レッスン18「私が見ることの結果を体験するのは私だけではない」


私たちが非存在であると教えるために、神自らが非存在となった。

シモーヌ・ヴェイユ

Simone Weil
シモーヌ・ヴェイユ



無である人は幸いなるかな!



Jiddu Krishnamurti
ジッドゥ・クリシュナムルティ

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「おまえはあっちで何になるかってたずねたな。それじゃきくがね、おまえはこっちでいったいなんなのかよ、え? おまえたちファンタージエンの生きものってのは、なんなんだい? 夢に描かれたものにすぎんじゃないか。詩の世界のつくりもの、はてしない物語の中の登場人物!おまえは自分が実在するものだと思ってんのか? ぼうず。まあ、それもいい。このおまえらの国にいる間はそうだろうよ。しかしな、虚無に入りこんでいっちまえば、もうそうじゃなくなるんだぜ。もうおまえという見わけはつかなくなるのよ。別の世界にいるんだからな。そこじゃ、今のおまえらとは似ても似つかぬものになる。つまりな、幻想になったり目くらましになったりして人間世界に入りこむんだ。虚無にとびこんでったこの化け物の町の連中があっちで何になるか、あててみな、ぼうず。」
「わからない。」アトレーユは口ごもった。
「連中はな、人間の頭の中の妄想になるんだ。ほんとは怖れる必要なんかなんにもないのに、不安がっていろんな思いを持つようにさせたり、自分自身をだめにしちまうものなのに、まさにそれを欲しがる欲望を持たせたり、実のところ絶望する理由なんかないのに絶望だと思いこませたりするんだ。」
「われわれみんな、そうなるのだろうか?」アトレーユはぞっとしてたずねた。
「そういうわけでもねえな。」グモルクは答えた。
「妄想にも目くらましにもいろんなのがあらあな。こっちでおまえらがどうかによって、あっちでも変わってくる。きれいなものはきれいな虚偽に、みにくいものはみにくい虚偽に、ばかなものはばかな、賢いものは賢い虚偽になるってことよ。」
「それで、わたしは、わたしは何になるのだ?」アトレーユはさらにたずねた。グモルクはにやりとしていった。
「そりゃ、やめとくよ、ぼうず。どうせわかるじゃねえか。いや、むしろどうせわからんのだからというべきかな。あっちじゃ、おまえはもうおまえじゃねえんだからよ。」
アトレーユはだまったまま、目をかっと見開いて人狼をにらんだ。
グモルクがまたいった。
「だから、人間どもはファンタージエンとそこからくるものをみんな憎み、怖れるんだよ。やつら、そういうものを亡ぼしちまうつもりだぜ。まさにそれが、人間世界にひっきりなしに流れこんでくる虚偽をどんどんふやしてるんだってことには気がつかねえんだな。ファンタージエンの生きものの、もう見わけもつかなくなったなれのはてである虚偽の氾濫だ。ファンタージエンの生きものは、あっちで生ける屍になって虚の存在を生きねばならん。その屍の腐ったにおいが、人間の魂を毒してるんだ。やつら、そのことを知らねえんだぜ。おもしろいじゃないか、え?」

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Michael Ende
ミヒャエル・エンデ(「はてしない物語」より)

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レッスン18です。

「私が見ることの結果を体験するのは私だけではない」が今日のテーマです。


物語の主人公「私」の体験を読者も体験している

個人が見ることの結果を体験するのがその個人だけではない、という仕組みが、小説や映画等の物語の主人公にあてはまることは簡単にわかります。

物語の主人公である架空の人物当人は、まさか自分の体験していることが異世界にいる私たちのような多くの読者や鑑賞者によって追体験されて自分の人生が悲喜劇の娯楽として消費されているなどとは、露ほども思うことなく、自覚なしに自分が存在する物語世界で自分に割り振られた役目を懸命に演じています。

今日のレッスンは、この仕組みが私たちにも同じようにあてはまることを示しています。

つまり、私たちも自分の人生という夢物語の主人公だということです。

特定の物語をいろんな人々が映画や小説を観たり読んだりしても、誰もが主人公である「私」の体験を同じように追体験して味わうことができるという事実は、各人の中にいる「私」が別々の存在ではなく、共通の同じ存在であることを物語っています。

まるで電気がいろんな電化製品として機能するように、大いなる生命は、さまざまな個性を持つ人間のキャラクターを「私」として機能させます。

個別の分離した心があるというのが錯覚で、ひとつの心しかないというのが真実です。

そうだとすれば、「私が見ることの結果を体験するのは私だけではない」ということは当然のことになります。





エゴにとって奇跡が不自然な現象で、聖霊にとっては自然な現象であるわけは?

「Miracles seem unnatural to the ego because it does not understand how separate minds can influence each other.
 エゴには、奇跡が不自然なものに見えます。なぜなら、エゴは、どのようにして分離している個々の心がお互いに影響し合うことができるのか理解できないからです。

 Nor could they do so.
 たしかに個々の分離した心には、相互に影響し合うことなどできません。

 But minds cannot be separate.
 そうではなくて、そもそも心が別々に分離していること自体がありえないのです。

 This other self is perfectly aware of this.
 このもうひとつの自己は、このことを完全に自覚しています。

 And thus it recognizes that miracles do not affect another's mind, only its own.
 したがって、この自己は、奇跡は他者の心に影響を及ぼすのではなくて、ただ自らの心に影響するだけだと気づいています。

 There is no other.
 ほかの心など存在しないからです。」(T21-5 理性の働き 3.)




私たちが物語の主人公と同じだということが本当だとしたら?

さて、もし私たちが物語の主人公と同じだということが本当だとしたら、私たちはどう感じ、私たちの生き方はどう変わるでしょうか?

プライバシーを侵害されたようで恥ずかしいという素朴な感覚はもちろんあるでしょうが、そんなことは、人間が生き物としての欲求や願望に駆られてやることなんてみんな似たり寄ったりで大した違いがあるわけではないので、いったん脇に置いておきましょう(アバター(化身)とアバターを用いる本人との関係性については、T12-3 現実への投資で犬と飼い主、ドローンと操縦者と準えて述べていますので、ご覧ください。結論としては、恥じるべきことがあるとすれば、それはアバターの暴走を制御できなかった主人としての自分の不甲斐なさだけです。)。

私たち一人ひとりの人生は、神の子、そして、その分霊である無数の魂たちが再生して追体験する立体映像コンテンツのようなものだということになります。

ネットフリックスやアマゾン・プライム・ビデオ等々の膨大な映像コンテンツの映画やドラマシリーズの主人公たちの役目は、視聴者の注意を引いて、自らに自己同一化させて、視聴者がテレビ画面の前から離れずに、次から次へと面白い作品を渡り歩くようにして、視聴者をコンテンツ視聴に没頭させることに尽きます。


デフォルトのエゴモードとオプションの聖霊モード

私たちの役目も、エゴに従うかぎり、多様な人生ドラマのひとつの主人公を演じて、魂がばらばらに自分の興味に沿うキャラクターの人生を味わって、自分たちが本当はひとつに結ばれた神の子だということを思い出さないまま輪廻転生を繰り返すよう、魂を地上に縛りつけることに奉仕することにあるということなります。

エゴに従う場合に、人気の出るコンテンツは、当然、性描写やバイオレンス描写満載の過激な復讐劇のような愛憎劇、浮き沈みの激しい心揺さぶられるようなドラマです。

そして、そのドラマの主人公は、読者や視聴者を自分に自己同一化させて現実を忘れて没頭させる強烈なエゴを持ってぐいぐいと物語世界に引きずり込まなければなりません(このテーマについては、T11-7 現実の条件をご覧ください)。

これに対して、聖霊に従う場合、エゴの没入による面白さに対して、鳥瞰やX線透視による種明かしの面白さと、明かされる真実による神聖な愛に満ちた平安という次元の異なる満足感が魅力となり、主人公の役目は、読者や視聴者に自分が主人公であることを自覚させ、主人公の人生を追体験している自分と主人公は同じではない、本当の自分は主人公のキャラクターとは別にいるに違いないということに気づかせるよう、脇に引き下がって案内役に徹することが役目となります。


アトレーユのように




聖霊に従う私たちの役目は、はてしない物語で、物語世界ファンタージエンの英雄アトレーユが、物語の前半では、主人公として大いなる冒険を潜り抜けたけれど、後半では、自分がファンタージエンに連れてきた人の子バスチアンが現実に帰還できるように脇役に徹して捨て身で友であるバスチアンを助けたように、神の子の友となり、現実の記憶の喪失と引き換えに多様な願望を満たそうとしてきた結果、自分を分裂させて個別の存在になりきっている神の子が本当の自分を思い出し、個々の肉体、魂という牢獄から解放されて、父なる神の下へと帰還できるよう奉仕することになります。


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このテーマについては、T11-7 現実の条件のエッセイが参考になると思います。




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Workbook Lesson 18

I am not alone in experiencing the effects of my seeing.
私が見ることの結果を体験するのは私だけではない。





I am not alone in experiencing the effects of my seeing.
私が見ることの結果を体験するのは私だけではない。



1. The idea for today is another step in learning that the thoughts which give rise to what you see are never neutral or unimportant.
 今日の考えは、あなたが見ているものを生じさせている思考が、決して中立なものでも取るに足らないものでもないことを学ぶためのもうひとつのステップです。

 It also emphasizes the idea that minds are joined, which will be given increasing stress later on.
 この考えはまた、個々の心がひとつに結ばれていることをはっきり示しており、このことは後々、ますます強調されてゆきます。



2. Today's idea does not refer to what you see as much as to how you see it.
 今日の考えは、あなたが何を見るかではなく、あなたがそれをどのように見るのかに関するものです。

 Therefore, the exercises for today emphasize this aspect of your perception.
 それゆえ、今日の練習は、あなたの知覚の中でも物の見方に重点を置いています。

 The three or four practice periods which are recommended should be done as follows:
 3、4回くらいが望ましいですが、実習時間は次のように行うようにしてください。



3. Look about you, selecting subjects for the application of the idea for today as randomly as possible, and keeping your eyes on each one long enough to say:
 自分の周囲を見回し、今日の考えを適用する対象をできるだけ無作為に選びながら、あなたの目線を一つひとつの物に十分な長さで留めたまま、次のように言ってください。


I am not alone in experiencing the effects of how I see ______ .
私が(   )のことをどのように見るかということの結果を体験するのは、私だけではない。


 Conclude each practice period by repeating the more general statement:
 一つひとつの実習を次のように、より一般的な宣言を繰り返すことによって締めくくってください。


I am not alone in experiencing the effects of my seeing.
私が見ることの結果を体験するのは、私だけではない。


 A minute or so, or even less, will be sufficient for each practice period.
 一つひとつの実習にかける時間は、1分程度かそれより短い時間で十分でしょう。


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