
この間に、ライオンも加わりました。とっても疲れて眠そうで、目が半分とじてます。「なんだぁ、こりゃあ!」と、めんどうくさそうにアリスに向かって目をぱちくりさせながら、おっきな鐘が鳴るみたいな、深いがらんどうな調子でしゃべりました。
「さあ、いったいぜんたい何でしょうか!」と一角獣はうれしそうに叫びます。「絶対にありっこないね。このおれだってわかんなかったもん」
ライオンは、めんどうくさそうにアリスをながめました。「おまえ、動物?――植物?――それとも、鉱物?」と、一言おきにあくびをしながら言います。
「空想上の怪物だぜ!」アリスが返事をする前に、一角獣が叫びました。
「じゃあ怪物くん、すももケーキを切り分けてくれよ」とライオンは、ごろごろ横になって、あごを前足にのせます。「それと二人ともすわれよ」(と王さまと一角獣に言います)。「ケーキではフェアプレーな!」
王さまは、でっかい生き物二ひきの間にすわらされて、どう見てもすごくいごこち悪そうでした。でも、ほかに場所がありません。
「さ、これでやっと、王冠めぐって本気で大げんかできようってもんだな!」と一角獣が、意味ありげに王冠を見あげながら言いました。かわいそうな王さまは、ぶるぶるふるえすぎて、頭から王冠がほとんど落ちそうになってます。
「おれがあっさり勝つだろよ」とライオン。
「ほう、そいつぁどうかな」と一角獣。
「なんだと、街中随所でボコボコにしてやる、この根性なしめが!」とライオンは怒ったように答えつつ、立ち上がりかけます。

ルイス・キャロル(「鏡の国のアリス」より)

今回はテキスト第二十三章から「相容れない信念」という一節をご紹介します。
神とエゴ、私たちとエゴが出会うことは絶対に不可能
本節の3.では、次のように、神とエゴ、私たちとエゴが出会うことは絶対に不可能だということが述べられます。
「3. Be certain that it is impossible God and the ego, or yourself and it, will ever meet.
次のことを確信しなさい。それは、神とエゴ、つまり、あなた自身とエゴが出会うことは決してありえないということです。」
この文章は、神=私たち自身、エゴ≠私たち、ということを前提に成り立っています。
私たちは、自分が身体に宿っているエゴであると信じている、つまり、エゴ=私たち、であって、神=私たち、とは思っていないので、違和感を覚えます。
すなわち、私たちは、自分を神ではなく、人間だと信じている、つまり、自分をエゴと同一視する状態にあるし、仮に自分がエゴと別だとしても、少なくとも自分がエゴと同盟関係を結んでいるのは確かだと思っているので、私たちがエゴと出会うのは絶対に不可能だという指摘には違和感を覚えるわけです。
無と有が出会えるはずがない
けれど、エゴは幻想つまり無であるのに対し、神=私たちの本質である神の子は実在する有なのだから、ありもしない無である幻と実在する有が出会うことが不可能なのは当たり前のことなのは観念的にはわかります。
つまり、私たちは、自分が神の子ではなく、身体または身体に宿る存在だと誤解することで、幻の自己像を抱き、この自己像とエゴが結びついて出会うということです。
3.「You meet at a mistake; an error in your self-appraisal.
あなたは、自分自身が誰なのかという自己評価を誤って、誤解することでエゴと出会うのです。」
しかし、幻想は無なので、幻想同士が結びついても、無+無=無であり、無のままです。
私たちがゲーム世界の中のキャラクターと同じ次元で出会うことは絶対に不可能です。
ただし、ゲーム世界のキャラクターをアバターとして使えば、架空の存在同士として出会うことは可能になります。
けれど、ゲーム世界のキャラクターが現実の世界に実体を持って出現して私たちと出会うことはできません。
これが示すのは、エゴが憑りつくことができるのは、アバターだけであって、私たちの本質はまったく影響を受けないままだということです。

はてしない物語で考えてみる
幻想世界と現実との関係性については、「はてしない物語」が参考になります。
とくに、前半の終盤で、人狼グモルクがいまわの際にアトレーユに語るファンタージエンの生き物と人間世界の関係性のくだりを読んでいただくとよいです。
人の子が物語世界ファンタージエン国を訪れて、そこでの経験を人間世界に持ち帰ることで、双方の世界は豊かになるが、人の子がファンタージエン国の存在を否認して訪れることをやめると、ファンタージエン国に虚無が広がり、虚無に吸い込まれたファンタージエンの生き物たちは人間世界で偽りとなり人間を目くらましさせて魂を毒するようになり、双方の世界を破壊と滅亡に至るという相互依存の関係にあります。
「はてしない物語」の中のバスチアンが「はてしない物語」という本の世界に入り込む前のバスチアンやバスチアンの父さんやコレアンダーさんのいる元の「現実」世界も、私たちが手にして読む「はてしない物語」という本の中に描かれた物語世界です。
この世界も物語であり、私たちも物語の登場人物
これとまったく同じ仕組みで、本の中の物語世界に「はてしない物語」という本を読むことによって入り込む私たちのいるこの世界も、物語世界でありうるという入れ子構造で暗示されている寓意は、私たち自身、バスチアンと同じように、自分は人間だと思っている物語の登場人物であり、この世界は夢物語の世界だということです。
はてしない物語の前半で、アトレーユが主人公であったときには、バスチアンは主人公アトレーユを読む者であったので、スフィンクスの第一の門を通り過ぎたあとの第二の鏡の門でアトレーユが本当の自分の姿としてバスチアンを見た場面以外には、ふたりが出会うことはありませんでした。
けれど、後半では、バスチアンは物語世界ファンタージエンの中で動き回ることのできる東方の王子のような美しい姿のアバターを得たので、ファンタージエンの中で、ふたりは出会うことができるようになりました。
神の子も、私たち人の子を主人公とする物語を読んでいるので、私たちは、物語の前半でアトレーユがバスチアンに会えなかったように、自分を読んでいる神の子に出会うことはできません。
けれど、後半でアトレーユが自分と同じ登場人物の姿を持ったバスチアンと出会えたように、私たちも、この世界にいる他者としての兄弟の中にいる神の子に出会うことはできます。
アトレーユの生きざまが美しくカッコいいわけ
アトレーユがバスチアンの友として、どんどん自分が人間であったことを忘れてゆき、最後には自分の名前まで忘れてしまったバスチアンが現実に帰れるよう助力したように、私たちも自分が神の子であることを忘れてしまった兄弟たちを神の子として見て、兄弟が自分が神の子であることを思い出し、気づけるように手助けをすることができます。
アトレーユには、バスチアンの友として力になろうという以外の余計な願望、私心はありませんでした。
アトレーユには、地位や名声や財産を得たいとか、モテたいとか、悟りを開きたいとか、自分を向上させたいとか、自分以外の何者かになりたいとかいう後半でバスチアンが囚われていた欲望、いわゆる下心、すけべ心がありませんでした。
アトレーユの生きざまが、あんなにも美しくカッコいいのはこの潔さにあります。
他者より抜きん出て自分の霊的スペックアップを図ろうとするスピリチュアル・エゴのカッコ悪さ
それに比べて、私たちのほうは、精神性の側面にベクトルが向いているとはいえ、霊的に成長して解脱したいというようなすけべ心満タンなのであり、むしろ素朴に即物的な欲望を追い求めているわかりやすい人よりもかえって厄介で浮かばれません。
自分の霊的成長を目的とするかぎり、意図するところとは裏腹に、エゴによる束縛の度は増すばかりでしょう。
コースが救いの公式として他者の力になることを教えてくれているわけをつねに自問するのを忘れずにいましょう。
自分の救済や霊的覚醒なんてどうだっていい、自分が愛する人の救済のためだったら、いくらでも霊的修行を積んでやろうというように、霊的成長は道具として位置づけるべきものなのかもしれません。
そして、おそらくこれが兄弟の中にいるのと同じ私たちの中にいる神のひとり子を救う手立てになるわけです。

テキスト第二十三章
I. The Irreconcilable Beliefs
一 相容れない信念
1. The memory of God comes to the quiet mind.
神の記憶は、静かな心に訪れます。
It cannot come where there is conflict, for a mind at war against itself remembers not eternal gentleness.
神の記憶は、葛藤のある心に訪れることはできません。というのも、自分自身との戦いのさなかにある心が永遠の穏やかさを思い出すことはないからです。
The means of war are not the means of peace, and what the warlike would remember is not love.
戦いの手段は平安に至る手段にはならないし、好戦的な者が思い出そうとするのは愛ではありません。
War is impossible unless belief in victory is cherished.
勝利を信じる思いを心に抱かないかぎり、戦うことは不可能です。
Conflict within you must imply that you believe the ego has the power to be victorious.
あなたの内に葛藤があるということは、エゴには勝利を収める力があるとあなたが信じていることを意味するに違いありません。
Why else would you identify with it?
そうでなければ、どうしてあなたが自分をエゴと同一視しようとなどするでしょうか。
Surely you realize the ego is at war with God.
きっとあなたは、エゴが神と交戦中であることがよくわかっているはずです。
Certain it is it has no enemy.
ただし、エゴには敵などいないことは間違いありません。
Yet just as certain is its fixed belief it has an enemy that it must overcome and will succeed.
しかし、それと同じように確実なことは、エゴは自分には打ち倒してその後釜に座るべき敵がいると固く信じていることです。
2. Do you not realize a war against yourself would be a war on God?
あなたは、自分と戦うことが神に戦いを挑むことだとわからないのでしょうか。
Is victory conceivable?
勝利の見込みなどあるでしょうか。
And if it were, is this a victory that you would want?
仮に見込みがあったとしても、神を打ち負かすことはあなたが望む勝利でしょうか。
The death of God, if it were possible, would be your death.
神の死、もしそれがありうるとしても、それはあなたの死でもあるはずです。
Is this a victory?
こんなものが勝利といえるでしょうか。
The ego always marches to defeat, because it thinks that triumph over you is possible.
エゴは、あなたを征服することが可能だと思っているので、つねに打ち負かすために進軍します。
And God thinks otherwise.
しかし、神はそのようには思っていません。
This is no war; only the mad belief the Will of God can be attacked and overthrown.
こんなことは戦いではありません。ただ神の大いなる意志が攻撃され、打ち破られることがありうるという狂気の信念でしかありません。
You may identify with this belief, but never will it be more than madness.
あなたはこの狂気の信念に共鳴しているかもしれません。しかし、それは絶対に狂気の沙汰を脱することはありません。
And fear will reign in madness, and will seem to have replaced love there.
そして、狂気の中では恐怖が君臨し、愛に取って代わったように思えてきます。
This is the conflict's purpose.
これこそ葛藤が目的とするところです。
And to those who think that it is possible, the means seem real.
そして、こんなことが可能だと思う者たちには、そのための手段も本物に思えてきます。

3. Be certain that it is impossible God and the ego, or yourself and it, will ever meet.
次のことを確信しなさい。それは、神とエゴ、つまり、あなた自身とエゴが出会うことは決してありえないということです。
You seem to meet, and make your strange alliances on grounds that have no meaning.
あなたには、自分がエゴと出会い、何の意味もない根拠に基づいてエゴと奇妙な同盟を結んでいるように思えます。
For your beliefs converge upon the body, the ego's chosen home, which you believe is yours.
というのも、あなたは、エゴが選んだ棲家である身体に全幅の信頼を寄せており、身体が自分の家だと信じているからです。
You meet at a mistake; an error in your self-appraisal.
あなたは、自分自身が誰なのかという自己評価を誤って、この錯覚においてエゴと出会うのです。
The ego joins with an illusion of yourself you share with it.
エゴは、あなたの幻の姿と結合し、あなたはエゴとその自己像を共有します。
And yet illusions cannot join.
とはいえ、幻想と幻想が結びつくことはできません。
They are the same, and they are nothing.
なぜなら、幻想はどれも同じで、実在しない無だからです。
Their joining lies in nothingness; two are as meaningless as one or as a thousand.
幻想同士は無の中で結合するので、たとえ幻想が一つであろうと千であろうと無意味なように、ふたつの幻想は無意味です。
The ego joins with nothing, being nothing.
エゴは無なので、無と結合します。
The victory it seeks is meaningless as is itself.
エゴが追い求める勝利は、エゴそのものと同じく無意味です。
4. Brother, the war against yourself is almost over.
兄弟よ、あなたの自分自身との戦いはほとんど終わりかけています。
The journey's end is at the place of peace.
旅の終着点は、平安という場所にあります。
Would you not now accept the peace offered you here?
あなたは、ここであなたに差し延べられている平安を今、受け入れたくはないでしょうか。
This "enemy" you fought as an intruder on your peace is here transformed, before your sight, into the giver of your peace.
あなたが自分の平安をかき乱す侵略者として戦ってきたこの「敵」は、ここで、あなたの目の前で、あなたに平安を与えてくれる存在にその姿を変えます。
Your "enemy" was God Himself, to Whom all conflict, triumph and attack of any kind are all unknown.
あなたの「敵」とは神自身だったのです。もっとも、神にとっては、いかなる葛藤も勝利も攻撃もまったく与り知らないところです。
He loves you perfectly, completely and eternally.
神は、あなたを完璧かつ完全に、そして永遠に愛しているからです。
The Son of God at war with his Creator is a condition as ridiculous as nature roaring at the wind in anger, proclaiming it is part of itself no more.
神の子が自らの創造主と戦っている状況など、自然が風に対して怒りに任せて雄叫びをあげ、もはや風は自然の一部ではないと宣言しているのと同じくらい滑稽なことです。
Could nature possibly establish this, and make it true?
自然が風を自分から切り離すことに決めて、それを実現させることなどできるでしょうか。
Nor is it up to you to say what shall be part of you and what is kept apart.
それと同じように、あなたが何を自分の一部にして、何を別のものにしておくかがあなた次第で決まるなど、ありえないことです。

5. The war against yourself was undertaken to teach the Son of God that he is not himself, and not his Father's Son.
あなた自身との戦いは、神の子に彼が自分自身ではなく、大いなる父の子でもないと教えこむために企てられたものでした。
For this, the memory of his Father must be forgotten.
こうするためには、神の子が自らの大いなる父の記憶を忘れ去ってしまう必要があります。
It is forgotten in the body's life, and if you think you are a body, you will believe you have forgotten it.
神の記憶は、身体として送る人生の中では忘れられているし、もしあなたが自分は身体だと思うなら、あなたは自分が神の記憶を忘れてしまったものと信じるでしょう。
Yet truth can never be forgotten by itself, and you have not forgotten what you are.
しかし、真理自体によって真理が忘れ去られることなど絶対に不可能です。だから、あなたは本当の自分を忘れてはいません。
Only a strange illusion of yourself, a wish to triumph over what you are, remembers not.
覚えていないのは、ただ、本当の自分を征服したいという願望である、あなたになりきっている奇妙な幻想だけなのです。
6. The war against yourself is but the battle of two illusions, struggling to make them different from each other, in the belief the one that conquers will be true.
自分自身に対する戦いは、単に、どちらか勝利を収めるほうの幻想が真実になると信じて、互いに自らを相手とは違うものにしようとあがく、ふたつの幻想の間の争いでしかありません。
There is no conflict between them and the truth.
それらのふたつの幻想と真理との間には、何の葛藤もありません。
Nor are they different from each other.
それに、ふたつの幻想は、互いに違っているわけでもありません。
Both are not true.
両方とも真実ではないからです。
And so it matters not what form they take.
だから、それらの幻想がどんな形をとろうとも、それは重要ではありません。
What made them is insane, and they remain part of what made them.
狂気がそれらの幻想を作り出したので、幻想は自らを作り出した狂気の一部であり続けます。
Madness holds out no menace to reality, and has no influence upon it.
狂気が現実にとって脅威となることは一切ないし、狂気には現実に影響を及ぼす力など何もありません。
Illusions cannot triumph over truth, nor can they threaten it in any way.
幻想は真理に打ち勝つことはできないし、少しでも現実に脅威を与えることもできません。
And the reality that they deny is not a part of them.
そして、幻想が否認している現実は、幻想の一部分ではありません。

7. What you remember is a part of you.
あなたが覚えていることは、あなたの一部です。
For you must be as God created you.
というのは、あなたは神が創造したままのあなたのはずだからです。
Truth does not fight against illusions, nor do illusions fight against the truth.
真理が幻想に対抗して争うことはないし、幻想が真理に対抗して争うこともありません。
Illusions battle only with themselves.
幻想は、ただ幻想同士で戦うだけです。
Being fragmented, they fragment.
幻想は分裂しているので、分裂し続けます。
But truth is indivisible, and far beyond their little reach.
しかし、真理は分割不能なので、幻想のわずかな到達範囲のはるかに及ばない彼方にあります。
You will remember what you know when you have learned you cannot be in conflict.
自分が葛藤の中にいることなどありえないとあなたが学んだとき、あなたは自分の知っていることを思い出すでしょう。
One illusion about yourself can battle with another, yet the war of two illusions is a state where nothing happens.
あなた自身についてのひとつの幻想が別の幻想と争うことはありえます。しかし、ふたつの幻想が戦っている状態は、実は何も起こっていない状態です。
There is no victor and there is no victory.
そこには勝利者もいなければ、いかなる勝利もありません。
And truth stands radiant, apart from conflict, untouched and quiet in the peace of God.
そして、真理は葛藤から離れ、損なわれることもなく、静かに神の平安のうちに輝いています。
8. Conflict must be between two forces.
葛藤は、必ずふたつの力の間で生じます。
It cannot exist between one power and nothingness.
ひとつの力と無との間に葛藤が存在することはありえません。
There is nothing you could attack that is not part of you.
あなたに攻撃できるのは、あなたの一部だけです。
And by attacking it you make two illusions of yourself, in conflict with each other.
そして、自分の一部を攻撃することによって、あなたはお互いに葛藤し合う自分自身についてのふたつの幻想を作り出してしまいます。
And this occurs whenever you look on anything that God created with anything but love.
そして、これは、あなたが何であれ神の創造したものを愛以外の何らかの感情をもって見るたびにいつも起こることです。
Conflict is fearful, for it is the birth of fear.
葛藤は恐怖に満ちています。というのも、葛藤は恐怖から生まれるものだからです。
Yet what is born of nothing cannot win reality through battle.
しかし、無から生まれたものが、戦いによって実在性を勝ち取ることなどできません。
Why would you fill your world with conflicts with yourself?
どうしてあなたは、自分の世界を自分自身との葛藤で満たそうとするのでしょうか。
Let all this madness be undone for you, and turn in peace to the rememberance of God, still shining in your quiet mind.
こんな狂気の沙汰を自分のためにすべて取り消してもらい、平安のうちに、今でもあなたの静かな心の中に輝いている神の記憶に目を向けなさい。

9. See how the conflict of illusions disappears when it is brought to truth!
真理の下にもたらされたら、幻想同士の争いが消滅してゆくのを見てください。
For it seems real only as long as it is seen as war between conflicting truths; the conqueror to be the truer, the more real, and the vanquisher of the illusion that was less real, made an illusion by defeat.
というのは、争いが本物のように見えるのはただ、その争いが矛盾する複数の真理の間での戦いだと見られている間だけだからです。その争いでは、戦いの覇者は、打ち負かされることで幻想に変えられれたより現実味の乏しいほうの幻想の征服者として、より真実で、より現実のものであるとされます。
Thus, conflict is the choice between illusions, one to be crowned as real, the other vanquished and despised.
このように、葛藤は幻想と幻想の間での選択であり、一方は現実としての王位に就き、他方は打ち負かされて、軽蔑されることになります。
Here will the Father never be remembered.
こんなところで大いなる父が思い出されることは、決してないでしょう。
Yet no illusion can invade His home and drive Him out of what He loves forever.
しかし、いかなる幻想も、父の住まいに侵入して、父が永遠に愛しているものから父を追い出すことはできません。
And what He loves must be forever quiet and at peace because it is His home.
そして、父の愛するものは、父の住処であるがゆえに、永遠に静かで平安であるに違いありません。
10. You who are beloved of Him are no illusion, being as true and holy as Himself.
父に愛されているあなたは、神自身と同様に真実で神聖な実在であるがゆえに、幻想ではありません。
The stillness of your certainty of Him and of yourself is home to Both of You, Who dwell as One and not apart.
父と自分自身に対してあなたが抱く確信の持つ静けさこそが、父とあなたの住まいであり、そこであなたたちは、離ればなれになることなくひとつのものとして住まうのです。
Open the door of His most holy home, and let forgiveness sweep away all trace of the belief in sin that keeps God homeless and His Son with Him.
父の最も聖なる住まいの扉を開いてください。そして、神を子とともに宿無しのままにしようとする罪の信念の痕跡のすべてを赦しに一掃してもらうがよいでしょう。
You are not a stranger in the house of God.
あなたは、神の家ではよそ者ではありません。
Welcome your brother to the home where God has set him in serenity and peace, and dwells with him.
あなたの兄弟をこの住まいに喜んで迎え入れてください。神は静かな安らぎの中で彼をこの住まいに招き入れて、彼とともに住んでくれます。
Illusions have no place where love abides, protecting you from everything that is not true.
愛が留まり、あなたを真実ではないすべてのものから守ってくれている場所には、幻想が入りこむ余地はありません。
You dwell in peace as limitless as its Creator, and everything is given those who would remember Him.
あなたは、平安の創造主と同様に果てしない平安のうちに住んでおり、神を思い出そうとする者たちにはすべてが与えられます。
Over His home the Holy Spirit watches, sure that its peace can never be disturbed.
聖霊は神の家を見守ることで、確実に、神の家の平安が決してかき乱されないようにしています。

11. How can the resting place of God turn on itself, and seek to overcome the One Who dwells there?
どうして神の安らぎの場である者が、自分自身に襲いかかって、そこに住む神を征服しようとなどできるでしょうか。
And think what happens when the house of God perceives itself divided.
それに、神の家である者が自らを分割されているものと知覚したときに、何が起こるか考えてみてください。
The altar disappears, the light grows dim, the temple of the Holy One becomes a house of sin.
祭壇は消え去り、光は翳り、聖なる存在の神殿は罪の巣窟になってしまいます。
And nothing is remembered except illusions.
そうなれば、幻想以外には何も思い出せなくなってしまうでしょう。
Illusions can conflict, because their forms are different.
幻想同士が衝突しうるのは、個々の幻想の形が違うからです。
And they do battle only to establish which form is true.
そして、幻想同士が戦うのは、ただどの形が真実なのか確証しようとするためでしかありません。
12. Illusion meets illusion; truth, itself.
幻想は幻想に出会い、真理は真理そのものに出会います。
The meeting of illusions leads to war.
幻想同士が出会うと、戦いに発展します。
Peace, looking on itself, extends itself.
平安は、平安自身を見るので、自らを拡張します。
War is the condition in which fear is born, and grows and seeks to dominate.
戦いは、その中で恐れが生まれ、増大して支配しようとする状態です。
Peace is the state where love abides, and seeks to share itself.
平安は、愛が留まり、自らを分かち合おうとする状態です。
Conflict and peace are opposites.
葛藤と平安は、正反対のものです。
Where one abides the other cannot be; where either goes the other disappears.
一方が留まっているところには、他方は存在できず、どちらか一方が向かうところからは、もう一方は消えてなくなります。
So is the memory of God obscured in minds that have become illusions' battleground.
同様に、幻想同士の戦場になった心の中では、神の記憶は覆い隠されてしまいます。
Yet far beyond this senseless war it shines, ready to be remembered when you side with peace.
しかし、こんな無意味な戦いの遠く及ばないところで神の記憶は輝いているので、あなたが平安の側につけば、いつでも思い出すことができます。


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