T22-4 分かれ道にぶつかった。どう進む?


Which road you take depends on where you want to go.
どの道を行くかは、あなたがどこに行きたいかによります。

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Lewis Carroll
ルイス・キャロル





Many people are obstinate about the path once it is taken, few people about the destination.
多くの人は、いったん踏み出した道を歩むことにこだわるが、自分の歩む道がどこに辿り着くかにこだわる者はほとんどいない。



Friedrich Nietzsche
ニーチェ





I can control my destiny, but not my fate.
私には、自分の運命を支配することはできるが、自分の宿命をコントロールすることはできない。

Destiny means there are opportunities to turn right or left, but fate is a one-way street.
運命とは右に向かうか左に向かうかを選択する機会を意味するのに対して、宿命は一方通行の道のことだからだ。

I believe we all have the choice as to whether we fulfil our destiny, but our fate is sealed.
私たちは誰しも、自らの運命を自分が全うするかどうかという選択の機会を持っているが、私たちの宿命は変更不能なものとして定まっているのだと私は信じている。



Paulo Coelho
パウロ・コエーリョ





Connecting The Dots
点と点をつなぐ


The first story is about connecting the dots.
最初にお話しするのは、点と点をつなぐことについてです。

I dropped out of Reed College after the first 6 months, but then stayed around as a drop-in for another 18 months or so before I really quit.
私は、入学して6か月でリード大学を中途退学しましたが、その後、本当に大学を離れる前の一年半ほどの間、もぐりの聴講生として大学に居残っていました。

So why did I drop out?
それでは、私はなぜ大学を辞めたのでしょうか?

It started before I was born.
そのわけは、私が産まれる前にまで遡ります。

My biological mother was a young, unwed college graduate student, and she decided to put me up for adoption.
私の生物学的な母親は、若い未婚の大学院生でした。彼女は私を養子に出す決断をしました。

She felt very strongly that I should be adopted by college graduates, so everything was all set for me to be adopted at birth by a lawyer and his wife.
彼女は、私を大卒者の養子にするべきだと頑なに思っていたので、私が産まれ次第、私がある弁護士夫妻に養子縁組されるようすっかり段取りがつけられていました。

Except that when I popped out they decided at the last minute that they really wanted a girl.
ところが、いざ私が産まれる数分前になって、その夫婦は自分たちが本当に欲しいのは女の子だったと言い出したのです。

So my parents, who were on a waiting list, got a call in the middle of the night asking: “We have an unexpected baby boy; do you want him?”
そうして、養子縁組希望者のリストに記載されていた私の両親のところに真夜中に電話が入り、彼らはこう尋ねられました。「予定外の男の赤ちゃんの縁組が可能になったのですが、あなたたちは、この子を迎え入れたいですか?」と。

They said: “Of course.”
彼らは答えました。「もちろんです」と。

My biological mother later found out that my mother had never graduated from college and that my father had never graduated from high school.
しかし、しばらくして、私の母が大学を出ておらず、私の父は高校すら卒業していないことが私の産みの母の知るところとなりました。

She refused to sign the final adoption papers.
私の産みの母は、当初、養子縁組の最終書類への署名を拒否しました。

She only relented a few months later when my parents promised that I would someday go to college.
数か月後、私の両親が将来私を大学に行かせるという約束をしたことで、ようやく彼女は折れて署名に応じました。

This was the start in my life.
これが私の人生の始まりでした。

And 17 years later I did go to college.
そして、17年後、私は大学に入学しました。

But I naively chose a college that was almost as expensive as Stanford, and all of my working-class parents’ savings were being spent on my college tuition.
しかし、世間知らずの私は、スタンフォードと同じくらい学費の高い大学を選んでしまい、労働者階級の両親の貯金は、すべて私の学費に費やされました。

After six months, I couldn’t see the value in it.
半年後、私は大学に意義を見出せなくなっていました。

I had no idea what I wanted to do with my life and no idea how college was going to help me figure it out.
私には、自分が人生で何がしたいの皆目見当もつかなかったし、私がそれを見つけるために大学が少しでも助けになってくれるようには思えませんでした。

And here I was spending all of the money my parents had saved their entire life.
それなのに、このとき私は、自分の両親が生涯をかけて蓄えてきたお金のすべてを学費として使い果たそうとしていたわけです。

So I decided to drop out and trust that it would all work out OK.
そこで、私は大学を中退する決断をしました。きっとすべてうまく行くはずだと信じて。

It was pretty scary at the time, but looking back it was one of the best decisions I ever made.
そのときはとても怖かったのですが、今になってこのことを振り返ってみると、これは私が人生で下した最良の決断のひとつでした。

The minute I dropped out I could stop taking the required classes that didn’t interest me, and begin dropping in on the ones that looked interesting.
退学してすぐ、私は、私の興味を引かなかった必修科目を取るのをやめて、もっと面白そうに感じた授業にもぐり込んで受講しはじめました。

It wasn’t all romantic.
もちろん、すべてが夢のようにうまくいったというわけではありませんでした。

I didn’t have a dorm room, so I slept on the floor in friends’ rooms, I returned coke bottles for the 5¢ deposits to buy food with, and I would walk the 7 miles across town every Sunday night to get one good meal a week at the Hare Krishna temple.
私には学生寮の部屋が無くなったので、私は友人たちの部屋で寝泊まりすることになったし、コーラの瓶の回収で5セント稼いで食費の足しにしたり、日曜日の晩には、7マイル離れたハーレクリシュナ寺院で振舞われる美味しい食事を食べに行きました。

I loved it.
あの食事は本当に美味しかった。

And much of what I stumbled into by following my curiosity and intuition turned out to be priceless later on.
そして、自分の好奇心と直感に従うことによって私が偶然出会った多くのものが、後々かけがえのないものになりました。

Let me give you one example:
その一例をお話ししましょう。

Reed College at that time offered perhaps the best calligraphy instruction in the country.
当時、リード大学では、おそらく国内でも最高のカリグラフィの授業をしていました。

Throughout the campus every poster, every label on every drawer, was beautifully hand calligraphed.
キャンパス中のすべてのポスターや引き出しのラベルには、美しい手書きのカリグラフィが施されていました。

Because I had dropped out and didn’t have to take the normal classes, I decided to take a calligraphy class to learn how to do this.
私はすでに退学して通常の授業を受ける必要がなくなっていたので、私は、どうやって美しい手書きのカリグラフィを書くのかを学ぶために、このカリグラフィの授業を受けることに決めました。

I learned about serif and san serif typefaces, about varying the amount of space between different letter combinations, about what makes great typography great.
セリフ書体やサンセリフ書体を学びました。異なる文字を組合せたときの文字間の隙間を調整することや、活字を美しく見せるやり方を学びました。

It was beautiful, historical, artistically subtle in a way that science can’t capture, and I found it fascinating.
それはとても美しく、歴史があり、科学では説明できない芸術的で繊細な部分があり、私にはそれが魅力的に思えました。

None of this had even a hope of any practical application in my life.
もっとも、この時点では、これらの学びが、この先の私の人生で、少しでも実際に役に立つという展望などありませんでした。

But 10 years later, when we were designing the first Macintosh computer, it all came back to me.
しかし、10年後、最初のマッキントッシュコンピュータを設計したときに、このときに学んだことのすべてが私に舞い戻ってきたのです。

And we designed it all into the Mac.
そこで、私たちは、それをマックに組み込みました。

It was the first computer with beautiful typography.
それは、美しいフォントを持った初めてのコンピューターの誕生でした。

If I had never dropped in on that single course in college, the Mac would have never had multiple typefaces or proportionally spaced fonts.
もし私が大学であのカリグラフィのコースにもぐり込むことがなかったら、マックは複数のフォントや文字間隔の調整ができるフォントを備えていなかったでしょう。

And since Windows just copied the Mac, it’s likely that no personal computer would have them.
そして ウィンドウズはマックを真似ただけなので、きっとそういう特徴を備えたパソコンは生まれなかったでしょう。

If I had never dropped out, I would have never dropped in on this calligraphy class, and personal computers might not have the wonderful typography that they do.
もし私が退学しなかったら、私がこのカリグラフィのクラスに入ることもなかったはずです。そしたら、パソコンは、今のような美しいフォントを備えてはいなかったかもしれません。

Of course it was impossible to connect the dots looking forward when I was in college.
当然ながら、私が大学にいた時点では、将来を見据えて、点と点をつなぐことは不可能でした。

But it was very, very clear looking backwards ten years later.
しかし10年後に振り返ってみると、そのつながりは、とても、とてもハッキリと見えます。

Again, you can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards.
繰り返します。あなたがたは、将来を見据えて点と点をつなぐことはできません。あとになって振り返ってみてはじめて、点と点をつなぐことができるのです。

So you have to trust that the dots will somehow connect in your future.
だから、あなたがたは、自分の未来でどうにかして点と点がつながるはずだと信頼しなければならないのです。

You have to trust in something - your gut, destiny, life, karma, whatever.
それを何と呼ぼうが、あなたがたは、自分の直感、運命、人生、カルマというような超越的な本質を信頼しなければなりません。

This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life.
この取り組み方は、私を失望させたことは一度もないし、このスタンスが、私の人生をまったく際立ったものにしてくれたのです。



Steven Paul Jobs
スティーブ・ジョブズ (2005年米スタンフォード大学の卒業式でのスピーチより)




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本節のテーマは、進路上の分岐点です。


エゴ・ナビと聖霊ナビ

旅が進み、真理と幻想が大きく分岐する分かれ道を選ぶときがやってきます。


これまでは、エゴ・カーナビが欠乏への恐怖心や身体の快楽からくる刹那的な欲求でコロコロ変わる目的地を設定して、あっちへ行きこっちへ行きの繰り返しでした。

それはそれで苦しくもあり楽しいもので、この二元性の世界に生きる味わいでもあるのでしょう。とことんエゴ・ナビに従って波乱万丈のドライブを楽しんでよいと思います。

もっとも、無限にバリエーションがあるエゴの作り出す無数に分裂した自分、エゴ・身体を用いて楽しむ旅には果てがなく、よくよく考えてみたら、それは無間地獄のようなものかもしれないと思ったら、いつかは聖霊ナビで真理を目的地に設定するときもやってくるかもしれません。

エゴ・ナビは、車のカーナビよりも強引なもので、ドライバーからハンドルをぶんどって自動運転モードで勝手にエゴの好き放題に連れて行かれるようなものでしたが、聖霊ナビは、エゴ・ナビのように押しつけがましくはなく、運転手の選択に進路を委ねるので、車のカーナビに近いといえるかもしれません。

聖霊ナビの音声案内はつねに、きれいな声でしっかり導いてくれていますが、旅のはじめは、まだ解除されていないエゴ・ナビが勝手に運転を乗っ取ったり、大音量で音声案内を車内に鳴り響かせたりして邪魔をするので、なかなか聖霊の案内どおりに運転することは困難です。

ですが、ひとたび目的地を設定しさえすれば、私たちが聖霊を信頼して任せる度合いが増すにつれて、聖霊自体が私たちの見えないところでいろんな働きをしてくれて、どんどんエゴの邪魔を制御できるようになり、聖霊の音声案内が聞き取れるようになっていきます。


選択のとき~聖霊ナビを選ばなければ、デフォルトのエゴ・ナビのまま

さて、この節の進路上の分岐点は、聖霊の案内に従うのが上手になって、聖霊に任せる程度がぐうんと進んだ段階で、完全に聖霊にハンドルを任せきる明け渡しをするかどうかを選ぶような場面です。

かつて、エゴ・ナビの時代は、エゴ・ナビは私たちの了解もなく、強引にハンドルを奪い取って自動運転していましたが、聖霊ナビも自動操縦的なモードがないわけではありません。

ただし、聖霊ナビが強引にエゴ・ナビのように私たちからハンドルを奪うことはありえません。

私たちは、音声案内に従って旅を続けるうちに、聖霊の声に対する信頼を強めていきます。

だから、このような最終選択の場面では、すでにもう準備は整っているのであり、思いきりが必要なだけです。




高速道路での分岐点のように

冒頭のパウロ・コエーリョさんの言葉のように、選択肢のある"destiny"「運命」と選択の余地のない定められた"fate"「宿命」を区別することができます。高速道路を進行することが宿命、ジャンクションで道を選ぶことが運命に相当します。

私たちは、遠方の目的地をカーナビで設定して、高速道路で向かう場合に、車内での会話に気を取られたりして、うっかりジャンクションで進むべき道を選び間違えて、別ルートに乗ってしまうことがあります。

その場合、一般道のようにすぐに方向転換して軌道修正するということができず、次のジャンクションで道を変えたり、インターチェンジで下道に降りたりということができるまで、自分の選んだ間違った道を進む必要があります。

カーナビは、自分の進めた最適ルートを無視してドライバーである私たちが別のルートを選んだからといってへそを曲げたりせずに、新しいルートに沿って、あらためて目的地に向かう最善のルートを検討して、根気よく提案し続けてくれます。

あらためて目的地に向かうために必要な分岐点が近づくつど、カーナビは次の分岐ではこちらに進んでねと助言してくれます。

聖霊ナビのこの助言は、エゴナビに従っている私たちからすると、損失や害悪をもたらす不幸や災厄のように思えてしまいがちです。

表面的な判断で聖霊ナビの進める道を災厄と判断して回避してエゴナビの進める道を選んでしまうと、分岐を通り過ぎてしまったら、聖霊ナビの案内は消えてしまいます。

こうして、エゴナビの提示する「正解」を選び表面的な災厄を避けて自分の望み通りの道を引き寄せてゆくと、そのうち、もはやリルートしても目的地にはとうてい到達できない場所に行き着いてしまうということになります。


サンクコストを惜しむ錯覚から脱する

冒頭でニーチェが語る真理をおさらいしましょう。



Many people are obstinate about the path once it is taken, few people about the destination.
多くの人は、いったん踏み出した道を歩むことにこだわるが、自分の歩む道がどこに辿り着くかにこだわる者はほとんどいない。

私たちがハマってしまう罠はまさにこれではないでしょうか。

まるで過去が実在し、慣性の法則によって現在と未来を規定し束縛しているかのように、これまでせっかく苦労して歩んできた道なのだからと、エゴの推奨する表面的には望ましく思える道を進み続けることになってしまいます。

道具と心中する滑稽さ、哀れさが漂う、「健康のためなら死んでもいい!」精神にだれもが毒されている何よりの証拠です。

サービスエリア等に入るなどリトリートして、道具やルートを用いるのははたして何のためだったのか思い返して、達成すべき目的や到達すべき目的地が何よりも肝要だということに気づかなければなりません。

間違った目的地から本来目指すべき目的地に進路が切り替えられるなら、それまでの道に費やしたコストがすべて無駄になったとしても安いものではないでしょうか?


表面的な災厄にも祝福の機会を見出す

道案内を聖霊に任せる選択をするなら、聖霊を信頼して、自分の歪んだ知覚では害悪にしか見えないとしても、それは聖霊ナビが案内してくれているリルートのメッセージなのだと信じて、その害悪の中に祝福の機会を見つける意識で臨むことになります。


「3. Trials are but lessons that you failed to learn presented once again, so where you made a faulty choice before you now can make a better one, and thus escape all pain that what you chose before has brought to you.
 さまざまな試練は、あなたが以前に間違った選択をしてしまったところで、今度はよりよい選択ができるように、あなたが以前に習得し損なったレッスンが再び提示されているものにほかなりません。よりよい選択をし直すことによって、あなたは自分の以前の選択があなたにもたらしていた苦しみのすべてから逃れられるのです。

 In every difficulty, all distress, and each perplexity Christ calls to you and gently says, "My brother, choose again."
 いかなる困難に直面していようと、どれほど悲嘆に暮れていようと、どれほど混乱していようと、そのたびに、キリストはあなたに呼びかけて、優しく「私の弟よ、もう一度、選び直しなさい」と言ってくれているのです。」(T31-8 終着


この観点からすれば、分岐点であえて厄介な道を選んだと思っていたとしても、霧が深くて険しい道に思えるのは、新しいルートを進む最初の内だけで、進むにつれて霧が晴れて思ってもみなかったすばらしい景色が開けてくる感動を味わうことになるのでしょう。


「2. It is but the first few steps along the right way that seem hard, for you have chosen, although you still may think you can go back and make the other choice.
 とはいえ、難しく感じるとしても、それは、正しい道に沿って進む最初の数歩だけです。というのは、あなたはすでに選択をしているのに、依然として、あと戻りして別の道を選ぶこともできるという思いがあるかもしれないからです。

 This is not so.
 しかし、あと戻りなどできません。

 A choice made with the power of Heaven to uphold it cannot be undone.
 天国の力に支持されて選んだことは、取り消すことなどできないのです。

 Your way is decided.
 あなたの道は決まっているのです。

 There will be nothing you will not be told, if you acknowledge this.
 もしあなたが自分の道が決まっていることを承認するなら、あなたに知らせてもらえないようなことは何ひとつなくなります。」

その選択のあとに待っていることについて述べる3.以下は、希望に満ちて元気が湧いてくる文章が続くと思います。

じっくり読んでみてください。


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テキスト 第二十二章 

IV. The Branching of the Road
四 進路上の分岐点



1. When you come to the place where the branch in the road is quite apparent, you cannot go ahead.
 進路に分岐があるのがきわめて明白になる地点にあなたが差しかかったら、あなたはそのまま前に進むわけにはいかなくなります。

 You must go either one way or the other.
 あなたは、その岐路のどちらか一方に進まなければなりません。

 For now if you go straight ahead, the way you went before you reached the branch, you will go nowhere.
 というのも、ここでもし、あなたが今まで歩んできた道をそのまま真っすぐ進もうとしても、あなたは分岐点にぶつかってしまうので、どこにも行けなくなってしまうからです。

 The whole purpose of coming this far was to decide which branch you will take now.
 こんなにも遠くまでやってきた目的はもっぱら、あなたが今どちらの道に進むことにするか決めるためだったのです。

 The way you came no longer matters.
 これまであなたがどんな道を歩んできたかは、もはや重要ではありません。

 It can no longer serve.
 これまで歩んだ道は、もう役に立たないからです。

 No one who reaches this far can make the wrong decision, although he can delay.
 こんなに遠くまで辿り着いた者は、遅れることはできても、誰ひとり間違った決断をすることはできません。

 And there is no part of the journey that seems more hopeless and futile than standing where the road branches, and not deciding on which way to go.
 たしかに、旅路の途中で道が分岐し、どちらに進むべきか決めかねて立ちすくむときほど絶望的で心細く思えることはありません。

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2. It is but the first few steps along the right way that seem hard, for you have chosen, although you still may think you can go back and make the other choice.
 とはいえ、難しく感じるのは、正しい道に沿って進む最初の数歩だけです。というのも、あなたはまだ自分にはあと戻りして別の道を選ぶこともできると思っているかもしれませんが、あなたはすでに選択を済ませているからです。

 This is not so.
 あなたはもう、あと戻りできません。

 A choice made with the power of Heaven to uphold it cannot be undone.
 天国の力添えを受けて選んだことは取り消しが効かないからです。

 Your way is decided.
 あなたの歩む道は決まっているのです。

 There will be nothing you will not be told, if you acknowledge this.
 もしあなたが自分の道が決まっていることを承認するなら、あなたに知らせてもらえないようなことは何ひとつなくなるでしょう。



3. And so you and your brother stand, here in this holy place, before the veil of sin that hangs between you and the face of Christ.
 こうして、あなたと兄弟はともに、自分たちとキリストの顔の間にかけられた罪というヴェールを前にして、この神聖な場所に立っています。

 Let it be lifted!
 さあ、そのヴェールを上げてください。

 Raise it together, for it is but a veil that stands between you.
 そのヴェールをあなたたちで一緒に上げるのです。それは単にあなたたちの間を遮る薄い覆いでしかないからです。

 Either you alone will see it as a solid block, nor realize how thin the drapery that separates you now.
 自分ひとりだけで見ているかぎり、あなたたちのどちらにも、そのヴェールは頑丈な岩のように見えるので、今あなたたちを隔てている幕がどんなに薄いものなのかわからないままでしょう。

 Yet it is almost over in your awareness, and peace has reached you even here, before the veil.
 しかし、あなたたちを隔てる障壁はあなたの意識の中でほとんど消えかけており、そのヴェールの前のここですら、すでにあなたの許に平安が到達しています。

 Think what will happen after.
 このあとに、何が起こるか考えてみてください。

 The Love of Christ will light your faces, and shine from them into a darkened world that needs the light.
 キリストの大いなる愛があなたたちの顔を照らし、あなたたちの顔から光を必要としている闇の世界に輝きを注ぐようになるのです。

 And from this holy place he will return with you, not leaving it nor you.
 そして、この神聖な場所から、キリストはあなたと一緒に戻ってゆきますが、キリストは、その聖地からもあなたからも離れることはありません。

 You will become his messengers, returning him unto himself.
 あなたはキリストの使者となって、キリストをキリスト自身へと戻すことになります。

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4. Think of the loveliness that you will see, who walk with him!
 キリストとともに歩むあなたがどんなに素晴らしい光景を目にすることになるか思い浮かべてください。

 And think how beautiful will each of you look to the other!
 そして、あなたたちがお互いにどれほど美しく見えるようになるか考えてみてください。

 How happy you will be to be together, after such a long and lonely journey where you walked alone.
 本当に長く寂しい旅をひとりで歩んできたあなたたちがようやく一緒になれたとき、あなたはどれほど幸せになるでしょう。

 The gates of Heaven, open now for you, will you now open to the sorrowful.
 今あなたのために開かれている天国の扉を、今度はあなたが悲しい思いをしている者たちのために開くことになります。

 And none who looks upon the Christ in you but will rejoice.
 だから、あなたの中にいるキリストを見る者はみんな、喜ばずにはいられません。

 How beautiful the sight you saw beyond the veil, which you will bring to light the tired eyes of those as weary now as once you were.
 あなたがヴェールの向こう側に見た光景は、なんと美しいものだったことでしょう。あなたはその光景を、以前の自分と同じように、今、疲れ果てている者たちのくたびれた目を照らすためにもたらすことになります。

 How thankful will they be to see you come among them, offering Christ's forgiveness to dispel their faith in sin.
 彼らは、あなたが罪に対する彼らの信仰を払い除けるために自分たちのところへ来てキリストの赦しを差し延べてくれるのを見て、どんなに感謝することでしょう。



5. Every mistake you make, your brother will gently have corrected for you.
 あなたがどんな過ちを犯そうとも、あなたのために兄弟が優しく修正してくれるでしょう。

 For in his sight your loveliness is his salvation, which he would protect from harm.
 というのも、その兄弟には、あなたの素晴らしさこそが自分の救いに見えるので、彼は、自分の救いであるあなたの素晴らしさが損なわれないように守ろうとするはずだからです。

 And each will be the others strong protector from everything that seems to rise between you both.
 そして、あなたたちはお互いに、ふたりの間に生じるように思えるすべてのことから、お互いを守る力強い守護者となるでしょう。

 So shall you walk the world with me, whose message has not yet been given everyone.
 それゆえ、きっとあなたは私とともにこの世界を歩むことでしょう。私の伝えたいメッセージは、まだみんなに伝わってはいないからです。

 For you are here to let it be received.
 あなたは、私のメッセージがみんなに受け取ってもらえるように、ここにいるのです。

 God's offer still is open, yet it waits acceptance.
 神からの贈り物は、今なお何の妨げもなく差し延べられたままですが、受け入れてもらえることを待っています。

 From you who have accepted it is it received.
 贈り物をすでに受け入れたあなたからであれば、贈り物は兄弟たちに受け取ってもらえるでしょう。

 Into your joined hands is it safely given, for you who share it have become its willing guardians and protectors.
 あなたたちのつながれた手の中になら、神の贈り物は難なく与えられます。というのも、神の贈り物を分かち合うあなたは、自分から進んで神の贈り物を守る守護者となったからです。

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6. To all who share the Love of God the grace is given to the givers of what they have received.
 神の大いなる愛を分かち合うすべての者、つまり、自らが受け取ったものを与える者たちに、神の恵みが授けられます。

 And so they learn that it is theirs forever.
 こうして、彼らは、自分の受け取ったものが永遠に自分たちのものであると学びます。

 All barriers disappear before their coming, as every obstacle was finally surmounted that seemed to rise and block their way before.
 彼らがここに来る前に、障害はすべて消えてなくなるでしょう。それは、以前には、彼らの道に現れては邪魔をしていた障害がついにことごとく克服されたからです。

 This veil you lift together opens the way to truth to more than you.
 このヴェールを、あなたたちが一緒に持ち上げることで、あなたたち以外の者たちにも真理への道が開けます。

 Those who would let illusions be lifted from their minds are this world's saviors, walking the world with their Redeemer, and carrying his message of hope and freedom and release from suffering to everyone who needs a miracle to save him.
 自分たちの心から幻想を取り除いてもらおうとする者たちは、この世界の救い主たちです。彼らは、自分たちの大いなる救い主とともにこの世界を巡り歩き、自らの救いのために奇跡を必要としている者たち一人ひとりの許へと、希望と自由、そして、苦しみからの解放についての大いなる救い主のメッセージを運んでゆきます。



7. How easy is it to offer this miracle to everyone!
 この奇跡をみんなに差し延べるのは、なんとたやすいことでしょう。

 No one who has received it for himself could find it difficult.
 自分で奇跡を受け取った者であれば誰も、奇跡を差し延べるのを難しいと思うはずがありません。

 For by receiving it, he learned it was not given him alone.
 というのは、自ら奇跡を受け取ることで、彼は、その奇跡が自分ひとりだけに与えられたものではなかったと学んだからです。

 Such is the function of a holy relationship; to receive together and give as you received.
 これこそ、神聖な関係の役目です。それは、一緒に受け取り、自分が受け取ったように与えるということです。

 Standing before the veil, it still seems difficult.
 ヴェールの前に立っていると、依然として、自分が受け取ったように与えることは難しく思えます。

 But hold out your joined hands and touch this heavy-seeming block, and you will learn how easily your fingers slip through its nothingness.
 しかし、あなたたちでつないだ手を伸ばして、この重厚に見えている岩に触れてみてください。そうすればあなたにも、どんなに簡単に自分の指が虚無の中を滑り抜けてしまうかわかるでしょう。

 It is no solid wall.
 それは堅固な壁などではありません。

 And only an illusion stands between you and the holy self you share.
 あなたたちとあなたたちが共有している聖なる大いなる自己との間に立ちはだかっているのは、単なる幻でしかないのです。


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