S1-1 真の祈り


思考を無理に変えようとしないでください。条件付けを逆にしようとして、「私は今現在、愛すべき存在だ」というアファメーションを繰り返したりしないように。ただ気づくのです。「私は今、愛すべき存在ではないと感じている。無価値だと感じている。不当に扱われていると感じている。過去に起きた悪い出来事が、また起きるのではないかと怯えている。」と。・・・別に構わないのです。恥じることは何もありません。これ以上縮み上がる必要はありません。自分を叱咤激励する必要もありません。ただ、自分が何を選んだのか、その結果、どういう気分になったのかに気づいてください。それを見極めて手放すのです。

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イエス・キリスト(Paul Ferrini ポール・フェリーニ著「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」より)

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Prayer is the song of the heart.
祈りは心のうたう歌だ。

It reaches the ear of God even if it is mingled with the cry and tumult of a thousand men.
たとえたくさんの人々の泣き声やわめき声に紛れてしまったとしても、祈りは神の耳に届く。

ハリール・ジブラーン_1206063030

Kahlil Gibran
ハリール・ジブラーン

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And those who were seen dancing were thought to be insane by those who could not hear the music.
音楽の聴こえない者たちには、踊っている者たちは正気を失っているように見えるものだ。



Friedrich Nietzsche
ニーチェ

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The aim and final end of all music should be none other than the glory of God and the refreshment of the soul.
あらゆる音楽が目指すべき最終目的は、神の栄光を讃え、魂を再生させることにほかならない。

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Johann Sebastian Bach
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ




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一般的な祈りの観念と真の祈り

一般的に、「祈り」"Prayer "は、祈祷、祈願を意味します。

「祷」は「祈」と同じく、いのりを意味し、神仏に乞い願う語義を持ちます。

「祈願」が神仏に願いの実現を求める意味合いを持つのは言うまでもありません。

つまり、一般的な言葉として、祈りは、神仏という人知を越える超越的な存在に願い事を叶えてほしいと求める心理活動を意味する言葉ということになります。

したがって、私たちが、祈りから、素朴に、いわゆるアファメーション、つまり、願望達成を祈願して肯定的な言葉を内心で繰り返して自己暗示するような心理的な活動というイメージを抱くのはあながち間違いではありません。

これに対して、本節では冒頭から、祈りは神に到達するための道であって嘆願や要求ではなく、祈りは何かを求めることではない、このことを理解しないかぎり祈りが効果を発揮することはないといいます。

常識的な祈りのイメージを持ったままでいると、少し驚くことになる祈りの観念かもしれません。


エゴー願望 と 聖霊ー意図

このような一般的にイメージされるような祈りは、エゴの願望を実現することを偶像に求めておきながら、「祈り」が神に届いて聞き入れてもらえると期待することであり、請い願うために求めるという不可能な偽りの祈りを用いてしまうという落とし穴を避けなければならないということが指摘されます。

コースでは、神は意図し、エゴは願望するということが語られます。

時空間による制約を受けない永遠にある、すべてでありすべてを持つ存在には、不足や欠乏、未達成な状態はありえないので、願望することは不可能で、こうあれと意図することしかできないのに対して、時空の制約の中にあり、すべてではなくすべてを持たない一点の塵のような幻には、自分の必要を満たすはずの物事はすべて自分自身ではなく、また、自分が所有しないものなので、いつかこうなったらよいのにと願望することしかできません。

そして、神の法は「自分の拡張するものが自分の現実となる」というもので、それが幻想世界に反映されると、「自分の投影するものが現実だと自分は信じる」というエゴの法則となるということでした(T7-2 神の法)。

願望は、自分に欠けているものを外部世界に投影して欲することなので、自分にそれが欠けていて外に欲しいものとして存在するということが現実だと信じることになります。

これが「願うことは叶わない」というこの世界の法則となります。

よくスピリチュアル的に、無意識やハイヤーセルフは言葉を文字通りに受け取るので、「こうなったらいいのに」という願望をそのまま実現して「こうなったらいいのに」と望む状態を現実にするから、希望の形式ではなく完了形で頼まなけれならないと表現される仕組みです。

これに対して、聖霊に従う場合、すべてを持ちすべてでもある存在が何かをしようとする場合、自分の拡張するものが自分の現実となるという神の法が作用するので、リアリティ・トランサーフィンでヴァジム・ゼランドさんが意図を定義されているように「所有し、行動する決意」を抱くことでまさに意のままに実現することになります。




Vadim Zeland
ヴァジム・ゼランド

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真の祈りの秘訣

さて、本節では、真の祈りの秘訣が明かされます。

「4. The secret of true prayer is to forget the things you think you need.
 真の祈りの秘訣は、自分に必要だとあなたが思っている物事を忘れることです。」

祈りは神に到達し本当の自分を思い出すための道であり、私たちが神の子であることはすでに達成されている事実です。

私たちは、これから新たに神の子にしてもらうわけでも、かつて神の子として創造されたけれど、一度、神の子に劣る存在に堕ちてしまってから改めて神聖な存在に作り直してもらうわけでもありません。

つまり、私たちの本質が神の子であり、すべてであると同時にすべてを持っている存在なのだとすれば、そもそもすべてのうちの針先よりも小さな一点である人間であること自体がありえないことであり、私たちが、人間に「成って」、自分の持っていない何かを得たり、自分とは違う優れた存在になったりするということは仕組み的に不可能なことです。

すべてであると同時にすべてを持つ存在にできるのは、①自分がすべてであることを忘れてすべての一部へと自分を縮小させる空想をして、その空想の中で、②縮小させた自分ではないものになろうとしたり、縮小した自分が持っていないものを得ようとしたり妄想することだけです。

そして、分離幻想によって、私たちはすでに①のプロセスを済ませて、すべてを持たない自分になりきって、その塵のような自分を前提にして、祈りによって②を達成しようとしているわけです。

しかし、②は①を前提とするプロセスなので、当然、①を所与のものとして、人間としての自分が確固としてある世界に現実にいるということを疑いのない前提として補強し、さらに、その前提に乗っかった上で人間である自分に欠けているものを獲得することに邁進するということになり、①を補強する作用を持ち、空想の中で空想をすることであるため、屋上屋を架すことにしかならず、夢の中の夢を入れ子構造で作り出し、①自他分離意識の増強と②欠乏の自覚による欲求のループが無限に続くことになります。

①②は罪の実在性を認識して、罪があることを前提として恩恵として許す「滅びに至る許し」と同じプロセスです。

赦しは、罪が実在しないことを認識して、その認識通り無視するという、通常用いられる許し、「滅びに至る許し」をひっくり返したプロセスでした。

そこで、①②は天国での現実を反転させた影でしかないので、①②をひっくり返してみましょう。

そうすると、❶自他一体の認識と❷豊かさの自覚になります。これが真理の自覚です。これは神の子が万物であると同時に万物を所有するという真理を別の形で表現したものです。

この真理の自覚を土台に祈りを考えてみると、この世界で①の分離幻想によるアバターであるエゴ・身体に自己同一化した状態に置かれたとしても、①自他分離は錯覚で❶自他一体が真実だという自覚に基づくかぎり、アバターに必要だと思っていた具体的なニーズは、❶自他一体の自覚を得たい、つまり、愛を求める呼び声という真の求めが姿を変えたこだまにすぎず、二次的なものでしかないことがわかります。

つまり、愛に満ちた真の安らぎや満足を得たい、本当の自分を取り戻したいという求めが、より高い収入を追い求めたり、交際相手をとっかえひっかえしたり、経済的苦境や病気に見舞われるという形で②欠乏として現れているだけだと。

この場合、ガス代の支払いもままならないという具体的ニーズに囚われるのは、罪の実在性に目が行って、罪があることを前提に許すのと同じ誤りとなります。

なすべきことは、具体的ニーズとして表れている形は神への捧げものとして聖霊に全托して、自分が真に求めていたのは愛であり、❶自他一体である本当の自分は❷すでに愛に溢れてすべてを持っている豊かな存在だと認識することです。

もちろん現に欠乏し汲々としている人の子アバターは、現時点では欠乏状態に置かれたままでしょうから、この人間を自分とみなすアイデンティティー状態のまま「私は本当は豊かな神の子です!私は無限の宝庫とつながっている!」などと何回唱えようが、何の効果もないまま自己欺瞞に虚しさを覚えるだけでしょう。

必要なのは、「私」が身体である人間(や個性を持つ魂)から一なる霊へと切り替わるアイデンティティー・シフトです。





はたらく細胞で考えるなら、他の細胞と自分を比較して、不平等な取り扱いをされていた自分には幸福を追求する権利がある、当然の権利を主張すべきだという考えに染まって、がん細胞に変身する誘惑にさらされていた体内の細胞や器官が自分の本質は自分の属する身体世界を持つ魂であるという気づきを得て、自分と他者は違っていていいし、自分が損をして他者が得をしているように思えても、自分の貢献で本当の自分が幸福になるのであれば、喜んでそれを受け入れよう、と正気を取り戻して無我の境地で全体に奉仕できる幸せに感謝する健康な状態に戻ることに相当します。


祈りとは、求めることではなく感謝して捧げること

このように見ると、祈りとは、求めることではなく感謝して捧げることだということがわかります。

これを別の表現でいうと、すべての兄弟の中にいるキリストのために自分を捧げることが真の祈りだということになります。他者の中に神の子キリストを認めることは❶自他一体と❷豊かさ両方に気づくことだからです。

そうすれば、求めていた具体的ニーズに自分で思い描いていたのとは違う形になることが多いかもしれないけれど、自分の本当の求めに気づく形で、祈りが満たされるのを体験することになります。

実際に目の前の苦境に心奪われている状態では、その苦境の奥に潜む本質に取り組むことが、まるで現実から逃避して、神頼みすれば解決すると能天気に考えているお花畑脳に堕することのように思えてしまいがちですが、単なる偶像崇拝による妄想の現実逃避と、雑草との永遠のもぐら叩き状態を脱する球根の撲滅は、似て非なるものです。

現実に向き合っているつもりで、ずっと同じ問題が形を変えてもぐら叩きを続けるよりも、そもそも自分のなすべき天分の外にあることを自分でやらねばと思い違いしていたことが根本原因であったことを見極めて、それを潔く手放す勇気を持つことのほうがずっと大切でしょう。






まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう

有名なマタイによる福音書第6章第25節~34節の「思い煩うなかれ」を引用しておきます。

「6:25
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。

6:26
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。

6:27
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。

6:28
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。

6:29
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

6:30
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。

6:31
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。

6:32
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

6:33
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

6:34
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイによる福音書(口語訳)wikisource)



過去の後悔や未来の不安に汚染させないで今を生きる

なんでそんなにたくさんの足をもつれさせずに上手に動かして歩けるのかと問われたとたん、満足に歩くことができなくなった百足(ムカデ)の寓話も、この同じ仕組みを表しています。

空の鳥も、地を這う百足も、飛び方や歩き方を意識したり、明日の食事の心配や昨日逃がした獲物を嘆いて後悔したりしません。

本来、意識せずとも自然にしていれば上手にできて、うまく回ることでも、意識することで、かえって満足にできなくなってしまうようになります。

「It is not your will to be imprisoned because your will is free.
 囚われの身となることは、あなたの意志ではありません。なぜなら、あなたの意志は自由だからです。

 That is why the ego is the denial of free will.
 だから、エゴとは自由意志の否定なのです。」(テキスト第八章 二 幽閉と自由との違い 3)


「2. Consciousness, the level of perception, was the first split introduced into the mind after the separation, making the mind a perceiver rather than a creator.
 意識という知覚のレベルは分離以後に心の中に取りこまれた最初の分裂でした。この意識が、心を創造するものではなく、知覚するものに変えてしまったのです。

 Consciousness is correctly identified as the domain of the ego.
 意識は、正確にはエゴの領域として位置づけられるものです。」(T3-4 誤りとエゴ

意識とはエゴと同義であり、すべてである状態から自覚の範囲を極限まで減縮し、ミクロの視点で限られた狭隘な視野に心を制限することです。

動物たちにとってデフォルト・モードである今このときだけに生きるということが、エゴに感染された私たちには、とても困難なことになっています。

現実に飢えて死ぬのではなく、飢えてしまうかもしれないという恐怖心で自ら死を選んで死んでしまう(「健康のためなら死んでもいい!」を実践できる)のは人間だけです。

もし「すべてが書かれている」のだとしたら、個人的利害に縛られた観点ですべてをコントロールしようという意識は、心臓の拍動を自分で制御し、胃腸の消化液の量やタイミングを自分で決定しすべてを取り仕切ってやろうとするのが馬鹿げているのと同じくらい馬鹿げているというのが本質なのでしょう。

このテーマを突っこみたい方には、ティモシー・ガルウェイさんのインナー・ゲームをはじめとするインナー・シリーズがよい参考書になると思います。




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1.- I. True Prayer
 真の祈り



1. Prayer is a way offered by the Holy Spirit to reach God.
 祈りは、神に到達するために聖霊が案内する道です。

 It is not merely a question or an entreaty.
 祈りは、単なる問いかけや嘆願ではありません。

 It cannot succeed until you realize that it asks for nothing.
 あなたが祈りは何も求めないと理解するまでは、祈りが効果を生むことはないはずです。

 How else could it serve its purpose?
 何も求めないという方法以外に、どのようにして祈りが神に到達するという目的を果たせるでしょうか。

 It is impossible to pray for idols and hope to reach God.
 偶像に祈り求めながら、神に到達しようと望んでも、それは不可能です。

 True prayer must avoid the pitfall of asking to entreat.
 真の祈りは、請い願うために求めるという落とし穴を避けなければなりません。

 Ask, rather, to receive what is already given; to accept what is already there.
 そうではなく、すでに与えられているものを受け取るために、つまり、すでに存在するものを受け入れるために求めなさい。



2. You have been told to ask the Holy Spirit for the answer to any specific problem, and that you will receive a specific answer if such is your need.
 あなたは、どんな特殊な問題でも、聖霊に答えを求めるようにと告げられてきました。そして、それがあなたに必要であれば、あなたは具体的な答えを受け取るだろうとも告げられてきました。

 You have also been told that there is only one problem and one answer.
 あなたはまた、ただひとつの問題とひとつの答えしか存在しないとも告げられてきました。

 In prayer this is not contradictory.
 祈りにおいては、これは矛盾ではありません。

 There are decisions to make here, and they must be made whether they be illusions or not.
 ここに下すべき決断があり、それらが幻想であろうとなかろうと、これらの決断は下されるべきものです。

 You cannot be asked to accept answers which are beyond the level of need that you can recognize.
 自分に認識できる必要性のレベルを超える答えを受け入れることがあなたに求められるはずがありません。

 Therefore, it is not the form of the question that matters, nor how it is asked.
 したがって、どのような形で質問するかであるとか、どのような方法で質問が尋ねられるかは問題ではありません。

 The form of the answer, if given by God, will suit your need as you see it.
 もし神によって与えられるなら、答えの形は、あなたにもそれが答えだと理解できるような、あなたの必要に沿ったものになるでしょう。

 This is merely an echo of the reply of His Voice.
 これは、単に神の大いなる声が答えるのを繰り返すこだまにすぎません。

 The real sound is always a song of thanksgiving and of Love.
 真の音は、つねに感謝と大いなる愛の歌なのです。



3. You cannot, then, ask for the echo.
 そうだとすれば、あなたは、こだまを求めるわけにはいきません。

 It is the song that is the gift.
 贈り物は、歌のほうだからです。

 Along with it come the overtones, the harmonics, the echoes, but these are secondary.
 その歌と一緒に、上音や倍音や反響が訪れはしますが、これらは二次的なものです。

 In true prayer you hear only the song.
 真の祈りにおいては、あなたはただその歌だけを聞きます。

 All the rest is merely added.
 その歌以外の残りのすべては単に付随的なものです。

 You have sought first the Kingdom of Heaven, and all else has indeed been given you.
 あなたがまず天の王国を探し求めたからこそ、残りのすべてが確かにあなたに与えられたのです。



4. The secret of true prayer is to forget the things you think you need.
 真の祈りの秘訣は、自分に必要だとあなたが思っている物事を忘れることです。

 To ask for the specific is much the same as to look on sin and then forgive it.
 具体的な物事を求めるのは、罪を見つけておいて、そのあとで、その罪を許すのとまったく同じことになってしまうからです。

 Also in the same way, in prayer you overlook your specific needs as you see them, and let them go into God's Hands.
 そこで、祈りにおいては、赦しと同じように、あなたは自分が必要だと思っている通りの自分の具体的な必要性を無視して、それらを神の手の中へと委ねるのです。

 There they become your gifts to Him, for they tell Him that you would have no gods before Him; no Love but His.
 そこでは、あなたの具体的な必要性は、あなたから神への贈り物となります。というのも、それらの必要性をあなたが神に差し出すことは、あなたが大いなる神の前にいかなる神々も置かず、神の大いなる愛以外のいかなる愛も抱かないと神に告げることになるからです。

 What could His answer be but your remembrance of Him?
 神の答えは、あなたが神を思い出すこと以外のどんなものになりうるでしょうか。

 Can this be traded for a bit of trifling advice about a problem of an instant's duration?
 この神の答えを、ほんの束の間の問題についての申し訳程度の些末な助言と交換することなどできるでしょうか。

 God answers only for eternity.
 神はただ永遠のためにだけ答えます。

 But still all little answers are contained in this.
 それでもなお、すべての些細なことについての答えがこの神の答えの中に含まれています。



5. Prayer is a stepping aside; a letting go, a quiet time of listening and loving.
 祈りは、脇に退いて問題を過ぎ去らせる、傾聴と愛に満ちた静かな時です。

 It should not be confused with supplication of any kind, because it is a way of remembering your holiness.
 祈りをいかなる種類の嘆願とも混同してはなりません。なぜなら、祈りは、あなたの神聖さを思い出す方法だからです。

 Why should holiness entreat, being fully entitled to everything Love has to offer?
 大いなる愛が差し延べてくれるすべてのものを完全に得る資格があるというのに、どうして聖なる存在が何かを得るために祈願しなければならないのでしょうか。

 And it is to Love you go in prayer.
 それに、祈りによってあなたが向かう先は大いなる愛なのです。

 Prayer is an offering; a giving up of yourself to be at one with Love.
 祈りとは捧げる行為であり、大いなる愛とひとつになるために自分を明け渡すことです。

 There is nothing to ask because there is nothing left to want.
 求めるべきものは何もありません。なぜなら、望むべきものは何も残されていないからです。

 That nothingness becomes the altar of God.
 この何もない状態が、神の祭壇となります。

 It disappears in Him.
 祈りは神の中に消え去ります。



6. This is not a level of prayer that everyone can attain as yet.
 これはまだ、誰もが到達できる祈りのレベルではありません。

 Those who have not reached it still need your help in prayer because their asking is not yet based upon acceptance.
 このレベルに到達していない者たちは、依然として祈りにおいてあなたの助けを必要としています。なぜなら、彼らの求めはまだ受容に基礎を置いてはいないからです。

 Help in prayer does not mean that another mediates between you and God.
 祈りにおいて助けることは、誰かがあなたたちと神との間を仲介することを意味するわけではありません。

 But it does mean that another stands beside you and helps to raise you up to Him.
 そうではなく、祈りにおける援助が意味するのは、誰かがあなたたちの傍に立って、あなたたちを神の下へと昇らせる手助けをすることです。

 One who has realized the goodness of God prays without fear.
 神が優しいとわかっている者はみな、恐れることなく祈ります。

 And one who prays without fear cannot but reach Him.
 だから、恐れることなく祈る者は、神に到達せずにはいられません。

 He can therefore also reach His Son, wherever he may be and whatever form he may seem to take.
 したがって、恐れずに祈る者は、たとえ神の子がどこにいようとも、彼がどんな形をとっているように見えようとも、神の子にも到達できるのです。



7. Praying to Christ in anyone is true prayer because it is a gift of thanks to His Father.
 誰の内にもいる神の子キリストに祈ることこそ、真の祈りです。なぜなら、それはキリストの父に感謝という贈り物を捧げることだからです。

 To ask that Christ be but Himself is not an entreaty.
 キリストにただありのままのキリスト自身であるよう求めることは、嘆願ではありません。

 It is a song of thanksgiving for what you are.
 それは、本当のあなたへの感謝の歌です。

 Herein lies the power of prayer.
 ここに祈りの力があります。

 It asks nothing and receives everything.
 祈りは、何も求めることなくして、あらゆるものを受け取ります。

 This prayer can be shared because it receives for everyone.
 この祈りはあらゆる者たちのために受け取るので、この祈りは分かち合うことができます。

 To pray with one who knows that this is true is to be answered.
 これが真実だと知る者とともに祈ることは、答えを得ることです。

 Perhaps the specific form of resolution for a specific problem will occur to either of you; it does not matter which.
 おそらく具体的な問題に対する具体的な形の解決があなたたちのいずれかに訪れるでしょう。どちらに訪れるかは問題ではありません。

 Perhaps it will reach both, if you are genuinely attuned to one another.
 もしあなたたちがお互いに心から調和しているなら、おそらくその解決はあなたたち双方にもたらされるでしょう。

 It will come because you have realized that Christ is in both of you.
 解決が訪れるのは、あなたたちが自分たち双方の中にキリストがいると気づいたからです。

 That is its only truth.
 この気づきこそが、物事の解決というものが持つ唯一の真理です。






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