レッスン285「私の神聖さが今日、鮮明にはっきりと輝く」


Holiness is an unselfing of ourselves.
神聖さとは、私たちという個別の自己への自己同一化を解消することだ。

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Frederick W. Faber
フレデリック・W・フェイバー



自己に執着すればするほど、人は真の自己を失う。自己をなくせばなくすほど、人はその人自身になる。

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Michael Ende
ミヒャエル・エンデ

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レッスン285です。

「私の神聖さが今日、鮮明にはっきりと輝く」が今日のテーマです。


まず、聖霊とは何かをご覧ください。


神聖さは愛や生命等と同じく実在が見せる多様な側面のひとつ




神聖さとは、神々しく、清らかで汚れなく尊くて侵しがたい状態を指し、世俗的で不浄である状態の反対です。

T16-2 神聖さの力のエッセイで述べたように、神聖さは、愛や平安、生命等切り口によっていろんな様相を呈するひとつの神の実在を、混じり気のない純粋なものであるという純度の側面で切り取って見たものと見ることができます。

つまり、神聖さとは、穢れ(=気枯れ)のない状態、純粋な生命エネルギーが制限なく通っている状態です。

電気で言えば、抵抗なしに電流が通っている状態です。

穢れなく生命エネルギーが行き渡る天国の状態は、幻想世界に反映されると実在の不在との対立構造が生まれるので、不浄な穢れ、気=生命エネルギーが枯れる状態が生じます。

この不浄さ、生命エネルギーを吸い取り、気を枯れさせる穢れをエゴと呼びます。

この世界はエゴを生み出す分離幻想によってなり立っているので、世界を構成するさまざまな物事がエゴを喩える素材となります。


電気でエゴを考えてみる

そこで、電気を例にしてエゴを考えてみましょう。

物質には、電気の電流を通す導体と通さない絶縁体があります。

導体と絶縁体の中間的な性質を持つのが「半導体」で、電気伝導性のよい金属などの導体と電気抵抗率の大きい絶縁体の中間的な抵抗率をもつ物質で、不純物の混じり具合や熱や光、磁場、電圧、電流、放射線などの影響で、その導電性が大きく変わる性質を持ちます。

電気を神の愛、光等の実在に喩えると、電流が神の子、導体が実在の反映たる聖霊、絶縁体が実在の不在たるエゴという位置づけになると思います。

半導体は電気抵抗の大きさが導体と絶縁体の中間にある物質です。電気抵抗とは、物質に電気を流したときの電気の流れにくさを表します。

電気抵抗という観点で見ると、半導体と人間はなるほど似ているなと思うのではないでしょうか。

もちろん、人間の身体は、科学的には電気を通す導体なわけですが、ここでは電気を生命エネルギーに置き換えて考えてみましょう。

私たち人間は、半導体のように、あるときは聖霊に従って電流ならぬ生命エネルギーを通す状態になることがありますが、多くの場合はエゴに支配されて絶縁体に近づいて生命エネルギーをほとんど通さなくなります(完全に通さない絶縁状態では、完全に塗りつぶされた真っ黒なスライドでは光がスクリーンに漏れ出さず投影自体が起こらなくなって、幻想そのものを妄想できなくなるので、人の子=アバターの死を意味します)。

エゴの濃度が高いほど、抵抗は強くなり生命エネルギーが停滞して流れにくくなります。


私たち人間は半導体のように生命エネルギーを通す導体にも遮る絶縁体にもなれる

さて、LED(Light Emitting Diode)は、順方向に電圧を加えた際に発光する半導体素子です。

高い抵抗の物質に大きな電流を流すと、電気エネルギーが熱エネルギーに変換されます。

このとき発生する熱をジュール熱といいます。

電熱器等の電気器具はこの原理で作用します。

私たちも強烈なエゴの持ち主がすごい熱量で善悪を問わず大きなパワーを発揮するのを目にします。

端末として何かことをなすに際しては、エゴはエネルギー変換器として作用しますが、導体としてエネルギーを通すための媒体としては、妨げとなります。

私たちも半導体のように、愛を運び届けることを常態としつつ、必要に応じて、愛を変換して自分という端末の個性に即した役割を果たす機能も発揮できるようありたいものです。

そのためには、自らを聖別して、エゴから聖霊に支配を移さなければなりません。



エゴから聖霊に聖別する

聖別という概念はキリスト教のものです。

神に奉仕する人や神に捧げる物、礼拝に用いる器具などを世俗的な利用から切り離して儀礼的に清めて神聖な用途のために用いるものとして区別することです。

聖別のイメージとしては、十二国記の使令が参考になると思います。

だああ大jy’だあだだ



十二国記独自用語満載なので、読んでいない方はよくわからん!となるかもしれませんが、絶対後悔しないと保証しますので、十二国記を読むかアニメを見てみてください。


使令」は、王を選び王に仕える聖獣麒麟に折伏され麒麟の使い魔として活躍する妖魔です。

妖魔は、その名の通り、妖怪、魔物の類の人に飼いならされることのない生き物で、本来、野生動物が人を襲うことがあるように人に害をなすものたちですが、聖獣である麒麟によって折伏された場合だけは、麒麟の役に立つ使令となります。

折伏とは、麒麟が妖魔と対峙して睨み合い、向き合う妖魔の覇気が緩んだ時に相手の名を読み取り、右手を頭上に上げ掌を突いて天意を受け、左手で足元を示して、その妖魔の名前を呼ぶことで自らに従わせることです。

私たちの個としてのパーソナル・セルフ、自我は、光が正しく当たらないとエゴという影となって妖魔のように害をなすことになります。

しかし、害をなすからといってエゴを抹殺しようとするのではなく、妖魔を折伏して使令に下すように、愛の光で包み込んでエゴという影を消して個性が輝く自我へと変容させて聖霊のために奉仕させるという発想で臨むなら、野生の荒馬を有能な乗馬に生まれ変わらせるように、聖別できるのではないでしょうか。



さて、コースは、私たちの本質は、神の現実である天国において神とともにいる神の子であり、この世界は、神の子が罪を信じて作り出した幻想だと語ります。

したがって、私たちは狂っているために、自分が罪にまみれて世界の中で苦悶している人間だと思い込んでいますが、正気を取り戻せば、自分はこの世界にいないし、この世界の中にいる人間という生き物でもなく、神という光源の光を拡張する神に等しい神の子だということを思い出します。

つまり、本質的に私たちは神聖なのであって、この世界と同じ次元のどこか遠くにある天国へと苦心してたどり着くために、自分から罪や世俗性を絞り出して削ぎ落として浄化して無垢になって神聖な存在に近づくのではないということです。

清純な神の子という光は、この世界を旅することによって色がついたり濁ったり弱くなったりしたわけではなく、電球の表面に煤や汚れがついて色がついたり光が弱まったように見えていても、きれいに拭き取りさえすれば、元どおり輝かしい強い光が戻るように、神に創造された状態はそのまま何も変わっていないということです。


LEDの発光原理のアナロジーとして、ポジティブシンキング一辺倒ではなく、ネガティブを愛する生き方が大切なことについては、T18-4 ささやかな意欲のエッセイを読んでいただければと思います。





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Lesson 285

My holiness shines bright and clear today.
私の神聖さが今日、鮮明にはっきりと輝く。



1. Today I wake with joy, expecting but the happy things of God to come to me.
 今日、私は、神から幸福な物事だけが私の許へともたらされることを期待しながら、喜びとともに目覚める。

 I ask but them to come, and realize my invitation will be answered by the thoughts to which it has been sent by me.
 私はただ幸福な物事だけが訪れることを求めて、私の招待が自分の送った思いによって応えられることになると理解する。

 And I will ask for only joyous things the instant I accept my holiness.
 だから、私は、自分の神聖さを受け入れた瞬間に、ただ喜ばしい物事のみを求めるようになる。

 For what would be the use of pain to me, what purpose would my suffering fulfill, and how would grief and loss avail me if insanity departs from me today, and I accept my holiness instead?
 というのも、もし今日、狂気が私から去り、私が狂気の代わりに自分の神聖さを受け入れるなら、苦痛は私にとって無用のものとなり、私の苦悩は何の目的も果たすことはなく、私にとって悲嘆や喪失は何の役にも立たなくなるからだ。



2. Father, my holiness is Yours.
 父よ、私の神聖さはあなたのものです。

 Let me rejoice in it, and through forgiveness be restored to sanity.
 私が自らの神聖さの中で喜びに満ち、赦しを通して正気を取り戻せますように。

 Your Son is still as You created him.
 あなたの子は、今なお、あなたに創造されたままです。

 My holiness is part of me, and also part of You.
 私の神聖さは、私の一部であり、あなたの一部でもあります。

 And what can alter Holiness Itself?
 とすれば、いったい何が神聖さそのものを変えてしまうことができるでしょうか。


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それでは、ブリトニーさんのレッスンです。







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