T25-3 知覚と選択
願望は役に立たないどころか、邪魔をするだけなのだ。願望を実現させるための秘訣は、願望と縁を切り、その代わりに、意図、すなわち、所有し行動する決意を持つことである。

ヴァジム・ゼランド
さらに手探りで歩いていくと、シリルは入口の扉の前に立っていた。この扉で路地は行きどまりだった。入口の上には看板がかかっていて、街灯がそれを照らしていた。ちょうど大道歌の挿絵のような素朴な筆づかいで、中世の猟師の一群が描かれていた。猟師たちが跳躍する牡鹿を射止めたところだ。奇妙なことに、その牡鹿は猟師が放った矢が雲のように集まってできていた。シリルはその絵に魅せられた。その上に書かれたヘブライ文字は読めなかったが、下の店主の名はわかった。アハシュベール・トゥバールと書かれていた。シリルはドアの把手を押して、中に入った。
・・・
老人はうなずいた。「ひとは生きねばならん――死ぬことができなければ。何を望むか、ということじゃな。おまえさまは何をお望みか、ご存知かな」
「ああ、もちろん知っているとも。でも見つけることができないのだ」
「困ったことじゃ。おそらく、さがし方がよくなかったのではないか」
「それなら、どうさがすのが正しいのか」
「そう、牡鹿を追う猟師のようにすればよい」
「正直に言って、おっしゃっていることがよくわからない」
「おまえさまにはよくわからない」と、思案にふけるように老人はくりかえした。「知っている、わしには見えている、だから、おまえさまはわしのところへやって来た。光栄なことじゃ。さがすことをわしから習いたいのか」
「お願いしましょう」とシリルは皮肉っぽく答えた。
「いくらお支払いすればよろしい?」
「無料じゃ」と老人は言って、ちょっとおじぎをした。「しかし、それが禁止されていることを言っておかねばならん。それでも習いなさる気かな?」
「禁止されている?だれから」
「神じゃ」と老人は答えた。「神を信じていらっしゃるかな」
「まだおたがいに挨拶したことがないんでね」とシリルは素っ気なく答えた。
「だが、神が」と老人は先を続けた。「七日の間にこの世界と人間を造りたもうたこと、それはご存知じゃろう?」
「聞いたことがあるな」シリルは軽く受け流した。
「それはよいことじゃ。だが、それはまだ真実の半分にすぎん。神は楽園を造り、人間を造りたもうた。楽園を神は人間から奪われた。そこで人間は世界を造ったのじゃ、どこかに住むためにな。そうして、人間は今でも世界を造り続けている」
「そうかもしれない」とシリルは言った。「ただそれが私の問いとどのような関係があるのか、よくわからないのだが」
老人は吐息をもらし、しばらく考えていた。そしてふたたび口をひらいた。
「なんとかいう男がおった。ひょっとしたらおまえさまも聞いたことがあるのではないか。二、三年前に古代都市トロヤの廃墟を発掘した男じゃが」
「ハインリッヒ・シュリーマンのことか」
「そう、その男じゃ。シュリーマン、そういう名前だった。シュリーマンが発掘したのはトロヤだと、おまえさまは思うかな? それはシュリーマンがあそこでトロヤをさがしたからじゃ。ちょうど、牡鹿をしとめた、あの猟師たちのようにな。だから、あそこはトロヤなのじゃ。おわかりかな」
「なんとも言えない」とシリルは正直に言った。「あなたは、それまであそこには何もなかったと言いたいのか」
老人はもう一度頭をかしげ、小さく舌打ちした。「おまえさまにはなぜわからぬのか。シュリーマンは見つけたのだから、トロヤはいつもあそこにあったのじゃ」
しばらく静かになった。それから、老人はあえぐような音を出した。それは声のない笑いだったのかもしれない。
「そうして、人は何でも見つけた。太古の怪獣や獣人の骨なども――なぜだと思いなさる。それをさがしたからじゃ。そうしてこの世界全体を造り上げた。少しずつ造り上げたのじゃ。そして人は、神が世界を造りたもうた、と言っている。しかし、この世界がどんな具合か見てごらんなされ。ごまかしや矛盾がひしめき、酷いことや暴力であふれ、強欲や、大小の、意味もない苦しみでいっぱいじゃ。そこでおまえさまに尋ねるが、公正で崇高だと人の言う神が、どうしてこのような不完全なものを、造りたもうたのじゃ? 人間こそが創造主なのだが、人はそれを知らぬ。知りたくもないのじゃろう。自分で自分がおそろしいからな。理由(わけ)あることじゃて。新大陸を発見したときのコロンブスがそうじゃった――さがしたからそれを造り上げたとわしが言っても信じなかった。さがしていたのは別の土地だったからな。」

ミヒャエル・エンデ(短編集「自由の牢獄」の中の「遠い旅路の目的地」より)

今回は、テキスト第二十五章から「知覚と選択」という一節をご紹介します。
4.についての説明
「4. There is another Maker of the world, the simultaneous Corrector of the mad belief that anything could be established and maintained without some link that kept it still within the laws of God; not as the law itself upholds the universe as God created it, but in some form adapted to the need the Son of God believes he has.
この世界には、もうひとりの偉大な作り主がいます。それは、大いなる修正者である聖霊です。聖霊は、神の法則の支配などまったくお構いなしに、好き放題にどんな物事でも作り出して保ち続けることができるという狂気の信念を誰かが抱くと同時にそれを修正します。ここでいう神の法則とは、神が創造した通りに宇宙を維持する神の法そのものではなく、神の子が自分が抱えていると信じこんでいる必要性に神の法をいくらか適応させた形のものです。
Corrected error is the error's end.
誤りが修正されると、誤りではなくなります。
And thus has God protected still His Son, even in error.
このようにして、神は誤りの中ですら、依然としてわが子を守ってくれているのです。」
の"the other Maker of your perception"について、コースでは、知覚は幻想世界において知識の代用として作り出されたものという説明がなされるので、知覚の作り主と言われると、コースの読者としては習慣的に素朴にエゴを指すもののように推測することになります。
もっとも、この文章に先行する3.では、この世界の作り主としては聖霊とエゴのふたりいることが述べられます。

3.「But this world has two who made it, and they do not see it as the same.
しかし、この世界には、それを作り出した作り主がふたりいて、そのふたりはこの世界を同じものとして見てはいません。
To each it has a different purpose, and to each it is a perfect means to serve the goal for which it is perceived.
双方の作り主にとって、この世界は違う目的を持ち、双方の作り主にとって、この世界はそれぞれが理解する世界の目標を実現するための完璧な手段として奉仕します。」
この前提で、頭文字が大文字になっている言葉は基本的に神側の概念を指しますので、この点からすると、"the other Maker of your perception"は、聖霊を指すものだろうと推測がつきます。
結論として"the other Maker of your perception"は聖霊のことです。
The Message of A Course In Miracles
参考に、The Message of A Course In Miracles: A Translation of the Text in Plain Language by Elizabeth A. Cronkhiteの該当箇所を引用しておきます。
「4. Simultaneously, the other Maker of your perception, the Holy Spirit, corrects your mad belief that you have established and maintained a world without a Link that still keeps it within the Law of God.
同時に、あなたの知覚の作り主である聖霊は、依然として神の法の範囲内それを保ち続ける大いなる絆なくしてあなたが世界を確立して維持しているというあなたの狂気の信念を修正します。
In your perception of a world, Gods Law is not used as God uses It to uphold Oneness, but It is adapted to a form to fit the need that you seem to have in your perception of separation from God.
あなたが世界を知覚する際、神の法は一なる状態を維持するために用いられるようには用いられませんが、神から分離しているとあなたが知覚することであなたが持つ必要性にふさわしい形へと適合させられます。
Corrected error, and this is how God protects your Christ Mind, even as you seem to live in error.
たとえあなたが誤りの中に生きているように見えるとしても、誤りを修正するというこの方法によって神はあなたが持つキリストの心を保護するのです。」
知覚の基本法則
さて、本節では、知覚の基本法則が出てきます。
1.「This is in accord with perception's fundamental law: You see what you believe is there, and you believe it there because you want it there.
このことは、知覚の根本的な法則と一致しています。それは、『あなたは自分がそこにあると信じるものを見るのであり、あなたがそれがそこにあると信じるのは、あなたがそれがそこにあってほしいと望むからだ』という法則です。
Perception has no other law than this.
知覚には、この法則しかありません。
The rest but stems from this, to hold it up and offer it support.
そのほかのことは、ただこの根本的な法則を維持して、この法則を支援するために、この法則から派生するものでしかありません。
This is perception's form, adapted to this world, of God's more basic law; that love creates itself, and nothing but itself.
これは、『愛は愛そのものを創造し、愛以外の何ものをも創造することはない』という神のより根本的な法がこの世界に適合させられた知覚の形です。」
神の法とエゴの法則
神の法は、自分の拡張するものが自分の現実となる、エゴの法則は、自分の投影するものを自分は信じる、でした。
自分がそこにあると信じるものを見、それがそこにあると信じるのは、それがそこにあってほしいと望むからだ、つまり、自分が存在すると願望するがゆえに、それが存在すると信じ、知覚することになるという、この知覚の基本法則は、エゴの法則を知覚の側面から述べるものです。
私たちはすでに、神(そして、本来の神の子)は意図し、エゴ(そして、エゴに憑依された神の子)は願望するということを学びました(T7-10 苦しいのが気持ちいいってどういうこと?)。
本来の神の子はすべてであると同時にすべてを持っているので、豊かさマインドを基盤に、自分の持つものや自分自身を、自由にこうあるようにと意図できます。
これに対して、エゴは分離した一部分でありそれ以外の万物は自分が持ち合わせない自分ではいものなので、欠乏マインドを基盤に、必要に駆られて、自分の持たないものを得たい、自分ではないものになりたいという願望を抱くことしかできません。
神は自分が意図し拡張・創造するものが自分であり、自分のものだという現実を(知覚するのではなく)知っています。
エゴは、自分が持ち合わせておらず、自分ではなく、自分が持っていないものを願望し、この願望するものを投影・誤創造して、幻想を知覚し、それが存在すると信じます。
「9. The Son of God could never sin, but he can wish for what would hurt him.
神の子は決して罪を犯すことはできません。しかし、彼は自分を傷つけようとするものを願望することはできます。
And he has the power to think he can be hurt.
そして、神の子には、自分が傷つくことができると思う力があります。
What could this be except a misperception of himself?
神の子が自分を傷つけようとするものを願望して、自分が傷つきうると思いこむことは、自分自身のことを間違って知覚することにほかなりません。
Is this a sin or a mistake, forgivable or not?
自分を誤解することは罪でしょうか、それとも間違いでしょうか、赦せることでしょうか、それとも赦せないことでしょうか。
Does he need help or condemnation?
彼に必要なのは助けでしょうか、それとも咎めでしょうか。」

テキスト第二十五章
III. Perception and Choice
三 知覚と選択
1. To the extent to which you value guilt, to that extent will you perceive a world in which attack is justified.
あなたが罪悪感に価値を置くかぎり、その程度に応じて、あなたは攻撃が正当化される世界を知覚することになります。
To the extent to which you recognize that guilt is meaningless, to that extent you will perceive attack cannot be justified.
あなたが罪悪感が無意味だと認識するなら、その程度に応じて、あなたは攻撃を正当化することはできないと知覚するようになります。
This is in accord with perception's fundamental law: You see what you believe is there, and you believe it there because you want it there.
このことは、知覚の根本的な法則と一致しています。それは、「あなたは自分がそこにあると信じるものを見るのであり、あなたがそれがそこにあると信じるのは、あなたがそれがそこにあってほしいと望むからだ」という法則です。
Perception has no other law than this.
知覚には、この法則しかありません。
The rest but stems from this, to hold it up and offer it support.
そのほかのことは、ただこの根本的な法則を維持して、この法則を支援するために、この法則から派生するものでしかありません。
This is perception's form, adapted to this world, of God's more basic law; that love creates itself, and nothing but itself.
これは、「愛は愛そのものを創造し、愛以外の何ものをも創造することはない」という神のより根本的な法がこの世界に適合させられた知覚の形です。

2. God's laws do not obtain directly to a world perception rules, for such a world could not have been created by the Mind to which perception has no meaning.
神の法が、知覚の支配する世界に直接的に適用されることはありません。というのは、大いなる心によってこんな世界が創造されたはずがなく、大いなる心にとって知覚は何の意味も持たないからです。
Yet are His laws reflected everywhere.
それでも、神の法はあらゆるところに反映されています。
Not that the world where this reflection is, is real at all.
もっとも、世界にこのような反映が存在するからといって、少しも世界が実在することになるわけではありません。
Only because His Son believes it is, and from His Son's belief He could not let Himself be separate entirely.
世界に神の法が反映されているのは単に、世界が実在すると神の子が信じているために、神はわが子の信念から、神自身を全面的に切り離すわけにはいかなかったからでしかありません。
He could not enter His Son's insanity with him, but He could be sure His sanity went there with him, so he could not be lost forever in the madness of his wish.
神には、わが子の狂気の中に、神の子と一緒に入りこむことなどできませんでした。それでも、神は、自らの正気が神の子の狂気の中で確実に神の子に伴って行くようにできたので、神の子は自らの願望という狂気の中に永遠に迷いこんだままでいることはできなかったのです。
3. Perception rests on choosing; knowledge does not.
知覚は選択によって成り立ちますが、知識は選択に左右されません。
Knowledge has but one law because it has but one Creator.
知識には唯一の創造主しかないので、知識はひとつの法にのみ従います。
But this world has two who made it, and they do not see it as the same.
しかし、この世界には、それを作り出した作り主がふたりいて、そのふたりはこの世界を同じものとして見てはいません。
To each it has a different purpose, and to each it is a perfect means to serve the goal for which it is perceived.
双方の作り主にとって、この世界は違う目的を持ち、双方の作り主にとって、この世界はそれぞれが理解する世界の目標を実現するための完璧な手段として奉仕します。
For specialness, it is the perfect frame to set it off; the perfect battleground to wage its wars, the perfect shelter for illusions which it would make real.
特別であろうとする者にとって、この世界は、自分の特別さを引き立てる最高の舞台であり、特別さを競って争うにはうってつけの戦場であり、特別さを本当のことに仕立てあげようとする幻想を保護するための申し分のない避難所となります。
Not one but it upholds in its perception; not one but can be fully justified.
特別であろうとする者が知覚するものはすべて特別性を支持し、特別であることを十分に正当化することができます。

4. There is another Maker of the world, the simultaneous Corrector of the mad belief that anything could be established and maintained without some link that kept it still within the laws of God; not as the law itself upholds the universe as God created it, but in some form adapted to the need the Son of God believes he has.
この世界には、もうひとりの偉大な作り主がいます。それは、大いなる修正者である聖霊です。聖霊は、神の法則の支配などまったくお構いなしに、好き放題にどんな物事でも作り出して保ち続けることができるという狂気の信念を誰かが抱くと同時にそれを修正します。ここでいう神の法則とは、神が創造した通りに宇宙を維持する神の法そのものではなく、神の子が自分が抱えていると信じこんでいる必要性に神の法をいくらか適応させた形のものです。
Corrected error is the error's end.
誤りが修正されると、誤りではなくなります。
And thus has God protected still His Son, even in error.
このようにして、神は誤りの中ですら、依然としてわが子を守ってくれているのです。
5. There is another purpose in the world that error made, because it has another Maker Who can reconcile its goal with His Creator's purpose.
誤りが作り出した世界には、もうひとつの目的があります。なぜなら、世界には、世界の目標を創造主の目的と一致させることのできるもうひとりの大いなる作り主がいるからです。
In His perception of the world, nothing is seen but justifies forgiveness and the sight of perfect sinlessness.
その聖霊が知覚する世界には、赦しと完全に罪のない光景を正当化するものしか見えません。
Nothing arises but is met with instant and complete forgiveness.
何事が起ころうとも、それらはすべて、瞬時に完全な赦しに出会うことになります。
Nothing remains an instant, to obscure the sinlessness that shines unchanged, beyond the pitiful attempts of specialness to put it out of mind, where it must be, and light the body up instead of it.
変わることなく輝く潔白さを不明瞭にするようなものは何ひとつとして、ただの一瞬も残ることはありません。そして、特別であろうとする思いが潔白さをそれがあるに違いない心から追い出して、潔白さの代わりに身体に光を当てようとしても、そんなことは虚しい試みに終わります。
The lamps of Heaven are not for mind to choose to see them where it will.
天国の灯火は、個別の心がそれを目にする場所を自由に選べるようなものではありません。
If it elects to see them elsewhere from their home, as if they lit a place where they could never be, then must the Maker of the world correct your error, lest you remain in darkness where the lamps are not.
もし心がその灯火をその故郷である天国以外の場所に見ることを選び、まるでそれらの灯火が絶対にあるはずがない場所に灯っているように見ようと決めるなら、そのとき、世界の大いなる作り主は、あなたがその灯火のない闇に留まることのないように、あなたの間違いを修正してくれるに違いありません。

6. Everyone here has entered darkness, yet no one has entered it alone.
この世界にいる誰もがみな、闇に入りこんでいるのですが、誰も自分ひとりで闇に入ったわけではありません。
Nor need he stay more than an instant.
それに、彼は一瞬以上長く、闇の中に留まっている必要もありません。
For he has come with Heaven's Help within him, ready to lead him out of darkness into light at any time.
なぜなら、彼は自らの内に天国の大いなる助け主を伴って来ているのであって、その助け主である聖霊には、いつでも彼を闇から光の中へと連れ出す用意ができているからです。
The time he chooses can be any time, for help is there, awaiting but his choice.
彼はいつでもその時を選ぶことができます。というのも、助け主はそこにいて、ただ彼が選択することだけを待っているからです。
And when he chooses to avail himself of what is given him, then will he see each situation that he thought before was means to justify his anger turned to an event which justifies his love.
そして、彼が自分に与えられているものを利用することを選んだなら、そのとき彼は、それ以前には自分の怒りを正当化する手段だと思っていた状況が、ことごとく自分の愛を証明する出来事に様変わりするのを見るでしょう。
He will hear plainly that the calls to war he heard before are really calls to peace.
彼は、以前には戦争への呼びかけだと自分に聞こえていていたのは、本当は平和への呼び声なのだと、はっきり聞こえるようになります。
He will perceive that where he gave attack is but another altar where he can, with equal ease and far more happiness, bestow forgiveness.
彼は、自分がかつて攻撃したところは、それと同じくらい容易に、しかも以前よりずっと幸せに、赦しを与えることができる別の祭壇でしかないと知覚するようになります。
And he will reinterpret all temptation as just another chance to bring him joy.
そして、彼はすべての誘惑を、ただ自分に喜びをもたらしてくれる新たな機会として解釈し直すようになります。
7. How can a misperception be a sin?
間違って知覚することが、どうして罪になりうるでしょうか。
Let all your brother's errors be to you nothing except a chance for you to see the workings of the Helper given you to see the world He made instead of yours.
あなたの兄弟の誤りはすべて、偉大な救い主である聖霊の働きをあなたが目にするチャンスにほかならないと捉えてください。というのも、聖霊があなたに授けられたのは、あなたの作り出した世界の代わりに聖霊の作った世界をあなたに見せるためだからです。
What, then, is justified?
そうであるなら、何が正当化されるのでしょうか。
What do you want?
あなたは何を望むのでしょうか。
For these two questions are the same.
このふたつの質問は同じものです。
And when you see them as the same, your choice is made.
そして、あなたがそのふたつを同じだと見るとき、あなたは決断を下したことになります。
For it is seeing them as one that brings release from the belief there are two ways to see.
なぜなら、このふたつの質問をひとつのものとして見ることが、二通りの見方があるという信念からの解放をもたらすからです。
This world has much to offer to your peace, and many chances to extend your own forgiveness.
この世界は、あなたの平安のために差し出すことのできるものが大いにあるし、あなた自身の赦しを差し延べるための機会に満ち溢れています。
Such its purpose is, to those who want to see peace and forgiveness descend on them, and offer them the light.
これこそ、自分たちに平安と赦しが降り注ぐさまを見て、光を差し延べてもらうように望む者たちにとって、この世界が持つ目的です。

8. The Maker of the world of gentleness has perfect power to offset the world of violence and hate that seems to stand between you and His gentleness.
優しい世界の大いなる作り主である聖霊は、あなたと聖霊の穏やかさとの間に立ちはだかっているように見える暴力と憎悪の世界を帳消しにする完璧な力を備えています。
It is not there in His forgiving eyes.
聖霊の赦しに満ちた視界には、暴力や憎悪の世界など存在しません。
And therefore it need not be there in yours.
したがって、あなたの視界にも、暴力や憎悪の世界が存在する必要はありません。
Sin is the fixed belief perception cannot change.
罪とは、知覚することは変えられないという固定観念です。
What has been damned is damned and damned forever, being forever unforgivable.
断罪された者は呪われて、永遠に赦されざる者として、永久に地獄に落とされて罰せられるというのです。
If, then, it is forgiven, sin's perception must have been wrong.
そうだとすれば、もしそれが赦されるなら、罪を知覚したことは間違いだったということになるはずです。
And thus is change made possible.
こうして、変更は可能になります。
The Holy Spirit, too, sees what He sees as far beyond the chance of change.
聖霊もまた、自分の目にするものを、変わる見込みのまったくないものとみなしています。
But on His vision sin cannot encroach, for sin has been corrected by His sight.
ただし、聖霊が目を向けることによって罪はすでに修正されているので、聖霊のヴィジョンに罪が入り込むことはできません。
And thus it must have been an error, not a sin.
したがって、それは罪ではなく間違いだったに違いありません。
For what it claimed could never be, has been.
なぜなら、罪が絶対に不可能だと断言した修正が、すでに完了しているからです。
Sin is attacked by punishment, and so preserved.
罪は処罰によって攻撃され、そうすることで保存されます。
But to forgive it is to change its state from error into truth.
しかし、罪を赦すことは、その罪の状態を誤りから真理に変えることです。
9. The Son of God could never sin, but he can wish for what would hurt him.
神の子は決して罪を犯すことはできません。しかし、彼は自分を傷つけようとするものを願望することはできます。
And he has the power to think he can be hurt.
そして、神の子には、自分が傷つくことができると思う力があります。
What could this be except a misperception of himself?
神の子が自分を傷つけようとするものを願望して、自分が傷つきうると思いこむことは、自分自身のことを間違って知覚することにほかなりません。
Is this a sin or a mistake, forgivable or not?
自分を誤解することは罪でしょうか、それとも間違いでしょうか、赦せることでしょうか、それとも赦せないことでしょうか。
Does he need help or condemnation?
彼に必要なのは助けでしょうか、それとも咎めでしょうか。
Is it your purpose that he be saved or damned?
あなたの目的は、彼が救われることなのでしょうか、それとも、彼が呪われることなのでしょうか。
Forgetting not that what he is to you will make this choice your future?
あなたにとって彼をどんな存在とみなすかが、未来のあなたを決める選択になるのを忘れないでください。
For you make it now, the instant when all time becomes a means to reach a goal.
というのは、あなたが今その選択すれば、その瞬間、すべての時間が目標に達するための手段となるからです。
Make, then, your choice.
それでは、自分の選択を下してください。
But recognize that in this choice the purpose of the world you see is chosen, and will be justified.
ただし、この選択によってあなたの目にする世界の目的が選ばれることになり、それが正当化されることになるのを忘れないでください。

