T9-4 赦しについての聖霊の計画
感謝とは、神の愛をあらゆるものに見るという選択です。この選択をしたら、どうしたって惨めにはなりようがありません。感謝の選択が幸福につながるのは、不平不満の選択が不幸と絶望につながるのと同じくらい確かなことです。
ある態度は自分を助け、上昇させます。別の態度は、価値を引き下げ、破壊します。
人生にどちらの態度で応じるか、その選択次第であなた自身の感じ方は違ってきます。絶望の中に住んでいるのは、あなたがもらった贈り物を粗末にしたからです。
地上を歩いている人はみな、自分の蒔いた思考の結果を刈り入れることになります。もし来年の収穫の状態を変えようと思うなら、今現在の考えを変えてください。
何かひとつのことについてありがたいと思ってみれば、このシンプルな公式の正しさがわかるでしょう。

イエス・キリスト(ポール・フェリーニ著「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」より)

今回はテキスト第九章から「赦しについての聖霊の計画」という一節をご紹介します。
聖霊とエゴの計画
贖罪、赦しについての計画には聖霊の計画とエゴの計画があることが述べられます。
コースでいう「赦し」は、①罪が幻想で実在しないことを認識し、②その認識の通り看過する、ということでした。
これに対して、エゴの「許し」は、①罪が実在することを前提に、②その罪に目を瞑って目こぼししてやるという、この世界での許しです。

両者の相違点
両者の相違点の本質は、①にあります。
つまり、誤り、錯覚を現実だと解釈したままにするかどうかという点にあります。
②は罪や誤りを無視するという外的な行動の面では同じですが、内面は正反対なものとなります。
すなわち、①をどうとらえるかに連動して、「赦し」では認識した通りありのままの対応をする正直な反応ということになるし、「許し」では、認識した事実に反する欺瞞的な反応をするという具合に正反対なものになります。
「赦し」は自然で正直だが、「許し」は不自然な自己欺瞞
このようにみると、「赦し」は、正しい認識に対して、正直に自然な対応をすることなので、自己欺瞞の感覚や無理をしている不自然さとは無縁なものだということが仕組み的にわかります。
他方、「許し」は真実とは違う間違った事実認識に対して、その認識に本来ふさわしくない反応を、不自然に自分を押し殺してまで自分に強いて対応をすることなので、そもそも間違った事実認識をしているという点、さらに、その事実認識を前提にしたとしても、それに対する自然な反応を押し殺している点で、自己欺瞞の違和感や苦しさがつきまとうのが当然だということがわかります。
「赦し」を実践できない私たちは病んだ状態にある
赦しの実践は、コースの最大の課題であることは事実ですが、赦すことは苦行ではなく呼吸をすることに等しい自然なことなのだとすれば、赦しに困難を覚えるときには、自分を強制してゆるそうとするのをやめて、いったん立ち止まって、「許し」になっているのではないか自問してみることが重要でしょう。

テキスト第九章
IV. The Holy Spirit's Plan of Forgiveness
四 赦しについての聖霊の計画
1. Atonement is for all, because it is the way to undo the belief that anything is for you alone.
贖罪は全員のためのものです。なぜなら、贖罪は、何かが自分だけのためにあるという信念を取り消す手段だからです。
To forgive is to overlook.
赦すことは無視することです。
Look, then, beyond error and do not let your perception rest upon it, for you will believe what your perception holds.
ですから、誤りの向こう側を見て、あなたの知覚を誤りに留めないようにしなければなりません。なぜなら、あなたは自分の知覚が捉えるものを信じてしまうからです。
Accept as true only what your brother is, if you would know yourself.
もしあなたが自分自身を知りたいなら、ただあなたの兄弟の本質だけを真実として受け入れてください。
Perceive what he is not and you cannot know what you are, because you see him falsely.
真の兄弟とは違う姿を知覚するなら、あなたは真の自分を知ることができません。なぜなら、あなたは間違ってその兄弟を見てしまっているからです。
Remember always that your Identity is shared, and that Its sharing is Its reality.
あなたたちの真のアイデンティティーは共有されており、大いなる自己としての身許を共有することこそが、あなたたちが本当は神の子だという現実なのだと、つねに覚えておいてください。
2. You have a part to play in the Atonement, but the plan of the Atonement is beyond you.
あなたには、贖罪において果たすべき役目があります。しかし、贖罪の計画はあなたの理解の及ばないものです。
You do not understand how to overlook errors, or you would not make them.
あなたは誤りをどうやって無視すればよいのか理解していません。理解していたなら、あなたは誤りを犯さなかったはずです。
It would merely be further error to believe either that you do not make them, or that you can correct them without a Guide to correction.
自分は誤ることはないと信じたり、修正のための大いなるガイドの導きを受けなくても自分は誤りを修正できると信じたりすることはいずれも、さらなる誤りを招くことにしかなりません。
And if you do not follow this Guide, your errors will not be corrected.
そして、もしあなたがこの大いなるガイドである聖霊に従わないなら、あなたの誤りは修正されないままでしょう。
The plan is not yours because of your limited ideas about what you are.
あなたは自分のことを制限された存在だと思いこんでしまっているので、あなたには贖罪の計画を立てることはできません。
This sense of limitation is where all errors arise.
この制限されている感覚こそが、すべての誤りが生まれる元凶だからです。
The way to undo them, therefore, is not of you but for you.
そうだとすれば、誤りを取り消す方法は、あなたが作り出すものではなく、あなたのために与えられるものであらねばなりません。

3. The Atonement is a lesson in sharing, which is given you because you have forgotten how to do it.
贖罪は分かち合うことを学ぶことです。というのも、このレッスンがあなたに与えられたのは、あなたがどのように共有すればよいのか忘れてしまったためだからです。
The Holy Spirit merely reminds you of the natural use of your abilities.
聖霊は単に、あなたの持っている能力の自然な使い方をあなたに思い出させるだけです。
By reinterpreting the ability to attack into the ability to share, he translates what you have made into what God created.
攻撃する能力を共有する能力に解釈し直すことによって、聖霊は、あなたが作り出したものを神が創造したものへと変換します。
If you would accomplish this through him you cannot look on your abilities through the eyes of the ego, or you will judge them as it does.
もしあなたが聖霊を通してこの変換を達成したいなら、あなたはエゴの目を通して自分の能力を見ているわけにはいきません。さもないと、あなたは、エゴが価値判断して裁くように、自分の能力の価値を判断して裁いてしまうでしょう。
All their harmfulness lies in the ego's judgment.
あなたの能力が害になるとすれば、それはエゴの価値判断だけが原因です。
All their helpfulness lies in the judgment of the Holy Spirit.
あなたの能力が役に立つとすれば、それはすべて聖霊の価値判断のおかげです。
4. The ego, too, has a plan of forgiveness because you are asking for one, though not of the right teacher.
あなたが赦しの計画を求めながらも、適任な教師に求めてはいないがゆえに、エゴもまた許しの計画を持つことになります。
The ego's plan, of course, makes no sense and will not work.
当然ながら、エゴの計画は意味をなさないし、うまくいくこともありません。
By following its plan you will merely place yourself in an impossible situation, to which the ego always leads you.
エゴの計画に従うことによって、あなたはただ自分自身をどうしようもない状況に置くことになるだけです。エゴはつねにあなたをそんな事態へと導きます。
The ego's plan is to have you see error clearly first, and then overlook it.
エゴの計画は、まず最初に、あなたにはっきりと誤りを見せておいて、そのあとで、その誤りに目を瞑るようにさせるというものです。
Yet how can you overlook what you have made real?
しかし、自分がすでに現実のものにしてしまったものを、どうしてあなたが看過できるでしょうか。
By seeing it clearly, you have made it real and cannot overlook it.
誤りを明確に見ることによって、あなたはすでに誤りを現実にしてしまっているのだから、あなたには誤りを見て見ぬ振りをすることなどできません。
This is where the ego is forced to appeal to "mysteries," insisting that you must accept the meaningless to save yourself.
これが、あなたは自分自身を救うためなら無意味なことでも受け入れなければならないと強弁して、エゴが「神秘」に訴えざるをえなくなる理由です。
Many have tried to do this in my name, forgetting that my words make perfect sense because they come from God.
多くの者たちが、私の言葉は神から来るがゆえに完全に意味をなすことを忘れて、私の名において、こんなことをしようとしてきました。
They are as sensible now as they ever were, because they speak of ideas that are eternal.
私の言葉はかつて意味をなしたように、今もなお意味あるものです。なぜなら、私の言葉は永遠なる想念について語るものだからです。

5. Forgiveness that is learned of me does not use fear to undo fear.
私が教える赦しは、恐れを取り消すために恐れを用いるようなことはありません。
Nor does it make real the unreal and then destroy it.
また、本物ではないものを現実だとしておいて、そのあとで、それを破壊しようとするようなこともありません。
Forgiveness through the Holy Spirit lies simply in looking beyond error from the beginning, and thus keeping it unreal for you.
聖霊を通してなす赦しのポイントは、単純に、最初から誤りの向こう側を見て、そうすることによって、誤りをあなたにとっての現実にしないままにしておくことにのみあります。
Do not let any belief in its realness enter your mind, or you will also believe that you must undo what you have made in order to be forgiven.
誤りが現実のものだと信じようとする思いを、少しでもあなたの心に入りこませてはなりません。さもないと、あなたはまた、赦されるためには、自分が作ったものを自分で取り消さなければならないとも信じてしまうでしょう。
What has no effect does not exist, and to the Holy Spirit the effects of error are nonexistent.
結果を持たないものは存在しません。だから、聖霊にとっては、誤りの結果など存在しません。
By steadily and consistently cancelling out all its effects, everywhere and in all respects, he teaches that the ego does not exist and proves it.
あらゆる場所で、そして、あらゆる面において、着実に、そして、首尾一貫して、すべての誤りの結果を取り消してゆくことによって、聖霊はエゴは存在しないと教え、それを証明してくれます。
6. Follow the Holy Spirit's teaching in forgiveness, then, because forgiveness is his function and he knows how to fulfill it perfectly.
ゆえに、赦しについての聖霊の教えに従いなさい。なぜなら、赦しこそが聖霊の役目であり、聖霊はこの役目を完璧に果たす方法を知っているからです。
That is what I meant when I said that miracles are natural, and when they do not occur something has gone wrong.
奇跡は自然に起こるものであって、奇跡が起こらないとしたら、何かがうまくいっていないのだと述べたとき、私が言わんとしていたのはこのことです。
Miracles are merely the sign of your willingness to follow the Holy Spirit's plan of salvation, recognizing that you do not understand what it is.
奇跡とは単に、聖霊の救済の計画がどのようなものなのか自分にはよくわらないと認めたうえで、その計画に従おうとするあなたの意欲を示す印でしかありません。
His work is not your function, and unless you accept this you cannot learn what your function is.
聖霊がなすべき働きをなすことは、あなたの役目ではありません。そして、あなたが聖霊の仕事をするのは自分の役目ではないということを受け入れないかぎり、あなたは自分の役目が何なのか学ぶことができません。

7. The confusion of functions is so typical of the ego that you should be quite familiar with it by now.
役割を混同するのは、あまりにエゴがよくやる典型的なことなので、あなたも今ではもうこのことを珍しくは思わないでしょう。
The ego believes that all functions belong to it, even though it has no idea what they are.
エゴは、どんな役割も自分がすべて担っていると信じています。そのくせ、エゴには、それらの役割の本質がまったくわかっていません。
This is more than mere confusion.
これは単なる混同だけでは済みません。
It is a particularly dangerous combination of grandiosity and confusion that makes the ego likely to attack anyone and anything for no reason at all.
それは、尊大さと混同というとりわけ危険な組み合わせになっており、これがエゴをして、まったく何の理由もなく、誰であろうと何であろうと攻撃しがちなものにさせることになります。
This is exactly what the ego does.
何の理由もなしに見境なく誰彼かまわず攻撃することこそが、まさにエゴがなすことなのです。
It is unpredictable in its responses, because it has no idea of what it perceives.
エゴがどう反応するかなど予測できません。なぜなら、エゴは、自分が何を知覚しているのかまったくわかっていないからです。
8. If you have no idea what is happening, how appropriately can you expect to react?
もし何が起こっているのかあなたにまったく見当もつかないとしたら、あなたはどうやって適切に反応できるでしょうか。
You might ask yourself, regardless of how you may account for the reaction, whether its unpredictability places the ego in a sound position as your guide.
あなたが自分の反応についてどう釈明するかは別にして、エゴが予測不能であるということに照らして、エゴをあなたの案内役としての安定した立場に据えることが適切かどうか、自問してみてはどうでしょうか。
Let me repeat that the ego's qualifications as a guide are singularly unfortunate, and that it is a remarkably poor choice as a teacher of salvation.
もう一度言いますが、エゴには案内役としての資質が欠落しているのは歴然としているので、救済のために選ぶ教師の候補としてエゴがふさわしくないことは言うまでもありません。
Anyone who elects a totally insane guide must be totally insane himself.
完全に狂った案内役を選ぶ者は誰であれ、彼自身も完全に狂っているに違いありません。
Nor is it true that you do not realize the guide is insane.
とはいえ、あなたには案内役が狂っていることがわからないというなら、それは嘘になります。
You realize it because I realize it, and you have judged it by the same standard I have.
私にそれがわかるのだから、あなたにもそれがわかるはずです。それは、私の持っている判断基準と同じ判断基準で、あなたも価値判断をしているからです。

9. The ego literally lives on borrowed time, and its days are numbered.
エゴは文字どおり借りものの時間を生きているにすぎず、その運命は旦夕に迫っています。
Do not fear the Last Judgment, but welcome it and do not wait, for the ego's time is "borrowed" from your eternity.
待ってなどいないで、最後の審判を恐れることなく歓迎してください。というのは、エゴの時間はあなたの永遠からの「借りもの」でしかないからです。
This is the Second Coming that was made for you as the First was created.
最後の審判こそ、キリストの再臨のときです。初臨が創造されたのに対して、再臨はあなたのために作られたのです。
The Second Coming is merely the return of sense.
キリストの再臨とは、単に正気を取り戻すことでしかありません。
Can this possibly be fearful?
どうして正気を取り戻すことが恐ろしいことになりうるでしょうか。
10. What can be fearful but fantasy, and who turns to fantasy unless he despairs of finding satisfaction in reality?
空想以外のいったい何が恐ろしいものになりうるでしょうか。そして、現実に満足を見出すことに絶望しないかぎり、誰が空想になど頼ろうとするでしょうか。
Yet it is certain that you will never find satisfaction in fantasy, so that your only hope is to change your mind about reality.
もっとも、あなたが決して空想の中に満足を見出せないのは間違いありません。したがって、あなたの頼みの綱は、現実についてのあなたの心を変えることだけです。
Only if the decision that reality is fearful is wrong can God be right.
ただ現実が恐ろしいものだという判断が間違っている場合にのみ、神は正しいといえます。
And I assure you that God is right.
そして、神が正しいことは、私があなたに請け合います。
Be glad, then, that you have been wrong, but this was only because you did not know who you were.
ですから、自分が間違っていたことを喜ぶがよいでしょう。もっとも、あなたが間違っていたのは、ただあなたが自分は本当は誰なのかわからなかったからでしかありません。
Had you known, you could no more have been wrong than God can.
あなたがそれを知っていたなら、神が間違うはずがないのと同じように、あなたも間違うことはなかったはずです。
11. The impossible can happen only in fantasy.
ありえないことが起こりうるのは、ただ空想の中でだけです。
When you search for reality in fantasies you will not find it.
あなたが空想の中に現実を探し出そうとするなら、あなたが現実を見出すことはないでしょう。
The symbols of fantasy are of the ego, and of these you will find many.
空想の中に出てくる数々の象徴はエゴが生み出すものであり、あなたはエゴの生み出す象徴であれば、いくらでも見つけられるでしょう。
But do not look for meaning in them.
しかし、それらの象徴の中に意味を見出そうとしないでください。
They have no more meaning than the fantasies into which they are woven.
それらの象徴は、それらの象徴が織りなす空想が意味を持たないのと同じく、何の意味も持ってはいないからです。
Fairy tales can be pleasant or fearful, but no one calls them true.
おとぎ話には楽しいものもあれば恐ろしいものもありますが、誰もおとぎ話を真実とは呼びません。
Children may believe them, and so, for a while, the tales are true for them.
子供たちは、そんな話を信じるでしょう。だから、しばらくの間は、その物語は子供たちにとって真実となります。
Yet when reality dawns, the fantasies are gone.
それでも、現実がわかりはじめると、空想は去ってしまいます。
Reality has not gone in the meanwhile.
空想が現実だと思っていた間中ずっと、現実がどこかに去っていたわけではありません。
The Second Coming is the awareness of reality, not its return.
再臨とは、どこかに去っていた現実が戻ってくることではなく、ずっとあるままの現実に気づくことなのです。
12. Behold, my child, reality is here.
わが子よ、よく見なさい。現実はここにあります。
It belongs to you and me and God, and is perfectly satisfying to all of Us.
現実はあなたと私と神に属し、私たちみんなにとって完全に満足できるものです。
Only this awareness heals, because it is the awareness of truth.
ただこの気づきだけが癒しをもたらします。なぜなら、それこそ真理を自覚することだからです。

