レッスン178「レッスン165と166の復習」
Happiness is not something you postpone for the future; it is something you design for the present.
幸せとは、あなたが未来まで待たなけれならない何かではない。それはあなたが現在のために思い描く何かだ。

Jim Rohn
ジム・ローン
もし目的達成の障害となり得る自分の短所があることを自覚し、必要とされる知識や経験を持っていないと思うのであれば、あなたはそうしたことと折り合いをつけるべきだ。あなたが今ある状態を受け入れよう。短所を持ち、必要とされる長所を持っていない自分を思い切って認めてあげよう。そうすることはあなたの大きな助けとなり、心を軽く穏やかな状態にしてくれる。
もしあなたが自分の短所と闘い、必要な資質のないことを隠そうとするならば、一番大事な試練のときに必ずや自らを思い知る結果となるだろう。
自分を受け入れないでいると、障害という形となって必ず思い知ることになる。あなたは自分で自分に障害をもたらしている。
第一に、罪悪感と劣等感は過剰ポテンシャルを生み出す。そして、平衡力が事態をさらに悪化させる。第二に、外的意図がそうした懸念を間違いなく現実化させる。あなたが封じ込めようとするものは、無条件にシナリオに組み込まれることになる。たとえば、あなたが恐れていた問題は否応なくあなたの身に降りかかる。あるいは、できないことをやってみるようにと言われる。だが、致命的なのは、ここぞというときにあなたが精神的な拘束状態や虚脱状態に陥ることなのだ。

ヴァジム・ゼランド(「振り子の法則 トランサーフィン 超スピリチュアルな夢実現/幸福獲得法」119ページ)
カール・ロジャース(訳註:米国の心理学者)は「もっとも個人的なことはもっとも一般的なことである」と教えている。自分の本当の姿を見せ、自信を失った経験も含めて自分のことを素直に話すほど、それを聴いている人たちは、自分の経験を正直に話しても大丈夫なのだという気持ちになる。するとあなたの正直さが相手の精神を養い、そこに真の創造的な共感が生まれ、新たな洞察や学びがもたらされる。こうして次第に気持ちが高揚していき、冒険心に刺激されて、コミュニケーションのプロセスはシナジーへと向かっていく。

スティーブン・R .コヴィー「7つの習慣」

レッスン178です。
今日は、レッスン165と166の復習です。

「デール・カーネギーの悩まずに進め ──新たな人生を始める方法」
今日は「デール・カーネギーの悩まずに進め ──新たな人生を始める方法」(デール・カーネギー著 株式会社パンローリング刊)です。
「道は開ける」の邦題で有名ですが、こちらのほうがより読者に語り掛けるような翻訳になっており、オーディブル版の朗読音声もとてもよいです。
「人を動かす」も「デール・カーネギーの人を動かす方法」として出ており、おすすめです。
オーディブル版で車の運転中や電車通勤・通学の際に耳から聞くのもよいでしょう。
いずれも、個人の悩み解消法、人間関係についての王道的な真理を具体的事例を通して語る人生の教科書ともいうべき本です。コースと同じように、何十回と繰り返して読むべき本だと思います。
まずは定番を抑えてブレない軸を
人間の心理として、とくに若いときほど、天邪鬼的な感覚で、古典や長年にわたるベストセラー等の定番とされるような万人に評価されているものに反発を覚えて、まともに齧りもしないで小馬鹿にして、サブカルチャー的なものに傾倒して蒙昧な大衆と自分は違うんだと思いたがる知的スノビズムに毒されがちなものです。
ですが、サブカル的なエキセントリックな視点の鋭さを上手に取り込んで自分の武器にできるのは、ど真ん中の中心をしっかりと押さえて王道を極めて軸ができた人だけで、軸のない人や軸のぶれている人は、武器として使いこなせずに味方を傷つけたり諸刃で自分を傷つけてしまうのがオチです。
一霊四魂で言うなら、私たちは、この世に生まれている時点で、すでに中心の直霊から4象限のどこかの領域に多少なりともずれのある魂を持っているわけで、誰もが偏りを持つ曲者です。
とはいえ、私たちが目指すべきは、はてしない物語のイスカールナリのような無個性のいてもいなくても変わりのないような全体を構成する一部になって全体主義的な和合を遂げることではなく、各自の個性を輝かせて愛を与え合ってひとつに結ばれることであり、自分の魂の特性は消すべきものではなく磨くべきものです(レッスン106「私が心静かに、真理に耳を澄ませられますように」)。
魂を磨くには、直霊による四魂のフィードバックとコントロールが不可欠です。

ピーター・ドラッカーは、強みを生かすことと強みでないものの廃棄を説きますが、「何よりも成果をあげるエグゼクティブは、自分自身であろうとする。ほかの誰かであろうとはしない。」(「経営者の条件」(ダイアモンド社)・133ページ)と、自分自身であることを重視し、フィードバックによるマネジメント、つまり、直霊による省みによって強みを伸ばすことを説くのであって、単に自分が好きなことをただやればよいと言っているわけではありません。
中心の軸を持たずに、中心の的から外れたものに不用意に手を出すと、それに自分を巻き込まれて、荒魂は争魂に、和魂は悪魂に、幸魂は逆魂に、奇魂は狂魂に、直霊は曲霊になりかねません。
今は自分自身であれというメッセージを真に意味しているはずの「好きなことで生きていく」というキャッチフレーズが表面的に受け入れられ、直霊のフィードバックが効かずに魂が暗転しやすい素地がある時代なだけに、よりいっそう中心に軸を置く、地に足を付けるという意識は大切でしょう。
抽象と具体を行き来するうえでのケーススタディの大切さ
さて、「悩まずに進め」、「人を動かす方法」はいずれも、実際の具体的な体験談から学ぶケーススタディのスタイルの本です。
このスタイルは、デール・カーネギー先生が、夜間学校での成人教育クラスの授業で用いるための悩み解決や人間関係のよい教科書がなかったため、実際の体験談をインタビューによって収集してまとめた授業用のレジュメが元となってでき上がったという成り立ちによります。
思考経済を図り体系的に整理された知識を理解する素材としては、通常、テキスト、教科書と呼ばれる、フィールド・ワークや問題解決事例等その学習分野の実践的な研究から抽出された教訓を抽出して整理した抽象度の高い教材が用いられます。
しかし、テキストは抽象度が高いため、実務経験のない初学者にとっては、机上の空論にとどまって具体的なイメージがつかめず、かえって理解が困難な面があります。
ことわざ等の究極の抽象度にまで精錬された教訓は実践的に覚えて使いやすいプログラムとして確立してはいますが、そのことわざが生まれるまで先人が苦労した無数のバリエーションで起こっていた具体的な痛みを伴うたくさんの人々の体験した物語は捨象されているので、想像力を凝らしても、現に痛い目を見てその教訓を身につけた人ほどにはそのプログラムを人生のために活用するプログラムとして血肉化することは困難です。
これに対して、やはり人間にとって「物語」という形式は特別な意味を持っており、体験談という形であれば、読者は語り手の物語を追体験して、自分が実際に辛い体験をした場合に近い形で、教訓を身につけることができます。
法律の学習でも、条文や基本書と呼ばれる教科書だけで学ぶよりも、実際の裁判で争われた事例についての判決である裁判例を教材にすると、その裁判で争点となる問題での具体的な当事者の利害対立状況に法律や過去の判例をどのように適用して解決するのかをより実践的に学べるようになります。
奇跡のコースも、どんな分野の学習にも増してアンラーンの学びであるだけに実践の学習であり、日常生活や実人生での活用こそが本来の学習場所といえます。
この点で、コースの教えの理論的理解についての補足説明や概念の解説の補助教材はたくさんありますが、そちら方面の書籍は徒(いたずら)に学習者を頭でっかちにさせるばかりという面もありますので、実際の体験談として痛い目を見ながら学習を進めて得た教訓を追体験できるような教材は有益です。
牧村多緒さんの「ACIMで行こう!」シリーズがおすすめです。

[序文]
1.私たちは自分が、理解の段階をさらにもう一段、深めるための準備をしていることを認識します。
私たちは、この段階を完全なものにすることで、自分たちがこれまでに増して、より確実に、より真摯に、より深い確信に基盤を置いた誠実さをもって再び進むことができるようにします。
これまでの私たちの歩みは、揺るぎないものではなかったし、疑念を抱くことによって、このコースが定める道を進む私たちの歩みは不安定で緩慢なものになっていました。
しかし、今から、私たちは歩みを速めます。というのは、私たちはより大きな確信、より確固たる目的とより確実な目標に近づいているからです。
2.われらの父よ、私たちの歩みを着実なものにさせてください。
私たちの疑念を静まらせ、私たちの聖なる心をじっと静止させて、そして、私たちに語りかけてください。
私たちからあなたに捧げる言葉はありません。
私たちは、ただあなたの大いなる言葉に耳を澄まして、それを自分のものにしたいと思っています。
父親が幼い子供がまだ知らない道を進むのを導くように、私たちの取り組みを導いてください。
道を知らずとも、自分のために父が道を導いてくれるので安全だと確信したら、子が導きに従うのは間違いありません。
3.だから、私たちは、自らの実践をあなたに差し出します。
そうすれば、もし私たちが躓いても、あなたが私たちを起き上がらせてくれるでしょう。
もし私たちが道を忘れてしまっても、私たちは、あなたが確実に覚えていてくれることを頼りにできます。
私たちがわき道にそれてしまったとしても、あなたは私たちを呼び戻すのを忘れずにいてくれるでしょう。
今こそ、私たちの歩みを速めることにします。そうすれば、私たちは、あなたの下へとより確実により早く辿り着けるでしょう。
だから、これまであなたが私たちに授けてくれた考えを復習しながら、私たちは、自分たちの実践したことを統合するためにあなたが差し延べてくれる大いなる言葉を受け入れます。
4.次の言葉は、私たちが復習するいくつかの考えの前提となるべき考えです。
私たちが復習する考えの一つひとつは、単に、この考えのいくつかの側面を明確化したり、この考えをより意味あるものにしたり、より個人的に真理として受け入れやすくしたり、私たちが分かち合い、今、再び知るための準備をしている神聖な真の自己を描写する助けとなるものでしかありません。
その考えとは、神はただ大いなる愛であるのみだ、したがって、私も愛であるのみだ、というものです。
この真の自己だけが大いなる愛を知っています。
この大いなる自己だけが、その思考において完璧に首尾一貫しており、自らの創造主を知り、自分自身を理解し、自らの知識と大いなる愛の中に完璧にあり、自らの父と自分自身とがひとつに結びついた恒常的な状態から決して変化することがありません。
5.そして、旅路の終着点で私たちと出会うのを待ち受けているのはこの大いなる自己です。
私たちの踏み出す歩みの一歩ずつが、私たちを少しずつこの大いなる自己へと近づけます。
もし私たちが、この大いなる自己を自分たちの目標として心に留め、そして、私たちが実習するにつれて、自分たちが近づいていくのはこの大いなる自己なのだと意識するなら、この復習は計り知れないほど時間を短縮してくれるでしょう。
私たちで、大いなる自己に戻る旅路を終えることが自分には約束されており、そして、このコースが私たちに届けられたのは、光の道を拓き、自分たちが失ってしまったと思っていた永遠なる真の自己にどうやって戻るのかを順を追って私たちに教えるためであること思い出して、私たちの心を塵から生命へと引き上げましょう。
6.私はあなたと一緒に旅しています。
というのも、私はあなたの疑念や恐怖をしばらくの間分かち合うことで、あなたがあらゆる恐怖と疑念が克服される道を見分けることのできる私のところに来られるようにするからです。
私たちは一緒に歩みます。
私は不安や苦痛には何の意味もないと知っていますが、それでも、私は不安や苦痛を理解しなければなりません。
救い主は、自分が教える者たちと一緒に留まり、その者たちの見るものを見なければなりません。しかし、それでいながら、救い主は、かつて自分を導き出してくれ、今度は、自分と一緒にあなたを導き出す道を自らの心の中に保っているのです。
あなたが私と一緒にその道に沿って歩むようになるまでは、神の子は磔にされたままです。
7.私がひとりの兄弟を旅が終わり旅路が忘れられる場所まで安全に導くたびに、私は再びよみがえります。
ひとりの兄弟が悲惨さと苦痛から解放される道があると学ぶたびに、私は新たに再生します。
ひとりの兄弟の心が自分の内なる光のほうを向いて、私を探すたびに、私は生まれ変わります。
私は誰ひとり忘れてはいません。
今こそ、私が旅路の始まった場所へとあなたたちを連れ戻して、私と一緒に新たな選択ができるよう私に手を貸してください。
8.どうしてもあなたに必要なことを理解し、その答えを神から託されて知っている聖霊から私があなたにもたらした考えをもう一度実習することで、私を解放してください。
私たちで一緒に、これらの考えを復習しましょう。
私たちで一緒に、時間と努力を復習に捧げましょう。
そして、私たちで一緒に、それらを私たちの兄弟たちに教えましょう。
神が天国を不完全なままにしておくようなことはありません。
私があなたを待っているように、天国はあなたを待っています。
私の中にあなたという側面がなければ、私は完全にはなりません。
そして、私が完全になったとき、私たちは一緒に私たちの古来のわが家へと赴きます。その家は、時間が始まる前から用意され、ついに時間が終わったときにもそうであるように、一点の穢れもなく安全なまま、時間によって変わらないまま保たれています。
9.それゆえ、あなたから私への贈り物としてこの復習を捧げてください。
というのも、私が必要とするのは、あなたが私の語る言葉を聞いて、それを世界に伝えることだけだからです。
あなたは、私の声となり、私の目となり、私の足となり、私の手となります。あなたを通して、私はこの世界を救うのです。
私がそこからあなたに呼びかけている大いなる自己は、あなたの自己にほかなりません。
その真の自己に向けて私たちは一緒に進みます。
あなたの兄弟の手を取ってください。というのは、これは私たちだけで歩む道ではないからです。
その兄弟の中において、私はあなたとともに歩み、あなたは私とともに歩みます。
私たちの大いなる父は、わが子が自らとひとつになることを意図しています。
そうだとすれば、あなたと一体ではないといえるような、どんな生命があるでしょうか。
10.この復習を、あなたにとっての新しい経験を私たちで分かち合う時となるようにしましょう。しかし、その経験は、時間と同じかそれ以上に古いものです。
あなたの名は神聖です。
あなたの栄光は永遠に穢れなきものです。
そして、あなたの完全性は、神がそう定めたとおり、今、完成されます。
あなたは神の子であり、自分自身を拡張することで神の拡張を完成させる存在です。
私たちが実践するのは、幻想がこの世界をわが物としたように見えたときよりも以前に自分たちが知っていた真理だけです。
そして、私たちは、次のように言うたびに、世界があらゆる幻想から自由であることを世界に思い出させることになります。
神は大いなる愛であるのみだ。だから、私も愛であるのみだ。
11.この言葉とともに、私たちは毎日の復習を始めます。
この言葉とともに、私たちはそれぞれの実習時間を始め、そして終わります。
そして、この考えとともに、私たちは眠りに就き、この同じ言葉を口にしながら再び起きて、次の日を迎えます。
私たちの復習する考えのすべてを、この考えで包みこみ、そして、この考えを自分の心の前に掲げるために復習する考えを用い、その1日を通してこの考えを自分がはっきり覚えておけるように保ってください。
こうして、私たちがこの復習を終えたとき、私たちは、私たちの語るこの言葉が真実であると気づくでしょう。
12.この言葉は役に立つだけなので、実習時間の始まりと終わり以外にも、必要に応じて、心に自らの目的を思い出させるためだけに用いてかまいません。
私たちは、自分たちの用いる手段ではなく、実践から生じる経験を信頼します。
私たちは、その経験を待って、ただ経験することにおいてのみ確信を見出せるのだと認めます。
私たちは、この言葉を用い、そして、何度も何度もその言葉を超えて、その響きをはるかに超えるその意味に達するように努めます。
私たちが、その意味の大いなる源に接近するにつれて、その響きは徐々に小さくなって消え去ります。
ここにおいて、私たちは安息を見出すのです。

Lesson 178
God is but Love, and therefore so am I.
神はただ愛であるのみだ。だから、私も愛であるのみだ。
1. [165] Let not my mind deny the Thought of God.
私の心が神の思いを否認することがありませんように。
God is but Love, and therefore so am I.
神はただ愛であるのみだ。だから、私も愛であるのみだ。
2. [166] I am entrusted with the gifts of God.
私は、神の贈り物を託されている。
God is but Love, and therefore so am I.
神はただ愛であるのみだ。だから、私も愛であるのみだ。

