T31-6 汝の意図するところをなせ


だが、バスチアンは、ためらわずに水にとびこんだ。そして、水晶のように澄んだ水の中で、転げまわりはねまわり、水を吹きとばしはねかえして、きらきらととび散る水滴を口に受けて飲んだ。飲んで飲んで、渇きがすっかりおさまったとき、体中に悦びがみちあふれていた。生きる悦び、自分自身であることの悦び。自分がだれか、自分の世界がどこなのか、バスチアンには、今ふたたびわかった。新たな誕生だった。今は、あるがままの自分でありたいと思った。そう思えるのは、何よりすばらしいことだった。あらゆるあり方から一つを選ぶことができたとしても、バスチアンは、もうほかのものになりたいとは思わなかっただろう。今こそ、バスチアンにはわかった。世の中には悦びの形は何千何万とあるけれども、それはみな、結局のところたった一つ、愛することができるという悦びなのだと。愛することと悦び、この二つは一つ、同じものなのだ。
あとになって、バスチアンがまた自分の世界にもどってからずっと時がたち、やがて年老いてからも、この悦びはもう消え去ってしまうことはなかった。生涯のうちの最も困難な時期にさえ、かれにはこの心の悦びがあり、それがかれをほほえませ、まわりの人びとを慰めた。



Michael Ende
ミヒャエル・エンデ(「はてしない物語」572ページ)





There is more pleasure in loving than in being beloved.
愛されることにまして、愛することにはより大きな悦びがある。

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Thomas Fuller
トーマス・フラー



Do what thou wilt shall be the whole of the Law.
汝の意図することをなせ、というのが大いなる法のすべてなのだ。



Aleister Crowley, Magical and Philosophical Commentaries on The Book of the Law
アレイスター・クロウリー(「法の書」より)

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「汝の欲することをなせ」と、おまもりのアウリンの裏面に書かれている。バスチアンはファンタージエンに着いたあと、アウリンを幼ごころの君からあずかる。幼ごころの君はその宝のメダルを手渡して、こう注意する。「ファンタージエンはあたの望みによって新しく生まれるのです」。「望みは多ければ多いほどいいのです」
グラオーグラマーンはバスチアンにアドバイスする。「ファンタージエンでは望みの力によって前に進むことができるのです」。バスチアンがそれを後日、友だちのアトレーユに話すと、アトレーユは疑わしげな顔をする。この時点ではもう、バスチアンの望みがかなうごとに記憶の一部が失われていくことを知ってたからだ。アトレーユは指摘する。「[……]それ(アウリン)は、きみに道を与えて、同時に、きみから目的を奪いとっている」(p.382/下p.150)
というのも、表面的な欲望は、アウリンの裏面の格言が求めているものではないからだ。アウリンの格言を誤解する人は、最後に元帝王たちの都で一生を終える。表面的な欲望と真の望みには、大きな違いがあるのだから、バスチアンがファンタージエンから帰るのがむずかしい理由は、望みがひとつも残っていないからではない。何を本当に意志すればよいのか忘れたために、望むことをやめてしまうからだ。
意志は、ファンタージエンにおけるほんらいの動力だ。ーーそれが一番よく示されているのが、純粋な思いの力で動くイスカールナリのいぐさ船である。意志がなければ、国境のない国から二度と出られない。大いなる探索とは、つまり、真の意志の探索である。真の意思からファンタージエンは生まれる。ーーはてしない可能性とともに、物語の終わりで、バスチアンは生命の水へ向かう道を見つけなければならない。生命の水はファンタージエンの真の心臓を形づくる。と同時に、真の心臓とは真の望みの根源へ向かう道、つまりバスチアンの心へ向かう道でもある。
「あなたは『汝の欲することをなせ』という旗印を掲げたセクトの支持者なのですか」と、ミヒャエル・エンデはたびたび質問された。彼自身が読者へのさまざまな手紙のなかで、アウリンの銘文の文学上のモデルを説明している。
「汝の欲することをなせ」は、フランソワ・ラブレー(1494頃〜1553)の『ガルガンチュワとパンタグリュエル』に出てくる世俗の修道院テレームの戒律である。読者へあてた手紙(1984年4月2日付)で、ミヒャエル・エンデはこう書いている。「私はこのモチーフを、フランスの作家・聖職者であるラブレーの小説からじかに借りてきました。そのラブレーも、このモットーをアウグスティヌスの言葉『神を愛せ。そして、汝の欲することをなせ』にならってつくったのです。その後、このモットーは神秘主義者のアレイスター・クローリー(1875〜1947)にも登場することになります。クローリーの場合、このモチーフは"Do what thou wilt"です。彼もこの言葉をラブレーからとってきました」
エンデはこのモチーフを『魔法の学校』でも使っている。

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ローマン&パトリック・ホッケ「『はてしない物語』事典――ミヒャエル・エンデのファンタージエン」123ページ)




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今回はテキスト第三十一章から「霊を認識する」という一節をご紹介します。


本当に私たちは身体?

私たちは、肉体であるか霊であるか、そのいずれかです。

「3. Salvation does not ask that you behold the spirit and perceive the body not.
 救済は、あなたが霊を見て身体を知覚しないようになることを求めているわけではありません。

 It merely asks that this should be your choice.
 救済は、ただあなたが霊を見て身体を知覚しないようにすると選択することを求めているだけです。

 For you can see the body without help, but do not understand how to behold a world apart from it.
 というのは、あなたは、助けなしに身体を見ることはできても、身体と隔絶した世界をどのようにして見ればよいのか理解していないからです。」





意識をリセットして、すでにVR世界に入り込んだ状態からのゲームスタート

私たちは、すでにVRゲームの世界の中に自分の身体というアバターを用いて入り込んだ状態にあります。

すでにアバターに自己同一化を遂げた状態にあるのだから、私たちは、何の手助けも受けることなく、自分を身体だとみなすことができます。

逆に、自分を身体ではない魂であると信じることは困難だし、さらに、自分を魂と信じるどころか、それを超えて自分のことを、魂のような個性を持たない大いなる霊であると考えることなど到底不可能で、そもそも身体抜きの霊の世界を認識するには、どのようにすればよいのかすら見当もつきません。

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けれど、VRでは、アバターへの没入感が圧倒的で、現実世界の知覚が封じられるという仕組みによって、現実世界を忘れてVR世界が現実だと認識しますが、VRではないテレビゲームのスーパーマリオのような没入しきらずに現実世界とゲーム世界を同時にそれぞれ知覚するデバイスの場合は、マリオがボスキャラと格闘する場面でもなければ、プレイヤーは、自己意識と現実認識をゲーム世界に奪い切られずに保っています。

この世界は、VRのように完全没入して身体というアバターの五感という覗き窓から見える対象しか知覚できず、幻想世界しか見えない設計です。

VRゲームの場合、プレイヤーが現実に戻るには、外にいる誰かに強制的に自分が装着しているVRデバイスを取り外してもらうか、自分でゲーム内で操作するアバターの知覚を全封じして、ゲーム世界の幻惑による束縛から脱して知覚に邪魔されない自由な思考で内省して本当の自分を思い出すしか手立てはありません。

この世界でも、仕組み的には同じ方法があてはまりはしますが、現実世界(この幻想世界を指す)での自分を認識している私たちがお遊びで一時的にVRゲームを体験するのとは異なり、輪廻転生も含めると、自分が魂であり身体に宿る状態を常態として分離幻想を骨の髄まで沁み込ませているし、さらに、神の子の解離性同一性障害によって無数のアバターに自己を分裂させるという合せ技を用いて、本当の自分を完全に見失っているわけなので、個々のアバターへのアイデンティティー状態を出発点とするかぎり、どれほど瞑想しようが、内省によって自分が神の子である大いなる霊だという現実を思い出せる見込みはかぎりなく小さいといえます。


コースのとる方法ー救いの公式

そこで、コースが採用する方法は、自分ひとりでの解脱ではなく、兄弟と一緒に結びつく方法です。

これは、世界の中にいる無数のエゴ・身体というアバターは、神の子が解離性同一性障害を患って自己を無数に分裂させた多重人格であるということを逆手に取って活用する救済方法です。

他者がVRゲーム内でコンピュータが作り出して操作するゲーム上のキャラクターであったなら、こうはいかなかったでしょう。二元論の発想ではこうなります。

これに対して、一元論では、どれだけ自分と無関係の存在や相容れない敵に見えようとも、夢の中に登場してくる環境も他者もすべて自分が生み出しているように、敵に見えようが自分に見えようが環境に見えようがすべてが本当の自分ではない自分の作り出した幻想であり、その幻想の背後には自分自身がいるということになります。

自分が一体化している主人公以外の登場人物は、自分という人間が二重スリット実験での光を通すひとつのスリットであるのと同じように、同じ光を通す別のスリットであり、その人間というアバターを介して世界を覗き見ている主体は、自分と同じひとつの光であり、大いなる愛であり、大いなる自己である神の子です。


私たちは人間という体験をしている霊

他者が自分と同じく、架空のキャラクターではあるとしても、神の子が自分だと思い込んで一体化するキャラクターで、等しく本当の自分である神の子の出先機関としての役目を果たしていればこそ、アバター同士が個別の心を通わせて、本当は心がひとつに結ばれており、自分たちの間にあるように見える隙間はないということに気づくことが可能となります。

アバター同士が敵であるように見せて攻撃の応酬による分離を維持することで、神の子はエゴに取り憑かれてこの世界に幽閉されているけれど、敵に見えていた他者は、本当は自分であり、攻撃はひとつに結ばれようという愛と助けを求める哀訴で、兄弟に怒りを覚えた際には、振り上げた剣を逸らすことで、自分と兄弟を一緒に解放できるチャンスが訪れているのだと正しく認識し、兄弟の攻撃に対しては自分が傷ついたことを思い知らせて罪悪感を抱かせようとするのではなく、自分がまったく傷ついていないことを示して彼に自分には罪がない理解させることで、兄弟と一緒に神の下へと帰ることが可能となるわけです。


ピエール・テイヤール・ド・シャルダンの言葉「我々は、霊的な体験をする人間なのではない。人間という体験をしている霊なのである」を忘れないようにしましょう(レッスン97「私は霊だ」)。







「汝の意図するところをなせ」は「御心のままに」と同義となる

はてしない物語でアトレーユが、アウリンの働きについて、人の子とファンタージエンの生きものとで違った働きをすることを推測する場面を引用します。

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バスチアンは伸びをし、銀のマントにくるまって横になった。そして眠りに入りかけたちょうどそのとき、アトレーユが低い声でいった。
「アウリンのせいだ。」
バスチアンは片手で頭を支え、ねぼけまなこで友の方を見た。
「なんだって?」
「おひかりは、ぼくたちが持ったときと人間が持ったときとで、別の働きをするんだな。」アトレーユは自分にいいきかせるようにいった。
「どうしてそんなことを思いついたんだい?」
「あのおしるしはきみに大きな力を与えている。きみの望みはなんでもかなえられるんだ。けれども、それと同時に、きみからあるものを奪っている。きみの世界のことについての記憶を奪っているんだ。」
バスチアンは考えてみた。が、何かがなくなっているとは思わなかった。
「グラオーグラマーンがぼくにいってくれたけど、ぼくの真の意志が何なのか、それを見つけようと思えば、次々と望みを持って、その道をたどってゆかなくちゃならないんだ。アウリンの銘も、そういっているんだ。だけど、そのためには一つの望みから次の望みへ進まなくちゃだめで、とびこしてはいけないんだ。そうしなければ、ぼくはファンタージエンでは一歩も先へ進めないんだって、グラオーグラマーンはいったよ。だから、ぼくにはこの宝のメダルがいるんだ。」
「うん。」アトレーユはいった。「それは、きみに道を与えて、同時に、きみから目的を奪いとっている。」
「ふん!」バスチアンは、気にもしていないようすでいった。「月の子は、どうなるかちゃんと考えてぼくにおしるしをくださったはずだ。そんなこと、きみの思いすごしだよ、アトレーユ。アウリンは罠なんかじゃ絶対にないよ。」
「もちろんだ。」アトレーユはいった。「罠だとは、ぼくも思わない。」
そして、しばらくしてからまたいった。
「とにかく、ぼくたち、きみの帰る道をさがす旅に出てきてよかったよ。そうなんだろ、ね?」
「うん、うん。」バスチアンはもう半分ねむりながら答えた。

Michael Ende
ミヒャエル・エンデ(「はてしない物語」381ページ)


4.「Your will be done!
 あなたの意志は成し遂げられるでしょう。

 In Heaven as on earth this is forever true.
 地上においても天国においても、このことは永遠の真実です。

 It matters not where you believe you are, nor what you think the truth about yourself must really be.
 あなたが自分がどこにいると信じていようと、そしてまた、あなたが自分自身が本当は何者だと思っていようと、そんなことは問題ではありません。

 It makes no difference what you look upon, nor what you choose to feel or think or wish.
 あなたが何を見ようが、何を感じ、何を思い、何を願う選択をしようが、そんなことは何の違いも生みません。

 For God Himself has said, "Your will be done."
 というのは、まさに神が「あなたの意志がなされるであろう」と述べているからです。

 And it is done to you accordingly.
 そして、神の言葉の通り、あなたに対してあなたの意志は行われているのです。」

「汝の意図することをなせ」は、エゴにとっては多様な願望の追求をせよというものになりますが、聖霊に従うなら、"Thy will be done"「御心のままに」と同じものになります。



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テキスト第三十一章

VI. Recognizing the Spirit
六 霊を認識する



1. You see the flesh or recognize the spirit.
 あなたは肉体を見るか、それとも霊を認識するか、そのどちらかです。

 There is no compromise between the two.
 両者の間に妥協の余地はありません。

 If one is real the other must be false, for what is real denies its opposite.
 もし一方が本物であるなら、他方は偽りであるに違いありません。というのは、実在するものはその反対の非実在のものを否定するからです。

 There is no choice in vision but this one.
 ヴィジョンにはこの選択肢しかありません。

 What you decide in this determines all you see and think is real and hold as true.
 あなたが肉体を見るか霊を認識するか、いずれの決断をするかで、あなたの見るものや現実だと思うものや真実だとみなすものがすべて決まります。

 On this one choice does all your world depend, for here have you established what you are, as flesh or spirit in your own belief.
 このひとつの選択にあなたの世界のすべてが依存しています。というのは、この選択によってあなたは、自分が何者なのか、肉体なのかそれとも霊なのかを、自らの信念として確立することになるからです。

 If you choose flesh, you never will escape the body as your own reality, for you have chosen that you want it so.
 もしあなたが肉体を選ぶなら、あなたは身体を本当の自分だとみなす状態から決して抜け出せなくなってしまうでしょう。というのも、あなたはすでに身体が本当の自分であってほしいと望む選択を済ませているからです。

  But choose the spirit, and all Heaven bends to touch your eyes and bless your holy sight, that you may see the world of flesh no more except to heal and comfort and to bless.
 しかし、霊を選ぶなら、天国が一斉に身を屈めてあなたの瞼に触れて、あなたの目にする聖なる視覚を祝福するので、もうあなたは、癒し、慰め、祝福するためにしか肉体の世界を目にすることはなくなります。



2. Salvation is undoing.
 救いとは取り消すことです。

 If you choose to see the body, you behold a world of separation, unrelated things, and happenings that make no sense at all.
 もしあなたが身体を見ることを選ぶなら、あなたは分離の世界や相互に関連しない物事、そして、まったく何の意味もなさないような出来事からなる世界を見ることになります。

 This one appears and disappears in death; that one is doomed to suffering and loss.
 ある身体は現われたかと思えば、死の中へと消え去ってしまうし、別の身体は苦しみや喪失を運命づけられています。

 And no one is exactly as he was an instant previous, nor will he be the same as he is now an instant hence.
 そして、誰ひとりとして一瞬前の彼とはまったく同じものではないし、一瞬後には、今の彼と同じものではなくなっています。

 Who could have trust where so much change is seen, for who is worthy if he be but dust?
 こんなにも目まぐるしい変化が見られる場所では、誰も信頼することはできません。というのは、誰もが塵になるほかないなら、誰も信頼するに値しないからです。

 Salvation is undoing of all this.
 救いとは、こうしたことをすべて取り消すことです。

 For constancy arises in the sight of those whose eyes salvation has released from looking at the cost of keeping guilt, because they chose to let it go instead.
 というのは、救いによって、罪悪感を抱き続ける代償を見ることから解放された者たちの目には、彼らが罪悪感を保持せずに手放すことを選択したがゆえに、つねに変わることなく存在していたものが見えてくるからです。

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3. Salvation does not ask that you behold the spirit and perceive the body not.
 救済は、あなたが霊を見て身体を知覚しないようになることを求めているわけではありません。

 It merely asks that this should be your choice.
 救済は、ただあなたが霊を見て身体を知覚しないようにすると選択することを求めているだけです。

 For you can see the body without help, but do not understand how to behold a world apart from it.
 というのは、あなたは、助けなしに身体を見ることはできても、身体と隔絶した世界をどのようにして見ればよいのか理解していないからです。

 It is your world salvation will undo, and let you see another world your eyes could never find.
 救いがなそうとするのは、あなたの世界を取り消すことによって、あなたの目では決して見出すことのできなかった別の世界をあなたに見せることです。

 Be not concerned how this could ever be.
 いったいどのようにすれば、そんなことができるのかと心配するには及びません。

 You do not understand how what you see arose to meet your sight.
 あなたは、自分に見えるものが、どのように生じて自分の視界へと登場してくるのか理解していません。

 For if you did, it would be gone.
 というのは、もしあなたにそれが理解できていたなら、それは消え去っているはずだからです。

 The veil of ignorance is drawn across the evil and the good, and must be passed that both may disappear, so that perception finds no hiding place.
 無知というヴェールが邪悪なるものや善良なるものを覆ってかけられています。だから、無知のヴェールを通り過ぎて、善も悪も両方とも消し去らせて、どこにも知覚が隠れ場所を見つけられないようにしなければなりません。

 How is this done?
 どのようにすれば、これを成し遂げられるのでしょうか。

 It is not done at all.
 実は、それはまったく成し遂げるようなことではありません。

 What could there be within the universe that God created that must still be done?
 というのも、神が創造した宇宙の中で、まだこれから成し遂げられなければならないようなことなど何もありえないからです。



4. Only in arrogance could you conceive that you must make the way to Heaven plain.
 あなたが自分で天国への道を平坦に地ならししければならないと考えているとすれば、それは傲慢というほかありません。

 The means are given you by which to see the world that will replace the one you made.
 あなたには、自分が作り出した世界に取って代わる世界を見るための手段が与えられています。

 Your will be done!
 あなたの意志は成し遂げられるでしょう。

 In Heaven as on earth this is forever true.
 地上においても天国においても、このことは永遠の真実です。

 It matters not where you believe you are, nor what you think the truth about yourself must really be.
 あなたが自分がどこにいると信じていようと、そしてまた、あなたが自分自身が本当は何者だと思っていようと、そんなことは問題ではありません。

 It makes no difference what you look upon, nor what you choose to feel or think or wish.
 あなたが何を見ようが、何を感じ、何を思い、何を願う選択をしようが、そんなことは何の違いも生みません。

 For God Himself has said, "Your will be done."
 というのは、まさに神が「あなたの意志がなされるであろう」と述べているからです。

 And it is done to you accordingly.
 そして、神の言葉の通り、あなたに対してあなたの意志は行われているのです。

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5. You who believe that you can choose to see the Son of God as you would have him be, forget not that no concept of yourself will stand against the truth of what you are.
 あなたは、自分には神の子を、自分が彼をこのような存在にしたいと思う通りの者として見ることを選べるものと信じていますが、たとえあなたがどのような自己概念を抱こうとも、それが本当のあなたが何者であるかという真理を少しも変えることはできないことを忘れてはなりません。

 Undoing truth would be impossible.
 真理を取り消すことなど不可能だからです。

 But concepts are not difficult to change.
 しかし、概念であれば、それを変えるのは難しいことではありません。

 One vision clearly seen, that does not fit the picture as it was perceived before will change the world for eyes that learn to see, because the concept of the self has changed.
 それまで知覚していた光景にそぐわないような鮮明なひとつのヴィジョンが見えたら、そのヴィジョンは、見ることを学ぶ目に映る世界を変えるでしょう。なぜなら、自己概念が変わったからです。



6. Are you invulnerable?
 あなたは、何ものにも傷つけられることのない不死なる存在でしょうか。

 Then the world is harmless in your sight.
 そうであれば、あなたの目には、この世界は無害な場所に見えるでしょう。

 Do you forgive?
 あなたは赦すでしょうか。

 Then is the world forgiving, for you have forgiven it its trespasses, and so it looks on you with eyes that see as yours.
 あなたが赦すなら、この世界も赦しに満ちた世界になります。というのは、あなたがこの世界の罪科を赦しているので、この世界もあなたが見るのと同じ赦しの目で、あなたを見てくれるからです。

 Are you a body?
 あなたは身体なのでしょうか。

 So is all the world perceived as treacherous, and out to kill.
 あなたが身体であるとすれば、全世界は、何としてもあなたを殺そうとしている油断のならない危険な場所として知覚されます。

 Are you a spirit, deathless, and without the promise of corruption and the stain of sin upon you?
 あなたは、決して自らに腐敗と罪の穢れを約することのない、不死なる霊でしょうか。

 So the world is seen as stable, fully worthy of your trust; a happy place to rest in for a while, where nothing need be feared, but only loved.
 あなたが不死なる霊であるなら、この世界はあなたが信頼を寄せるに十分ふさわしい安定した場所であり、恐れるべきものが何ひとつなく、ただ愛すべきものだけが存在する、しばらくの間、休息するための幸せな場所として見られることになります。

 Who is unwelcome to the kind in heart?
 心の優しい者に歓迎できない者などいるでしょうか。

 And what could hurt the truly innocent?
 そして、いったい何が真に潔白な者を傷つけることができるでしょうか。

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7. Your will be done, you holy child of God.
 あなたは神の聖なる子供であり、あなたの意志は確かに成し遂げられるでしょう。

 It does not matter if you think you are in earth or Heaven.
 あなたが自分が地上にいると思っていようが、天国にいると思っていようが、そんなことは関係ありません。

 What your Father wills of you can never change.
 あなたの父があなたについて意図することは、決して変わりようがないからです。

 The truth in you remains as radiant as a star, as pure as light, as innocent as love itself.
 あなたの中の真理は、星のように輝き、光のように清らかで、愛それ自体と同じように無垢なままであり続けます。

 And you are worthy that your will be done!
 そして、あなたは価値あるものであるがゆえに、あなたの意志は成し遂げられるのです。


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