レッスン177「レッスン163と164の復習」
Every man is more than just himself; he also represents the unique, the very special and always significant and remarkable point at which the world's phenomena intersect, only once in this way, and never again.
どんな人間もただその人自身であることしかできない。このことは同時に、自分自身であることは、どんなに世界が変わろうとも、いまだかつてなく、そして二度と現れるのとのない独自のきわめて特別で不変の意義を持つ非凡なる到達点であることも意味している。
The true profession of a man is to find his way to himself.
真に人間が極めるべき仕事とは、自分自身に到達するための自分だけの道を見出すことなのだ。

Hermann Hesse
ヘルマン・ヘッセ

だんだんと目がなれるにつれて、じぶんが大きなまんまるい丸天井の下に立っているのがわかってきました。大空とおなじくらいあろうかとも思えるほどの大きさです。しかもそれが純金でできているのです。
天井のいちばん高い中心に、まるい穴があいています。そこから光の柱がまっすぐ下におりていて、そのま下には、やはりまんまるな池があり、そのくろぐろとした水は、まるで黒い鏡のようになめらかで、じっと動きません。
水面にすぐちかいところで、なにかあかるい星のようなものが光の柱のなかできらめいています。それはおごそかな、ゆったりとした速度で動いているのですが、よく見ると、黒い鏡の上を行きつもどりつしている大きな大きな振子でした。でもどこからぶらさがっているのでもないようです。まるで重さのないもののように、ちゅうをたゆたっています。
この星の振子はいまゆっくりと池のへりに近づいてきました。するとそこのくらい水面から、大きな花のつぼみがすうっとのびて出てきました。振子が近づくにつれて、つぼみはだんだんふくらみはじめ、やがてすっかりひらいた花が水のおもてにうかびました。
それはモモがいちども見たことのないほど、うつくしい花でした。まるで、光りかがやく色そのものでできているようです。このような色があろうとは、モモは想像さえしたことがありません。
星の振子は、しばらく花の上にとどまっていました。モモはその光景に、すべてをわすれて見入りました。そのかおりをかいだだけでも、これまではっきりとはわからないながらもずっとあこがれつづけてきたものは、これだったような気がしてきます。
やがてまた振子は、ゆっくりゆっくりもどっていきました。そして振子がわずかずつとおざかるにつれて、おどろいたことに、そのうつくしい花はしおれはじめました。花びらが一枚、また一枚と散って、くらい池の底にしずんでゆきます。モモは、二度ととりもどすことのできないものが永久に消えさってゆくのを見るような、悲痛な気もちがしました。
振子がくらい池のまんなかまできたときには、さっきのうつくしい花はすっかり散りつくしていました。ところがそのときには、池のむこうがわに、またべつのつぼみがくらい水面から浮かびあがりはじめているではありませんか。そして振子がゆっくりと近づくにつれて、さっきよりももっとあでやかな花が咲きにおいはじめたのです。モモはちかくによってながめようと、池をまわってゆきました。
こんどの花は、さっきのとはまったくちがう花でした。やはりモモの見たことのないような色をしていますが、こんどの色のほうが、はるかにゆたかで、はなやかな気がします。においも、さっきとはちがう感じの、もっとあでやかなにおいです。見れば見るほど、つぎからつぎとこの花のすばらしいてんがモモの目に入ってきました。
けれどもやがてまた星の振子はむきをかえ、花はさかりをすぎて、一枚ずつ花びらを散らし、くろぐろとした池の底しれぬ深みに消えてゆきました。しずかに、しずかに、振子は反対がわにもどってゆきます。けれどさっきとおなじところではなく、ほんのわずかずれたあたりです。そしてその場所、さいしょの花から一歩ほどはなれたところに、またしてもつぼみがひとつ浮かびあがり、しずかにふくらみはじめました。
これほどうつくしい花があろうかと、モモには思えました。これこそすべての花のなかの花、唯一無比の奇跡の花です!
けれどこの花もまたさかりをすぎ、くらい水底に散ってしずんでゆくのを見て、モモは声をあげて泣きたい思いでした。
でもマイスター・ホラにした約束を思いだして、じっとこらえました。
むこうがわにいった振子は、そこでもまたさっきより一歩ほどとおくまですすみ、そこにふたたび新しい花がくらい水面から咲きだしました。
見ているうちにモモにだんだんとわかってきましたが、新しく咲く花はどれも、それまでのどれともちがった花でしたし、ひとつ咲くごとに、これこそいちばんうつくしいと思えるような花でした。
池のまわりをなんども行きつもどりつしながら、モモは花がつぎからつぎへと咲いては散ってゆくのをながめました。いつまで見ていても見あきないながめです。

けれどそのうちに、ここではもうひとつべつのことがたえまなくすすんでいることがわかってきました。いままでは気がつかなかったのです。
丸天井のまんなかから射しこんでいる光の柱、光として目に見えるだけではありませんでした――モモはそこから音も聞こえてくることに気がついたのです!
はじめそれは、とおくの木のこずえにたわむれる風のざわめきのように聞こえました。けれどその音はしだいにはげしくなって、滝の音か、岩に打ちよせる波のとどろきににてきました。
よく聞いているうちに、数えきれないほどの種類の音がひびきあっているのだということが、はっきりしてきました。たえずたかいに入りまじりながら新しくひびきをととのえあい、音を変え、たえまなく新しいハーモニーをつくりだしています。それは音楽のようでいて、しかもまったく別のものです。そのときとつぜんモモは気がつきました。まえによく、きらめく星空の下でしずけさにじっと耳をかたむけていたとき、はるかかなたからひそやかに聞こえてきた音楽が、これだったのです。
ところがこんどは、ひとつひとつの音がだんだんとはっきりすみわたってきました。モモはふとこんな感じがしました――この鳴りひびく光こそが、どれとして同じもののないあの類なくうつくしい花のひとつひとつを、くらい水底から呼び出して形を与えているのではないでしょうか。
じっと耳をかたむけていると、だんだんはっきり、ひとつひとつの音が聞きわけられるようになってきました。でもそれは人の声ではなく、金や銀や、そのほかあらゆる種類の金属がうたっているようなひびきです。するとこんどはすぐそれにつづいて、まったくちがう種類の声、想像もおよばぬとおくから言いあらわしがたい力強さをもってひびいてくるの声が、聞こえてきました。それらはだんだんはっきりしてきて、やがてことばが聞きとれるようになりました。いちども聞いたことのないふしぎなことばですが、それでもモモにはわかります。それは、太陽と月とあらゆる惑星と恒星が、じぶんたちそれぞれのほんとうの名前をつげていることばでした。そしてそれらの名前こそ、ここの〈時間の花〉のひとつひとつを誕生させ、ふたたび消えさせるために、星々がなにをしているのか、どのように力をおよぼしあっているのかを、知る鍵となっているのです。
そのとき、とつぜんモモはさとりました。これらのことばはすべて、じぶんに語りかけられたものなのです!全世界が、はるかかなたの星々にいたるまで、たったひとつの巨大な顔となってモモのほうをむき、じっと見つめて話しかけているのです!
おそろしさよりももっと大きななにかが、モモを圧倒しました。

ミヒャエル・エンデ(「モモ」214ページ)

レッスン177です。
今日は、レッスン163と164の復習です。

今日は、出口光著「一霊四魂と和の精神 ~垣根を超えて大きな和の世界を創る古代の叡智」(サムライタイムズ社)をご紹介します。

レッスン237「今、私は、神に創造されたままの私になることにする」
レッスン242「今日は神の日だ。今日という日は、神に捧げる私からの贈り物だ」
のエッセイで、一霊四魂の考え方に触れていますが、この本は、掘り下げて学ぶためにはとても有益だと思います。
冒頭の「モモ」の「時間の花」の描写はとても美しいイメージを私たちの心に浮かび上がらせます。
この場面は「モモ」の最大の見せ場のひとつなので、未読の方にはネタバレ的になってしまい申し訳ないですが、このサイトの読者のみなさんはミヒャエル・エンデ大好きで「モモ」も当然、既読!何回も読んでます、という方々だという前提でおりますので、ご容赦ください。
さて、この文章の続きで、マイスター・ホラは、モモに、モモが見たのはモモだけの分の時間であり、モモがいた丸天井のドームはモモの心の中だったのだと教えてくれます。
一霊四魂をこの心のドームに置き換えてみると、太陽や月や星々の語る声によって揺れる大きな振り子が黒い鏡のような水面に時間の花を咲かせますが、四方に散らばる星々という魂の特性に揺らされながら、神の分霊である魂に相当する振り子が、見えない支点を丸天井の穴からまっすぐに下りている光の柱の中心である直霊に置いて四魂を均衡させて収束するまでの旅をしている様を描いていると捉えることもできます。
これは水平面でのイメージですが、垂直的な観点を加味したイメージとしては、生命の樹の峻厳の柱と慈悲の柱をキリスト原理が均衡の柱に収束しようと働きかけるイメージが参考になると思います。
[序文]
1.私たちは自分が、理解の段階をさらにもう一段、深めるための準備をしていることを認識します。
私たちは、この段階を完全なものにすることで、自分たちがこれまでに増して、より確実に、より真摯に、より深い確信に基盤を置いた誠実さをもって再び進むことができるようにします。
これまでの私たちの歩みは、揺るぎないものではなかったし、疑念を抱くことによって、このコースが定める道を進む私たちの歩みは不安定で緩慢なものになっていました。
しかし、今から、私たちは歩みを速めます。というのは、私たちはより大きな確信、より確固たる目的とより確実な目標に近づいているからです。
2.われらの父よ、私たちの歩みを着実なものにさせてください。
私たちの疑念を静まらせ、私たちの聖なる心をじっと静止させて、そして、私たちに語りかけてください。
私たちからあなたに捧げる言葉はありません。
私たちは、ただあなたの大いなる言葉に耳を澄まして、それを自分のものにしたいと思っています。
父親が幼い子供がまだ知らない道を進むのを導くように、私たちの取り組みを導いてください。
道を知らずとも、自分のために父が道を導いてくれるので安全だと確信したら、子が導きに従うのは間違いありません。
3.だから、私たちは、自らの実践をあなたに差し出します。
そうすれば、もし私たちが躓いても、あなたが私たちを起き上がらせてくれるでしょう。
もし私たちが道を忘れてしまっても、私たちは、あなたが確実に覚えていてくれることを頼りにできます。
私たちがわき道にそれてしまったとしても、あなたは私たちを呼び戻すのを忘れずにいてくれるでしょう。
今こそ、私たちの歩みを速めることにします。そうすれば、私たちは、あなたの下へとより確実により早く辿り着けるでしょう。
だから、これまであなたが私たちに授けてくれた考えを復習しながら、私たちは、自分たちの実践したことを統合するためにあなたが差し延べてくれる大いなる言葉を受け入れます。
4.次の言葉は、私たちが復習するいくつかの考えの前提となるべき考えです。
私たちが復習する考えの一つひとつは、単に、この考えのいくつかの側面を明確化したり、この考えをより意味あるものにしたり、より個人的に真理として受け入れやすくしたり、私たちが分かち合い、今、再び知るための準備をしている神聖な真の自己を描写する助けとなるものでしかありません。
その考えとは、神はただ大いなる愛であるのみだ、したがって、私も愛であるのみだ、というものです。
この真の自己だけが大いなる愛を知っています。
この大いなる自己だけが、その思考において完璧に首尾一貫しており、自らの創造主を知り、自分自身を理解し、自らの知識と大いなる愛の中に完璧にあり、自らの父と自分自身とがひとつに結びついた恒常的な状態から決して変化することがありません。
5.そして、旅路の終着点で私たちと出会うのを待ち受けているのはこの大いなる自己です。
私たちの踏み出す歩みの一歩ずつが、私たちを少しずつこの大いなる自己へと近づけます。
もし私たちが、この大いなる自己を自分たちの目標として心に留め、そして、私たちが実習するにつれて、自分たちが近づいていくのはこの大いなる自己なのだと意識するなら、この復習は計り知れないほど時間を短縮してくれるでしょう。
私たちで、大いなる自己に戻る旅路を終えることが自分には約束されており、そして、このコースが私たちに届けられたのは、光の道を拓き、自分たちが失ってしまったと思っていた永遠なる真の自己にどうやって戻るのかを順を追って私たちに教えるためであること思い出して、私たちの心を塵から生命へと引き上げましょう。
6.私はあなたと一緒に旅しています。
というのも、私はあなたの疑念や恐怖をしばらくの間分かち合うことで、あなたがあらゆる恐怖と疑念が克服される道を見分けることのできる私のところに来られるようにするからです。
私たちは一緒に歩みます。
私は不安や苦痛には何の意味もないと知っていますが、それでも、私は不安や苦痛を理解しなければなりません。
救い主は、自分が教える者たちと一緒に留まり、その者たちの見るものを見なければなりません。しかし、それでいながら、救い主は、かつて自分を導き出してくれ、今度は、自分と一緒にあなたを導き出す道を自らの心の中に保っているのです。
あなたが私と一緒にその道に沿って歩むようになるまでは、神の子は磔にされたままです。
7.私がひとりの兄弟を旅が終わり旅路が忘れられる場所まで安全に導くたびに、私は再びよみがえります。
ひとりの兄弟が悲惨さと苦痛から解放される道があると学ぶたびに、私は新たに再生します。
ひとりの兄弟の心が自分の内なる光のほうを向いて、私を探すたびに、私は生まれ変わります。
私は誰ひとり忘れてはいません。
今こそ、私が旅路の始まった場所へとあなたたちを連れ戻して、私と一緒に新たな選択ができるよう私に手を貸してください。
8.どうしてもあなたに必要なことを理解し、その答えを神から託されて知っている聖霊から私があなたにもたらした考えをもう一度実習することで、私を解放してください。
私たちで一緒に、これらの考えを復習しましょう。
私たちで一緒に、時間と努力を復習に捧げましょう。
そして、私たちで一緒に、それらを私たちの兄弟たちに教えましょう。
神が天国を不完全なままにしておくようなことはありません。
私があなたを待っているように、天国はあなたを待っています。
私の中にあなたという側面がなければ、私は完全にはなりません。
そして、私が完全になったとき、私たちは一緒に私たちの古来のわが家へと赴きます。その家は、時間が始まる前から用意され、ついに時間が終わったときにもそうであるように、一点の穢れもなく安全なまま、時間によって変わらないまま保たれています。
9.それゆえ、あなたから私への贈り物としてこの復習を捧げてください。
というのも、私が必要とするのは、あなたが私の語る言葉を聞いて、それを世界に伝えることだけだからです。
あなたは、私の声となり、私の目となり、私の足となり、私の手となります。あなたを通して、私はこの世界を救うのです。
私がそこからあなたに呼びかけている大いなる自己は、あなたの自己にほかなりません。
その真の自己に向けて私たちは一緒に進みます。
あなたの兄弟の手を取ってください。というのは、これは私たちだけで歩む道ではないからです。
その兄弟の中において、私はあなたとともに歩み、あなたは私とともに歩みます。
私たちの大いなる父は、わが子が自らとひとつになることを意図しています。
そうだとすれば、あなたと一体ではないといえるような、どんな生命があるでしょうか。
10.この復習を、あなたにとっての新しい経験を私たちで分かち合う時となるようにしましょう。しかし、その経験は、時間と同じかそれ以上に古いものです。
あなたの名は神聖です。
あなたの栄光は永遠に穢れなきものです。
そして、あなたの完全性は、神がそう定めたとおり、今、完成されます。
あなたは神の子であり、自分自身を拡張することで神の拡張を完成させる存在です。
私たちが実践するのは、幻想がこの世界をわが物としたように見えたときよりも以前に自分たちが知っていた真理だけです。
そして、私たちは、次のように言うたびに、世界があらゆる幻想から自由であることを世界に思い出させることになります。
神は大いなる愛であるのみだ。だから、私も愛であるのみだ。
11.この言葉とともに、私たちは毎日の復習を始めます。
この言葉とともに、私たちはそれぞれの実習時間を始め、そして終わります。
そして、この考えとともに、私たちは眠りに就き、この同じ言葉を口にしながら再び起きて、次の日を迎えます。
私たちの復習する考えのすべてを、この考えで包みこみ、そして、この考えを自分の心の前に掲げるために復習する考えを用い、その1日を通してこの考えを自分がはっきり覚えておけるように保ってください。
こうして、私たちがこの復習を終えたとき、私たちは、私たちの語るこの言葉が真実であると気づくでしょう。
12.この言葉は役に立つだけなので、実習時間の始まりと終わり以外にも、必要に応じて、心に自らの目的を思い出させるためだけに用いてかまいません。
私たちは、自分たちの用いる手段ではなく、実践から生じる経験を信頼します。
私たちは、その経験を待って、ただ経験することにおいてのみ確信を見出せるのだと認めます。
私たちは、この言葉を用い、そして、何度も何度もその言葉を超えて、その響きをはるかに超えるその意味に達するように努めます。
私たちが、その意味の大いなる源に接近するにつれて、その響きは徐々に小さくなって消え去ります。
ここにおいて、私たちは安息を見出すのです。

Lesson 177
God is but Love, and therefore so am I.
神はただ愛であるのみだ。だから、私も愛であるのみだ。
1. [163] There is no death. The Son of God is free.
死は存在しない。神の子は自由だ。
God is but Love, and therefore so am I.
神はただ愛であるのみだ。だから、私も愛であるのみだ。
2. [164] Now are we one with Him Who is our Source.
今、私たちは、自分たちの大いなる源である神とひとつになる。
God is but Love, and therefore so am I.
神はただ愛であるのみだ。だから、私も愛であるのみだ。

