「スピリチュアル系」に進化したエゴに注意!


There is nothing that strengthens the ego more than being right.
正しくあろうとすることほど、エゴを強めてしまうものはほかにありません。

Being right is identification with a mental position - a perspective, an opinion, a judgement, a story.
正しくあろうとすることは、ひとつの心理的な立場、ある観点、ある意見、ある価値判断、ある物語に肩入れすることだからです。

For you to be right, of course, you need someone else to be wrong, as so the ego loves to make wrong in order to be right.
あなたが正しくあるためには、当然ながら、あなたにとってほかの誰かが間違っている必要が出てくるので、エゴは正しくあるために、喜んで他者を悪者に仕立て上げるわけです。



Eckhart Tolle, A New Earth: Awakening to Your Life's Purpose
エックハルト・トール

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スピリチュアルなうぬぼれは、死に値する大罪──プライドという自尊心──の冠たるものだ

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Vladimir Megre
ウラジーミル・メグレ(「響きわたるシベリア杉 シリーズ2 アナスタシアの祖父の言葉)

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質問65.『奇跡講座』との関連で集うグループのことはどう思われますか?

まず初めに、『奇跡講座』には、グループを形成することや他の人たちと出会うこと、あるいは形態のレベルでつながり合うことなどについては、まったく何も書かれていないということを述べておきましょう。このことの重要性は、『奇跡講座』を学ぶプロセスは心のレベルにおいて起こるということや、それが本当は独習用のコースだということを物語っているという点にあります。このコースの重点は常に、心の中でイエスまたは聖霊とつながること、そして、外的な関係のごとく見えているものや、それに関連した何らかの状況を、違った見方で見ることができるように助けを求めることにあります。これが赦しの意味です。自らが肉体の中にあって他の肉体とやりとりするという私たちの経験が教室となり、その教室の中で、私たちは自分の心を変えるための助けを内なる教師に求めるのです。そのとき、ただ一つの真に意味のあるつながり合いは、イエスまたは聖霊とのつながり合いであり、それだけが常に『奇跡講座』を学ぶ私たちが注意を向けるべきものです。そしてそれが、「テキスト」の中で「大いなるつながり合い」(T-28IV)と言われているものです。このセクションで述べられている通り、聖霊は分離した神の子ら全員の心の中に存在しており、聖霊とつながることでー繰り返しますが、これが赦しの真の意味ですーその人はすでにあらゆる人とつながっていることになります。

・・・

もちろん、『奇跡講座』の受講生が外的に他の受講生たちと集い合うことは、何ら悪いことではありません。けれども、私たちが注意を向けるべき対象は、行動ではなく、常に、自分の行動を導く案内人として自らが選ぶ内なる教師です。ですから、要は、このコースを学ぶことに関連していようといまいと何かをしようとするときには、それは実際にやり始める前に、全力を尽くして、自分の自我の関与をイエスのもとに運ぶことが真摯に試みるということです。
もし自分が、何らかの『奇跡講座』のグループや組織などに所属することへと導かれているように感じるとしたら、私たちは、常に、そうしたグループ活動が個人的に自分が取り組むべきこと ── 三部作自体を学習し実践すること ── の代替とならないように、警戒していなくてはなりません。さもなければ、いとも簡単に特別性にあやつられてしまうことになります。そして、特別性とは、すでに見てきたように、何かを神の愛の代替に使用することだと定義されます。最初に述べた点を繰り返すなら、イエスが『奇跡講座』の中で、グループを作って集い合うことについて何も述べていないことには、それなりの理由があるのです。ですから、私たちは常に、イエスが『奇跡講座』において唯一重点を置いている事柄、すなわち、赦しを実践しようとする意欲に基づいた一人ひとりの生徒と聖霊との関係に、注意を払っていなくてはなりません。



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ケネス・ワプニック(「赦しのカリキュラム」272ページ)

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偽我が何らかの'スピリチュアル'な概念、'超自然的'で、'刺激的'な概念を使い、あなたを再び幻想の世界、迷夢へと引き込み、真の覚醒を遅らせようとする事は頻繁に起こりえます。実に、こういった巧みな誘惑は、時間というものが始まったその時から、人類の集合意識に対して継続的に行われてきた欺きの方法なのです ー 偽我は、その非現実性、非実在性を隠し通すために、神を真似る必要があるからです。つまり、偽我自身が神を演じ、様々な分離した霊を使い、人類の前に偽りの神を提示し続けてきたということです。正に今もあなたは、この世界で、こういった現象を多々目撃していることでしょう。

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イエス・キリスト(Joseph Benner ジョセフ・ベナーキリスト意識と豊かさについて - 偽我の幻想から脱するために」64ページ)

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Kinoさんの質問

コメントでよい質問をいただきました。長くなるので、本文記事のほうでご回答させていただきます。

質問をいただいたKinoさん、どうもありがとうございました。


①奇跡のコースと私との出会いをどのように評価するかについてです。
現実世界が全て幻想であるとして、「奇跡のコース」の存在はどのように捉えるべきか。
現実世界を超越した絶対存在/神が自分を招いて引合わせて下さったのか、
それとも本稿に書かれているようにおこがましくも自らが創りだした側面もあると言えるのでしょうか。

②また、エゴは、奇跡のコースに触れようとする私をどう眺めるのでしょう。
宿主で居続けさせるため干渉・妨害の手を尽くすのでしょうか。
奇跡のコースを触れるに際し、エゴと対峙する心構えをご指南頂ければ幸いです。






コースはモーフィアスのような存在

まず、①です。

奇跡のコースは、マトリックスのモーフィアスのような存在です。
この世界が幻想であることを知らせ、現実に目覚めるための導きをしてくれる存在です。
幻想である世界の中においては、すべてが幻ですから、奇跡のコースも当然、一個の幻想です。

幻想を知覚するプロセスは、前回お話ししたような仕組みでした。つまり、自分の見たいものを見ると。そして、世界はDVDのように書かれており、エゴに従うかぎり自由意志はなく、選択しているというのは幻想だということでした。

他方で、真理と幻想、聖霊とエゴを選ぶに際しては自由意志を行使でき、聖霊を選択することで、物語の筋を端折った別の筋書きへの切り替えが起こり、時間節約がなされることが可能ということでした。



エゴの導きだったとしてもぜんぜんいいし、エゴに感謝すべき

ゆえに、エゴの導きによることも聖霊の導きによることも、どちらもありうることになろうかと思います。

そして、神の子の思いの力の強さというものは、拡張するにせよ投影によって誤った創造をするにせよ、その人にとっての現実を作り出すほどに強力なものだということでした。

よって、コースとの出会いが超越的な存在の導きによるのか、エゴとしての自分が作り出したのかという点については、その人が、どう思うか、自分の思う方ということになるのでしょう。

私は個々の心の中に住まう聖霊が導いて引き合わせてくれるものと思っていますが、あまり、出会いについては拘泥されないでよいように思います。

なぜなら、私たちはみんな、どうしても、自分は特別だ、選ばれた人間だというふうに自己承認したい欲求を隠し持っていますが、奇跡のコースに巡り合うように導かれた自分は特別だという思いを強めてしまうかもしれないという程度以上の意味があまり見出せないからです。

奇跡のコースを読み進めるとおわかりになると思いますが、きわめて実践的な観点で述べられており、超能力のところでも出てきましたが、ある能力を得たとしても、その来歴はどうでもよいから、実際に学びのために役に立つか立たないかという観点から発想します。

すべてについて、この発想で取り組むので、エゴに従うかぎりはよいところのないものであっても、聖霊の手にかかれば、どんなものであっても学びのための道具へと変えられてしまうのです。時間もこの世界も聖霊にとっては贖罪のための学びの道具になります。

ですから、奇跡のコースにどう出会ったかということについてあれこれと考えを巡らすよりも、それをどう学び、みんなと分かち合っていくのか、ぜひ実践的に考えていただければと思います。



当然ながらコースのほうがエゴよりも上手

つぎに、②です。


実際のところ、エゴにとって、奇跡のコースは非常に脅威となる存在です。

しかし、エゴは巧妙さを持っています。

とくに、精神世界や宗教的な側面に関心を持って進化したエゴはかなり厄介なものかもしれません。

ふつう、世の中のステータスといえば、高級車を持つとか、お金持ちになることであるとか、大企業の社長さんのような地位を得るとか、お医者さんのような社会的に尊敬されるような資格であるとか、いろいろありますが、比較的世俗的なものが多いものです。しかし、そんな中にあって、人格者であるとか賢者だとか、悟りを開いた聖者であるとかいう評価は、究極的なブランド力を備えるものであり、エゴにとっては蜜の味がするものです。

そういった意味で、奇跡のコースに対して、エゴが真正面から攻撃をするとは思えません。

むしろ、コースは、スピリチュアル的な書物の中では、比較的よく引用され、ときに「次世代の聖書」と称揚されることもある本ですから、美味しそうだといって、エゴは舌なめずりしながら喰らいついてくるかもしれません。

でも、きっかけは何でもよいと思います。

エゴが喰いついたきっかけで取り組みはじめたとしても、コースは、エゴが難なく御しうるような甘いものではありませんので、安心できます。

エゴは、ほかのエゴに吹聴するための玄学的な知識を仕入れるために、そこそこ権威のある哲学書でも齧るつもりでコースに手を出しただけだったかもしれませんが、実は、自分自身を解体するための手引書だったわけです。

ここに至ってようやくエゴは脅威を感じることでしょう。

そして、エゴの支配が強い人の場合、この段階でコースから離れていくことが多いでしょう。



エゴをスピリチュアル・エゴに変身させないように注意しましょう

それでも、その人がコースを学びつづける場合、エゴは、生き延びるためにあらゆる手を使わざるをえませんが、それでもエゴは巧妙です。

「11. The ego can accept the idea that return is necessary because it can so easily make the idea seem difficult.
 エゴは、神への回帰が必要だという考えを受け入れることができます。なぜなら、エゴにとっては、神への回帰という考えを困難に見せかけることなど実にたやすいことだからです。」(テキスト 第六章 二 投影に取って代わるもの

真正面からの拒絶がうまくいかないと見るや、いったん相手の流れに合わせて同調し、土壇場のところでひっくり返すという芸当をやってのけたりもするでしょう。

ですが、コースの学習が着々と進むかぎりは、同時進行でエゴの基盤の掘り崩しも進んでいきます。

だから、学習が首尾よく進むならば、エゴが巻き返しを目論んでいる反撃場面には、エゴは相当力を弱めているということもありえます。

以上、覚醒であるとかスピリチュアル的な事柄に関心を持って取り組む際のエゴの攻撃は、きわめて巧妙なものになりがちであることをつねに意識することが肝要であろうと思います。



正しさにこだわらない

それは、とくに、宗教的な事柄や精神的な事柄について、権威となる本の解釈について人と議論するような場面において顕著でしょう。

みんな自分の理解の正しさを論証しようとして相手をやりこめることに躍起になります。

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コースでも、この世界における身体の幻想性を理解しない人に対して議論を吹っかけるようなことをしないよう戒める箇所があります。
他者の無理解を否認すると、その人の方が自分の心の力自体を否認することになってしまうからやめておいたほうがよいというのです。

「However, it is almost impossible to deny its existence in this world.
 しかしながら、この世界の中で身体の存在を否定することは、ほとんど不可能です。

 Those who do so are engaging in a particularly unworthy form of denial.
 この世界の中で身体の存在を否定しようとする者たちは、否認の中でも、とりわけ価値のない形の否認にかまけているといえます。

 The term "unworthy" here implies only that it is not necessary to protect the mind by denying the unmindful.
 ここで「価値のない」という言葉を使うのは、ひとえに心の誤用の結果である身体を否認することによって心を保護する必要などないと示すためです。

 If one denies this unfortunate aspect of the mind's power, one is also denying the power itself.
 というのは、もしある人が、この身体の存在という心の力が不適切に表れた側面を否認するなら、彼は同時に心の力そのものをも否定することになってしまうからです。」(テキスト 第二章 四 恐れからの解放としての癒し 3.)

このような観点から考えて、冒頭でワプニック先生が説明してくださっているように、コースを学ぶ基本的なスタンスとしては自学自習が最適といえ、組織化した学びにはリスクが伴うので警戒が必要なのは確かだとは思います。

平井和正先生の幻魔大戦シリーズが、宗教組織をはじめとするスピリチュアル的な組織・団体の内情、内部のメンバーたちの人間関係等々について学ぶ教材として有益だと思います。

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もっとも、他者と議論する中で、自分で気づかなかった事柄について気づかされるということはよくあるものであって、みんなで学習会などをして学びを分かち合うことは、うまくできれば、よいものだとも思います。

コースは、他人との出会いを聖なる出会いとして、そこから大いなる自己を学ぶようにと言います。
ここでは本来、エゴに導かれたなら特別な関係になってしまった出会いを神聖化することが課題ですので、奇跡のコースを学んでいない人たちとの日常のやりとりの中にこそ、学びの機会が見出せるように思います。
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Kino
2013/06/04 (Tue) 20:40

ご回答有難うございました!
大変腑に落ちました。
エゴへのご注意、心します。

  • To 松山 健 Matsuyama Kenさん
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ken
2013/06/04 (Tue) 21:07

Re: タイトルなし

Kinoさん、こちらこそ、よい質問によってインスパイアしてもらうことができました。どうもありがとうございました。

  • To 松山 健 Matsuyama Kenさん
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