T4-7 創造とコミュニケーション


To love another person is to see the face of God.
ほかの誰かを愛することは、神の顔を見ることだ。

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Victor Hugo
ヴィクトル・ユーゴー



では、何かが存在しないと言明するとき、わたしたちは何を主張しているのでしょうか。たとえば魔女は存在しないと主張するとき、この主張はそもそも何を意味するのでしょうか。事態をよく見て、真となる否定的な存在言明を定式化してみましょう。

 魔女は存在しない。

これに対して、こう反論することができるでしょう。いやいや、魔女はたしかに存在している。たとえばゲーテの『ファウスト』や、映画『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』に、またスペインの異端審問官の狂った頭のなかにも、あるいはケルンのカーニヴァルにも魔女はいるではないか、と。したがって、

 魔女は存在する。

この命題も、同じように真となります。すると、ここに厄介な矛盾があることになります。今、手にしている命題は、次のようなものだからです。

 魔女は存在し、かつ存在しない。

とはいえ、ここに本当の矛盾があるわけではないことは、すぐにわかります。わたしたちは、何の前提もなく魔女がそれ自体として存在するとか存在しないとか言っていたわけではないからです。いずれにしてもコンテクストが問題になります。何かが存在するのを否定するとは、その何かが何らかの特定の意味の場に現象するのを否定することにほかなりません。そして、そのような否定を主張するのと同時に、矛盾に陥る危険なしに、その何かが別の意味の場に現象することを主張できるのです。

つまり、たしかに魔女が存在するのだとしても、それはスペインの異端審問官が考えていたような意味においてではまったくないわけです。わたしの住んでいる地域にはマクドナルドがないと言うとき、わたしは、およそマクドナルドそれ自体が存在しないなどと主張しているわけではありません。これは一般に言えることです。およそ存在言明は、肯定的であれ否定的であれ、つねに(一つとは限りませんが)何らかの意味の場にだけ関わっているのであって、けっしていっさいの意味の場に関わっているわけではありませんし、ましてやいっさいを包摂する意味の場に関わっているのではありません。つまり、いっさいを包摂する意味の場など存在しないからこそ、存在するということは、つねに相対的なこと、つまり何らかの意味の場に関わってこそ言えることなのです。

ここで、こう異議を申し立てたくなる読者もいらっしゃることでしょう。存在することの正反対とは、幻覚・誤謬・想像にすぎないということではないか。モグラは存在すると言明するとき、我々が言っているのは、モグラはたんに想像されたものではないということ、むしろモグラは現実に存在しているということではないのか。あるいは地球外生命体が問題だとしよう。この場合、我々が知りたいのは、地球外生命体が我々の想像のうちに存在しているかどうかではなく、どこか我々の想像力のそとに現実に存在しているかどうかなのではないか、と。

このような異議は、存在することと想像されていることを間違って区別しています。想像されているものも存在していますし、想像のうちにだけ存在しているものも多いからです。「……のうちにだけ存在している」とか「現実に存在している」と付け加えることで、存在することの相対性が取り除かれるわけではありません。

その点を理解するために、次のような二人の『ファウスト』解釈者の議論を考えてみましょう。一方の解釈者の主張によると、『ファウスト』には魔女など存在しない。ファウストが幻覚のなかで魔女を見ているにすぎない、というわけです。これに反論する他方の解釈者の主張によると、『ファウスト』には現に魔女が存在している。ファウストが魔女を想像しているのではなく、『ファウスト』という詩劇の作品世界では魔女は実在するのだ、というわけです。

この例からわかるのは、「現実に存在しているもの」と「たんに想像されたもの」の区別が、意味の場によって変わってくるということです。たとえば詩劇の作品世界は、ひとつの意味の場にほかなりませんが、いずれにせよそれ自体としては「たんに想像されたもの」です。そして、その「たんに想像されたもの」のなかで「現実に存在しているもの」と「たんに想像されたもの」を区別することができるのです。

したがって、存在するということは、何かが宇宙のなかに現われてくること、あるいは物理的・物質的な対象であることに、まず第一に結びついているわけではありません。さもなければ、たとえば何らかの小説に登場する虚構のキャラクターたちについて、どれが小説の作品世界のなかでは現実に存在し、どれがそうでないのかといった問いを議論することができなくなってしまいます。存在するとは、つねに、何らかの具体的な意味の場のなかに存在するということです。

そして問われるべきは、つねに、どんな意味の場が問題になっているのかということなのですが、わたしたちはこの点で考え違いをしてしまいがちなわけです。

魔女狩りを行なった機関にもいろいろありますが、いずれの機関も、自らの想像の産物と、じっさいにヨーロッパにいた女の人たちとを混同し、取り違えていました。ところが当時ヨーロッパ(ないし、ほかのどこであれ)にいた女の人のなかに、じっさいには(魔術を操ることのできる)魔女などいませんでした。魔女は、魔女狩りを行なう者の想像のなかにしかいなかったのです。この地球上に魔女がいたことなどありません。魔女は「地球(上)」という意味の場には現象しません。

けれども、たしかに「初期近代の魔女狩り実行者のもっていた表象体系」という意味の場には現象しています。したがって、初期近代における何らかの表象体系には魔女が存在していたとか、『ファウスト』には魔女が存在しているといった主張は、完全に正当なものなのです



Markus Gabriel
マルクス・ガブリエル(「なぜ世界は存在しないのか」)




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今回は、テキスト第四章から、「創造とコミュニケーション」をご紹介します。


"Being"と"Existence"

本節でも出てくる"Being"と"Existence"との区別を確認しておきましょう。

コースでは、"Being"と"Existence"の両方の概念の意義を区別して用いており、両者には、きわめて重要な相違があります。

"Being"は、天国、神の現実にある状態を意味し、このサイトでは、「実在」または「現実」という訳語を用いています。

同じ状態を指して"Real"、"Reality"等の用語が用いられることがあります。


これに対して、”Existence”は、この幻想世界のなかに幻想としてある状態を意味し、コースでは、"there is"、"exist"等の言葉で表現され、このサイトでは「存在」との訳語を用いています。

世界の中にあるものは幻としてではあっても、世界という舞台上に現にあるというかぎりでは、すべて「存在」しているので、天国に実在するものの反映である、光、生命、平安、真理、精神、等だけでなく、それらの不在が影として形をとった闇、死、争い、虚構、物質等の幻想も世界に「存在」していることになります。

この点については、レッスン96「救済は、私のひとつの大いなる自己からやってくる」でデスクトップ上のアイコンに準えて述べていますので、ご覧ください。

天国において、神の子はすべてであると同時にすべてを持って「実在」しているのに対し、この世界では、神の子はすべてではなく、すべてを持たない、すべての中の砂粒のような一点でしかない無数のアバターへと自分を分裂させて世界に「存在」しています。


「実存」

なお、この点、哲学、思想用語として「実存」という言葉があります。


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Jean-Paul Sartre
ジャン=ポール・サルトル


サルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉が象徴的に表していますが、実存主義は、本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く哲学です。

実存=現実存在は、ほぼ人間を意味すると捉えてよいですが、個別的・偶然的な現実存在は普遍的・必然的な本質存在に優越するとの発想なので、コースで言う"Being"と"Existence"であえて「実存」を当てるなら、"Existence"のほうに用いるのが適当な用語となるでしょう。

いずれにせよ、コースの理解においては、哲学や思想用語を用いるのは余計な含意が混じってしまうので、このサイトでは、上記のように、一般的な「実在」と「存在」という言葉を用いています。





具体と抽象

「4. Existence as well as being rest on communication.
 この世界に存在することは、神の現実に実在することと同じく、コミュニケーションに基盤を置きます。

 Existence, however, is specific in how, what and with whom communication is judged to be worth undertaking.
 しかしながら、存在することは、どのように、何について、誰とコミュニケーションを取る価値があるかどうかを判断する点で具体的なものです。

 Being is completely without these distinctions.
 実在することには、まったくこのような区別がありません。

 It is a state in which the mind is in communication with everything that is real.
 実在とは、心が現実であるものすべてとコミュニケーションを行っている状態そのものだからです。

 To whatever extent you permit this state to be curtailed you are limiting your sense of your own reality, which becomes total only by recognizing all reality in the glorious context of its real relationship to you.
 いかなる程度であれ、あなたがこの実在の状態を縮減することを許容するなら、あなたはその限度まで、自分が実在するという感覚を制限することになります。本当のあなたについての自覚は、万物が自分と真に結びついているという栄光に満ちた理解をもって一切の現実を認識することによってのみ、完全なものとなります。」


無害性と有用性

「8. God is praised whenever any mind learns to be wholly helpful.
 神は、どの心であれ、心が全面的に他者の助けとなることを学ぶたびに讃えられます。

 This is impossible without being wholly harmless, because the two beliefs must coexist.
 全面的に害悪と無縁な者とならないかぎり、心が真に他者の助けとなるのは不可能です。なぜなら、無害性と有用性というふたつの信念は共存すべきものだからです。」

無害性と有用性についてはほかの節で次のように触れられています。

「Yet whether or not you recognize it now, you have agreed to cooperate in the effort to become both harmless and helpful, attributes that go together.
 けれども、あなたが今それを認めるかどうかは別として、あなたは、危害を加えることも危害を被ることも免れていながらも防衛に役立つ存在となれるように努力を払い、協力することに同意してくれているのです。この無害性と有用性という属性は必ず両立します。

 Your attitudes even toward this are necessarily conflicted, because all attitudes are ego-based.
 とはいえ、あなたが無害であると同時に有用でもあろうとすると、どうしても葛藤を生じてしまうはずです。なぜなら、どのような態度もみなエゴに基づくものだからです。」(T4-2 エゴの起源 5.)

この点については、T6-3 復讐してやりたいけど我慢しなきゃいけない?も参考になると思います。


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テキスト第四章

VII. Creation and Communication
七 創造とコミュニケーション



1. It is clear that while the content of any particular ego illusion does not matter, its correction is more helpful in a specific context.
 エゴが具体的にどんな内容の幻想を抱くかは重要ではないものの、それらの幻想を修正するに際しては、具体的な状況に即して行うほうがより効果的なのは言うまでもありません。

 Ego illusions are quite specific, although the mind is naturally abstract.
 エゴの幻想はきわめて具体的ですが、心は元来、抽象的なものです。

 Part of the mind becomes concrete, however, when it splits.
 しかしながら、心が分裂すると、心の一部は具体的なものになります。

 The concrete part believes in the ego, because the ego depends on the concrete.
 その具体的になった心の部分がエゴを信じます。それは、エゴが具体的なものに依存しているからです。

 The ego is the part of the mind that believes your existence is defined by separation.
 エゴとは、あなたの存在が分離によって限界づけられるものと信じている心の部分のことです。



2. Everything the ego perceives is a separate whole, without the relationships that imply being.
 エゴが知覚するすべてのものは、それぞれ分離したものだけで自己完結しており、ほかのものとの全体的なつながりをもって実在していることを窺わせる関係性を伴っていません。

 The ego is thus against communication, except insofar as it is utilized to establish separateness rather than to abolish it.
 それゆえ、エゴはコミュニケーションをとることに反対します。ただし、分離状態を廃するためではなく、分離状態を常態化させるためにコミュニケーションを利用できる場合だけは例外です。

 The communication system of the ego is based on its own thought system, as is everything else it dictates.
 エゴのコミュニケーション・システムは、エゴが取り仕切るほかのあらゆることと同様に、エゴ独自の思考システムに基盤を置いています。

 Its communication is controlled by its need to protect itself, and it will disrupt communication when it experiences threat.
 エゴのコミュニケーションは、エゴそのものを守る必要性によって制御されています。だから、エゴが脅威を感じたときには、エゴはコミュニケーションを中断してしまいます。

 This disruption is a reaction to a specific person or persons.
 このコミュニケーションの中断は、ある特定の人物あるいは特定の人々に対する反応として起こります。

 The specificity of the ego's thinking, then, results in spurious generalization which is really not abstract at all.
 そのため、特定の相手に対して具体的に働くエゴの思考の特異性は、擬似的な一般化へと結実しますが、それは、実際にはとても抽象的とはいえないものです。

 It merely responds in certain specific ways to everything it perceives as related.
 エゴは、単に自分が関連性があると知覚するすべての物事に対して、特定の具体的な方法で反応しているだけなのです。

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3. In contrast, spirit reacts in the same way to everything it knows is true, and does not respond at all to anything else.
 エゴとは対照的に、霊は自分が真実だと知っていることすべてに対して同じ方法で反応し、それ以外のものにはまったく反応しません。

 Nor does it make any attempt to establish what is true.
 また霊は、何が真実であるか自分で定めようと試みることもありません。

 It knows that what is true is everything that God created.
 霊は、真実であるものとは神が創造したすべてのことだと知っているからです。

 It is in complete and direct communication with every aspect of creation, because it is in complete and direct communication with its Creator.
 霊は創造物のあらゆる面と、完璧かつ直接的なコミュニケーションを保っています。なぜなら、霊はその大いなる創造主と完璧かつ直接的なコミュニケーションを保っているからです。

 This communication is the will of God.
 このようなコミュニケーションこそが神の意志です。

 Creation and communication are synonymous.
 創造とコミュニケーションは同義語です。

 God created every mind by communicating his mind to it, thus establishing it forever as a channel for the reception of his mind and will.
 神は、自身の心からすべての心に意志を伝えることによって、すべての心を創造しました。こうして、神はすべての心を、神の心と意志を受信する経路として永久に確立したのです。

 Since only beings of a like order can truly communicate, his creations naturally communicate with him and like him.
 ただ同じ階級に実在するものだけが、真にコミュニケーションをとることができます。だから、神の創造物たちが神と同じように神とコミュニケーションをとるのは自然なことです。

 This communication is perfectly abstract, since its quality is universal in application and not subject to any judgment, any exception or any alteration.
 このコミュニケーションは完全に抽象的なものです。というのも、このコミュニケーションの性質は普遍的に適用できるものだし、どのようにであれ、価値判断にも例外にも変更にも影響されることがないからです。

 God created you by this and for this.
 神はこのコミュニケーションによって、また、このコミュニケーションのために、あなたを創造したのです。

 The mind can distort its function, but it cannot endow itself with functions it was not given.
 心には、自らの機能を歪曲することができます。しかし、心は自分に与えられていない機能を自分自身に付与することはできません。

 That is why the mind cannot totally lose the ability to communicate, even though it may refuse to utilize it on behalf of being.
 だから、たとえ心がコミュニケーションを行う能力を実在するために用いるのを拒絶する余地はあっても、心にはコミュニケーションを行なう能力を完全に喪失することまではできないのです。

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4. Existence as well as being rest on communication.
 この世界に存在することは、神の現実に実在することと同じく、コミュニケーションに基盤を置きます。

 Existence, however, is specific in how, what and with whom communication is judged to be worth undertaking.
 しかしながら、存在することは、どのように、何について、誰とコミュニケーションをとる価値があるかどうかを判断する点で具体的なものです。

 Being is completely without these distinctions.
 実在することには、まったくこのような区別がありません。

 It is a state in which the mind is in communication with everything that is real.
 実在とは、心が現実であるものすべてとコミュニケーションを行っている状態そのものだからです。

 To whatever extent you permit this state to be curtailed you are limiting your sense of your own reality, which becomes total only by recognizing all reality in the glorious context of its real relationship to you.
 いかなる程度であれ、あなたがこの無制限の実在の状態を切り詰めて縮減することを許容するなら、あなたはその限度まで、自分が実在するという感覚を制限することになります。本当のあなたについての自覚は、万物が自分と真に結びついているという栄光に満ちた理解をもって一切の現実を認識することによってのみ、完全なものとなります。

 This is your reality.
 万物こそ、本当のあなたなのです。

 Do not desecrate it or recoil from it.
 この現実を冒涜したり、この現実から尻込みしたりしないでください。

 It is your real home, your real temple and your real self.
 この現実こそ、あなたの真の家であり、あなたの真の神殿であり、あなたの真の自己なのです。



5. God, Who encompasses all being, created beings who have everything individually, but who want to share it to increase their joy.
 すべての実在を包含する神は、個々にすべてを持ちながらも、自分たちの喜びを増すために、そのすべてを分かち合いたいと望む実在する者たちを創造しました。

 Nothing real can be increased except by sharing.
 現実であるものは、分かち合うことによってしか増大できないからです。

 That is why God created you.
 これこそ、神があなたを創造した理由です。

 Divine abstraction takes joy in sharing.
 神聖な抽象的存在は、分かち合うことに喜びを見出します。

 That is what creation means.
 これこそ創造が意味するものです。

 "How," "what" and "to whom" are irrelevant, because real creation gives everything, since it can create only like itself.
 「どのようにして」、「何を」、そして「誰に」などといったことは意味を持ちません。なぜなら、真の創造は、ただそれ自体と同じものしか創造できないので、すべてを与えることになるからです。

 Remember that in the Kingdom there is no difference between having and being, as there is in existence.
 具体的な存在においては、持つことと在ることに違いがあるのに対して、王国においては、持つことと在ることには何の違いもないことを思い出してください。

 In the state of being the mind gives everything always.
 実在する状態においては、心はいつでもあらゆるものを与えているのです。

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6. The Bible repeatedly states that you should praise God.
 聖書は繰り返し、あなたは神を賛えるべきだと述べています。

 This hardly means that you should tell him how wonderful he is.
 しかし、これが、あなたが神に対して、神がいかに素晴らしい存在であるかを告げなければならないという意味であるはずがありません。

 He has no ego with which to accept such praise, and no perception with which to judge it.
 神はそのような賞賛を受け入れるためのエゴも、そうした賞賛の価値を判断するために必要な知覚も持ち合わせてはいないからです。

 But unless you take your part in the creation, his joy is not complete because yours is incomplete.
 しかし、あなたが創造における自らの役割を担おうとしないかぎり、あなたの喜びは完全にならないので、神の喜びも完全にはなりません。

 And this he does know.
 そして、このことを神は確かに知っています。

 He knows it in his own being and its experience of his son's experience.
 神は、自らの実在において、そして、わが子の体験を自ら体験することにおいて、このことを知っているのです。

 The constant going out of his love is blocked when his channels are closed, and he is lonely when the minds he created do not communicate fully with him.
 神の愛の絶え間のない放出も、神の経路たちが閉ざされると遮られてしまい、神の創造した心たちが神と十分にコミュニケーションをとれないとき、神は孤独になります。



7. God has kept your kingdom for you, but he cannot share his joy with you until you know it with your whole mind.
 神は、あなたのために、あなたの王国をそのままに保ってくれています。しかし、あなたが自分の王国が保たれていることを自らの心の全体で知るまでは、神は自身の喜びをあなたと共有することができません。

 Revelation is not enough, because it is only communication from God.
 啓示だけでは足りないのです。なぜなら、啓示はただ神からの一方的なコミュニケーションでしかないからです。

 God does not need revelation returned to him, which would clearly be impossible, but he does want it brought to others.
 神は、あなたから啓示を送り返してもらう必要はありません。そんなことをしようとしても不可能なのは明らかです。しかし、神は啓示がほかの者たちへともたらされることは確かに望んでいます。

 This cannot be done with the actual revelation; its content cannot be expressed, because it is intensely personal to the mind that receives it.
 ほかの者たちに神の啓示をもたらすことは、実際に授けられた啓示そのものによってはなしえません。啓示はそれを受け取る心にとってきわめて個人的なものであるがゆえに、啓示の内容を表現することなど不可能だからです。

 It can, however, be returned by that mind to other minds, through the attitudes the knowledge from the revelation brings.
 しかしながら、啓示がもたらす知識によって変化した心境を通じて、その心からほかの心へと届けることによって、啓示を返すことはできます。



8. God is praised whenever any mind learns to be wholly helpful.
 神は、どの心であれ、心が全面的に他者の助けとなることを学ぶたびに讃えられます。

 This is impossible without being wholly harmless, because the two beliefs must coexist.
 全面的に害悪と無縁な者とならないかぎり、心が真に他者の助けとなるのは不可能です。なぜなら、無害性と有用性というふたつの信念は共存すべきものだからです。

 The truly helpful are invulnerable, because they are not protecting their egos and so nothing can hurt them.
 真に助けとなる者たちは、傷つくことがありえません。なぜなら、彼らは自分のエゴを守ろうとはしないので、何ものも彼らを傷つけることができないからです。

 Their helpfulness is their praise of God, and he will return their praise of him because they are like him, and they can rejoice together.
 彼らが助けとなることが、彼らから神への称賛となります。そして、神はその称賛をそのまま彼らに返してくれるでしょう。なぜなら、彼らは神の似姿なので、彼らは神とともに喜び合えるからです。

 God goes out to them and through them, and there is great joy throughout the kingdom.
 神は彼らの許へと赴き、彼らを通して拡張するので、大いなる喜びが王国の隅々にまで行き渡ります。

 Every mind that is changed adds to this joy with its individual willingness to share in it.
 変化した心はことごとく、自ら進んで、この神の注ぐ喜びを分かち合いたいという思いから、神の注ぐ喜びの中に加わるようになります。

 The truly helpful are God's miracle workers, whom I direct until we are all united in the joy of the kingdom.
 真に助けとなる者たちは神の奇跡を行う者たちです。そして、私たちがみな王国の喜びの中でひとつに結ばれるときまで、私が彼らを導きます。

 I will direct you to wherever you can be truly helpful, and to whoever can follow my guidance through you.
 私は、あなたが本当に誰かの役に立てるところであれば、どこへでも、そして、あなたを通じて私の導きに従うことのできる人の許になら誰のところであろうとも、あなたを遣わすつもりです。


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