T7-6 警戒から平安へ
若者を確実に堕落させる方法がある。
違う思想を持つ者よりも同じ思想を持つ者を尊重するように指導することである。

フリードリッヒ・ニーチェ
I don't like that man.
私はあの男のことが気に入らない。
I must get to know him better.
私は彼のことをもっと知るようにならなければならない。

Abraham Lincoln
エイブラハム・リンカーン

今回は、テキスト第七章から「警戒から平安へ」という一節をご紹介します。
自分が何者か誤解するアイデンティティー問題
「7. If you will keep in mind what the Holy Spirit offers you, you cannot be vigilant for anything but God and his kingdom.
もし聖霊が自分に差し延べてくれるものをあなたが心に保ち続けようとするなら、あなたはただ神と神の王国にのみ注意を払うようにせずにはいられないはずです。」で、少し前の節T6-5C 神と神の王国にのみ注意を向けるが出てきます。
私たちは、本当は神の子であるにもかかわらず、この世界に生きる人間が自分だと固く信じて疑わないというアイデンティティー問題を抱えています。
とはいえ、私たちが自分は誰だと信じるかによって、客観的に私たちが何者であるかが定まるわけではありません。
客観的に私たちが神の子であることは事実であり、私たちにできるのは、それが本当だと信じるか信じないか、その事実を解釈することだけです。
エゴとは、これがそうではなく、私たちが自分が誰だと信じるかが客観的真理を左右すると完全に信じる想念のことです。
だから、エゴに耳を貸すかぎり、私たちは聖霊が代弁する神の知識に矛盾する観点を採用して、真理と葛藤する幻想の中に身を置く状態を継続することになります。
実は、自分は人間だという感覚を支える根拠など極めて薄弱な事実
自分が人間だという自覚がいかに薄弱な基盤しか持たないかは、慎重に考えてみればすぐにわかることです。
能力のある状態から無能状態へと制約をかけて本来の自分とはまったくことなる架空の自己像が自分であると信じるようにアイデンティティーをシフトしていくと、成り下がった無能状態の側からは本来の有能状態の自分は空の上の存在にしか見えないはずです。
VRを用いて、魚や虫のアバターに没入して、私たちが人間の状態から、魚や虫のきわめて素朴な境地にまで自覚の程度を下げたら、私たちに自分が人間だということを思出せるはずがありません。
大が小になりきることは、意識の幅を限定することによって容易にできることなわけです。
ひとたび自己認識を矮小したが最後、反対に人間を超える存在であるという事実を再認識するのはきわめて困難
ただし、逆に、自覚を小に限定して小になりきった大が、自分が本当は大であるという自覚にアイデンティティーを戻すのは容易ではありません。
全能の神の子が自分を制限して人間が自分だと信じ込むことが容易にできることは簡単にわかっても、能力の制限された先である人間のほうから神の子の自覚を取り戻そうにも、そもそも無能状態になっているがゆえに取り戻しようがない、というよりも、人間の自覚それ自体が神の子の自覚に対する制限なので、人間の自覚を進化発展させて神の子の自覚に拡大するのではなく、人間の自覚を取っ払うことが必要なわけだからです。
ここに真理を求めて求道する私たちにとっての最大のパラドックスがあります。

私たちががんばってしまうと、さらに自縄自縛の度合いを増すばかりというパラドックス
私たちは、自分を高めて悟りを開いて神の子の自覚に到達する気まんまんでいますが、自覚を取り戻すのは、私たちではなく、神の子のほうなのだから、私たちががんばることは神の子の邪魔をすることにしかならないということです。
人間は魚や虫と違って、絶妙な具合に中途半端に能力がある状態なので、自分はがんばれば覚醒体験をして神の子の自覚を取り戻せる、悟りを開けると勘違いしてしまいがちで、これがエゴをのさばらせる元凶でもあります。
けれど、魚のアバターになりきった人が人間としての自分を取り戻すには、魚のアバターが進化して知性のある半魚人になることが役に立つわけではなく、魚のアバターではなく、アバターになりきっている人間のほうが気づかないかぎり、いつまで経っても自覚は取り戻せないままです。
つまり、魚の自意識は進化しなければならないのではなく、消え去らねばならないのです。
私たちが進化して神の子に変身するわけではない
これと同じで、私たちも、人間としての自分をいかに高めても神の子の自覚を取り戻すことはありえません。
私たち人の子が進化して、芋虫がさなぎになって蝶として羽ばたくように、神の子に昇華しアセンションするわけではなく、私たちが神の子の「私」を惑わして幽閉するのをやめる必要があるだけです。
残念ながら、私たちのほうこそが、神の子に寄生して本来の姿に戻って羽ばたくのを妨げている寄生虫なわけです。

この究極の成り下がり状態については、レッスン26「私の攻撃的な思考が、私の傷つきようのない不滅性を攻撃している」で考察していますので、参考にしてみてください。
根本的なアイデンティティー障害を抱えながら平安に到達できるはずがない
さて、エゴに耳を貸して、私たちは自分が人間だと本気で信じるアイデンティティー障害を抱えています。
したがって、この根本的なアイデンティティー問題を抱えながら心安らかに平安でいられるはずがありません。
平安に至るには、アイデンティティーに関する誤解から脱するよう、つねに警戒を怠らないことが必要です。
それは、神と王国のみに注意を払う、つまり、本当の自分が神の子であることにのみ意識を留めることです。
自然界ではエゴレスな「無私の状態」が自然で健常な状態
人間として生き、幼児期にエゴに感染、憑依されて以降、ずっと、アバターが自分だと信じる状態にあるのが常態となっている私たちからすると、これはとても難しいことに思えます。
けれど、はたらく細胞的に考えてみると、赤血球や白血球たちは自意識を抱くことなく黙々と幸せに仕事をこなしていますが、病理現象や不具合が起こって、身体の一部が傷ついたり、感染症にかかったり、癌化したりした場合にだけ、全体の一部が自分の存在を主張しはじめるように、全体の一部が自意識を持って自己主張する状態は、本当はまったく自然な状態ではないということを連想してみてもよいでしょう。
虫歯にならずに健康な状態であるかぎり、歯が存在することを私たちはまったく意識せずに暮らしています。
私たちは、神の子にとっての虫歯のような存在であり、本来あってはならない不健康状態を示す一症状だということです。
神と王国のみに注意を払うことは、全体としての神の子本来の健康状態に意識を戻すことであり、不自然に無理をすることではなく、むしろ自然なことだといえるでしょう。

テキスト第七章
VI. From Vigilance to Peace
六 警戒から平安へ
1. Although you can love the Sonship only as one, you can perceive it as fragmented.
あなたは、神の子全体をただひとつのものとしてしか愛することができません。ただし、あなたは、神の子をばらばらに分裂したものとして知覚することはできます。
It is impossible, however, to see something in part of it that you will not attribute to all of it.
それでも、あなたが神の子全体が持つ属性だとみなす気のないものを、神の子の一部の中に見出すことは不可能です。
That is why attack is never discrete, and why it must be relinquished entirely.
これが、決して一部分だけに攻撃を限定できない理由であり、したがって、攻撃を全面的に放棄しなければならない理由です。
If it is not relinquished entirely it is not relinquished at all.
もし攻撃が全面的に放棄されないなら、それはまったく攻撃が放棄されてはいないということです。
Fear and love make or create, depending on whether the ego or the Holy Spirit begets or inspires them, but they will return to the mind of the thinker and they will affect his total perception.
エゴが生み出すか、または、聖霊が霊感を与えるかによって、恐れが作り出すのか、愛が創造するのかが左右されます。しかし、作り出されたり創造されたりしたものは、その思いを抱いた者の心に戻ってくるので、それらは思考者の知覚全体に影響を及ぼすことになります。
That includes his concept of God, of his creations and of his own.
影響を受ける知覚には、思考者の抱く神の概念、そして、神の創造物と思考者自らが創造したものに関する概念も含まれます。
He will not appreciate any of Them if he regards Them fearfully.
もし思考者が神や神の創造物、そして思考者自身の創造物のことを恐ろしいものとみなすなら、彼には、それらのうちのどれも、その真価がわからないままでしょう。
He will appreciate all of Them if he regards Them with love.
もし彼が愛をこめて神や神の創造物や自らの創造物を見るなら、彼は、それらすべての真価を認めて感謝するでしょう。
2. The mind that accepts attack cannot love.
攻撃を容認する心は、愛することができません。
That is because it believes it can destroy love, and therefore does not understand what love is.
なぜなら、攻撃を受け入れる心は、自分は愛を破壊できると信じており、したがって、愛が何なのか理解していないからです。
If it does not understand what love is, it cannot perceive itself as loving.
もしその心が愛が何なのか理解していないなら、そんな心が自分自身を愛に満ち溢れるものとして知覚できるはずがありません。
This loses the awareness of being, induces feelings of unreality and results in utter confusion.
このことが、心に実在する自覚を失わせて、自分は紛いものだという感覚を引き起こし、そして、まったくの混乱という結果を招きます。
Your thinking has done this because of its power, but your thinking can also save you from this because its power is not of your making.
あなたの思考の力のゆえに、あなたの思考がこんな状態を引き起こしたわけですが、あなたの思考の力はあなたが作り出したものではないので、あなたの思考はまた、こんな状態からあなたを救うこともできます。
Your ability to direct your thinking as you choose is part of its power.
自分の思考を自ら選ぶ方向に導くあなたの能力も、あなたの思考が持つ力の一部だからです。
If you do not believe you can do this you have denied the power of your thought, and thus rendered it powerless in your belief.
もしあなたが自分には自分の思考を導くことができると信じないなら、あなたは自分自身の思考の持つ力を否認したのであり、したがって、自らそう信じることによって、自分の思考力を無力化してしまったのです。

3. The ingeniousness of the ego to preserve itself is enormous, but it stems from the very power of the mind the ego denies.
自らの保身を図ることにかけては、エゴは並外れて創意に富んだ巧妙な手腕を持っています。しかし、その才覚は、エゴが否認する、まさにその心の力に由来するものです。
This means that the ego attacks what is preserving it, which must result in extreme anxiety.
これは、エゴが自らが拠って立つ基盤を攻撃することを意味するので、当然の帰結として極度の不安をもたらします。
That is why the ego never recognizes what it is doing.
それゆえに、エゴは自分が何をしているのか決して認識しようとはしません。
It is perfectly logical but clearly insane.
エゴは、完璧に論理的ではあっても、明らかに常軌を逸しています。
The ego draws upon the one source that is totally inimical to its existence for its existence.
エゴは、自らが存在するために、エゴの存在にとってまったく都合の悪い唯一の源に頼っているわけです。
Fearful of perceiving the power of this source, it is forced to depreciate it.
この源の力を知覚するのが恐ろしいために、エゴはその源を見くびることを余儀なくされます。
This threatens its own existence, a state which it finds intolerable.
自らが頼る源の力を軽視することはエゴそのものの存在を脅かすので、エゴはその状態に耐えきれなくなります。
Remaining logical but still insane, the ego resolves this completely insane dilemma in a completely insane way.
論理的でありつつも、依然として狂気に陥ったままのエゴは、この完全に狂気の沙汰である板挟み状態のジレンマを、完全に狂った方法で解決します。
It does not perceive its existence as threatened by projecting the threat onto you, and perceiving your being as nonexistent.
エゴは、その脅威をあなたに投影し、自らの源であるあなたの実在は存在しないと知覚することによって、自らの存在が脅威にさらされていると知覚しないようにするのです。
This ensures its continuance if you side with it, by guaranteeing that you will not know your own safety.
もしあなたがエゴに与するなら、この投影は、あなたが自分自身が安全であることを知らないままでいることを保証し、それによって、エゴの存続は確保されることになります。
4. The ego cannot afford to know anything.
何であれ、知るということは、エゴの能力の及ばないことです。
Knowledge is total, and the ego does not believe in totality.
知識は全体的なものですが、エゴは全体性を信じません。
This unbelief is its origin, and while the ego does not love you it is faithful to its own antecedents, begetting as it was begotten.
この全体性に対する不信こそがエゴを生み出した起源です。そして、エゴがあなたを愛することはありませんが、エゴは自らの出自には忠実で、自分が生み出されたように生み出します。
Mind always reproduces as it was produced.
これは、心とは必ず自分が生み出されたように再び生み出すものだからです。
Produced by fear, the ego reproduces fear.
恐れによって生み出されたので、エゴは恐れを再生産します。
This is its allegiance, and this allegiance makes it treacherous to love because you are love.
恐れを増殖させることこそ、エゴの忠誠であり、そして、この忠誠がエゴに愛を裏切らせます。なぜなら、あなたは愛だからです。
Love is your power, which the ego must deny.
愛こそあなたの力であり、それをエゴは否認しなければならないのです。
It must also deny everything this power gives you because it gives you everything.
この愛の力があなたにすべてのものを与えるのは確かなので、エゴはまた、その力があなたに与える一切のものをも否認せざるをえません。
No one who has everything wants the ego.
というのも、すべてを持っている者は、誰もエゴを必要としないからです。
Its own maker, then, does not want it.
したがって、エゴを自ら作り出した作り主に、エゴは必要ありません。
Rejection is therefore the only decision the ego could possibly encounter, if the mind that made it knew itself.
したがって、もしエゴを作り出した心が自分自身を知りさえすれば、エゴは、ただエゴを拒絶する決断に直面せざるをえなくなります。
And if it recognized any part of the Sonship, it would know itself.
そして、もしその心がどの部分であれ神の子全体の一部でも認識したなら、その心は自分自身を知ることになります。

5. The ego therefore opposes all appreciation, all recognition, all sane perception and all knowledge.
したがって、エゴは、真価を認めることのすべて、気づきのすべて、正気での知覚のすべて、そして知識のすべてに反対します。
It perceives their threat as total, because it senses that all commitments the mind makes are total.
エゴは、これらのことからの脅威を全面的なものとして知覚します。なぜなら、エゴは、心が関与することはすべて全面的なものだと感づいているからです。
Forced, therefore, to detach itself from you, it is willing to attach itself to anything else.
したがって、エゴは自分自身をあなたから引き離すことを余儀なくされるので、エゴ自身をあなた以外の何ものにでも喜んで結合させようとします。
But there is nothing else.
しかし、あなた以外に存在するものは何もありません。
The mind can, however, make up illusions, and if it does so it will believe in them, because that is how it made them.
それでも、心は幻想を作り出すことができるし、もし実際に心が幻想を作り出すなら、心はそんな幻想を信じこむことになります。なぜなら、信じるという方法によって、心は存在しないものが存在するという幻想を作りあげたわけだからです。
6. The Holy Spirit undoes illusions without attacking them, because he cannot perceive them at all.
聖霊は、攻撃することなく幻想を取り消します。なぜなら、聖霊は幻想をまったく知覚できないからです。
They therefore do not exist for him.
したがって、聖霊にとって幻想は存在しません。
He resolves the apparent conflict they engender by perceiving conflict as meaningless.
聖霊は、幻想が生み出す見かけ上の矛盾や衝突を、そんな葛藤など無意味だと知覚することによって解消します。
I have said before that the Holy Spirit perceives the conflict exactly as it is, and it is meaningless.
以前に述べたように、聖霊は、葛藤を正確にありのまま知覚します。そして、ありのままの葛藤は無意味なものです。
The Holy Spirit does not want you to understand conflict; he wants you to realize that, because conflict is meaningless, it is not understandable.
聖霊はあなたに、葛藤を理解してほしいと望んでいるわけではありません。聖霊は、ただあなたに、葛藤は無意味なので、葛藤は理解できないものだと悟ってほしいと望んでいるのです。
As I have already said, understanding brings appreciation and appreciation brings love.
すでに述べたことですが、理解することがその真価を認めて感謝することを導き、真価を認めて感謝することが愛することを導きます。
Nothing else can be understood, because nothing else is real and therefore nothing else has meaning.
それ以外のことは何ひとつ理解できるものではありません。なぜなら、そのほかのことは何ひとつ現実のものではないし、それゆえ、それ以外のことには何の意味もないからです。

7. If you will keep in mind what the Holy Spirit offers you, you cannot be vigilant for anything but God and his kingdom.
もし聖霊が自分に差し延べてくれるものをあなたが心に保ち続けようとするなら、あなたはただ神と神の王国にのみ注意を払おうとせずにはいられないはずです。
The only reason you may find this hard to accept is because you may still think there is something else.
あなたがこのことを受け入れがたく感じるとしたら、その理由はただひとつ、あなたが依然として、ほかにも関心を向けるべきものが何かあるはずだと思っていることだけです。
Belief does not require vigilance unless it is conflicted.
信念は、それが葛藤を起こしていないかぎりは、警戒を必要としません。
If it is, there are conflicting components within it that have led to a state of war, and vigilance has therefore become essential.
もし信念が衝突して葛藤を起こしているなら、その信念の中には矛盾する要素が入っていて、それらが紛争状態を導き、そのために、警戒が不可欠になったのです。
Vigilance has no place in peace.
平安の中では、警戒心に持ち場などありません。
It is necessary against beliefs that are not true, and would never have been called upon by the Holy Spirit if you had not believed the untrue.
警戒心が必要なのは真実ではない信念に対してであって、あなたが偽りを信じたりしなかったなら、決して聖霊によって警戒心が求められることもなかったはずです。
When you believe something, you have made it true for you.
あなたが何かを信じるとき、あなたは自分の信じるものを自分にとっての真実にしてしまいます。
When you believe what God does not know, your thought seems to contradict his, and this makes it appear as if you are attacking him.
神が関知しないことをあなたが信じたりすると、自分の思考が神の思考と矛盾しているように思うようになり、このことによって、まるで自分が神を攻撃しているかのように思えてきます。
8. I have repeatedly emphasized that the ego does believe it can attack God, and tries to persuade you that you have done this.
何度も強調してきたように、エゴは本当に自分には神を攻撃することができると信じていて、あなたに自分は現に神を攻撃したのだと信じさせようとします。
If the mind cannot attack, the ego proceeds perfectly logically to the belief that you must be a body.
もし心が攻撃できないとすれば、あなたは身体であるはずだと信じるほかない、とエゴは完璧に論理的に論を進めます。
By not seeing you as you are, it can see itself as it wants to be.
あなたをありのままに見ないでおくことによって、エゴは、エゴがそうありたいと望む通りにエゴ自身を見ることができます。
Aware of its weakness the ego wants your allegiance, but not as you really are.
自らの弱みを自覚しているので、エゴはあなたの忠誠心を望んでいます。しかし、それは本当のあなたとしての忠誠心ではありません。
The ego therefore wants to engage your mind in its own delusional system, because otherwise the light of your understanding would dispel it.
それゆえ、エゴはあなたの心をエゴ自身の妄想システムの中に取りこんでしまおうと望みます。なぜなら、そうしなければ、あなたの理解という光がエゴを払拭してしまうはずだからです。
It wants no part of truth, because the ego itself is not true.
エゴは真理など、ひとかけらも欲しいと思ってはいません。なぜなら、エゴそのものが真実ではないからです。
If truth is total, the untrue cannot exist.
もし真理が全体的なものであるなら、真実でないものが存在できるはずがありません。
Commitment to either must be total; they cannot coexist in your mind without splitting it.
真理または虚偽のどちらに関わり合うにせよ、それは全面的なものにならざるをえません。なぜなら、あなたの心を分裂させることなくして、真理と虚偽の双方があなたの心の中で共存することなどできないからです。
If they cannot coexist in peace, and if you want peace, you must give up the idea of conflict entirely and for all time.
もし真理と虚偽が平安のうちに共存することができないのであれば、そして、もしあなたが平安を望むのであれば、あなたは矛盾する想念を全面的に、それも永久に放棄しなければなりません。
While you believe that two totally contradictory thought systems share truth, your need for vigilance is apparent.
あなたがふたつのまったく相反する思考システムが真理を共有していると信じているかぎりは、あなたに警戒心が必要なのは言うまでもありません。

9. Your mind is dividing its allegiance between two kingdoms, and you are totally committed to neither.
あなたの心は、自らの忠誠心をふたつの王国に分割して捧げています。だから、あなたは、どちらに対しても全面的に忠誠を尽くしているとはいえません。
Your identification with the Kingdom is totally beyond question except by you, when you are thinking insanely.
あなたが王国と同一であることにはまったく疑いの余地はありません。ただし、あなたが狂気の考え方をしているときに、あなたがそのことを疑うことがありうるだけです。
What you are is not established by your perception, and is not influenced by it at all.
あなたがどう知覚するかによって、あなたが本当は何者なのかが定まるはずがないし、あなたがどう知覚するかによって少しでも影響されることはありません。
Perceived problems in identification at any level are not problems of fact.
いかなるレベルであろうとも、あなたのアイデンティティーに関して知覚される問題は、事実の問題ではありません。
They are problems of understanding, since their presence implies a belief that what you are is up to you to decide.
それは解釈の問題です。というのも、あなたがアイデンティティーに関して問題を抱えているということは、あなたが本当の自分が何者なのかは自分がどう考えるかによって決まると信じていることを暗黙の前提にしているからです。
The ego believes this totally, being fully committed to it.
エゴは完全にこの問題に没頭しているので、完全にあなたが何者なのかを決めるのはあなた次第だと信じきっています。
It is not true.
しかし、あなたの決断次第であなたの本質が決まるということが真実であるはずがありません。
The ego therefore is totally committed to untruth, perceiving in total contradiction to the Holy Spirit and to the knowledge of God.
したがって、エゴは完全に偽りに心奪われて、聖霊と神の知識とに全面的に矛盾する見方をしているのです。
10. You can be perceived with meaning only by the Holy Spirit because your being is the knowledge of God.
あなたの意味を知覚できるのは聖霊だけです。なぜなら、あなたが実在することは神の知識だからです。
Any belief you accept apart from this will obscure God's Voice in you, and will therefore obscure God to you.
どんな信念であれ、あなたが神の知る本当のあなたとは違う別の自分についての信念を受け入れるなら、それがあなたの内なる神の声を不明瞭にし、その結果、あなたには神のことがわからなくなってしまうでしょう。
Unless you perceive his creation truly you cannot know the Creator, since God and his creation are not separate.
神が創造したものをあなたが正しく知覚しないかぎり、あなたは大いなる創造主を知ることはできません。なぜなら、神と神の創造したものとは分離していないからです。
The Oneness of the Creator and the creation is your wholeness, your sanity and your limitless power.
創造主とその創造物とが一体であることこそ、あなたの完全さであり、あなたの正気であり、そして、あなたの無限の力なのです。
This limitless power is God's gift to you, because it is what you are.
この無限の力は神からあなたへの贈り物です。なぜなら、その無限の力こそ、本当のあなただからです。
If you dissociate your mind from it you are perceiving the most powerful force in the universe as if it were weak, because you do not believe you are part of it.
もしあなたが自分の心はそんな無限の力とは無縁のものだと考えるなら、あなたは、この宇宙で最も強大な力をまるで脆弱なものであるかのように知覚していることになります。なぜなら、あなたは自分がその強大な力の一部だとは信じていないことになるからです。

11. Perceived without your part in it, God's creation is seen as weak, and those who see themselves as weakened do attack.
自分が神の無限の力の一部ではないと知覚することは、神の創造物を脆弱なものとみなすことです。そして、自分が弱められたとみなす者たちが攻撃しようとするのは確かなことです。
The attack must be blind, however, because there is nothing to attack.
しかしながら、その攻撃は見境のないものにならざるをえません。なぜなら、攻撃すべきものなど何ひとつ存在しないからです。
Therefore they make up images, perceive them as unworthy and attack them for their unworthiness.
したがって、彼らは、自分でいろいろな虚像を作りあげては、それらを無価値なものと知覚して、その無価値さを理由にそれらの虚像を攻撃することになります。
That is all the world of the ego is.
エゴの世界とは、こんなものでしかありません。
Nothing.
無です。
It has no meaning.
エゴの世界は何の意味も持っていません。
It does not exist.
そんな世界は存在しないからです。
Do not try to understand it because, if you do, you are believing that it can be understood and is therefore capable of being appreciated and loved.
エゴの世界を理解しようとしてはなりません。なぜなら、もしあなたがそんなことをすれば、あなたはエゴの世界は理解可能であるし、したがって、エゴの世界に価値を認めて愛することもできると信じることになるからです。
That would justify its existence, which cannot be justified.
エゴの世界を理解しようとすることは、その世界の存在を正当なものとして根拠づけようとすることです。しかし、その世界の存在を正当化する余地などないのです。
You cannot make the meaningless meaningful.
あなたは無意味なものを意味あるものに変えることはできません。
This can only be an insane attempt.
そんなことは、狂気の試みでしかありません。
12. Allowing insanity to enter your mind means that you have not judged sanity as wholly desirable.
あなたの心に狂気が入りこむのを許すことは、あなたが正気でいることを完全に望ましいものとして価値判断しなかったことを意味します。
If you want something else you will make something else, but because it is something else, it will attack your thought system and divide your allegiance.
もしあなたが正気以外の何か別のものを望むなら、あなたは別の何かを作り出すことになります。しかし、それは正気ではない別のものだからこそ、あなたの作り出した狂気は、あなたの思考システムを攻撃して、あなたの忠誠心を分割することになります。
You cannot create in this divided state, and you must be vigilant against this divided state because only peace can be extended.
このように分割された状態においては、あなたは創造することができません。だから、あなたは、こんな分割された状態に対して警戒しなければなりません。なぜなら、平安のみが拡張されうるものだからです。
Your divided mind is blocking the extension of the Kingdom, and its extension is your joy.
あなたの分割された心が、王国の拡張を妨害しています。そして、王国を拡張することこそがあなたの喜びなのです。
If you do not extend the Kingdom, you are not thinking with your Creator and creating as he created.
もしあなたが王国を拡張しないなら、あなたは自分の大いなる創造主とともに思考していないし、神が創造したようには創造していないことになります。

13. In this depressing state the Holy Spirit reminds you gently that you are sad because you are not fulfilling your function as co-creator with God, and are therefore depriving yourself of joy.
こんな暗澹たる状況の中で、聖霊はあなたに次のことを優しく気づかせてくれます。それは、あなたが不幸なのは、あなたが神との共同創造者としての自分の役割を全うしておらず、そのために、自分自身で喜びを拒んでいるためなのだということです。
This is not God's choice but yours.
あなたが神の共同創造者としての役割を果たさずに不幸なままでいるのは、神が選んだことではなく、あなたが選んだことです。
If your mind could be out of accord with God's, you would be willing without meaning.
もしあなたの心が神の大いなる心と一致せずにいられたとしたら、あなたは意味もないままに意図していることになります。
Yet because God's Will is unchangeable, no conflict of will is possible.
しかし、神の大いなる意志は不変であるので、意志が矛盾することはまったく不可能です。
This is the Holy Spirit's perfectly consistent teaching.
これこそ聖霊の完璧に首尾一貫した教えです。
Creation, not separation, is your will because it is God's, and nothing that opposes this means anything at all.
分離ではなく創造することがあなたの意志です。なぜなら、創造こそ神の意志であり、このことに矛盾するものは何事であろうとまったく意味を持たないからです。
Being a perfect accomplishment, the Sonship can only accomplish perfectly, extending the joy in which it was created, and identifying itself with both its Creator and its creations, knowing They are One.
完璧に成就した存在であるがゆえに、全体としての神の子がひとつになることは、ただ完璧に成し遂げられうるのみです。その完璧な成就は、神の子が、自らがその中に創造された喜びを拡張させて、自分自身を創造主と創造物の両方と一体化させることによって、自らの創造主と自らが創造したものたちがひとつであると知ることを通してなされるのです。

