T19-4Ai 平安への障害1−2


Nobody can bring you peace but yourself.
あなたに平安をもたらすことができるのは、あなた自身以外に誰もいない。



Ralph Waldo Emerson
ラルフ・ウォルドー・エマソン

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今回は、テキスト第十九章、4の平安への障害から、罪悪感の魅力についての一節をご紹介します。


恐れの使者と愛の使者

本節では、エゴが使役する恐れの使者と聖霊の遣わす愛の使者が出てきます。

いずれの使者も知覚という同じ作用ですが、エゴという主人に仕えるか、聖霊という主人に仕えるかによって、まったく別の存在となります。


恐れの使者

恐れの使者は、五感によって分離と死や恐怖という実在の影である幻想を知覚する作用を恐怖心によって厳しく調教された猟犬のようなイメージで喩えられます。




恐れの使者たちは、エゴという主人に、寒さと飢えによって凶暴に仕立て上げられ、罪悪感と恐怖のメッセージを出くわすものすべてに届け、どこにでも罪悪感の片鱗すら見逃さずに盗み取ってくるように教え込まれています。

この犬たちは強烈な飢餓感を紛らわす腐肉に魅力を感じるよう育てられ、鵜飼の鵜のように、獲物を自分の胃袋に入れることは許されず、捕まえた獲物を頬張ったまま冷酷な主人の許に届けます。





愛の使者

これに対して、愛の使者たちは、実在する愛によって暖かく育まれ、自分の出会うものは自分と一体であるという真理に基づいて、愛と優しさのメッセージを届け、愛そのものである真理と結合して完成するために真理を見つけようとする美しい伝書鳩のようなイメージです。




愛の使者たちは、優しく送り出された際に運んだのと同じ愛と優しさについてのメッセージを携えて帰ってきます。

この鳥たちは満ち足りており、罪悪感の腐肉など目に入らないし、世界は安全で思いやりに溢れた場所に見えているので、どんなにささやかな情け深い行いも、わずかな赦しの印も、どんな小さな愛の息吹も見逃さず、自分たちの見つけた幸せなものを愛をこめて優しい主人と一緒に分かち合うために、そのすべてを携えて戻ってきてくれます。





私たち次第で恐れの使者は愛の使者に変わる

さて、みなさんが一緒にいるしもべたちは、恐れの使者、愛の使者のどちらでしょうか。

獰猛な犬たちが腐って悪臭を放つ罪悪感という獲物を持ち帰って、わが家である心の中は真っ黒な汚泥に満たされて有毒な恐怖というガスがぷくぷくと湧いているでしょうか。

そうだとしても、がっかりすることはありません。

犬たちはしっかりと教え込まれた通りの役目を果たしてきただけで、優秀なしもべであることは証明済です。

彼らがいけなかったわけではありません。

私たちがエゴに使者たちの管理を委ねて使者の主人の座につけていたせいです。

エゴを解任して聖霊に使者たちの主人になってもらえば、可哀想な犬たちは愛と優しさに包まれて、それまでの偽りの姿から真の姿へと変容して愛の使者となるでしょう。









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i. The Attraction of Guilt
(I)罪悪感の魅力



10. The attraction of guilt produces fear of love, for love would never look on guilt at all.
 罪悪感の魅力は愛に対する恐れを引き起こします。というのも、愛は罪悪感など歯牙にもかけないからです。

 It is the nature of love to look upon only the truth, for there it sees itself, with which it would unite in holy union and completion.
 真理のみを見つめることが愛の本質です。というのも、愛は真理に愛そのものを見て、自分自身である真理と聖なる結合を遂げて完成するために結ばれようとするからです。

 As love must look past fear, so must fear see love not.
 愛は恐れを無視することしかできないし、恐れは愛から目を背けずにはいられません。

 For love contains the end of guilt, as surely as fear depends on it.
 というのは、恐れが罪悪感に依存しているのと同じくらい確実に、愛は罪悪感に終わりをもたらすからです。

 Overlooking guilt completely, it sees no fear.
 罪悪感を完全に無視しているので、愛にはいかなる恐れも目に入りません。

 Being wholly without attack, it could not be afraid.
 完全に攻撃することがないので、愛は恐れることができません。

 Fear is attracted to what love sees not, and each believes that what the other looks upon does not exist.
 恐れは、愛が目を向けないものに惹きつけられます。そして、愛も恐れもお互いに、相手に見えているものは存在しないと信じています。

 Fear looks on guilt with just the same devotion that love looks on itself.
 愛が愛そのものを見るのとまったく同じくらい献身的に、恐れは罪悪感を見つめます。

 And each has messengers which they send forth, and which return to them with messages written in the language in which their going forth was asked.
 そして愛も恐れも、それぞれに外へと送り出す使者を持っており、その使者たちは、自分たちが出向くよう依頼された言語で書かれたメッセージを携えて送り主の許へと戻ってきます。

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11. Love's messengers are gently sent, and return with messages of love and gentleness.
 愛の使者たちは優しく送り出され、愛と優しさについてのメッセージを携えて帰ってきます。

 The messengers of fear are harshly ordered to seek out guilt, and cherish every scrap of evil and of sin that they can find, losing none of them on pain of death, and laying them respectfully before their lord and master.
 恐れの使者たちは、罪悪感を探し出すよう厳しく命令されており、獲物をひとつでも無くそうものなら死の苦痛が待っているので、自分たちに見つけ出せるかぎりの邪悪さと罪のかけらを残らず大切にして持ち帰って、見つけ出したものすべてを自分を支配する主人の前にうやうやしく差し出します。

 Perception cannot obey two masters, each asking for messages of different things in different languages.
 知覚は、それぞれ異なることについてのメッセージを異なる言語で求めるふ許にたりの主人に従うことはできません。

 What fear would feed upon, love overlooks.
 恐れが餌食にしようとするものを、愛は無視します。

 What fear demands, love cannot even see.
 恐れが要求するようなものは、愛には見ることすらできません。

 The fierce attraction that guilt holds for fear is wholly absent from love's gentle perception.
 恐れにとって激しく魅力を持つ罪悪感も、愛の穏やかな知覚の対象からは完全に外れています。

 What love would look upon is meaningless to fear, and quite invisible.
 愛が見つめようとするものは、恐れにとっては無意味であり、まったく見ることができません。



12. Relationships in this world are the result of how the world is seen.
 この世界におけるさまざまな関係は、どのように世界が見えているかを反映する結果です。

 And this depends on which emotion was called on to send its messengers to look upon it, and return with word of what they saw.
 そして、世界がどう見えるかは、世界を見るためにどちらの感情が呼び出されて使者として送り出され、そして、戻ってきたその使者が何を目にしたと知らせるかによって左右されます。

 Fear's messengers are trained through terror, and they tremble when their master calls on them to serve him.
 恐れの使者たちは恐怖を通して調教されているので、主人から任務に就くよう呼び出されると使者たちは震え上がります。

 For fear is merciless even to its friends.
 というのも、恐れは自分の仲間に対してさえ容赦しないからです。

 Its messengers steal guiltily away in hungry search of guilt, for they are kept cold and starving and made very vicious by their master, who allows them to feast only upon what they return to him.
 恐れの使者たちは、腹を空かせて罪悪感を探索する中で、罪深げに盗み取ってゆきます。というのも、恐れの使者たちは、寒さと餓えの中に保たれ、使者たちが自分の許に持ち帰った獲物の中からだけ食事を摂ることを許す主人によって、非常に凶暴になるように仕立てあげられているからです。

 No little shred of guilt escapes their hungry eyes.
 ほんの小さな罪悪感の切れ端も、恐れの使者たちの餓えきった目を逃れることはできません。

 And in their savage search for sin they pounce on any living thing they see, and carry it screaming to their master, to be devoured.
 そして、彼らは獰猛に罪を探し回って、目に入ったどんな生き物にでも襲いかかり、獲物をむさぼり食らうために、主人の許へと唸り声をあげながら運んでゆきます。

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13. Send not these savage messengers into the world, to feast upon it and to prey upon reality.
 この世界を食い物にさせたり、現実を獲物にするために、こんな残忍な使者たちをこの世界に送り出してはなりません。

 For they will bring you word of bones and skin and flesh.
 というのは、その使者たちは骨や皮や肉についての知らせをあなたに届けることになるからです。

 They have been taught to seek for the corruptible, and to return with gorges filled with things decayed and rotted.
 使者たちは、腐りやすいものを探し出して、傷んですでに腐ったものを咽に詰めこんで戻るように調教されています。

 To them such things are beautiful, because they seem to allay their savage pangs of hunger.
 彼らにとっては、そのようなものこそご馳走なのです。なぜなら、それらは彼らの激しく痛烈な飢餓感を和らげてくれるように思えるからです。

 For they are frantic with pain of fear, and would avert the punishment of him who sends them forth by offering him what they hold dear.
 使者たちは、恐怖の生み出す苦痛で半狂乱になっているので、自分たちを送り出した主人に、自分たちが大切にする獲物を捧げることによって、主人から罰せられるのを免れようとします。



14. The Holy Spirit has given you love's messengers to send instead of those you trained through fear.
 聖霊は、あなたが恐怖を通じて訓練した使者たちの代わりに送り出すようにと、あなたに愛の使者たちを与えてくれています。

 They are as eager to return to you what they hold dear as are the others.
 愛の使者たちは、恐怖の使者たちがそうであるように、熱心に自らが大切にするものをあなたの許へと持ち帰ろうとします。

 If you send them forth, they will see only the blameless and the beautiful, the gentle and the kind.
 もしあなたが愛の使者たちを送り出すなら、使者たちは、潔白で美しいものや優しくて親切なものだけを見るでしょう。

 They will be as careful to let no little act of charity, no tiny expression of forgiveness, no little breath of love escape their notice.
 愛の使者たちは、どんなにささやかな情け深い行いも、わずかな赦しの印も、どんな小さな愛の息吹も見逃さないよう細心の注意を払うでしょう。

 And they will return with all the happy things they found, to share them lovingly with you.
 そして、愛の使者たちは、自分たちの見つけた幸せなものを愛をこめてあなたと一緒に分かち合うために、見つけたものすべてを携えて戻ってきてくれるでしょう。

 Be not afraid of them.
 愛の使者たちが見つけてきたものを怖がらないでください。

 They offer you salvation.
 愛の使者たちは、あなたに救いを差し延べてくれているのです。

 Theirs are the messages of safety, for they see the world as kind.
 愛の使者たちがもたらすのは安全のメッセージです。というのは、愛の使者たちには、世界は思いやり深いところとして見えているからです。

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15. If you send forth only the messengers the Holy Spirit gives you, wanting no messages but theirs, you will see fear no more.
 もしあなたが聖霊があなたに与えてくれた使者たちだけを送り出し、ただその愛の使者たちのもたらすメッセージだけを望むなら、あなたはもうそれ以上、恐れを目にしなくなるでしょう。

 The world will be transformed before your sight, cleansed of all guilt and softly brushed with beauty.
 世界はあなたの目の前で変貌し、すべての罪を洗い清められ、そして、静かに美しく塗り替えられるでしょう。

 The world contains no fear that you laid not upon it.
 あなたが世界に恐れを押しつけなかったので、世界には何の恐れもありません。

 And none you cannot ask love's messengers to remove from it, and see it still.
 それに、あなたが愛の使者たちに世界から取り除いてほしいと頼んだのに、依然としてその恐れがまだ見えるということはありえません。

 The Holy Spirit has given you his messengers to send to your brother and return to you with what love sees.
 聖霊があなたに自らの使者たちを与えてくれたのは、その使者をあなたの兄弟のところに送って、愛が見るものを携えてあなたのところに戻らせるためです。

 They have been given to replace the hungry dogs of fear you sent instead.
 愛の使者たちは、あなたがその代わりに送り出していた恐れという飢えた犬たちと交代させるために与えられたのです。

 And they go forth to signify the end of fear.
 だから、愛の使者たちは、恐怖の終わりを知らせるために出発するのです。



16. Love, too, would set a feast before you, on a table covered with a spotless cloth, set in a quiet garden where no sound but singing and a softly joyous whispering is ever heard.
 愛もまた、あなたの前で祝宴を開くでしょう。その祝宴は、歌声や穏やかで嬉しそうな囁きしか聞こえてこない静かな庭園に設けられた一点の染みもない綺麗な布で覆われたテーブルの上に用意されます。

 This is a feast that honors your holy relationship, and at which everyone is welcomed as an honored guest.
 これはあなたの神聖な関係を讃える祝宴です。この祝宴には、誰もがみな賓客として歓迎されます。

 And in a holy instant grace is said by everyone together, as they join in gentleness before the table of communion.
 そして、神聖な瞬間には、みんなが聖餐のテーブルを前にして、穏やかな気持ちで結ばれているので、一緒に感謝の祈りを唱えます。

 And I will join you there, as long ago I promised and promise still.
 そして、私がずっと以前にそう約束し、今なお約束している通りに、私はそこであなたたちに加わるつもりです。

 For in your new relationship am I made welcome.
 というのも、あなたの新しい関係の中で、私は歓迎されるようになったからです。

 And where I am made welcome, there I am.
 そして、私が歓迎してもらえるところであれば、そこに必ず私はいるのです。

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17. I am made welcome in the state of grace, which means you have at last forgiven me.
 慈愛に満ちた状態において私が歓迎されるなら、それはあなたがついに私を赦してくれたことを意味します。

 For I became the symbol of your sin, and so I had to die instead of you.
 というのは、私はかつてあなたたちの罪の象徴になったがために、私はあなたたちの代わりに死ななければならなかったからです。

 To the ego sin means death, and so atonement is achieved through murder.
 エゴにとっては、罪は死を意味します。それゆえ、罪の償いは殺害によって達せられます。

 Salvation is looked upon as a way by which the Son of God was killed instead of you.
 救済は、神の子があなたたちの代わりに殺されたことで達せられたものとみなされています。

 Yet no one can die for anyone, and death does not atone for sin.
 しかし、誰ひとり、ほかの者の身代わりになって死ぬことはできないし、死は罪の償いにはなりません。

 But you can live to show it is not real.
 しかし、あなたは罪が実在しないことを示すために生きることができます。

 The body does appear to be the symbol of sin while you believe that it can get you what you want.
 あなたが身体が自分の欲しいものを手に入れてくれると信じているうちは、たしかに身体は罪の象徴であるように見えはします。

 While you believe that it can give you pleasure, you will also believe that it can bring you pain.
 あなたが身体が自分に快楽をもたらしてくれると信じているうちは、あなたはまた、身体は自分に苦痛をもたらすことができるとも信じるでしょう。

 To think you could be satisfied and happy with so little is to hurt yourself, and to limit the happiness that you would have calls upon pain to fill your meager store and make your life complete.
 こんなにも取るに足らないもので満足して幸せになれると思いこむことは、あなた自身を傷つけて、自分が手に入れられるはずの幸せを制限することです。その結果として、あなたは、欠乏する自分への供給を満たすことで自分の人生を完全にしてもらおうと苦痛を呼び求めることになります。

 This is completion as the ego sees it.
 これこそ、エゴが完成だとみなしているものです。

 For guilt creeps in where happiness has been removed, and substitutes for it.
 というのも、幸福が取り除かれた場所に罪悪感が這い入り、幸福に取って代わるわけだからです。

 Communion is another kind of completion, which goes beyond guilt, because it goes beyond the body.
 聖餐は、これとは別の種類の完成であり、罪悪感を超越するものです。なぜなら、聖餐は身体を超越するものだからです。


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