T14-10 奇跡の平等性
Some people come in our life as blessings. Some come in your life as lessons.
私たちの人生に、ある人々は祝福を与えるために登場し、別の人々は教訓を与えるために登場します。

Mother Teresa
マザー・テレサ
The way of the miracle-worker is to see all human behavior as one of two things: either love, or a call for love.
ミラクル・ワーカーが奇跡を起こす方法は、人の行動のすべてを、愛、もしくは愛を求める呼び声、このふたつのうちのどちらかとみなすという方法です。

Marianne Williamson
マリアン・ウィリアムソン
奇跡は愛からやってきます。
愛する心から出てくる解決には、制限がありません。愛への意志ーお互いを対等なものとみなす気持ちーこそ、あらゆる奇跡の後ろに隠された真髄です。

イエス・キリスト(ポール・フェリーニ著「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」140ページ)
Only two miracles are worth seeing:
見るに値する奇跡はふたつしかない。
The miracle of loving
愛という奇跡
And
そして、
The miracle of forgiving.
赦しという奇跡だ。

Sri Chinmoy
シュリ・チンモイ

今回はテキスト第十四章から「奇跡の平等性」という一節をご紹介します。
奇跡に難易度の序列はないこと
奇跡の平等性とは、いつも出てくる奇跡に難易度の序列はないという観念のことです。
「The power of God is limitless.
神の力は無限のものです。
And being always maximal, it offers everything to every call from anyone.
そして、神の力はつねに最大限のものなので、神の力は誰からのどんな呼び声に対しても、すべてを差し延べてくれます。
There is no order of difficulty here.
このことに関して、難しさの序列などありません。
A call for help is given help.
助けを求める呼び声には、助けが与えられるのです。
7. The only judgment involved is the Holy Spirit's one division into two categories; one of love, and the other the call for love.
そのために必要な唯一の価値判断は、 こうした呼び声をふたつのカテゴリーに振り分ける聖霊のなす唯一の区別だけです。カテゴリーの区分は、ひとつは愛、もうひとつは愛を求める呼び声です。
You cannot safely make this division, for you are much too confused either to recognize love, or to believe that everything else is nothing but a call for love.
あなたには間違わずにこの区別をすることができません。というのは、あなたはあまりに混乱しすぎていて、愛を見分けられないばかりか、愛以外のすべてのものが愛を求める呼び声にほかならないとは信じられないからです。」
T12-1 聖霊の審判が参考になると思います。
愛と奇跡
普通に私たちが用いる奇跡という言葉には、魔術的で神秘的な現象という常識の枠外の出来事というイメージがつきまとうばかりで、奇跡という言葉、概念が心に呼び覚ます一般的イメージとして、奇跡と愛を関連させて思い浮かべることは稀で、奇跡と愛は無関係だという捉え方をしている人も多いと思います。
しかし、コースを学ぶことで、私たちは、むしろ私たちのほうこそ魔術の幻惑による狂気に陥って、本来ひとつであるものがばらばらに分離している状態が真実だと誤信するという本来の現実認識からすればありえないほどの狂気に陥っていることを学んでいます。
正気を取り戻すなら、分離状態ではなく、現実である、すべてがひとつに結ばれた状態が知覚できるようになるはずであり、この正しい知覚が徐々に姿を現わす散発的な現象を奇跡と呼んでいるだけです。
したがって、私たちは、奇跡というものが、根拠が不明な、あるいは、偶像神頼みの不可思議な魔術によって神秘的な超常現象を呼び起こすことなどではなく、知覚が正しく働きはじめて、ありのままの状態を垣間見ることが起こっているのだと理解し始めています。
本当はひとつであるものを分裂したものとして知覚する錯覚の仕組み
このような私たちの理解、すなわち、奇跡とは、私たちにとっての「常識的な」時空間の制約が、愛の力で解かれて本来のひとつに結ばれた姿が垣間見える現象でしかないということを踏まえれば、奇跡についての捉え方は違ったものとなりえます。
それは、私たちにとってのデフォルト状態のほうが、ありのままの事実を捻じ曲げて作り出した虚構を知覚する錯覚状態にあるという自覚であり、奇跡と呼ばれる状態は、錯覚が解消して正しく知覚する状態であり、病んだ現状から健全な奇跡の自然状態に移行すべきだという発想の転換です。
サングラスをかけるとありのままの現実が色付きでしか見えなくなります。ARメガネを付けると拡張現実のイメージが現実に上書きされて二重写しになって見えることになります。
人がゾンビに見えるARメガネで見ると、愛すべき家族の笑顔が自分を襲うおぞましいゾンビの醜く歪んだ顔に見えることになります。
私たちというアバターの肉眼を通すと、本当はひとつの現実が分離した状態に見えることになります。
自分の身体内に投入したナノサイズの内視鏡を操縦して内視鏡のカメラから見える体内世界を体験しているうちに内視鏡に自己同一化して、そこから見える体内世界は自分の外にあると信じ込んでしまうと、自分であり自分が持つ身体すら自分にとっての自分ではない外部の世界と思えてしまうことになります。
この色眼鏡、ARグラス、内視鏡によって実際とは異なる像が見える仕組みはどれも、本来何の妨げもなくありのままに見える状態にフィルターを被せたり、見える対象を絞り込んだりして、本来の制限のない視界、視力、視座、等々を制限したり位置づけを変えたりするという縮小化によるものです。
縮小化は実在を間引きして、それによって生じる実在の不在を本物であるかのように見せかける方法でなされているまやかしでしかありません。
錯覚から脱する手段「赦し」
赦しという手段によって、この縮小化による錯覚を除去することによって、本当はありもしないメガネやカメラ越しに見えているだけの時空間の制約という虚構の覆いを取り去って、愛によってひとつに結ばれている本来の姿を露にする作用を知覚する現象を奇跡と称しているだけだということです。
そして、愛という実在が不在の状態を空想することによって幻の分離状態=罪が見えているわけだから、罪を実在しない幻想であると見極めて、その認識通りに看過する赦しをなすには愛が不可欠です。
いつも述べているように、この世界では、実在の反映に際して実在の不在が影として生まれ、実在と影があたかも同等の存在感を持って対立するかのごとき様相を呈するために、肉眼越しで見るかぎり、実在の反映と実在の不在の区別はつかないので、赦しをなそうにも、実在の不在である罪を本物として認識したうえで目こぼしする「許し」、滅びに至る許ししかできません。
真の赦しに愛は不可欠
真の赦しをなすには、罪その他の実在の不在が実在の欠けた状態であることを認識する必要があります。
そして、すべてが愛によってひとつに結ばれているという理解がないかぎり、実在の不在は、それが罪であれ、死であれ、争いであれ、物質であれ、その対極である本当にある実在が欠けたために生まれた影が形をなしたものでしかないということに気づくことは不可能です。
つまり、奇跡を起こす手段である赦しに不可欠な愛は、当然奇跡にとって本質的な要素であって、奇跡と愛は、切っても切れない関係にある、というよりも、実在する愛が狂気の幻想世界にこぼれ出す現象を奇跡と呼んでいるだけのことです。
そして、私たちは、本当は当たり前の状態であるはずの奇跡が起こらないのが常態である愛に欠ける恐れに満ちた状態にあることが普通で当たり前の幻想世界にいるために、たまに奇跡が垣間見える希少な状態を「奇跡」と名づけざるをえず、どうしても「奇跡」に非日常の稀有で神秘的な出来事という意味を持たせざるをえなくなっています。
しかし、奇跡の仕組みに照らせば、奇跡の定義に稀にしか起こりえない神秘という要素を加える必要はまったくなく、奇跡が起こるのが普通という状態のほうが、本来の現実に近いということになります。そして、神に最後の一歩を踏み出してもらって天国に帰還するために、幻想世界をこの奇跡が日常となる状態、つまり、地獄であるこの世界を天国へのスプリングボードである「真の世界」に様変わりさせるのがこのコースの目標です。
真理から見れば、私たちが奇跡の起こらないことが正常な世界に生きていることは、虚構、幻想を真実だと信じる狂気の沙汰なわけですが、愛によってこの壮大な解離性同一性障害を癒すまでは、私たちにとって奇跡は、私たちの常識どおり滅多に起こらないきわめて稀有な超常現象であり続けるでしょう。
愛と愛を求める哀訴
本節では、愛による癒しのためにコースが繰り返す、兄弟に関する大切な真理とそれに基づく兄弟に対してのスタンスが出てきます。
それは、誰の呼びかけも、愛に満ちた想いか愛を求める訴えかのどちらかだというのが真理だということです。

「7. The only judgment involved is the Holy Spirit's one division into two categories; one of love, and the other the call for love.
そのために必要な唯一の価値判断は、 こうした呼び声をふたつのカテゴリーに振り分ける聖霊のなす唯一の区別だけです。カテゴリーの区分は、ひとつは愛、もうひとつは愛を求める呼び声です。
You cannot safely make this division, for you are much too confused either to recognize love, or to believe that everything else is nothing but a call for love.
あなたには間違わずにこの区別をすることができません。というのは、あなたはあまりに混乱しすぎていて、愛を見分けられないばかりか、愛以外のすべてのものが愛を求める呼び声にほかならないとは信じられないからです。」
2つのカテゴリーだけで第3のカテゴリーはない
2文目の「あなたには間違わずにこの区別をすることができません。というのは、あなたはあまりに混乱しすぎていて、愛を見分けられないばかりか、愛以外のすべてのものが愛を求める呼び声にほかならないとは信じられないからです。」
の意味は少しわかりにくいかもしれません。
2つのカテゴリーだけであって、第3のカテゴリーはないということに要点があります。
つまり、愛に満ちた思い以外はすべて、無関心も、冷酷さも、攻撃も非難も全部が愛を求める哀訴に分類されるのであって、見せかけ通り、愛を拒絶する斥力、憎悪として評価すべきものはないということです。
これは、他者から受ける愛に満ちた対応以外については、無関心ならともかく、非難や攻撃については、私たちは素朴に額面通り求心力である愛の反対の恐れや憎悪といった排斥力として誤った解釈をしてしまいがちだということです。
それがどんなに悪意に満ちた獰猛な憎悪に満ちた非難攻撃であろうとも、その奥には愛を求める哀訴しかないということです。
なぜなら、実在するのは愛だけなのだから、愛の反対の姿をとるものは実在の不在であり、それは愛によってひとつに結ばれたいという愛を求める哀訴にほかならないということです。
そうだとすれば、愛に対して愛を返すという誰にでもできるリアクションだけでなく、攻撃に対して反撃ではなく愛で返すというリアクションも当然の反応となります。
つまり、非難や攻撃が実は兄弟からの愛を求める哀訴、助けてほしいという叫び声だとすれば、それに返すべきは当然愛だからです。
愛に満ちた呼びかけに対しては、愛を返すべきで、愛に欠ける呼びかけ、つまり非難や攻撃に対しても、愛で返すべきだということは、兄弟に対しては全面的に愛によるリアクションを返すべきだということです。
愛で応えるのは偽善でないどころかど真ん中の真実
これは観念的に頭だけで考えるとただのきれいごとでしかないように思え、単なる偽善のように響きます。
けれど、はたらく細胞的な観点で、自分の体内の細胞たちに置き換えてみれば、簡単にど真ん中の真実だとわかります。
神経の疾患による異常行動を起こす右腕が眼球をつぶそうとする動きをするからといって右腕を切り落とそうとするでしょうか。
脳が快感を求めて大好きな激辛中華を連日求めたせいで、直腸や肛門がただれて、もう勘弁してくれと訴えてもうこんな汚れ仕事やってられるか!と、ストライキを起こしているときに、脳が訴えを聞き入れるどころか、肛門様たちにさらに苦役を強いたとしたらどうなるでしょうか。
分離の目線で細胞や器官独自の観点に立つかぎり、それぞれの言い分というものはあるので、相手の身勝手な要求になど応じてはいられないということになり、言うことを聞かないなら相手に正義の鉄槌をくらわすのみだということになります。
けれど、人体の持ち主にアイデンティティーを置くなら、自分の身体の各部分から生じる非難や攻撃に相当する発熱や炎症反応といった現象は、自分たちを助けてほしいと愛を求める哀訴にほかなりません。
「12. The miracle is the recognition that this is true.
奇跡とは、これが真実だと認識することです。
Where there is love, your brother must give it to you because of what it is.
愛があるところでは、愛とはそういうものであるがゆえに、あなたの兄弟はあなたに愛を与えずにはいられません。
But where there is a call for love, you must give it because of what you are.
しかし、そこに愛を求める呼び声があるなら、愛こそがあなたの本質なのだから、あなたは愛を与えなければなりません。
Earlier I said this course will teach you how to remember what you are, restoring to you your Identity.
以前に私は、このコースはあなたに真のアイデンティティーを回復させて、本当のあなたが何者か思い出す方法をあなたに教えることになると述べました。
We have already learned that this Identity is shared.
私たちはすでに、この真のアイデンティティーが共有されていることを学びました。
The miracle becomes the means of sharing It.
奇跡は、この共有されている真のアイデンティティーを分かち合う手段となります。
By supplying your Identity wherever It is not recognized, you will recognize It.
あなたの真のアイデンティティーが認識されていないところがあれば、それがどこであろうと、あなたの真のアイデンティティーを差し延べることによって、あなたは本当の自分に気づくことになります。」

自分の内面でエゴに打ち克つ
手塚治虫先生の「どろろ」の百鬼丸が魔物を倒すたびに奪われていた身体を取り戻してゆくように、私たちは、敵とみなしていた兄弟の愛を求める呼び声に対して愛を与えて真のアイデンティティーを差し延べることで、自分であるのに解離していた本当の自分を取り戻してゆきます。

自分の敵にしか見えない兄弟に対して愛に基づく助けで返すという振る舞いができるためには、百鬼丸が魔物を倒すように、私たちは、まず、自分の内面で、兄弟を敵に見せるエゴという魔物を倒す戦いに勝たなければなりません。
もっとも、いつも述べているように、倒すといっても、エゴは実在しない幻なので、エゴの作り出した土俵に乗ってエゴとガチンコ勝負をしなければならないわけではなく、本質通りエゴが無であると見極めて、その本質通りに看過するという戦法であり、「戦う」という言い方は本当はふさわしくないところです。
救いの公式
形に惑わされて、攻撃に攻撃で返してしまうエゴですが、エゴが悪さをできるのは、私たちがひとりきりで価値判断して裁く場合だけです。
よく出てくる「救いの公式」がまた出てきます。
それは、「But your remembering is his, for God cannot be remembered alone.
しかし、神をひとりきりで思い出すことはできないので、神の子が霧に力を与えることで自分たちがひとつであることを忘れていたのだと、あなたが思い出すことによって、その兄弟も自分たちがひとつだと思い出すことになります。
This is what you have forgotten.
独力では神を思い出せないことこそ、まさにあなたが忘れてしまっていることです。
To perceive the healing of your brother as the healing of yourself is thus the way to remember God.
このようにして、自分の兄弟が癒されることが自分自身が癒されることだと知覚することが、神を思い出す方法なのです。」
(T12-2 神を思い出す方法)
「Separation therefore remains the ego's chosen condition.
したがって、エゴが選ぶのは分離状態のままです。
For no one alone can judge the ego truly.
というのは、ひとりきりでは、誰も、エゴを正しく価値判断できないからです。
Yet when two or more join together in searching for truth, the ego can no longer defend its lack of content.
しかし、ふたり以上の者たちが心を合わせて真理を探求するなら、エゴはもはや自らの内容の欠落を弁護できなくなります。
The fact of union tells them it is not true.
彼らが心をひとつに結び合せたという事実が、彼らにエゴは本当にあるものではないと示すことになるからです。
10. It is impossible to remember God in secret and alone.
密かに自分ひとりだけで神を思い出そうとしても、それは不可能です。
For remembering him means you are not alone, and are willing to remember it.
なぜなら、神を思い出すことは、あなたがひとりきりではないことを意味し、自発的に自分がひとりきりではないことをあなたが思い出そうと意欲することを意味するからです。
Take no thought for yourself, for no thought you hold is for yourself.
どんな思いでも、それを自分だけで思考しているものと捉えてはなりません。なぜなら、あなたが自分だけで抱く思いはひとつもないからです。
If you would remember your Father, let the Holy Spirit order your thoughts and give only the answer with which he answers you.
もしあなたが自らの大いなる父を思い出したいのなら、聖霊に自分の思考を秩序立ててもらい、そのうえで、聖霊があなたに答えてくれる答えだけを兄弟に与えるようにしてください。
Everyone seeks for love as you do, but knows it not unless he joins with you in seeking it.
誰もがみな、あなたが愛を探し求めるのと同じように愛を探し求めています。しかし、あなたと一緒に愛を探求するようにならないかぎり、誰も愛を知ることはありません。
If you undertake the search together, you bring with you a light so powerful that what you see is given meaning.
もしあなたたちが一緒に愛の探求に取り組むなら、あなたたちは本当に強力な光を携えてゆくことになるので、あなたたちが目にするものに意味が与えられます。
The lonely journey fails because it has excluded what it would find.
ひとりきりで辿る旅が失敗に終わるのは、孤独な旅では、その旅で見つけようとする愛があらかじめ排除されてしまっているからです。」
実在の不在に対するスタンスは、本質である無として無視する
I will never attend an anti-war rally. If you have a peace rally, invite me.
私は決して反戦集会には参加しません。もしあなたが平和集会を開くなら、ぜひ私を招待してください。
という冒頭のマザー・テレサの言葉は、実在と実在の不在に名前をつけた対概念、つまり、愛と怖れについてのマザーの理解を象徴しています。
去らせるべきは実在の不在が形をなした無なのだから、無に対してはその実体どおり無視し、あるべき実在をあらしめると。

テキスト第十四章
X. The Equality of Miracles
十 奇跡の平等性
1. When no perception stands between God and his creations, or between his children and their own, the knowledge of creation must continue forever.
神と神の創造物との間、それに、神の子供たちと彼らの子供たちとの間にいかなる知覚も介在しなければ、創造の知識を永遠に維持できるはずです。
The reflections you accept into the mirror of your mind in time but bring eternity nearer or farther.
あなたが時間の中で自分の心の鏡の中に映し出すものとして何を受け入れるかによって、永遠を近づけることにも遠ざけることにもなります。
But eternity itself is beyond all time.
ただし、永遠それ自体は、まったく時間を超越しています。
Reach out of time and touch it, with the help of its reflection in you.
あなたの中にある永遠なるものを反映する存在の助けを受けて時間から抜け出して、手を伸ばして永遠なるものに触れなさい。
And you will turn from time to holiness, as surely as the reflection of holiness calls everyone to lay all guilt aside.
そうすれば、あなたは確実に時間から聖なるものに心を向け変えるでしょう。それは、聖なるものを反映する存在が、すべての者に罪悪感を放棄するよう呼びかけるのと同じくらい疑いのないことです。
Reflect the peace of Heaven here, and bring this world to Heaven.
天国の平安をこの地上に反映させて、この世界を天国へと導いてください。
For the reflection of truth draws everyone to truth, and as they enter into it they leave all reflections behind.
というのも、真理を反映する者は、みんなをひとり残らず真理へと引き寄せるからです。そして、彼らが天国へと入るとき、彼らはすべての反映をあとに残してゆくのです。

2. In Heaven reality is shared and not reflected.
天国では、現実は反映されているのではなく、共有されています。
By sharing its reflection here, its truth becomes the only perception the Son of God accepts.
この地上で天国の現実を反映するものを共有することによって、神の子は天国が現実だという真理だけを知覚するようになります。
And thus, remembrance of his Father dawns on him, and he can no longer be satisfied with anything but his own reality.
こうして、自らの大いなる父の記憶が神の子によみがえってくると、彼はもはや本当の自分以外の何ものにも満足できなくなってきます。
You on earth have no conception of limitlessness, for the world you seem to live in is a world of limits.
地上にいるあなたには無限という概念はまったく理解の及ばないものです。というのも、あなたが生きているように思えるこの世界は制限からなる世界だからです。
In this world, it is not true that anything without order of difficulty can occur.
この世界では、どんな物事でも難易度の序列なくして起こりうるというのは真実ではありません。
The miracle, therefore, has a unique function, and is motivated by a unique Teacher Who brings the laws of another world to this one.
それゆえにこそ、奇跡には独自の役割があるのだし、奇跡は、別の世界の法則をこの世界にもたらす唯一の大いなる教師によって引き起こされるのです。
The miracle is the one thing you can do that transcends order, being based not on differences but on equality.
あなたが難易度の序列に関わりなくなしうる唯一のことは奇跡だけです。それは、奇跡が相違ではなく平等性に基盤を置いているからです。
3. Miracles are not in competition, and the number of them that you can do is limitless.
奇跡同士が競合することはないし、あなたが起こせる奇跡の数にも制限はありません。
They can be simultaneous and legion.
奇跡は、一斉に、そして、無数に起こすこともできます。
This is not difficult to understand, once you conceive of them as possible at all.
ひとたびあなたが奇跡を起こすことは可能だと少しでも思うことさえできれば、このことを理解するのはさして難しいことではありません。
What is more difficult to grasp is the lack of order of difficulty that stamps the miracle as something that must come from elsewhere, not from here.
これよりも理解するのが難しいのは、奇跡に難しさの程度がないことです。難しさに程度がないことは、奇跡が間違いなく、この世界ではなく、どこか別のところから訪れるものであることを示す印です。
From the world's viewpoint, this is impossible.
この世界の観点からすれば、難しさに程度の差がないなど、ありえないことだからです。

4. Perhaps you have been aware of lack of competition among your thoughts, which even though they may conflict, can occur together and in great numbers.
たぶん、あなたはすでに自分のさまざまな思考の間には、互いに限られた座を巡って競り合うような関係性がないことに気づいているでしょう。あなたのさまざまな思考は、たとえ相互に矛盾することはあっても、いろんな思考が一緒に数多く生じることは可能です。
You may indeed be so used to this that it causes you little surprise.
実際のところ、あなたはいろんな思考が同時に多発することにすっかり慣れ親しんでいるので、そんなことには少しも驚かないかもしれません。
Yet you are also used to classifying some of your thoughts as more important, larger or better, wiser, or more productive and valuable than others.
しかし、あなたはまた、自分の思考のうちのあるものをほかの思考に比べて、より重要だ、より重大だ、より優れている、より賢明だ、より生産的だ、より貴重だ、というふうに分類し等級づけすることにも馴染んでいます。
This is true of the thoughts that cross the mind of those who think they live apart.
このことは、別々に分離して生きていると思っている者たちの心をよぎる思考にあてはまる真実です。
For some are reflections of Heaven, while others are motivated by the ego, which but seems to think.
なぜなら、それらの思考のうちのいくつかは天国の反映であり、ほかの思考はエゴによって引き起こされたものだからです。エゴが引き起こす思考は、単に考えているように見えているだけです。
5. The result is a weaving, changing pattern that never rests and is never still.
その帰結はと言えば、右顧左眄し、決して休息も静止もしない変転の繰り返しです。
It shifts unceasingly across the mirror of your mind, and the reflections of Heaven last but a moment and grow dim, as darkness blots them out.
そのような思いは、あなたの心の鏡を絶え間なく横切り、一瞬の間、天国が映し出されたかと思えば、次の瞬間には闇がその像を消し去って、はっきり見えなくしてしまいます。
Where there was light, darkness removes it in an instant, and alternating patterns of light and darkness sweep constantly across your mind.
光があった場所を一瞬のうちに闇が覆って光を消し去り、光と闇が交互に入れ替わって明滅するパターンが絶え間なくあなたの心に去来します。
The little sanity that still remains is held together by a sense of order that you establish.
まだ残っているわずかばかりの正気は、あなたが確立する秩序の感覚によってかろうじて保たれています。
Yet the very fact that you can do this, and bring any order into chaos shows you that you are not an ego, and that more than an ego must be in you.
しかし、秩序の感覚によって何とか正気を確保して、混乱状態に何らかの秩序をもたらすことがあなたにできているという、まさにこの事実が、あなたはエゴではないし、エゴ以上の存在があなたの中にいるに違いないことを物語っています。
For the ego is chaos, and if it were all of you, no order at all would be possible.
というのは、エゴはまさに混沌であり、もしあなたがエゴだけで成り立っていたとしたら、いかなる秩序もありえないはずだからです。
Yet though the order you impose upon your mind limits the ego, it also limits you.
もっとも、あなたが自分の心に課す秩序は、エゴを制限する半面で、同時にあなた自身をも制限することになります。
To order is to judge, and to arrange by judgment.
序列を設けて秩序立てることは物事を価値判断して裁き、その裁きに従って序列づけすることだからです。

6. It will seem difficult for you to learn that you have no basis at all for ordering your thoughts.
あなたにとっては、自らの思考を秩序づけるための基準を自分はまったく持ち合わせていないと学ぶのは困難に思えるはずです。
This lesson the Holy Spirit teaches by giving you the shining examples of miracles to show you that your way of ordering is wrong, but that a better way is offered you.
聖霊は、奇跡という明白な手本をあなたに与えることによって、あなたにこのレッスンを教えてくれます。それは、あなたの秩序づけの仕方が間違っていることを示し、よりよい方法があなたに差し延べられていることをあなたに教えるためです。
The miracle offers exactly the same response to every call for help.
奇跡は、助けを求めるどんな呼び声にも、まったく同じ反応を示します。
It does not judge the call.
奇跡は、その呼び声の価値を判断しません。
It merely recognizes what it is, and answers accordingly.
奇跡は単に、その呼び声をありのままに認識し、それに従って答えるだけです。
It does not consider which call is louder or greater or more important.
奇跡は、どの呼び声がより大きな声で求められたかとか、より崇高かとか、より重要かいったことを考慮しません。
You may wonder how you who are still bound to judgment can be asked to do that which requires no judgment of your own.
あなたは、いまだに価値判断に束縛されている自分に、どうして自分自身の価値判断をまったく必要としないことをするように求められるのだろうかと疑問を抱くかもしれません。
The answer is very simple.
その答えは実にシンプルです。
The power of God, and not of you, engenders miracles.
それは、奇跡を生じさせるのは、あなたの力ではなく、神の力だからです。
The miracle itself is but the witness that you have the power of God in you.
奇跡そのものは単に、あなたが自分の中に神の力を持っていることの証左でしかありません。
That is the reason why the miracle gives equal blessing to all who share in it, and that is also why everyone shares in it.
これが、奇跡を共有する者たち全員を奇跡が平等に祝福する理由です。そして、それはまた、すべての者たちが奇跡を共有する理由でもあります。
The power of God is limitless.
神の力は無限のものです。
And being always maximal, it offers everything to every call from anyone.
そして、神の力はつねに最大限のものなので、神の力は誰からのどんな呼び声に対しても、すべてを差し延べてくれます。
There is no order of difficulty here.
このことに関して、難しさの序列などありません。
A call for help is given help.
助けを求める呼び声には助けが与えられるからです。
7. The only judgment involved is the Holy Spirit's one division into two categories; one of love, and the other the call for love.
そのために必要な唯一の価値判断は、 こうした呼び声をふたつのカテゴリーに振り分ける聖霊のなす唯一の区別だけです。カテゴリーの区分は、ひとつは愛、もうひとつは愛を求める呼び声です。
You cannot safely make this division, for you are much too confused either to recognize love, or to believe that everything else is nothing but a call for love.
あなたには間違わずにこの区別をすることができません。というのは、あなたはあまりに混乱しすぎていて、愛を見分けられないばかりか、愛以外のすべてのものが愛を求める呼び声にほかならないとは信じられないからです。
You are too bound to form, and not to content.
あなたはあまりにも、内容ではなく、形に捉われすぎているのです。
What you consider content is not content at all.
あなたが内容だと思いこんでいるものは、とても内容と呼べる代物ではありません。
It is merely form, and nothing else.
それは単なる形でしかないし、それ以外の何ものでもありません。
For you do not respond to what a brother really offers you, but only to the particular perception of his offering by which the ego judges it.
というのは、あなたは兄弟があなたに真に差し延べているものには反応せずに、ただ兄弟が差し出しているとエゴが判断する具体的な知覚に対して反応しているだけだからです。

8. The ego is incapable of understanding content, and is totally unconcerned with it.
エゴは内容を理解することができないので、内容にはまったく関心を持ちません。
To the ego, if the form is acceptable the content must be.
エゴにとっては、もし形が満足のいくものであれば、中身も満足できるに違いないのです。
Otherwise it will attack the form.
形が気に入らない場合には、エゴはその形を攻撃します。
If you believe you understand something of the "dynamics" of the ego, let me assure you that you understand nothing of it.
もしあなたが自分はエゴの「力学」を多少なりとも理解していると信じているなら、あなたがエゴの力学を何ひとつ理解していないのは間違いないと私が請け合いましょう。
For of yourself you could not understand it.
なぜなら、自分ひとりだけでは、あなたにエゴの力学を理解することはできないからです。
The study of the ego is not the study of the mind.
エゴを研究しても、それは心を学ぶことにはなりません。
In fact, the ego enjoys studying itself, and thoroughly approves the undertakings of students who would "analyze" it, thus approving its importance.
実際のところ、エゴは喜んでエゴ自体について研究します。そして、生徒たちがエゴの「分析」を試みることは、エゴの重要性を承認することなので、エゴはその試みに諸手を挙げて賛同します。
Yet they but study form with meaningless content.
しかし、生徒たちは無意味な中身の入れ物の形態を研究することにしかなりません。
For their teacher is senseless, though careful to conceal this fact behind impressive sounding words, but which lack any consistent sense when they are put together.
こうなるのは、生徒たちを教える教師が無意味な存在だからです。教師としてのエゴは、印象的な響きを持つ言葉を並べ立てて、自分に中身がないという事実を注意深く隠そうとします。しかし、それらの言葉をまとめてつなぎ合わせても、首尾一貫した意味など何もないのです。
9. This is characteristic of the ego's judgments.
この一貫性の欠如は、エゴの価値判断に特徴的なものです。
Separately, they seem to hold, but put them together and the system of thought that arises from joining them is incoherent and utterly chaotic.
すなわち、一つひとつ切り離してみるかぎり、エゴの価値判断には意味があるように思えますが、それらを一緒にまとめてひとつに結び合せたものから浮き彫りになる思考システムは、一貫性に欠け、完全に支離滅裂なものです。
For form is not enough for meaning, and the underlying lack of content makes a cohesive system impossible.
なぜなら、形だけでは意味をなすには不十分だし、根本的な内容の欠落が、まとまりをもった体系化を不可能にしているからです。
Separation therefore remains the ego's chosen condition.
したがって、エゴが選ぶのは分離状態のままです。
For no one alone can judge the ego truly.
というのは、ひとりきりでは、誰も、エゴを正しく価値判断できないからです。
Yet when two or more join together in searching for truth, the ego can no longer defend its lack of content.
しかし、ふたり以上の者たちが心を合わせて真理を探求するなら、エゴはもはや自らの内容の欠落を弁護できなくなります。
The fact of union tells them it is not true.
彼らが心をひとつに結び合せたという事実が、彼らにエゴは本当にあるものではないと示すことになるからです。

10. It is impossible to remember God in secret and alone.
密かに自分ひとりだけで神を思い出そうとしても、それは不可能です。
For remembering him means you are not alone, and are willing to remember it.
なぜなら、神を思い出すことは、あなたがひとりきりではないことを意味し、自発的に自分がひとりきりではないことをあなたが思い出そうと意欲することを意味するからです。
Take no thought for yourself, for no thought you hold is for yourself.
どんな思いでも、それを自分だけで思考しているものと捉えてはなりません。なぜなら、あなたが自分だけで抱く思いはひとつもないからです。
If you would remember your Father, let the Holy Spirit order your thoughts and give only the answer with which he answers you.
もしあなたが自らの大いなる父を思い出したいのなら、聖霊に自分の思考を秩序立ててもらい、そのうえで、聖霊があなたに答えてくれる答えだけを兄弟に与えるようにしてください。
Everyone seeks for love as you do, but knows it not unless he joins with you in seeking it.
誰もがみな、あなたが愛を探し求めるのと同じように愛を探し求めています。しかし、あなたと一緒に愛を探求するようにならないかぎり、誰も愛を知ることはありません。
If you undertake the search together, you bring with you a light so powerful that what you see is given meaning.
もしあなたたちが一緒に愛の探求に取り組むなら、あなたたちは本当に強力な光を携えてゆくことになるので、あなたたちが目にするものに意味が与えられます。
The lonely journey fails because it has excluded what it would find.
ひとりきりで辿る旅が失敗に終わるのは、孤独な旅では、その旅で見つけようとする愛があらかじめ排除されてしまっているからです。
11. As God communicates to the Holy Spirit in you, so does the Holy Spirit translate his communications through you, so you can understand them.
神はあなたの中にいる聖霊に自らの意志を伝え、聖霊はあなたを通して神のコミュニケーションを翻訳してくれるので、あなたにも神のコミュニケーションが理解できるようになります。
God has no secret communications, for everything of him is perfectly open and freely accessible to all, being for all.
神が秘密裡にコミュニケーションを行うことは一切ありません。なぜなら、神に由来する一切のものは、全員のためのものなので、完全に開放され、誰もが自由にアクセスできるようになっているからです。
Nothing lives in secret, and what you would hide from the Holy Spirit is nothing.
秘かに生きているものなど何もありません。だから、あなたは無を聖霊の目から隠そうとしているわけです。
Every interpretation you would lay upon a brother is senseless.
ある兄弟についてあなたがどのような解釈をしようとも、そんなものは無意味です。
Let the Holy Spirit show him to you, and teach you both his love and his call for love.
聖霊にその兄弟を見せてもらい、彼の愛と彼の愛を求める呼び声の両方を教えてもらいなさい。
Neither his mind nor yours holds more than these two orders of thought.
兄弟の心もあなたの心も、この愛と愛を求める呼び声のふたつのカテゴリーに分類できない思いを抱くことはありません。

12. The miracle is the recognition that this is true.
奇跡とは、これが真実だと認識することです。
Where there is love, your brother must give it to you because of what it is.
愛があるところでは、愛とはそういうものであるがゆえに、あなたの兄弟はあなたに愛を与えずにはいられません。
But where there is a call for love, you must give it because of what you are.
しかし、そこに愛を求める呼び声があるなら、愛こそがあなたの本質なのだから、あなたは愛を与えなければなりません。
Earlier I said this course will teach you how to remember what you are, restoring to you your Identity.
以前に私は、このコースはあなたに真のアイデンティティーを回復させて、本当のあなたが何者か思い出す方法をあなたに教えることになると述べました。
We have already learned that this Identity is shared.
私たちはすでに、この真のアイデンティティーが分かち合われていることを学びました。
The miracle becomes the means of sharing It.
奇跡は、この共有されている真のアイデンティティーを分かち合う手段となります。
By supplying your Identity wherever It is not recognized, you will recognize It.
あなたの真のアイデンティティーが認識されていないところがあれば、それがどこであろうと、あなたの真のアイデンティティーを差し延べることによって、あなたは本当の自分に気づくことになります。
And God himself, Who wills to be with his Son forever, will bless each recognition of his Son with all the love he holds for him.
そして、わが子に気づいてもらえるたびに、永遠に子とともに在ることを意図する神自身が、わが子に対して抱く愛のすべてをもって祝福してくれるでしょう。
Nor will the power of all his love be absent from any miracle you offer to his Son.
それに、あなたが神の子に捧げるどの奇跡にも、神の愛のすべての力が伴わないはずがありません。
How, then, can there be any order of difficulty among them?
そうだとすれば、どうして奇跡の間に難しさの序列など存在しうるでしょうか。

