M2 生徒とは誰か


豊かさマインドを持つには、まずは第1、第2、第3の習慣を身につけ、個人としての喜び、満足感、充足感を得ていなければならない。それがあって初めて、他者の個性、望み、主体性を認めることができる。前向きに人と接することが自分の成長にとって無限の可能性をもたらすとわかっているから、それまで考えてもいなかった新しい第3の案を生み出せるのだ。



Stephen R. Covey
スティーブン・R.コヴィー(「7つの習慣」第4の習慣ーWin-Winを考える より)

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The biggest advances are not made by being a great teacher; they are made by being a great student.
最大の進歩は、だれかが偉大な教師であることによってなされるのではない。人が偉大な生徒であることによって最大の進歩は成し遂げられるのだ。



Gary R. Renard, The Disappearance of the Universe: Straight Talk about Illusions
ゲイリー・R.レナード(「神の使者」)

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What sculpture is to a block of marble, education is to a human soul.
大理石の塊が彫刻によって形作られるように、人間の魂は教育によって形作られる。

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Joseph Addison
ジョセフ・アディソン



There is nothing in a caterpillar that tells you it's going to be a butterfly.
どんなに芋虫を見たところで、それがやがて蝶になることをあなたに告げる予兆は何も存在しない。

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Buckminster R. Fuller
バックミンスター・フラー



Adding wings to caterpillars does not create butterflies.
芋虫に羽を付け足しても、蝶を作り出すことにはなりません。

It creates awkward and dysfunctional caterpillars.
そんなことをしても、不格好で腑抜けて生きる力を失った芋虫を作り出すだけです。

Butterflies are created through transformation.
蝶は、芋虫が変態することを通して創造されるのですから。

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Stephanie Pace Marshall
ステファニー・アン・ペイス・マーシャル(アメリカの教育者であり、イリノイ数学科学アカデミーの創設者)



To regret the exchange of earthly pleasures for the joys of Heaven is as if the groveling caterpillar should lament that it must one day quit the nibbled leaf to soar aloft and flutter through the air, roving at will from flower to flower, sipping sweet honey from their cups, or basking in their sunny petals.
地上の快楽を天国の歓喜に交換することを惜しむのは、まるで草木を這い回る芋虫が、花から花へと羽ばたいて空中を高く舞って、花の甘い蜜を吸ったり、日当たりのよい花びらで日向ぼっこしたりするために、自分がいつか葉っぱを齧るのを断念しなければならないことを嘆き悲しむようなものだ。



Anne Bronte
アン・ブロンテ



Self Love is a romance of its own kind.
自己愛には、空想的な愛という独自性がある。

Remember self love does not imply being selfish and just thinking about your own happiness.
自分を愛することは、わがままで単に自分だけの幸せを考えていることを意味するわけではないと覚えておくといい。

I believe it is an idea which revolves around acceptance of yourself as you are so that you can accept others as they are.
私は、自己愛とは、あなたが他者をありのままで受け入れられるようになるためには、まずあなたがありのままの自分を受け入れられるようにならなければならないというテーマを示す観念だと信じている。

It is a principle of loving your own being so that you are full of love and positivity.
自己愛は、あなたが自分自身の本質を愛することによって、あなたは愛に満たされてすべてを肯定できるようになるという原理なんだ。

It is about coming to peace with your own self and letting go of your past wounds, it is about healing.
自分を愛することは、あなたが本当の自分と和合してあなたの過去の傷を消去すること、つまり、癒しを意味するのだ。

Self Love is about becoming a butterfly from a caterpillar.
自己愛は、芋虫から蝶になることなんだ。

It is about personal development, it is about an evolution.
自己愛は、個人として成熟することであり、進化することなんだ。

Self Love is about seeing yourself through your own eyes.
自己愛は、自分の本当の目を通して自分自身を見ることなんだ。

Jasz Gill



なぜ、我々は、「エゴ」を捨てるべきではないのか

──それは、「エゴ」が強い人が抱える問題でしょうか? だから、こうした人は、「エゴ」を捨てる修行をする必要があるのでしょうか?

田坂 そうです……、と申し上げたいところですが、実は、そうではありません。こうした人の問題は、「エゴが強い」ことではないのです。

──何が問題なのでしょうか?

田坂 「エゴが小さい」ことです。

──その意味は?

田坂 「エゴが小さい」と、現在の未熟な自分、欠点のある自分を擁護し、「自分は、間違っていない!」「自分は、変わりたくない!」という叫びが心を支配してしまいます。
しかし、「エゴが大きい」と、「自分には、もっと素晴らしい可能性がある!」「自分は、もっと素晴らしい人間へと成長できる!」という思いが勝り、現在の未熟な自分、欠点のある自分を直視しながらも、未来の成長した自分、成熟した自分を目指すことができるようになります。だから、こうした人は、「エゴ」を捨てるのではなく、むしろ、自分の中の「エゴ」を大きく育てる必要があるのです。

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田坂広志(人生で起こることすべて良きこと:逆境を越える「こころの技法」51ページ)



だが朝だがあがでsセアでさがだエアっdデッsだあdだがあっsdがあgがだえがあ



人は基本的にわがままでいい。十分に自分のために生き、十分に自分を表現しつくした人間こそが、その次の段階として、他者のためにも生きることが出来るようになるのだ。

そこに到達した者は、他者のために在ることで、抑圧や被害者意識を生み出すことはない。他者のために生きることが、自分にとっても真の喜びとなるのだ。つまり、わがままな在り方が、そのまま社会に貢献することに繋がるのだ。これこそが人にとって、最も理想的な在り方である。

だが、人として十分な経験や満足を得てもいない段階で、自分を犠牲にして利他的な行いを心掛けても、「こんなにやってあげているのに」と言った傲慢や被害者意識を生み出すのがオチだ。
他人のために自分を犠牲にするという在り方は、自分さえ良ければ他人のことなどどうでもいいという精神と、実は紙一重なのだ。「自分のため=他人のため」この方式が成り立っていないところに、愛など存在しない。そこに存在するのは、歪んだ自己満足である。そして、それこそが偽善者への道程である。

他人のために己を犠牲にする在り方というのは、人々にとって神や仏の慈悲の心の象徴なのか、世間では、やたらと崇高な在り方として美化されがちである。だが、ここでも物事の順序をすっ飛ばしてはいけない。
人が神や仏の境地に達するまでには、段階というものがある。子供のうちから、「自分のことより他人のことを優先に考えなさい」という教育をする親も少なくはないように思うが、幼い頃から他人を優先するような生き方をしていては、その子はいつかきっと、人生のどこかで自分を見失う。他人を軸として生きているうちに、自分の感情や表現、価値観を確立することを忘れてしまうのだ。
まずは、自分のことから。全てにおける基本である。

「調和」とは、自分を押し殺して周囲に合わせることではない。真の調和とは、それぞれが存分に個性を発揮しながら、お互いを尊重し合い、お互いを教育しあう中で生まれるものだ。



伊藤美海(「ネガティブを愛する生き方」75ページ)

だがだだがが




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完全な変容

このサイトでは、教師のためのマニュアルのイメージ・キャラクターとして蝶と青虫をモチーフにしています。

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蝶は、昆虫の中でも完全変態)し、卵→幼虫→蛹→成虫というプロセスを辿り、幼虫時代と成虫とでは、まったく別の生き物にしか思えないほど、姿も生き方も完全に変化します。

冒頭でバックミンスター・フラーが言うように、事前に知識を得ていないかぎり、幼虫をどれほどつぶさに見たところで、この生き物が将来、ひらひらと優雅に空中を舞い飛ぶ美しい蝶になるなんて絶対にわかりっこありません。

たびたび述べていますが、エゴを悪者として始終ダメ出しするコースを学んでいると、どうしても自我は持ってはならない、エゴを抹殺すべきという発想になりがちですが、実はそのスタンスはかえってエゴをのさばらせるだけで、正しく自我に光を当ててエゴという影を消すには、健全に自我を大きく育ててしっかり自我を確立し、小我を大我へと成長させることが、まずなにより必要なことだと思います。

コースは、蝶の成長プロセスで言えば、蝶が幼虫として成長する段階の終盤に至って、蝶として空に舞い立つ用意を整えるために、これから蛹になって内面的な変容を遂げてゆこうという局面に関わるものです。

蝶の成長のプロセスは、卵から孵化して、1齢から4回脱皮して5齢まで幼虫のまま大きくなって、蛹になり、羽化して成虫となります。

TKY200605010188 (1)(asahi.com「ののちゃんのDO科学」より引用)


蝶の幼虫の胸部にある前胸腺(prothoracic gland)から分泌されるエクディゾン(Ecdysone)という変態ホルモンは、幼虫の脱皮、変態、蛹化を促進させる作用を持ちます。

これに対して、脳の後方に位置するアラタ体(corpus allatum)という腺、分泌器官から分泌される幼弱ホルモンは、変態ホルモンの作用を抑制して、幼虫が変態することによって成虫化してしまわずに幼虫のまま成長するのを促進する働きを持つホルモンです。


この幼若ホルモンの力によって、蝶の幼虫は、未熟なまま変態して死ぬことなく、安全に成熟することができます(変態ホルモンと幼弱ホルモン)。


すなわち、アラタ体ホルモンも前胸腺ホルモンも、蝶が成長するうえでともに重要な役割を果たすものの、時期によって一方が強く作用し、他方は作用を控えるという絶妙な関係性が大切で、両者がバランスよく協働することで、幼虫は蛹化せずに脱皮を繰り返して大きくなって、ふさわしいタイミングが来たときにだけ、蛹になって、蝶になることができます。


農薬の一種でIGR剤(Insect Growth Regulator)という幼弱ホルモンに異常を起こして成長を阻害するものがあります。

病気や事故その他なんらかの原因によって、幼弱ホルモンが齢期の小さい段階で働かなくなると、成虫として生きていく力もないまま蛹になり、そのまま死ぬか、不完全な形態の成虫として羽化してしまうことになります。

他方、前胸腺のエクディゾンの分泌が弱く、幼弱ホルモンがずっと作用し続け、エクディゾンが蛹化を促進して変態を導くことができなかったら、幼虫は、芋虫のまま成長し続けて死ぬことになります。

擬人化して考えてみると、とても可哀想な事態だと感じるはずです。

未熟なまま変態するケースでは、本来、周囲のことなどお構いなしに、自分のことだけを考えて、欲求に従ってたくさん食べて成長すべき時期なのに、他者の利益を考えて自分を犠牲にしてしまい、志そのものは立派かもしれないけれど、それを実現するための力も素質もない未熟な状態で、できないことをしようとしてしまうことになり、本来、成長した後であれば自分も他者も一緒に喜ばせることができたはずなのに、結局、自分だけでなく他者の役に立つどころか害悪をまき散らすばかりになって、自分の無力さ加減に思い悩んで苦しむだけということになります。

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他方で、幼虫のまま成長し続けるケースでは、もはや自分だけの利益を図るだけでは何の満足も得られない段階に達し、他者に貢献して一緒に喜ぶ力を十分持っていて、ただ自分が分け与えるに十分なだけ持っているものや力を他者に与えさえすれば、自他分離が錯覚であると気づき、愛に包まれることができるというのに、いまだに利己心に縛られて我利我利亡者として生きることしかできないために、以前にもまして周囲が自分とは分離した敵であり、世界は敵に満たされた危険な場所となって、恐怖に包まれた深い孤独を抱えることになります。

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どちらも悲惨な生き方です。




エゴは、幼弱ホルモンのような働きをして、人の子が変容するに足りるまで十分に健全に自我が成熟できるよう子供扱いして守ってくれる乳母のような役割を持つことになります。

自我を成長させるべき段階にある人は、とことん乳母の優しさに甘えて自分の利益と欲望だけを追求するのが必要なことだし、それを利己的だといって否定するのは筋違いです。

ただし、蝶の幼虫で言う5齢に達し蛹になるべき時期が近づいているというのに、新しい成長の局面に飛び込むのが怖いといって、いまだに甘やかしてくれる優しい乳母の庇護下に逃げ込んで放蕩の限りを尽くしているのは、健全ではない病んだ状態です。

この時期に至れば、乳母は役割を終えて本人が独り立ちできるよう身を引くべきだし、本人も、自分の内側から呼びかける変態ホルモンの声を無視せずに聞き入れて、自覚を新たにすべきです。


コース、聖霊は、変態ホルモンのような働きをして、役割を終えたエゴという幼弱ホルモンの作用を抑制して、蛹化して内的変容を促進します。

この蝶と蛹と幼虫の成長プロセスとの対比で考えると、エゴまみれで自分のことだけ考えて脇目も振らずに我欲に従う時期も決して無駄ではなく、将来利他性を発揮して大きく羽ばたくためには、むしろ必要で大切な成長プロセスなのであり、時期尚早にコースに出会ってしまうことが不幸を招くことがありうることが理解できると思います。


バスチアンには、黒い蛇に従って間違った道を歩むことが必要だった

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はてしない物語で、女王幼ごころの君の象徴である陰陽二匹の蛇が互いに尾を噛み合うアウリンは、バスチアンがファンタージエンでの旅をはじめた当初は黒い蛇が「汝の欲することをなせ」と誘惑して、本当の自分や自分のいた世界の記憶を代償に奪いながら自我の欲求を追求させます。欲望に従うことで、バスチアンはエゴの権化となり、肥大化したエゴは、バスチアンを元帝王たちの都の住人になる廃人寸前にまで導きます。



元帝王たちの都でアーガックスと出会って都を出たあたりから、バスチアンは憑きものが落ちたようになって強烈なエゴは姿を潜め、内的変容の道を歩むことになります。


このあたりで、アウリンの発する力のパワー・バランスは、黒い蛇から白い蛇にバトン・タッチして、幼虫が蛹や繭を紡いで根本的な自分の在り方を変容させる距離のない旅をするように、バスチアンもファンタージエンで得たすべてを捨ててありのままの自分に帰る旅をします。


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欲望に従って力を得たい、美しい容姿を得たい、名声を得たい、賢さを得たい、権力を得たい、といったエゴに巣食われる体験をしたからこそ、バスチアンは、内面に向かう旅路で、以心伝心の仲間たちと一緒にいられるイスカールナリの一員になったり、優しいアイゥオーラおばさまがもてなしてくれる居心地のよい変わる家から出られなくなったりして、ファンタージエン国にとどまる、つまり、蛹のまま死んでしまうことなく、生命の水の湧き出る泉にたどり着いて変容を遂げて蝶として羽ばたくように、生まれ変わって自分の世界に帰還することができたのであって、黒い蛇に惑わされる道を歩むことがなければ、自分が真に求めることが愛し愛されることだということを理解することはできなかったはずです。


健全に自我を成長させることがとても大切なことを忘れないようにしましょう。


地上で自我が成長し、小我が大我へと成熟したら、芋虫が蛹となってやがて蝶が羽化して空に羽ばたくように、内的変容により、すべての我の主体である真我=神我 "I AM"が天に羽ばたくときが来るのでしょう。

W2ST-12.エゴってなに?でご紹介しているOSHOのエゴを落とすにはエゴを成熟させなければならないという話を読んでいただければと思います。


蛹の期間の内的変容の段階については、M4-1 神の教師の特性1(信頼)が参考になると思います。



救済はすでに完了している

さて、本節では、つぎのように、永遠においては救済がすでに完了していることが述べられます。
「The instant the idea of separation entered the mind of God's Son, in that same instant was God's Answer given.
 分離するという想念が神の子の心に入りこんだ瞬間、その同じ瞬間に神の大いなる答えが与えられたのです。

 In time this happened very long ago.
 時間の中では、これは、はるか遠い昔に起こったことです。

 In reality it never happened at all.
 しかし、現実においては、神からの分離などまったく一度も起こってはいません。



3. The world of time is the world of illusion.
 時間の世界は、幻想の世界です。

 What happened long ago seems to be happening now.
 はるか昔に起こったことが、まるで今起きているかのように思えます。

 Choices made long since appear to be open; yet to be made.
 選択を下してからずっと経っているのに、まだ選択の余地があり、これから選択できるように思えます。

 What has been learned and understood and long ago passed by is looked upon as a new thought, a fresh idea, a different approach.
 すでに学んで理解し、はるか昔に過ぎ去ってしまったものが、今までにない思考であるとか、目新しい着想であるとか、以前とは違った取り組みであるかのようにみなされています。」




すでに終わった映画を再上映するように

13.「Such is each life; a seeming interval from birth to death and on to life again, a repetition of an instant gone by long ago that cannot be relived.
 一つひとつの人生というのは、そんなものです。すなわち、誕生から死まで続くように見える合い間、そして、再び生まれてくることで、はるか昔に過ぎ去って二度と再び生きることなどできないはずの一瞬を繰り返しているのです。

 And all of time is but the mad belief that what is over is still here and now.
 だから、時間というものはすべて、すでに終わったことが依然として今ここにあるという狂気の信念でしかないのです。」(T26-5 些細な障害

レッスン268「すべての物事が本当にあるがままになりますように」のエッセイでこの点に触れていますので、参考にしていただければと思います。

T28-1 現在の記憶も参考になると思います。

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Section 2
第2節

Who Are Their Pupils?
神の教師たちの生徒たちとは誰のことか



1. Certain pupils have been assigned to each of God's teachers, and they will begin to look for him as soon as he has answered the Call.
 神の教師はそれぞれ、特定の生徒たちを担任することになっています。そして、ある教師が召命に答えるとすぐに、生徒たちはその教師のことを探しはじめます。

 They were chosen for him because the form of the universal curriculum that he will teach is best for them in view of their level of understanding.
 その教師のためにその生徒たちが選ばれたのは、その生徒たちの理解のレベルに照らして、その教師が教えることになる普遍的なカリキュラムの形が、その生徒たちにとって最適なものだからです。

 His pupils have been waiting for him, for his coming is certain.
 彼の生徒たちはその教師をずっと待っていました。というのも、彼の到来は確実だからです。

 Again, it is only a matter of time.
 またしても、それは単に時間の問題にすぎません。

 Once he has chosen to fulfill his role, they are ready to fulfill theirs.
 いったん教師が自分の役目を果たすことを選択したなら、彼の生徒たちのほうにも自分たちの役目を果たす準備が整います。

 Time waits on his choice, but not on whom he will serve.
 時間は、教師が選択するのを待ちはしますが、彼が奉仕することになる生徒たちが選択するまでは待ちません。

 When he is ready to learn, the opportunities to teach will be provided for him.
 その教師に学ぶ準備ができ次第、教えるための機会が彼のために用意されるのです。



2. In order to understand the teaching-learning plan of salvation, it is necessary to grasp the concept of time that the course sets forth.
 教えることによって学ぶという救済の計画を理解するためには、このコースの掲げる時間概念を把握しておくことが必要です。

 Atonement corrects illusions, not truth.
 贖罪は幻想を修正するのであって、真理を修正するわけではありません。

 Therefore, it corrects what never was.
 したがって、贖罪は、一度も存在したことのないものを修正するわけです。

 Further, the plan for this correction was established and completed simultaneously, for the Will of God is entirely apart from time.
 さらに、修正のための計画は、それが立てられたと同時に完了しています。というのも、神の大いなる意志はまったく時間と関わりを持たないからです。

 So is all reality, being of Him.
 現実は神に属するものであるがゆえに、現実も同じくまったく時間とは無関係です。

 The instant the idea of separation entered the mind of God's Son, in that same instant was God's Answer given.
 神の子の心に分離の想念が入りこんだ瞬間、その同じ瞬間に神の大いなる答えが与えられたのです。

 In time this happened very long ago.
 時間の中では、これは、はるか遠い昔に起こったことです。

 In reality it never happened at all.
 しかし、現実においては、神からの分離などまったく一度も起こってはいません。



3. The world of time is the world of illusion.
 時間の世界は、幻想の世界です。

 What happened long ago seems to be happening now.
 はるか昔に起こったことが、まるで今起きているかのように思えます。

 Choices made long since appear to be open; yet to be made.
 選択を下してからずっと経っているのに、まだ選択の余地があり、これから選択できるように思えます。

 What has been learned and understood and long ago passed by is looked upon as a new thought, a fresh idea, a different approach.
 すでに学んで理解し、はるか昔に過ぎ去ってしまったものが、今までにない思考であるとか、目新しい着想であるとか、以前とは違った取り組みであるかのようにみなされています。

 Because your will is free you can accept what has already happened at any time you choose, and only then will you realize that it was always there.
 あなたの意志は自由なので、あなたは自分で選択したときにいつでも、すでに起こったことを受け入れることができます。そして、そのときになってはじめて、あなたはそれがつねに存在していたことに気づくでしょう。

 As the course emphasizes, you are not free to choose the curriculum, or even the form in which you will learn it.
 このコースが強調するように、あなたはカリキュラムを自由に選択できないし、そのカリキュラムをどのような形で学ぶのかについてすら自由には選べません。

 You are free, however, to decide when you want to learn it.
 それでも、あなたはそのカリキュラムをいつ学ぶことにするかは、自由に決めることができます。

 And as you accept it, it is already learned.
 そして、あなたがカリキュラムを受け入れたなら、それはすでに学ばれているのです。



4. Time really, then, goes backward to an instant so ancient that it is beyond all memory, and past even the possibility of remembering.
 そのとき、実際に時間は、あまりに遠い昔のことであるために、すべての記憶を超越し、思い出せる可能性すら及ばないほどの太古の一瞬へと遡ります。

 Yet because it is an instant that is relived again and again and still again, it seems to be now.
 しかし、その一瞬は、幾度も繰り返され、さらに延々と繰り返し再体験されているために、まるで今のことであるように思えます。

 And thus it is that pupil and teacher seem to come together in the present, finding each other as if they had not met before.
 こうして、生徒たちと教師は、まるで以前には出会ったことなどなかったかのように、お互いを見い出し、現在において落ち合うように見えることになります。

 The pupil comes at the right time to the right place.
 生徒は、ちょうどよいタイミングでふさわしい場所へとやってきます。

 This is inevitable, because he made the right choice in that ancient instant which he now relives.
 これは必然的なことです。なぜなら、生徒は、あの太古の瞬間においてすでに正しい選択をしており、彼は今それを追体験しているだけだからです。

 So has the teacher, too, made an inevitable choice out of an ancient past.
 その教師もまた同じように、太古の昔にひとつの必然的な選択をしているのです。

 God's Will in everything but seems to take time in the working-out.
 あらゆることにおいて、神の大いなる意志は、それが成就するために時間を要するように見えているだけです。

 What could delay the power of eternity?
 永遠の存在の力を遅らせることなど何ものにもできるはずがないのです。



5. When pupil and teacher come together, a teaching-learning situation begins.
 生徒と教師が合流すると、教えることによって学ぶ状況が始まります。

 For the teacher is not really the one who does the teaching.
 というのも、実際に教えるという役目を果たすのは教師ではないからです。

 God's Teacher speaks to any two who join together for learning purposes.
 学ぶことを目的に心をひとつに結び合わせたどのようなふたりに対してでも、神の大いなる教師である聖霊が語りかけてくれるのです。

 The relationship is holy because of that purpose, and God has promised to send His Spirit into any holy relationship.
 そのふたりの関係性は、学びの目的のゆえに神聖なものです。そして、神は、どんな神聖な関係にも、神の大いなる霊を遣わすことを約束しています。

 In the teaching-learning situation, each one learns that giving and receiving are the same.
 教えることで学ぶ関係において、各自は、与えることと受け取ることは同じだと学びます。

 The demarcations they have drawn between their roles, their minds, their bodies, their needs, their interests, and all the differences they thought separated them from one another, fade and grow dim and disappear.
 彼らが、お互いが別々であると思う要因であった自分たちの役割、自分たちの心、身体、必要性、関心や利害などのすべての相違の間に彼らが引いていた境界線は、徐々に色あせて霞んでゆき、やがて消え去ります。

 Those who would learn the same course share one interest and one goal.
 同じ道を学ぼうとしている者たちは、ひとつの利害とひとつの目標を共有しています。

 And thus he who was the learner becomes a teacher of God himself, for he has made the one decision that gave his teacher to him.
 こうして、学び手であった彼自身が神の教師となります。というのも、彼は、彼の教師が彼に与えられた際になされたのと同じひとつの決断をしたからです。

 He has seen in another person the same interests as his own.
 彼は、他者が自分自身と同じ利害を持っているとみなすようになったのです。






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