S1-3 他者のために祈る


あなたは私を引き上げ、私はあなたを引き上げる。そして私たちは一緒に登ってゆく。

クエーカー

クエーカー教徒の格言



嫉妬は自分とそれ以外の人とは別々の存在だと思う心から生じる。もし自分と自分以外の人を別ではなく、同じ存在だと見ることが出来れば、嫉妬することがなくなり、公平な心になり、全ての人の善行を心から賞賛できる。

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空海



If the only prayer you ever say in your whole life is 'thank you' that would suffice.
もしあなたがこれまで自分の全生涯で口にした唯一の祈りが「ありがとう」だったなら、それだけで十分だ。



Meister Eckhart
マイスター・エックハルト

神のエクハ



最終的に、あなたが自分を心から愛し、人生を楽しむためには、真の赦しを世界に示すことで無条件の愛である自分自身を表に表さなければならないとはっきりとわかるでしょう。人を赦すと、その行為は回り回って自分を赦すことにつながります。誰かとの関係において、自分が傷つく経験をしたときには、ほとんどの場合、自分自身がそうなるのを許したのです。ほとんどの場合、私たちは無意識であり、他人を喜ばせるために自分を抑えたり、無視したり、自分の意に背いていた可能性が高いのです。
どんな理由であれ、もし、私たちがいまだに誰かに深く傷つけられたと感じているとしたら、自分を尊重し、正直に生きる方法がわからないでいる私たちに対して、問題の核心となる出来事が様々な形で起こります。今、前進するための唯一の方法は、誠実さ、優しさ、そして自尊心をもって語り、行動することです。そうすることで、過去を癒し、前に踏み出すことができるのです。この事を念頭に、その出来事を招いてしまった自分のこともどうか赦してあげてください。あなたは他になすすべを知らなかっただけです。あなたもみんなと同じく、学びの過程にいたのです。あなたが誰かに傷つけられたと思っているなら、どうかその相手のことも許してあげてください。彼らも学びの途中なのです。先にも述べたように、自分自身と他者の両方を赦すために必要なことは、二度と自分を拒絶しないこと、そして裏切らないことです。今度こそ自分を守り、人生に責任をもつことで、二度と他人の無意識の言動の犠牲にならないことです。たとえ不安でも、自分に誠実に振る舞うことですべては赦され、あなたはやっと自分の人生を楽しむ自由を手に入れることができるでしょう。幸せに生きる人生と、痛み、怒り、憎しみで身動きがとれないままの人生のどちらかを選ばなければならないとしたら、あなたはどちらを選びますか?

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Blake D. Bauer
ブレイク・D・バウアー(「あなたは苦しむために生まれたんじゃない―恐れ、不安、うつを乗り越え、ありのままの幸せな自分で生きる-」239ページ)

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他者のために祈ることが必要な仕組み

前節で、自分を迫害する敵のために祈れという言葉は矛盾ではなく、本当の自分を分割させて他者の仮面を被らせて敵視することでキリストを幽閉しているというのが実体なのだから、本当の自分である神の子を解放するために祈りなさいということを言っている、つまり、祈りは自分自身のためのものだということが示されました。

この理屈なので、本当の自分である神の子のためになるとしても、方法としては、神の子が自分を分裂させて個別のアバターになりきっているために、ここでの祈りは、このアバターの個別の自己がなすものとなるので、個別の自己からすれば、自分ではなく他者のために祈るべきことになります。

四肢の根元に装着するとそこから先の手足の運動神経をハイジャックする機器が装着された人の手足がお互いに攻撃し合っているとして、たまたまその機器が外れて自由になった右腕の役目は、自分を攻撃してくる左手や両足に反撃することではなく、左手や両足の根本に取りついて誤作動させている機器を取り除いて癒してあげることだけです。

この本来の自分の役目を忘れて自分以外の他者を敵に見せかけて誤作動させる機器に相応する仕組みは罪悪感です。

罪悪感は、罪を意識して咎める感情です。自分の腹に溜めている状態では自責の念となり、本来神聖な神の子には自らに罪穢れがあるという状態に対する耐性はなく、罪悪感を抱えたままでいることには耐えられません。そこで、自分の外へと罪悪感を放り出したいという欲求が生じます。





投影によって「他者」とみなした「自分」

しかし、罪に濁らされた感情は、水のようなさらさらしたものではなく、接着剤のように粘り気の強い感情なので、罪悪感が吸着する対象に投げつけてそこに取り付かせて自分から離すのが手っ取り早い解消法に思えます。

もっとも、そもそも神の子はすべてを持つと同時にすべてでもあるのだから、神の子にとって「自分の外」などありません。

そこで、受け入れることができず、捨て去りたい罪悪感を手放して捨て去ることができたように自分をごまかすには、まず、すべてである自分を分割して、本当はひとつである自分を自らの自覚を残す部分と自分ではない他者として他者の仮面の奥に閉じ込める部分とに分割して、自分として残す部分とは別に、残りの他者となる部分から、自分に罪悪感を懐かせる原因を作り出した役回りを演じるのに適当な他者を見つけ出し(作り出し)、その他者を罪悪感を投影してなすりつけるべきゴミ箱、痰壷にし、これを敵と呼ぶことになります。


「人を呪わば穴二つ」

そして、敵に罪をなすりつけることで当人は自分から罪悪感を手放して自由になったと思いますが、罪悪感は消え去ったのではなく、自分を本来の自分から大幅に縮減して、自分ではないことにした自分に罪悪感を押しつけて自分の目に見えないように隠したことにしかなりません。

というのも、上記のように、そもそも自分の「外」に「他者」がいるということ自体が錯覚だからです。パソコンの長期記憶媒体の中にあるいつも自分が常用する一つのフォルダを自分とみなして他に作り出したフォルダを敵とみなして、自分のフォルダにあった罪悪感というファイルを敵というフォルダに移し替えただけで、自分の記憶装置の中に罪悪感は存在したままだからです。

敵フォルダは、下手に開くと罪悪感が噴出してしまうアンタッチャブルな存在となり、耐えず周囲を警戒し非難や攻撃して圧をかけて封印しておかなければならなくなりますが、この敵フォルダがあるおかげで、自分は罪悪感から免れていられると信じることになります。

けれど、敵がいてくれないかぎりは、再び罪悪感を抱える羽目になるので、その人は、敵を囚人として監視しているつもりが、かえって敵という看守に見張られた幽閉状態に自分を置くことになります。

はしごの一番下に位置する未熟な形態の祈りは、愛ではなく復讐を求めるものになってしまうがゆえに、嫉妬や敵意の影響を免れません。

他者を罰することを求める祈りは自らの処罰を求める祈りであり、ふたりともを地獄に落とします。

そこで、「人を呪わば穴二つ」ということが真理であることに気づくことがこの段階での学びの目標となります。


罪悪感を隠さずに放棄する

次の段階は、自分が他者に求めたことは自分の身に起こってほしいことではなかった、そのせいで、自分は兄弟を敵にしてしまったのだという気づきから始まります。

罪悪感を免れるには、隠すのではなく、放棄することが必要です。


放棄には、罪悪感は去っているという真理に気づくことが必要となります。

敵フォルダの中に罪悪感ファイルを隠したままでいるかぎり、この真理に気づくことは不可能です。

敵の姿に見えているけれど、本当は自分を祝福するために現れてくれた救い主なのだと信じて、勇気を出して敵フォルダを開いてみるのです。

そうすると、自分も敵もひとりだけで見ていたときには取り返しのつかない罪にしか見えなかったものが、ふたりで一緒に見ると、そこに罪はなく、自分たちがキリストを介してひとつに結ばれている真理に気づくレッスンを教えるチャンスとして起こった誤りだったのだ、誤りとは罪ではなく祝福なのだということがわかります。




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1.- III. Praying for Others
 他者のために祈る



1. We said that prayer is always for yourself, and this is so.
 私たちは、祈りはつねにあなた自身のためのものだと述べました。そして、これはまさにその通りです。

 Why, then, should you pray for others at all?
 そうであるなら、一体全体なぜあなたが他者のために祈るべきだということになるのでしょうか。

 And if you should, how should you do it?
 そしてもし、あなたがそうすべきだとしたら、あなたはどのようにして祈るべきなのでしょうか。

 Praying for others, if rightly understood, becomes a means for lifting your projections of guilt from your brother, and enabling you to recognize it is not he who is hurting you.
 もし他者のために祈ることを正しく理解するなら、他者のために祈ることは、あなたが自分が兄弟に投影した罪悪感を兄弟から取り除いて、自分を傷つけているのが兄弟ではないとあなたが気づけるようになるための手段となります。

 The poisonous thought that he is your enemy, your evil counterpart, your nemesis, must be relinquished before you can be saved from guilt.
 あなたが罪悪感から救われるためには、兄弟はあなたの敵であり、あなたとは対極にある邪悪な存在であり、あなたの仇敵だという毒念に満ちた思考を放棄しなければなりません。

 For this the means is prayer, of rising power and with ascending goals, until it reaches even up to God.
 このための手段となるのが祈りです。祈りには、まさに神の下にまで祈りが届くように上昇してゆく段階的な目標と、それを目指して昇ってゆく力とが備わっています。



2. The earlier forms of prayer, at the bottom of the ladder, will not be free from envy and malice.
 はしごの一番下に位置する未熟な形の祈りは、どうしても嫉妬や敵意の影響を受けてしまいます。

 They call for vengeance, not for love.
 というのも、未熟な形の祈りは、復讐を求めるものであり、愛を求めるものではないからです。

 Nor do they come from one who understands that they are calls for death, made out of fear by those who cherish guilt.
 それに、そのような未熟な祈りは、罪悪感を抱く者が恐怖に駆られて死を呼び求めるものだとわかっている者から、そのような祈りが発せられることはありません。

 They call upon a vengeful god, and it is he who seems to answer them.
 そのような未熟な祈りは、復讐心に満ちた神を召喚します。だから、未熟な祈りに答えてくれるように思えるのは、そんな復讐の神なのです。

 Hell cannot be asked for another, and then escaped by him who asks for it.
 他者のために地獄を求めておきながら、自分だけは地獄から免れているわけにはいきません。

 Only those who are in hell can ask for hell.
 というのも、ただ地獄にいる者にしか、地獄を求めることはできないからです。

 Those who have been forgiven, and who accepted their forgiveness, could never make a prayer like that.
 赦されて自らの赦しを受け入れた者たちには、決してこのように祈ることはできません。



3. At these levels, then, the learning goal must be to recognize that prayer will bring an answer only in the form in which the prayer was made.
 したがって、これらのレベルでは、その祈りがなされた形でのみ祈りは答えられることになると気づくことを学習の目的に設定すべきです。

 This is enough.
 これで十分です。

 From here it will be an easy step to the next levels.
 このことに気づけば、次のレベルに踏み出すのは容易になるでしょう。

 The next ascent begins with this:
 次に昇る階段は、次のように始まります。


What I have asked for for my brother is not what I would have.
私は、自分の身に起こってほしくないことを自分の兄弟に起こるよう求めてきた。

Thus have I made of him my enemy.
そのせいで、私は兄弟を自分の敵に変えてしまったのだ。


 It is apparent that this step cannot be reached by anyone who sees no value or advantage to himself in setting others free.
 他者を解放することは自分にとって何の価値も利益もないと思っている者が、この段階に到達できないのは言うまでもありません。

 This may be long delayed, because it may seem to be dangerous instead of merciful.
 この段階に到達するまでには、とても時間がかかるかもしれません。なぜなら、この段階は、幸せに満ちたものというよりも危険に満ちたものに思えるからです。

 To the guilty there seems indeed to be a real advantage in having enemies, and this imagined gain must go, if enemies are to be set free.
 罪悪感を抱く者には、敵を持つことによって実際に得をする利点があるように本当に思えるので、もし敵を解放してしまったら、この想像上の利益を失ってしまうように思えるからです。



4. Guilt must be given up, and not concealed.
 罪悪感は、隠すのではなく、放棄しなければなりません。

 Nor can this be done without some pain, and a glimpse of the merciful nature of this step may for some time be followed by a deep retreat into fear.
 しかし、相当な痛みを抜きにしては罪悪感を手放すことはできないので、この段階が恵み深いものであるという本質を垣間見ることはあっても、そのあとに恐怖の中への深刻な引きこもりがしばらくの間続くこともあるかもしれません。

 For fear's defenses are fearful in themselves, and when they are recognized they bring their fear with them.
 というのも、恐れる者には防衛することそれ自体が恐ろしいものなので、自分が身を守ろうとしていることを意識したら、その認識自体が恐怖をもたらすからです。

 Yet what advantage has an illusion of escape ever brought a prisoner?
 しかし、囚人が自分は脱出したという幻想を得たところで、彼には何の得もありません。
 
 His real escape from guilt can lie only in the recognition that the guilt has gone.
 彼が真に罪悪感から脱出するには、罪悪感が去っていることに気づくしか手立てはありません。

 And how can this be recognized as long as he hides it in another, and does not see it as his own?
 彼が罪悪感を他者の中に隠して、それを自分のものとして見ようとしないかぎり、どうして罪悪感が去っていることに気づけるでしょうか。

 Fear of escape makes it difficult to welcome freedom, and to make a jailer of an enemy seems to be safety.
 脱出することへの恐怖心が自由を歓迎するのを困難にするので、敵を看守にしておいたほうが安全なように思えます。

 How, then, can he be released without an insane fear for yourself?
 そうなると、あなたは敵が解放されて看守がいなくなってしまうことに、気も狂わんばかりの恐怖心を抱かずにはいられないはずです。

 You have made of him your salvation and your escape from guilt.
 あなたは敵の存在を自らの救いとして、敵がいてこそ、自分は罪悪感を免れると解釈してきたからです。

 Your investment in this escape is heavy, and your fear of letting it go is strong.
 この逃避策にあなたは莫大な思いをつぎ込んで投資してきたので、あなたはそれを手放すのをひどく恐れています。



5. Stand still an instant, now, and think what you have done.
 今こそ、一瞬立ち止まって、自分が何をしてきたのか考えてみてください。

 Do not forget that it is you who did it, and who can therefore let it go.
 それをなしたのはあなたなのだから、当然、あなたにはそれをやめられることを忘れないでください。

 Hold out your hand.
 あなたの手を差し出しなさい。

 This enemy has come to bless you.
 この敵は、あなたを祝福するために来たのです。
 
 Take his blessing, and feel how your heart is lifted and your fear released.
 彼の祝福を受け取ってください。そうして、どんなにあなたの心が高揚し、あなたが恐怖を免れるか感じてください。

 Do not hold on to it, nor onto him.
 罪悪感にも敵にも、しがみついてはなりません。

 He is a Son of God, along with you.
 彼は、あなたと同じく神の子なのです。

 He is no jailer, but a messenger of Christ.
 彼は看守などではなく、キリストの使者なのです。

 Be this to him, that you may see him thus.
 あなた自身が彼にとって神の子となりキリストの使者となってください。そうすれば、あなたにも、彼が神の子でありキリストの使者なのだとわかるでしょう。



6. It is not easy to realize that prayers for things, for status, for human love, for external "gifts" of any kind, are always made to set up jailers and to hide from guilt.
 それが何であれ、物事や地位、人間的な情愛、その他、自分の外にある「贈り物」を求める祈りはどれもみな、看守を仕立て上げて罪悪感から隠れるためのものだと気づくのは容易なことではありません。

 These things are used for goals that substitute for God, and therefore distort the purpose of prayer.
 これらの物事は、神の代用にするという目標のために、したがって、祈りの目的を歪曲するために用いられるものだからです。

 The desire for them is the prayer.
 それらの物事を願望することは、そのような祈りなのです。

 One need not ask explicitly.
 祈る際に、明示的に求める必要はありません。

 The goal of God is lost in the quest for lesser goals of any kind, and prayer becomes requests for enemies.
 どんな種類であれ、神に満たない目標を追い求めることによって、神という目標は見失われて、祈りは敵を求める要請となるからです。

 The power of prayer can be quite clearly recognized even in this.
 このような形ですら、祈りが力を持つことは、本当に自明のことです。

 No one who wants an enemy will fail to find one.
 敵を求めながら、敵を見出し損ねる者は誰もいないからです。

 But just as surely will he lose the only true goal that is given him.
 ただし、敵を見出すのと同じくらい確実に、彼は自らに授けられた唯一の真の目標を失うことになります。

 Think of the cost, and understand it well.
 その代償を考えて、このことをよく理解してください。

 All other goals are at the cost of God.
 神以外のどんな目標もすべて、神を犠牲にするものなのです。





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