T30-6 赦しを正当化するもの
One person who has mastered life is better than a thousand persons who have mastered only the contents of books, but no one can get anything out of life without God.
ただたくさんの本に書かれた知識ばかり習得した千人よりも、人生を生きることで叡智を会得した一人の人物のほうが優れている。しかし、誰も、神なしには人生から何も得ることはできない。

Meister Eckhart
マイスター・エックハルト
The most beautiful people we have known are those who have known defeat, known suffering, known struggle, known loss, and have found their way out of those depths.
私たちは、最も美しい人たちというのは、敗北を知り、苦悩を知り、苦闘することを知り、喪失を知り、そのうえでそれら不遇の深刻さから自ら脱する道を見出した人たちなのだということを知っています。

Elisabeth Kubler-Ross
エリザベス・キューブラー・ロス
年配の禅僧と若い雲水(禅の修行僧)が旅をしていた。
あるとき、急流の川のほとりに辿り着き、雲水たちがその川を渡ろうとしていると、ひとりの見目麗しくとても魅力的な若い女性が川を渡れずに困っている様子で、ふたりに「どうしても川を渡らなければならないのです。どうかお助けいただけませんでしょうか」と尋ねた。
禅僧は女人に触れてはならぬという誓いを立てるため、ふたりは、女性を助けてあげたいが、誓いを破ることになるという困った依頼を受けたことになる。
若い雲水が頭が真っ白になっていると、何も言わずに、年配の禅僧は迷いのない様子で、女性をさっと抱き上げて彼女を担いで川に入り、向こう岸に渡って彼女を降ろした。
そしてそのまま、ふたりは何もなかったように旅を続けた。
若い雲水は、年配の僧侶の行動が信じられなかった。
若い女性に軽く触れるどころか抱きあげて体を合わせるなど、誓いうんぬんではなく戒律を破る破戒僧と呼ばれても当然のありえない行動であり決して許されるものではないという思いが渦巻き、後から彼に追いついたものの、どう声をかけたものかと思いあぐねて、頭の中はさきほどの出来事でいっぱいになったまま無言で歩き続けた。
何時間も経ってから、悶々と歩いていた若い雲水がとうとう我慢できなくなり、ついに年配の僧侶に怒りをぶつけて訴えた。
「僧侶たるもの、女人に触れてはならぬという誓いを立てたというのに、若い女人を抱いて運ぶとは、いったいなんと破廉恥なことでしょう?こんな煩悩にまみれた行動を軽率にとっていたのでは、悟りの境地などほど遠いのではありませんか。あなたは神聖な誓いと戒律を破ったのですよ。」と。
年配の僧侶は、彼に答えてこう言った。
「兄弟よ、戒律があり誓いを立てるのは私たちが仏の慈悲を衆生に施すためではないか。私は川を渡る間は彼女を抱いていたが、渡り終えて彼女を岸に降ろしたではないか。
川を渡ってずいぶん経つというのに、どうしてお前はまだ彼女を抱いているのだ?」と。

テキスト第三十章から、「赦しを正当化するもの」という一節をご紹介します。
アバターにアイデンティティーを抱かざるをえない私たちには赦しはきわめて困難
赦しとは、①罪が実在しない幻想だと見極めて、②その認識通りに看過することでした。
罪は実在しない幻想なのだからどんなにリアルでも序列なく一切幻であり、幻は無なのだから、無に対する正しいリアクションはまともに取り合わないで無視するというのが赦しを正当化する理屈です。
私たちが艱難前に天国に携挙(rapture)され、高みの見物でこの世界の人々の様子を眺めて、たまにアバターとして誰かに憑りついて世界の中で遊べる状態にあるのなら、誰かのプレイしているゲームを観察する感覚で赦しを行うことができるでしょう。
けれど、この世界ではアバターに自己同一化することでしか存在することができないのだから、私たちはどうしても世界の実在性と他者とは分離した自己を前提に発想することを免れず、それゆえに、①も②もきわめて困難なものとなります。
この点については、つぎの2記事が参考になると思います。
T6-3 復讐してやりたいけど我慢しなきゃいけない?
赦しってなに?、レッスン134「私がありのままに赦しを知覚できますように」
自分の架空性と「赦す夢を見る」という観点を取り入れるとハードルがぐんと下がる
このように自分たちは実在する世界の中に存在する別々の人間だというアイデンティティーを保ったままでは、赦しの実践は不可能といってよいものです。
この点で、いつも触れているように、私たち人の子を幻想世界の中で神の子が動き回るためのアバターとして架空の登場人物として位置づけたうえで、レッスン256「神こそ、私が今日抱く唯一の目標だ」の1.で「赦す夢を見る」という捉え方を採用することが赦しへのハードルを下げてくれます。
「Here we can but dream.
この世界では、私たちは夢見ることしかできません。
But we can dream we have forgiven him in whom all sin remains impossible, and it is this we choose to dream today.
それでも、私たちには、どんな罪を犯すことも絶対に不可能なままの神の子を自分たちが赦したという夢を見ることができます。そして、今日、私たちが夢見ることを選択するのはこの夢です。」
このサイトでは、私たちのことを物語の主人公と同じ架空の存在として位置づけていますが、自分が物語の架空の登場人物のひとりの主人公であり、その主人公が物語の中で他の登場人物が犯した罪は実在しないと赦したという夢を見るというふうに捉えるなら、どうしても実在すると思ってしまう自分が同じく実在すると思ってしまう他者の罪は実在しないと見極めて看過するというプロセスを、より実体に近く架空の出来事をそのまま認めることとしてすんなり受け入れやすくすると思います。
というのも、赦しの主体となる私たち自身の架空性が受け入れられるなら、親亀の上の子亀である赦しの対象となる罪の架空性は当然のように受け入れられる仕組みだからです。
私たち人間が架空の存在なのに、その人間の犯す罪だけが独立して実在するなんてありえないわけです。
「でも、どれが本当に聖霊の声で、どれが巧妙なエゴの声ではないとわかるのですか?」
あなたが、何が善であるかという思考のすべてを手放したとき、
あなたが、神は信頼できないという思考のすべてを手放したとき、
ーーこの信じ込みのゆえ、聖霊に抵抗するのだがーー
そして、とりわけ自分を空にすることだけを願ったとき、
初めてあなたは、聖霊の声を聞くことができる。

イエス・キリスト(「イェシュアの手紙」274ページ)
世界かぎりの存在としての罪
さて、人間として世界を眺めるかぎり、許せない巨悪はあるし、矯正不能な周囲に害悪を及ぼすだけの人間が存在することは否定できません。

きれいごととしては、すべての人は悔い改めることができるはずだというふうに、この事実を否定したいし、そうでなければ希望がないようにも思えます。
けれど、生物は、その生き物を構成する個々の細胞が新陳代謝を繰り返して老朽化や損傷した細胞を廃棄して新生した新たな細胞がそれに取って代わるというプロセスによって存続しています(個別の細胞の局面で切り取れば、廃棄される細胞からすると、役に立たなくなったからといって自分を捨てるなんてひどい!と感じるかもしれませんが)。
特定の人間としての立場に立つかぎりは、自分の集団や自分自身にとって好ましくない悪が存在するしそれを排除しようというスタンスにならざるを得ないのは事実です。
ですので、暴君ネロやヒトラーのような存在を容認することが「赦し」として必要なわけではなく、いたいけな罪のない弱い被害者を虐げる凶悪極まる犯罪者をこの世界のルールに則って処罰することがだめなわけでもありません。
もっとも、内科的な保存的治療でも対処できる状態なのに、バッサバッサと手術で切除して取ってしまうような対処では、ドラえもんの「どくさいスイッチ」的に、気がついたら誰もいなくなっているという結果になってしまうだけでしょう。
贖罪に通ずるなら赦しが攻撃の外形上の形をとることもありうる
赦しの目的は奇跡によって夢見る神の子が世界の幻想性に気づいて罪の世界の呪縛から解放される贖罪の成就にあります。
したがって、要点は、私たち人の子同士が赦しを通じて愛のつながりとしての奇跡を起こして、神の子が本当の自分に気づく赦しが実践できるかどうかであって、人の子の世界での許し(滅びに至る許し)の外形を持つ虚しいゼスチャーをなすことに意義があるわけではありません。
したがって、世界の幻想性をとことん受け入れ、その本質通りに看過することが要点であり、その幻想世界の中で上演される罪の物語を自分がどう演ずるかで演者たちに迷いが生じて、赦しが滅びに至る赦しとなりかねない曇りが生じるくらいなら、むしろ、その物語での自分という登場人物に課されている本質的な役割を粛々と果たして迷いを残さないことが大切といえるかもしれません。
この世界で必要とされる形の「赦してあげない」ように思える冷厳な対処もこの世界かぎりではむしろ必要なことも多いでしょう。
この点で、バガヴァッド・ギーターで、クリシュナ神がアルジュナにクシャトリヤとして戦って敵を殺せと助言したことの意味を考えてみることは有益だと思います。
赦しの定義や概念に縛られて悶々としながら許す自己欺瞞は、間違いなく滅びに至る許しというべきでしょう。
冒頭で紹介している禅の説話として有名なふたりの禅僧のお話のとおりです。
年配の禅僧は、ラメッシ先生の言う垂直時間で生き、禁制を破って女性を助けた行動に巻き込まれなかったのに、若い雲水は、水平時間に生き、押し殺した自分のすけべ心を正当化する戒律や罪という概念にとらわれて、起こった出来事が後の時間を巻き込むのを許し、心のなかで女人を抱き続けています。
存在する世界を愛し師として学ぶ
無理をして滅びに至る許しをして自己欺瞞の悶々感を残すよりも、迷いを断ち切るほうが真の赦しにつながるでしょう。
ですので、処世上、許さない行動をとることで歩みを進める場合には、許さないことにする悪としか思えない存在も、自分の一部だという認識は捨てないようにすることが大切でしょう。
はたらく細胞的な観点で言うなら、大切な身体の一部が癌化したり壊死したりして、切除するしか治療の手立てがない場合、全体を救うために切り捨てられる病んだ細胞も大切な自分の一部です。切除しなければならない体の部位は、目かもしれないし、手足かもしれないし、どこであれ、本来、絶対に失いたくないものであるはずです。
このことを忘れずに、その悪なる存在が自分や世界に与えている教訓、学びの機会を見つけることが大切に思います。
世界が眠れる神の子が見る夢の中で上演される一幕の劇だとすれば、小説や映画で悪役が大きな役回りを果たすように、この世界で誰もが憎む悪役を担うその存在には、実は世界という舞台で果たすべき何らかの役割もあるのかもしれないという観点は捨ててはならないと思います。
いかにその極悪人自身、当の本人は狂気(コースに言わせれば、人間である時点で万人が狂っているわけですが、ここでは人間世界で言う狂気と正気という意味で述べています)に陥っていたり、あるいは正気であるものの、まったく無反省で非難を受けて処罰されるのがもっともなエゴであったとしても、その犯罪が社会問題となることで、その後の社会が改善する反面教師としての意義があったりするものです。

この点については、コリン・C.ティッピングさんの「人生を癒すゆるしのワーク」を読んでいただきたいと思います。

テキスト第三十章
VI. The Justification for Forgiveness
六 赦しを正当化するもの
1. Anger is never justified.
怒りを正当化することは、絶対にできません。
Attack has no foundation.
つまり、攻撃することにはまったく根拠が欠けているのです。
It is here escape from fear begins, and will be made complete.
このように怒りは正当化できず、攻撃する根拠はないと認識することで、恐れからの脱出が始まり、そして、完結するでしょう。
Here is the real world given in exchange for dreams of terror.
怒りは正当化されず攻撃には根拠がないと認識することで、恐怖の夢と引き換えに真の世界が与えられます。
For it is on this forgiveness rests, and is but natural.
というのは、赦しはこの交換に依拠しており、恐怖の夢に真の世界が置き換わるのはまったく自然なことだからです。
You are not asked to offer pardon where attack is due, and would be justified.
あなたは、攻撃するのが当然のこととして正当化される場面で、免罪を差し出すように求められているわけではありません。
For that would mean that you forgive a sin by overlooking what is really there.
というのは、そうだとすると、あなたは本当は存在するものに目こぼしをすることによって、罪を許すという意味になってしまうからです。
This is not pardon.
これは免罪ではありません。
For it would assume that, by responding in a way which is not justified, your pardon will become the answer to attack that has been made.
というのは、見て見ぬ振りをすることで実在する罪を許すことは、正当な根拠をもって説明できない方法で報いることによって、あなたの免罪が現実に行われた攻撃に対する答えになるはずだと仮定することだからです。
And thus is pardon inappropriate, by being granted where it is not due.
こうして、それをふさわしくないところに授けることによって、免罪は不適切なものになってしまいます。

2. Pardon is always justified.
免罪は、つねに正当化されます。
It has a sure foundation.
免罪には確固たる根拠があるからです。
You do not forgive the unforgivable, nor overlook a real attack that calls for punishment.
あなたは、許しようのないものを許すわけではないし、処罰を要する現実の攻撃を大目に見て見逃してやるわけでもありません。
Salvation does not lie in being asked to make unnatural responses which are inappropriate to what is real.
現実であるものに対してふさわしくない不自然な反応をするように求められることで、救いが見出されるわけではありません。
Instead, it merely asks that you respond appropriately to what is not real by not perceiving what has not occurred.
そうではなく、救いは単に、起こってもいないことを知覚しないことによって、現実ではないものに対してそれにふさわしい反応をするようにと、あなたに求めているだけなのです。
If pardon were unjustified, you would be asked to sacrifice your rights when you return forgiveness for attack.
もし免罪が正当化されないとすれば、あなたは自分が攻撃に対して許しをもって応えるとき、自分の正当な権利を犠牲にするように求められていることになります。
But you are merely asked to see forgiveness as the natural reaction to distress that rests on error, and thus calls for help.
しかし、あなたはただ単に、赦しのことを、誤りに基づく苦悩、つまり、助けを求める呼び声に対する自然な反応とみなすように求められているだけです。
Forgiveness is the only sane response.
赦すことこそが唯一の正気な反応です。
It keeps your rights from being sacrificed.
赦しは、あなたの権利を犠牲になることから守ってくれるからです。
3. This understanding is the only change that lets the real world rise to take the place of dreams of terror.
このように免罪の根拠が許しではなく赦しであると理解することこそ、真の世界を生じさせて恐怖の夢に取って代わらせる唯一の変化です。
Fear cannot arise unless attack is justified, and if it had a real foundation pardon would have none.
攻撃が正当化されないかぎり恐れが生じるはずがないし、もし恐れに実在する根拠があるとすれば、免罪には何の根拠もないはずです。
The real world is achieved when you perceive the basis of forgiveness is quite real and fully justified.
あなたが赦しの基盤が本当に現実のものであって完全に正当化できるものと知覚したとき、真の世界に到達します。
While you regard it as a gift unwarranted, it must uphold the guilt you would "forgive."
あなたが赦しを説明のつかない不当な贈り物とみなしている間は、赦しは、あなたが「許そう」とする罪悪感を維持せざるをえません。
Unjustified forgiveness is attack.
正当化されない許しを与えることは、攻撃することだからです。
And this is all the world can ever give.
そして、この世界には、このような許ししか与えることができません。
It pardons "sinners" sometimes, but remains aware that they have sinned.
この世界は時折「罪人たち」に赦免を与えることはあっても、彼らが罪を犯したことはいつまでも忘れないままでいます。
And so they do not merit the forgiveness that it gives.
したがって、その罪人たちは、世界が与える許しには値しないことになります。

4. This is the false forgiveness which the world employs to keep the sense of sin alive.
これは、この世界が罪の意識を生かし続けておくために用いる間違った許しです。
And recognizing God is just, it seems impossible His pardon could be real.
そうすると、神が公正であると認めるかぎり、神の免罪が真に与えられることなど不可能に思えるはずです。
Thus is the fear of God the sure result of seeing pardon as unmerited.
こうして、免罪を分不相応なものとみなすことによって、間違いなく神に対する恐れという結果がもたらされます。
No one who sees himself as guilty can avoid the fear of God.
誰であれ、自分自身を有罪とみなす者は、神を恐れずにはいられないからです。
But he is saved from this dilemma if he can forgive.
しかし、もし彼が赦すことができれば、彼はこんなジレンマから救われます。
The mind must think of its Creator as it looks upon itself.
心には、その心が自らを見ている通りにしか、自らの創造主のことを思い描くことができません。
If you can see your brother merits pardon, you have learned forgiveness is your right as much as his.
もしあなたが自分の兄弟は免罪を受けるに値すると見ることができたとしたら、あなたは、赦しがその兄弟の権利であるのと同様に自分の権利でもあると学んだのです。
Nor will you think that God intends for you a fearful judgment that your brother does not merit.
そうなれば、あなたは、自分の兄弟がそれを受けるに値しない恐ろしい裁きを神が自分に下そうと意図しているとは思わなくなるはずです。
For it is the truth that you can merit neither more nor less than he.
というのは、あなたはその兄弟以上にもその兄弟以下にも裁きに値するはずがないというのが真理だからです。
5. Forgiveness recognized as merited will heal.
当然受けるに値するものとして認識された赦しは、癒しをもたらします。
It gives the miracle its strength to overlook illusions.
そんな赦しは、幻想を無視するための強さを奇跡に与えます。
This is how you learn that you must be forgiven too.
このようにして、あなたは自分もまた赦されているはずだと学びます。
There can be no appearance that can not be overlooked.
無視できないような外観など存在しません。
For if there were, it would be necessary first there be some sin that stands beyond forgiveness.
なぜなら、もし看過できない外観があるとすれば、まずその前に、赦しが及ばないような何らかの罪が存在する必要があるはずだからです。
There would be an error that is more than a mistake; a special form of error that remains unchangeable, eternal, and beyond correction or escape.
そうなると、単なる間違い以上の誤りが存在することになります。それは、不変かつ永遠で、修正や回避もできないような、特別な形の誤りです。
There would be one mistake that had the power to undo creation, and to make a world that could replace it and destroy the Will of God.
そこには創造を取り消し、その創造に取って代わりうる世界を作り出して神の大いなる意志を破壊することのできる力を持ったひとつの間違いがあることになります。
Only if this were possible could there be some appearances that could withstand the miracle, and not be healed by it.
もしこんなことが可能であった場合にだけ、奇跡に抵抗でき、奇跡によって癒されることのない何らかの外観がありうることになります。

6. There is no surer proof idolatry is what you wish than a belief there are some forms of sickness and of joylessness forgiveness cannot heal.
それがとる形次第では、赦しにも癒すことができないような病気や悲しみも存在するという信念ほど、あなたが偶像崇拝を望んでいることを確かに示す証拠はありません。
This means that you prefer to keep some idols, and are not prepared, as yet, to let all idols go.
このことは、あなたがまだいくつかの偶像を取っておきたがっており、今のところすべての偶像を手放す準備ができていないことを意味します。
And thus you think that some appearances are real and not appearances at all.
したがって、あなたはいくつかの外観は本物であって、単なる見せかけなどではないと思っているのです。
Be not deceived about the meaning of a fixed belief that some appearances are harder to look past than others are.
ある外観はほかの外観よりも看過しがたいという固定観念が何を意味するのか誤解しないようにしなさい。
It always means you think forgiveness must be limited.
それはつねに、あなたが赦しは限られたものに違いないと思っていることを意味します。
And you have set a goal of partial pardon and a limited escape from guilt for you.
だから、あなたは、自分だけ不公平に免罪を受けて罪悪感から限定的に脱出するという目標を設定してきたのです。
What can this be except a false forgiveness of yourself, and everyone who seems apart from you?
こんなことは、あなた自身とあなたから分離しているように見えるすべての人に対する間違った許し以外の何ものでもありません。
7. It must be true the miracle can heal all forms of sickness, or it cannot heal.
奇跡にはあらゆる形の病気を癒すことができるというのは、間違いなく真実です。そうでなければ、奇跡には癒すこと自体できないはずです。
Its purpose cannot be to judge which forms are real, and which appearances are true.
奇跡の目的がどの形が実在するもので、どの見せかけの姿が真実なのかを判断することであるはずがありません。
If one appearance must remain apart from healing, one illusion must be part of truth.
もしひとつでも外観が癒されないままになるとすれば、ある幻想は真理の一部に違いないということになります。
And you could not escape all guilt, but only some of it.
そうなると、あなたは罪悪感のすべてから逃れることはできず、すべてのうちのいくらかの罪悪感からしか逃れられないということになります。
You must forgive God's Son entirely.
あなたは、神の子を全面的に赦さなければなりません。
Or you will keep an image of yourself that is not whole, and will remain afraid to look within and find escape from every idol there.
そうしないと、あなたは完全ではない自己像を心に抱き続けることになるし、心の内側を覗いて、そこにある偶像のすべてからの解放を見出すことに恐れを抱いたままになってしまうでしょう。
Salvation rests on faith there cannot be some forms of guilt that you cannot forgive.
救いは、罪悪感がどのような形をとろうとも必ずあなたは罪悪感を赦すことができるという信頼に基盤を置いています。
And so there cannot be appearances that have replaced the truth about God's Son.
したがって、いまだかつて見せかけの姿が本当の神の子に取って代わったことなどないのです。

8. Look on your brother with the willingness to see him as he is.
その人をありのままに見ようという意欲を持って、あなたの兄弟をよく見てください。
And do not keep a part of him outside your willingness that he be healed.
そして、彼が癒されるようにと願うあなたの気持ちから、彼の持つ一面だけを除外したままにしてはなりません。
To heal is to make whole.
癒すことは、完全にすることだからです。
And what is whole can have no missing parts that have been kept outside.
そして、今も完全なままなら、いかなる部分も行方不明になって外に閉め出されたままであるはずがありません。
Forgiveness rests on recognizing this, and being glad there cannot be some forms of sickness which the miracle must lack the power to heal.
赦しは、このことを認めて、奇跡の癒す力が及ばないような種類の病気などありえないと喜ぶことに基づいています。
9. God's Son is perfect, or he cannot be God's Son.
神の子は完璧です。そうでなければ、彼が神の子であるはずがありません。
Nor will you know him, if you think he does not merit the escape from guilt in all its consequences and its forms.
それに、もしあなたが彼は罪悪感の及ぼしたすべての結果や形から逃れるに値しないと思ったりすれば、あなたが神の子を知ることはないでしょう。
There is no way to think of him but this, if you would know the truth about yourself.
もしあなたが本当の自分自身を知りたいなら、彼のことを次のように考えるしかありません。
"I thank You, Father, for Your perfect Son, and in his glory will I see my own."
「父よ、あなたに感謝します。あなたの子が完璧であるがゆえに、私は彼の栄光の中に自らの栄光と見出せるのですから。」
Here is the joyful statement that there are no forms of evil that can overcome the Will of God; the glad acknowledgment that guilt has not succeeded by your wish to make illusions real.
これこそ、神の大いなる意志を打ち負かせられるような、いかなる形の邪悪も存在しないという喜びに満ちた宣言です。それは、あなたがどんなに幻想を本物にしたいと願望しても、罪悪感はそれを達成することに成功しなかったと喜んで認めることです。
And what is this except a simple statement of the truth?
そして、これは真理を端的に述べる宣言以外の何ものでもないでしょう。

10. Look on your brother with this hope in you, and you will understand he could not make an error that could change the truth in him.
この希望を胸に抱いて、あなたの兄弟を見てください。そうすれば、彼の中にある真理を変えることのできる誤りを犯すことなど彼にはできなかったのだとあなたは理解するでしょう。
It is not difficult to overlook mistakes that have been given no effects.
何の結果も生じていない間違いを無視するのは、難しいことではありません。
But what you see as having power to make an idol of the Son of God you will not pardon.
それでも、神の子を偶像に変えてしまう力を持っていると自分がみなしているものを許すことは、あなたにはできないはずです。
For he has become to you a graven image and a sign of death.
というのも、そのとき、その兄弟は、あなたにとって死を象徴する偶像となっているからです。
Is this your savior?
そんな兄弟があなたの救い主であるはずがありません。
Is his Father wrong about His Son?
そうだとしたら、彼の大いなる父は、わが子を見誤っているというのでしょうか。
Or have you been deceived in him who has been given you to heal, for your salvation and deliverance?
それとも、あなたが兄弟のことを誤解して、彼があなたを救い解放するためにあなたを癒すべく遣わされている存在であることに気づかずにいるだけなのでしょうか。

