There Is No Spoon

        対訳 奇跡のコース      奇跡のコース( 奇跡講座  A Course in Miracles ACIM )テキスト、ワークブック、マニュアルの和訳(日本語翻訳)

「スピリチュアル系」に進化したエゴに注意!

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コメントでよい質問をいただきました。長くなるので、本文記事のほうでご回答させていただきます。

質問をいただいたKinoさん、どうもありがとうございました。


①奇跡のコースと私との出会いをどのように評価するかについてです。
現実世界が全て幻想であるとして、「奇跡のコース」の存在はどのように捉えるべきか。
現実世界を超越した絶対存在/神が自分を招いて引合わせて下さったのか、
それとも本稿に書かれているようにおこがましくも自らが創りだした側面もあると言えるのでしょうか。

②また、エゴは、奇跡のコースに触れようとする私をどう眺めるのでしょう。
宿主で居続けさせるため干渉・妨害の手を尽くすのでしょうか。
奇跡のコースを触れるに際し、エゴと対峙する心構えをご指南頂ければ幸いです。



まず、①です。

奇跡のコースは、マトリックスのモーフィアスのような存在です。
この世界が幻想であることを知らせ、現実に目覚めるための導きをしてくれる存在です。
幻想である世界の中においては、すべてが幻ですから、奇跡のコースも当然、一個の幻想です。

幻想を知覚するプロセスは、前回お話ししたような仕組みでした。つまり、自分の見たいものを見ると。そして、世界はDVDのように書かれており、エゴに従うかぎり自由意志はなく、選択しているというのは幻想だということでした。

他方で、真理と幻想、聖霊とエゴを選ぶに際しては自由意志を行使でき、聖霊を選択することで、物語の筋を端折った別の筋書きへの切り替えが起こり、時間節約がなされることが可能ということでした。

ゆえに、エゴの導きによることも聖霊の導きによることも、どちらもありうることになろうかと思います。

そして、神の子の思いの力の強さというものは、拡張するにせよ投影によって誤った創造をするにせよ、その人にとっての現実を作り出すほどに強力なものだということでした。

よって、コースとの出会いが超越的な存在の導きによるのか、エゴとしての自分が作り出したのかという点については、その人が、どう思うか、自分の思う方ということになるのでしょう。

私は個々の心の中に住まう聖霊が導いて引き合わせてくれるものと思っていますが、あまり、出会いについては拘泥されないでよいように思います。

なぜなら、私たちはみんな、どうしても、自分は特別だ、選ばれた人間だというふうに自己承認したい欲求を隠し持っていますが、奇跡のコースに巡り合うように導かれた自分は特別だという思いを強めてしまうかもしれないという程度以上の意味があまり見出せないからです。

奇跡のコースを読み進めるとおわかりになると思いますが、きわめて実践的な観点で述べられており、超能力のところでも出てきましたが、ある能力を得たとしても、その来歴はどうでもよいから、実際に学びのために役に立つか立たないかという観点から発想します。

すべてについて、この発想で取り組むので、エゴに従うかぎりはよいところのないものであっても、聖霊の手にかかれば、どんなものであっても学びのための道具へと変えられてしまうのです。時間もこの世界も聖霊にとっては贖罪のための学びの道具になります。

ですから、奇跡のコースにどう出会ったかということについてあれこれと考えを巡らすよりも、それをどう学び、みんなと分かち合っていくのか、ぜひ実践的に考えていただければと思います。



つぎに、②です。


実際のところ、エゴにとって、奇跡のコースは非常に脅威となる存在です。

しかし、エゴは巧妙さを持っています。

とくに、精神世界や宗教的な側面に関心を持って進化したエゴはかなり厄介なものかもしれません。

ふつう、世の中のステータスといえば、高級車を持つとか、お金持ちになることであるとか、大企業の社長さんのような地位を得るとか、お医者さんのような社会的に尊敬されるような資格であるとか、いろいろありますが、比較的世俗的なものが多いものです。しかし、そんな中にあって、人格者であるとか賢者だとか、悟りを開いた聖者であるとかいう評価は、究極的なブランド力を備えるものであり、エゴにとっては蜜の味がするものです。

そういった意味で、奇跡のコースに対して、エゴが真正面から攻撃をするとは思えません。

むしろ、コースは、スピリチュアル的な書物の中では、比較的よく引用され、ときに「次世代の聖書」と称揚されることもある本ですから、美味しそうだといって、エゴは舌なめずりしながら喰らいついてくるかもしれません。

でも、きっかけは何でもよいと思います。

エゴが喰いついたきっかけで取り組みはじめたとしても、コースは、エゴが難なく御しうるような甘いものではありませんので、安心できます。

エゴは、ほかのエゴに吹聴するための玄学的な知識を仕入れるために、そこそこ権威のある哲学書でも齧るつもりでコースに手を出しただけだったかもしれませんが、実は、自分自身を解体するための手引書だったわけです。

ここに至ってようやくエゴは脅威を感じることでしょう。

そして、エゴの支配が強い人の場合、この段階でコースから離れていくことが多いでしょう。

それでも、その人がコースを学びつづける場合、エゴは、生き延びるためにあらゆる手を使わざるをえませんが、それでもエゴは巧妙です。

「11. エゴは、心を神に戻すことが必要であるという考えを受け入れることができます。なぜなら、エゴにとっては、心を神に戻すという考えを困難に見せかけることなど実にたやすいことだからです。」(テキスト 第六章 二 投影に取って代わるもの)

真正面からの拒絶がうまくいかないと見るや、いったん相手の流れに合わせて同調し、土壇場のところでひっくり返すという芸当をやってのけたりもするでしょう。

ですが、コースの学習が着々と進むかぎりは、同時進行でエゴの基盤の掘り崩しも進んでいきます。

だから、学習が首尾よく進むならば、エゴが巻き返しを目論んでいる反撃場面には、エゴは相当力を弱めているということもありえます。

以上、覚醒であるとかスピリチュアル的な事柄に関心を持って取り組む際のエゴの攻撃は、きわめて巧妙なものになりがちであることをつねに意識することが肝要であろうと思います。

それは、とくに、宗教的な事柄や精神的な事柄について、権威となる本の解釈について人と議論するような場面において顕著でしょう。

みんな自分の理解の正しさを論証しようとして相手をやりこめることに躍起になります。
コースでも、この世界における身体の幻想性を理解しない人に対して議論を吹っかけるようなことをしないよう戒める箇所があります。
他者の無理解を否認すると、その人の方が自分の心の力自体を否認することになってしまうからやめておいたほうがよいというのです。

「しかしながら、この世界の中で身体の存在を否定しようとしても、そんなことは、ほとんど不可能です。

 この世界の中で身体の存在を否定しようとする者たちは、否認の中でも、とりわけ価値のない種類の否認にかまけているということができます。

 ここで敢えて「価値のない」という言葉を使うのは、ひとえに、考え足らずであることを否認することによって心を保護する必要がないことを示したいからです。

 もしある人が、心の力が持つこの一見望ましくない一面を否認するとすれば、その人は、自分の心の力そのものをも否認することになってしまうのです。」(テキスト 第二章 四 恐れからの解放としての癒し 3.)

このような観点から、コースが基本的に自学自習を勧めるのは故あってのことだとは思います。

もっとも、他者と議論する中で、自分で気づかなかった事柄について気づかされるということはよくあるものであって、みんなで学習会などをして学びを分かち合うことは、うまくできれば、よいものだとも思います。

コースは、他人との出会いを聖なる出会いとして、そこから大いなる自己を学ぶようにと言います。
ここでは本来、エゴに導かれたなら特別な関係になってしまった出会いを神聖化することが課題ですので、奇跡のコースを学んでいない人たちとの日常のやりとりの中にこそ、学びの機会が見出せるように思います。
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2 Comments

Kino says...""
ご回答有難うございました!
大変腑に落ちました。
エゴへのご注意、心します。
2013.06.04 20:40 | URL | #- [edit]
ken says..."Re: タイトルなし"
Kinoさん、こちらこそ、よい質問によってインスパイアしてもらうことができました。どうもありがとうございました。
2013.06.04 21:07 | URL | #- [edit]

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