C2 エゴ ー 奇跡


もしあなたが、エゴの感覚はどうやったら乗り越えられるのかと尋ねるなら、私は、なぜそうしたいのかと尋ねる。もしあなたが、自己超越という「より高位の精神的地位」にあれば自分のエゴはもっと気分がよくなるだろうから、といった誠実な答え方をしてくれるなら、あなたはやがて、エゴとしての自分はまがいものだということを悟るだろう。あなたには、まるで自分が玉ねぎのように思えるだろう。皮また皮、逃げ口上に次ぐ逃げ口上で、最後までむいても中心には何もない。だが、このこと――何もないところを取り巻く防御壁、それを取り巻く防御壁、それを取り巻く・・・・・つまりエゴとはまさしくまがいものであるということを発見することこそが、要点のすべてなのだ。それを取り除きたいと思うことすら不可能だし、思う必要がないのである。
 このことを理解すれば、エゴとはまさにエゴではないふりをしているものなのだ、ということがわかってくる。それは、人格の独立した中心であるどころか、社会的権威によって子供のころから植え付けられた、またおそらくは遺伝的特性をも伴った、自動的な機構なのだ。

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Alan Watts
アラン・ワッツ

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人生を深く楽しむためにも、私たちは自分の欲望を追いかけなければなりません。そうすれば、自分が望んでいるものを手に入れれば幸せになれるとか、それが自分を一生満足させてくれるという考えが幻想だと見抜くことができるようになります。自分で実際に罠にはまってみる以外に方法はないのです。そして、罠に落ちても、まだほとんどの人が自分が本当のところ何を探しているのか、見つけられないでしょう。私たちは自分のハートに従うことで、自分の幸福と自分への愛を手助けするものとそうでないものについて、理解すべきことを理解するのです。なぜなら私たちは試行錯誤の末に、ようやく自己破壊的な手段に頼ることなく、毎日を楽しく生きられるようになるからです。欲望と、それに付随する喜びと苦痛を繰り返した末に、私たちは宇宙の完璧な計画をしっかりと理解します。宇宙は私たちを目覚めさせ、私たちが探し求めている心の平安、幸せ、自由、そして愛は常に自分の中にしか見つけることができないという真実を思い出させるのです。
苦痛な思いをしたくないからといって、欲望を抑えることはできません。苦しみを避けたとしても、苦しみから逃れることはできないのです。本当の幸せとは、自分を無条件に愛しながら、痛みの核心に勇敢に立ち向かうことによってのみ得られます。私たちにとっての課題は常に内なる声に従うことです。そうすれば、私たちの内側にある愛が、深い心の傷を完全に癒し、満たしてくれるからです。自己破壊的な行為や他人の機嫌をとる行為などによって、私たちの欲望が隠されてしまっているとしても、私たちは最終的に欲望の前にひざまずき、降伏し、重要な真実へと導かれます。なぜなら私たちのハートはどんなときでも、自分と他人を、そして生きとし生けるものすべてを無条件に愛するように導くからです。その過程で、多少なりとも自分を傷つけることがあったとしてもです。最後に、私たちは欲望に従うことで、もっと賢明に、平穏で、自由な生き方ができるようになるでしょう。

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Blake D. Bauer
ブレイク・D・バウアー(「あなたは苦しむために生まれたんじゃない―恐れ、不安、うつを乗り越え、ありのままの幸せな自分で生きる-」246ページ)

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運命に「乗る」

自由と運命の両者が共有する「拮抗と力の過剰」の関係は、サーフボードでビッグウェーブに乗ろうとする場面になぞらえることができる。うまく大波に乗れるときには、かろうじて乗る側(ボード側)と乗られる側(大波)の間に力の拮抗が成り立っている。その拮抗とは、微細に見るならば、波の側の力の絶えざる過剰と、それに対する乗る側のバランスの危うい回復や微調整の繰り返しであって、一つの恒常的な安定が堅牢に確立しているわけではない。拮抗は、堅固な安定の確立ではなくて、むしろ不安定を微調整しながら、完全なる破局をそのつど回避し続けることであり、逆に言えばいつも破局の一歩手前に居続けることである。
それゆえ、「(ビッグウェーブに)乗る」ことは、主体性や能動性の強烈な発現(コントロール)ではないし、単に受動的な身を任せることでもない。大波を外から操作するのでもなければ、大波の一部になりきってしまうのでもない(それでは溺れてしまう)。それは、大波の表面においてのみ成立しうる危うい拮抗であり一体化である。
しかも、より難易度を上げて楽しむためには、その拮抗からはみ出す巨大な波の力まで招き入れたうえで、拮抗が試されなければならない。凪いでいる波の上でボードに横たわって寛いでいることは「波に乗る」ことではない(ただし、そのための「待ち」にはなりうる)。拮抗は、拮抗自体を台無しにするような過剰を呼び込み続けてこそ、拮抗でありうる。大波への挑戦は、拮抗が崩れて力の過剰の内に飲み込まれて溺れて死ぬことと、どこまでも紙一重でなければならない。紙一重であるからこそ、拮抗は享楽となる。快楽は生の内にあるが、享楽は生と死の〈中間〉にある。
〈中間〉の成立の危うさ、すなわち、自らの成立要件に自己破壊性を含みつつかろうじて成立していることは、ビッグウェーブに乗ることの危うい成立に似ている。大波がやって来て、その表面においてかろうじて成立できるのが、「大波に乗ること」である。それが「運命」の成立であり、「自由」の成立に相当する。そして、大波に乗ることと飲み込まれることとが接している(していなければならない)ように、自由は自由からの自由と接していなければならないし、運命もベタな現実に飲み込まれてしまうことと紙一重でなければならない。
運命は大波に乗るように「乗る」ものであって、思い通りに使いこなすものでもなければ、黙々とただ従うものでもない。「乗る」ことは、拮抗の内なる〈中間〉の繰り返しを楽しむことであり、さらに拮抗が崩れて全てが台無しになってしまう地点まで受け入れたうえで、それでもなお拮抗を楽しむことである。

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入不二基義(いりふじ もとよし 哲学者「あるようにあり、なるようになる 運命論の運命」319ページ)



流れに逆らっちゃいかん。
しかし、流れに流されてもいかん。

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弘世 現(ひろせ げん 日本の実業家、元日本生命社長 / 1904~1996)



When the personality comes fully to serve the energy of its soul, that is authentic empowerment.
個性が自らの魂のエネルギーに完全に奉仕するようになったら、それこそが真に力を得ることなのだ。

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Gary Zukav, The Seat of the Soul
ゲイリー・ズーカフ(「魂との対話」より)




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用語解説から、「エゴー奇跡」をご紹介します。



エゴを定義する必要はないし、定義しようもない

エゴは狂気の産物で幻想でしかない無なので、定義する必要もなければ、定義しようもないということが語られます。

エゴは、すべての幻想と同じく、実在の不在に名前をつけた影でしかありません。

ひとつの実在である愛をいろんな側面から見て、それを生命、平安、真理、知識等と呼びますが、主体的な側面からみると、実在するのは一なる霊である大いなる自己となります。

この大いなる自己の不在によって生じた影である自分が何者かわからない状態がエゴです。

つまり、自分が誰かわからないという疑念、確信の欠如に名前をつけたものにすぎません。


だから、エゴには多様なバリエーションはありえても、疑いから悪意という範囲で影が濃くなったり薄くなったりする限界を踏み越えられません。つまり、何も信じることができない、確信など得られようがないということです。





エゴという影が変節しうる範囲

「The ego is therefore capable of suspiciousness at best and viciousness at worst.
 したがって、エゴは、良くてせいぜい疑い深く、最悪の場合には、悪意に満ちたものになりえます。

 That is its range.
 これがエゴが変化しうる範囲です。

 It cannot exceed it because of its uncertainty.
 エゴは不安定であるがゆえに、エゴにはこの範囲を越えることができません。

 And it can never go beyond it because it can never be certain.
 そして、エゴは決して確信を持つことができないので、絶対にこの範囲を踏み越えることができません。」(T9-7 ふたつの評価 3.)



エゴの対極の奇跡からエゴを考える

このようにエゴは、幻、影なので、積極的に定義しようのないものですが、エゴとは対極にある奇跡からエゴとは何だったのか見極めることができます。

というのも、奇跡とは、愛によって自他の分離が錯覚であることへの気づきが心を反映する世界に現れる現象だからです。

「10. The miracle forgives; the ego damns.
 奇跡とは赦すものであり、エゴとは罰するものです。

 Neither need be defined except by this.
 奇跡もエゴも、これ以外に定義する必要はありません。

 Yet could a definition be more sure, or more in line with what salvation is?
 それにしても、これにまして正確で、これ以上救済の何たるかに調和する定義がありうるでしょうか。」



エゴはありのままの自己を否定しよりよい自己になろうという承認欲求

エゴとは、奇跡の反対であるということは、奇跡の別の顔である潔白な正しい知覚の反対、つまり間違った知覚がエゴだということになります。

真理は、神の子はすべてを持ちすべてであるので、正しい知覚は自分がすべてを持ちすべてであることを曇りなく認識することですが、間違った知覚は、自分はすべてを持たずすべてではない卑小な存在であり、自分が持たず自分ではないすべては自分の外に投影して世界として姿を表すことになります。

したがって、エゴとはありのままの自分=世界と等しいひとつの大いなる自己を否認する間違った知覚ということになります。

つまり、エゴは、自分が何者かわからず確信が持てない状態を意味するので、つねに何者かになろう、価値ある者になりたい、賞賛を浴びたい、自分を認めてほしいという承認欲求となります。

ありのままの自分自身であるということができません。



エゴの権化となったバスチアンの軌跡を辿れば、エゴに従う狂気をよりよく理解できる

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はてしない物語の後半で、救い主、勇者、賢者、覇者になろうと狂ったように欲望に突き動かされたバスチアンはエゴの権化となっていました。

バスチアンがありのままの現実の自分の記憶を捨てて、現実の記憶と引き換えになりたい自己像になりきって、どんどん廃人になっていったように、私たちも、エゴの欲望を追い求めて満たせば満たすほど、本当の自分が神の子であるという記憶は遠のいてゆくばかりです。

難しいことですが、エゴの欲望の根底には、愛を求める呼び声があり、バスチアンのように、自分の本当に求めていたのは、ありのままの自分として愛し愛されることだったのだと気づくことのできる幸せな人もいます。



エゴに従うことで味わう虚しさは自分が求めている真の望みに気づかせてくれる

もっとも、誰かから、あなたが真に求めているのは愛なのですよ、と尊い教えを垂れてもらっても、この気づきに到達するのは困難です。

そうであれば、話は簡単なのですが、ファンタージエンに入り込んだときのバスチアンと同じように、私たちは、自分が真に求めているものを見失っているからこそこの世界に生まれているので、必要なプロセスとして迷走(瞑想ではない)して崖っぷちから深淵を覗き込む経験をすることが欠かせないわけです。



自分を真に知るために放蕩息子は出奔せざるをえなかった

夜は、二人で、よく長い間はなしあった。バスチアンは、ファンタージエンで経験したことをみなはなした。ペレリンのこと、グラオーグラマーンのこと、サイーデのこと、そして自分が重傷を負わせたもしかすると殺してしまったのかもしれないアトレーユのことも。

「ぼく、みんなまちがったことをしてしまった。」バスチアンはいった。「みんな、考えちがいをしていたんです。月の子は、ぼくにたくさんのものをくださったのに、ぼくはそれでもって、自分にもファンタージエンにも、わるいことばっかりしてしまったんです。」

アイゥオーラおばさまはバスチアンを長いこと見つめていたが、やがていった。

「いいえ、わたしはそう思わないわ。あなたは望みの道を歩いてきたの。この道は、けっしてまっすぐではないのよ。あなたも大きなまわり道をしたけれど、でもそれがあなたの道だったの。どうしてだか、わかるかしら?あなたは、生命の水の湧きでる泉を見つければ、帰れる人たちの一人なの。そこは、ファンタージエンの一番深く秘められた場所なのよ。そこへゆく道は、簡単ではないわ。」

そしてしばらく口をつぐんでから、またことばをついだ。

「そこへ通じる道なら、どれも、結局は正しい道だったのよ。」

それを聞くと、バスチアンはいきなり泣きだした。なぜなのか、自分でもわからなかった。胸の中で固くなっていたわだかまりがとけ、涙になって流れだしたような気持だった。すすりあげ、しゃくりあげ、あとからあとから、とめどもなく涙が流れた。アイゥオーラおばさまはバスチアンを膝に抱きあげ、やさしくやさしくなでてくれた。バスチアンはおばさまの胸の花の中に顔をうずめて、思う存分、泣いた。泣いて泣いて、疲れるまで泣いた。

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Michael Ende
ミヒャエル・エンデ(「はてしない物語」より)

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間違った道も、生命の泉に通じるなら正しい道となる

この気づきに到達するには、バスチアンがエゴに駆り立てられて欲望を追求する間違った道を奈落に転落しそうになりながら歩んだように、エゴに従う虚しさを味わう道を辿ることがどうしても必要になります。

そして、この危険な道をなんとか歩み切って生命の水の湧き出る泉に辿り着くことができたとき、その間違った道は、実は正しい道だったことがわかります。



とはいえ、元帝王たちの都の住人とならずにバスチアンのように生命の泉に到達できるのはほんのひと握りの人だけで、ほとんどの人は間違った道を間違った道のままにして人生を終えることになります。

私たちの優しい兄であるイェシュアは、私たち弟妹たちが必要以上に間違った道をぐるぐる回らずに済むように、私たちを導いてくれていて、次のように語ってくれています。



Jesus saith unto him, I am the way, the truth, and the life: no man cometh unto the Father, but by me.
イエスは言われた。「私は道であり,真理であり,命である。私を通らなければ,誰も父のもとに行くことができない」

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ヨハネによる福音書 第14章6節


あなたは、何も救われるためには、わざわざ旅をする必要はなかったことを知るでしょう。あなたは一点の曇りもない無垢な存在として、故郷に留まったままでいることもできたのです。しかし、旅をしなければ、あなた自身の無垢もわからなかったでしょう。あなたが純粋無垢な存在であることを、私も、私たちの父=母も知っています。

恵みから失墜したことのない天使は、神との共同創造者にはなれません。そうでなければ、意識的な創造ができないからです。意識的に創造するためには、自分の創造物を理解せねばなりません。創造物を理解するためには、それらに加わり、その旅を経験しなければなりません。

それをあなたはしてきたのです。友よ、ようこそ、故郷へ。罪と死の中をあなたがたは通り抜けて、いまや、しみも穢れもない輝かしい存在です。

ハレルヤ!ルシファーは元の天使に戻りました。放蕩息子は帰郷しました。天のすべての天使が歓喜に溢れています。そして、自分で旅をした者もまた、随喜の涙にむせぶのです。

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イエス・キリスト(Paul Ferrini ポール・フェリーニ著「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」184ページ)

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「汝の欲することをなせ」と命じたアウリンの黒い蛇であるエゴは、誘惑や失敗、死や病いという試練を課して、それに屈するものを滅ぼし、克服するものだけを残す無慈悲な敵となって物語を進行させ、主人公に間違った道を辿らせることで真理に気づかせ、彼が生命に至ることができるよう助ける支援者だったのです。

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エゴに頼る状態を早々に脱して真の望みに到達することもできる

とはいえ、真の望みに到達するには、いつまでもずっとエゴに助けてもらって廃人になるリスクを冒して危険な道を歩まなければならないわけではありません。

蝶が空を舞うには、生まれてから芋虫として、利己性を追求する時期を必ず通る必要があります。

これは成長のプロセスとして必要なことであって、悪いことではありません。

むしろ、まだ芋虫として自我を強く鍛えて自分を成長させなければならない段階でへたに「悟り」を開いて利他の道を歩もうとするなら、その芋虫は空に羽ばたくことすらできず、地面に墜落して、すぐに干からびて死んでしまうでしょう。

かといって、蛹(さなぎ)になって変身する時期が来たのに、それまで通りの利己性の道をずっと邁進し続けたのではチャンスを逸して芋虫のまま死ぬしかありません。

アウリンは、人の子に、黒い蛇であるエゴの導きによって利己性の道を進ませて、成長に伴って痛い目を見せることで、教訓から学んで成長した本人が、導きを白い蛇である聖霊に切り替える機会を与え続けてくれます。

これを当人が無視し続けると、その道は破滅の淵を歩む旅路となります。

当人が選択する以外には、案内役が自動で切り替わることはありません。

コースは、エゴに従って痛い目を見ている私たちに、これ以上の深傷(ふかで)を負う前に、早々にエゴから聖霊に案内役を切り替えて、先人の教訓から学ぶスタンスを磨くことができると教えてくれます。

アウリンは、人の子が身につけると「汝の欲することをなせ」と黒い蛇が現実の記憶と引き換えに誘惑するのに対し、ファンタージエンの生き物が身につけると導きの星となって正しい道を歩ませて物語を展開させるという働きをしました。

私たちも、人の子、アバターとして自分が人間だというアイデンティティーを抱いて生きるかぎり、エゴの力を借りて痛い目を見なければ学ぶことができませんが、自分だと思う人間は物語の架空の登場人物と同じで、神の子が幻想世界という夢物語を旅するためのアバターであるという自己認識を持つなら、聖霊が神の子の救済という物語を展開させるための導きの星となって正しい道を歩ませてくれます。

「10. We are still equal as learners, although we do not need to have equal experiences.
 私とあなたは、今なお学ぶ者として同等の存在です。だからといって、あなたが私と同等の経験をしなければならないわけではありません。

 The Holy Spirit is glad when you can learn from mine, and be reawakened by them.
 あなたが私の経験から学ぶことができて、その学びによって再び目覚めるとき、聖霊は喜びます。

 That is their only purpose, and that is the only way in which I can be perceived as the way, the truth and the life.
 このように、あなたが私の経験から学んで再び目覚めることこそが、私の経験の唯一の目的であり、これこそ、私が道であり、真理であり、生命であるとして知覚されうるための唯一の方法です。

 When you hear only one Voice you are never called on to sacrifice.
 あなたがひとつの大いなる声にのみ耳を傾けるなら、あなたは決して犠牲を要求されることはありません。

 On the contrary, by being able to hear the Holy Spirit in others you can learn from their experiences, and can gain from them without experiencing them directly yourself.
 それどころか、ほかの者たちの中にいる聖霊からも聞くことができるようになるので、あなたは他者の経験から学べるようになり、自分自身で直接経験しなくても、他者の経験から学びを得られるようになります。

 That is because the Holy Spirit is One, and anyone who listens is inevitably led to demonstrate His way for all.
 その理由は、聖霊がひとつだからであり、聖霊に耳を傾ける者は誰でも、必然的に、聖霊の道をすべての者たちに実証する結果となるからです。」(T6-intro,1 キリストの十字架刑の真の意味とは?)





CHEROKEE STORY OF TWO WOLVES
チェロキー族の二匹の狼の話


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アウリンの白と黒の蛇にちなんで、チェロキー族の二匹の狼の話に触れたいと思います。

このお話は有名なので、みなさんの中にも、読んだり聞いたりしたことがあるという方も多いと思います。



A young boy came to his Grandfather, filled with anger at another boy who had done him an injustice.
別の子に不当な仕打ちを受けたことで怒りに満ちた少年が祖父のところにやってきた。

The old Grandfather said to his grandson, "Let me tell you a story.
年老いた祖父は孫に言った。「お前にひとつ話をさせてくれないか。

I too, at times, have felt a great hate for those that have taken so much, with no sorrow for what they do.
私だって、ときには、自分だけたくさん得をしながら、自分のやっていることに何の後ろめたさも感じないような連中に大きな怒りを覚えることがある。

But hate wears you down, and hate does not hurt your enemy.
しかし、憎しみは自分を消耗させはするが、憎しみが自分の敵に害を及ぼすことはない。

Hate is like taking poison and wishing your enemy would die.
憎悪は、自分が毒を飲むことによって自分の敵が死ぬのを願っているようなものなのだよ。

I have struggled with these feelings many times."
私は、このような感情と幾度も格闘してきた。

"It is as if there are two wolves inside me; one wolf is good and does no harm.
それはまるで、私の内面に二匹の狼がいるようなものだ。一匹は善良で、何の危害も加えない。

He lives in harmony with all around him and does not take offence when no offence was intended.
その狼は、自分の周囲のすべてと調和し、攻撃を受けないのに攻撃することはしない。

He will only fight when it is right to do so, and in the right way.
彼が戦うのは、そうすることが正しいときだけだし、公正な方法で戦う。

But the other wolf, is full of anger.
これに対して、もう一匹の狼は、怒りに満ちている。

The littlest thing will set him into a fit of temper."
些細なことでも彼は激高する。

"He fights everyone, all the time, for no reason.
彼は、いつでも、誰とでも、何の理由もなく、戦う。

He cannot think because his anger and hate are so great.
彼の怒りと憎しみがあまりに大きすぎるせいで、彼は考えることができない。

It is helpless anger, because his anger will change nothing.
それは役に立たない怒りだ。なぜなら、彼の怒りは何も変えないからだ。

Sometimes it is hard to live with these two wolves inside me, because both of the wolves try to dominate my spirit."
ときに、私の中のこの二匹の狼とともに生きるのは困難となる。なぜなら、狼たちはどちらも私の精神を支配しようとするからだ。

The boy looked intently into his Grandfather's eyes and asked, "Which wolf will win, Grandfather?"
少年は祖父の目をじっと見つめて聞いた。「おじいちゃん、どちらの狼が勝つの?」

The Grandfather smiled and said, "The one I feed."
祖父は微笑んで言った。「私が餌をあげるほうさ。」


これが、一般的に知られているお話です。

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餌をどうあげるのかについては語られないものの、暗黙の含意としては、エゴと聖霊で言うなら、聖霊を選択してエゴの息の根を止めなければならないということを語る寓話として読む人が多いと思います。

この話は、「お前が餌をあげるほうさ。」というところでカットして終わらせる形で編集されたバージョンのようで、実は、まだ、そこから先も話は続くということです。

以下、餌のあげ方について語る、二匹ともを活かすお話の続きをご紹介します。



An old Cherokee is teaching his grandson about life: “A fight is going on inside me,” he said to the boy.
チェロキー族の老人が孫に人生について教えていた。彼は、「私の内面でひとつの闘いが行われている。」と少年に言った。

”It is a terrible fight and it is between two wolves.
「それは二匹の狼の間の恐ろしい闘いだ。

One is evil – he is anger, envy, sorrow, regret, greed, arrogance, self-pity, guilt, resentment, inferiority, lies, false pride, superiority, and ego.”
一匹は邪悪な黒い狼だ。彼は怒りであり、妬み、悲しみ、後悔、貪欲さ、傲慢、自己憐憫、罪悪感、恨みの気持ち、劣等感、嘘、根拠のない高慢さ、優越感、つまりエゴだ。」

He continued, “The other is good – he is joy, peace, love, hope, serenity, humility, kindness, benevolence, empathy, generosity, truth, compassion, and faith.
老人は続けた。「もう一匹は善良な白い狼だ。彼は喜び、平和、愛、希望、落ち着き、謙虚さ、優しさ、慈悲心、共感、寛大さ、真実、思いやり、つまり信仰心だ。

The same fight is going on inside you – and inside every other person, too.”
同じ闘いがお前の内面でも繰り広げられているし、ほかの人たちみんなの中でも行われているのだ。」

The grandson thought about it for a minute and then asked his grandfather: “Which wolf will win?”
孫は、この闘いについてしばらく考えてから祖父に尋ねた。「どっちの狼が勝つことになるの?」

The Grandfather smiled and said, "The one I feed. If I feed them right, they both win.
チェロキー族の老人はほほえんで答えた。「私が餌をやるほうさ。もし私が狼たちに正しく餌付けするなら、どっちの狼も勝つんだよ。

You see, if I only choose to feed the white wolf, the black one will be hiding around every corner waiting for me to become distracted or weak and jump to get the attention he craves.
わかるかな。もし私が白い狼に餌をやることしか選ばなかったとしたら、黒い狼は、あらゆる曲がり角に身を潜めて私を待ちかまえて、私が狼狽したり気弱になったりする機会を逃さずに、彼が必要としている私の注意を獲得しようと飛びかかってくるようになるだろう。

He will always be angry and always fighting the white wolf.
黒い狼はつねに怒り狂って、絶えず白い狼と戦うようになるだろう。

But if I acknowledge him, he is happy and the white wolf is happy and we all win.
しかし、もし私が黒い狼の存在を認めてやるなら、彼は幸福になり、白い狼も幸福になり、我々はみな勝つことになる。

For the black wolf has many qualities – tenacity, courage, fearlessness, strong-willed and great strategic thinking – that I have need of at times and that the white wolf lacks.
なぜなら、黒い狼は、多くの優れた特性を持っているからだ。不屈の精神、勇敢さ、恐れを知らぬ豪胆さ、堅固な意志に導かれた偉大な戦略的思考力。これらは、私がときとして必要とするものでありながら、白い狼には欠けている特性だ。

But the white wolf has compassion, caring, strength and the ability to recognize what is in the best interest of all.
他方で、白い狼は、哀れみの心や思いやり、全員の最善の利益が何かに気づく強さと能力を持っている。

“You see, son, the white wolf needs the black wolf at his side.
お前にもわかるだろう。白い狼は、自分の傍らに黒い狼がいることを必要としているのだよ。

To feed only one would starve the other and they will become uncontrollable.
どちらか一匹だけに餌をやることは、もう一匹を飢えさせることになり、二匹の狼をどちらとも、手に負えなくしてしまうんだ。

To feed and care for both means they will serve you well and do nothing that is not a part of something greater, something good, something of life.
二匹ともに餌をやって世話を焼いてあげることで、二匹はお前によく奉仕してくれて、より偉大で、善良で、人生で意義を持つことだけをなすようになるだろう。

Feed them both and there will be no more internal struggle for your attention.
二匹ともに餌をやるのだぞ。そうすれば、もはやお前の注意を奪おうとして内面で二匹が格闘することはなくなるだろう。

And when there is no battle inside, you can listen to the voices of deeper knowing that will guide you in choosing what is right in every circumstance.
こうして内面の闘いがなくなれば、お前は、あらゆる局面で何が正しいかを選択するに際して、自分を導いてくれる内なるより深い知恵の声を聴くことができるようになる。

Peace, my son, is the Cherokee mission in life.
平和こそ、チェロキー族が人生で果たすべき使命なのだ。

A man or a woman who has peace inside has everything.
内面の平安を備えた男女は、すべてを持っている。

A man or a woman who is pulled apart by the war inside him or her has nothing.
自分の内面の闘いによって心を引き裂かれている男女は、何も持ってはいないのだ。

“How you choose to interact with the opposing forces within you will determine your life.
自分の内面で対立する二つの力とどう向き合うことをお前が選ぶかで、お前の人生が決まる。

Starve one or the other or guide them both.”
二匹のどちらかを飢えさせるのか、それとも、二匹とも手懐けるのか。」

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太極図を素朴に見ると、陰と陽が同じ実在性を持って対立し、矛盾、拮抗する両者を止揚することが大切だというデュアリティ、二元論的な発想にとどまり、非二元論、ノン・デュアリティの理解とは相容れないように思えるかもしれません。

けれど、起源となる周易(易経)は陰陽太極図に象徴される二元論でありながら、老荘思想は万物斉同を説く一元論に達していることからもわかるとおり、現象としての二元と原理、真理としての一元は無縁ではありえません。

トーラス構造を平面図で表現したものが太極図である(レッスン361から365「この神聖な瞬間を私はあなたに捧げようと思います。あなたが舵取りしてください。というのも、私は、あなたの導きが私に平安を与えてくれると確信して、あなたに従うつもりだからです」)ことを踏まえると、陰と陽は相容れない対立、拮抗するものではなく、同じ一なるものがエネルギー循環する際に生じる表と裏であり、陽極のみを尊重して陰極を排除することは、かえって自分の外に陰極を排除しようと投影することであり、自分の内面を分裂させるだけで、一なるものに帰る統合を妨げることだといえます。

白い狼にだけ餌をやって黒い狼を飢えされるなら、かえって、神聖な仮面を被っていながら腹の底はどす黒く醜い感情が渦巻く偽善者になるだけでしょう。

かといって、二匹を同等に遇したり、黒い狼を優先したりすれば、道に迷い、暗黒面に心を奪われてダークサイドに堕ちてしまうでしょう。

十二国記の麒麟と使令の関係性が参考になると思います(レッスン285「私の神聖さが今日、鮮明にはっきりと輝く」)。

だああ大jy’だあだだ



プラスの極に白い狼を立たせ、マイナスの極に黒い狼を置いて、白い狼の提示する目的の達成に奉仕する手段として黒い狼を使役することで、トーラス構造の生命エネルギー循環のリンゴの芯に人の子が位置づけられ、生命の泉から生命の水を飲むことができるようになるように思います。



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The Ego - The Miracle
エゴ - 奇跡



1. Illusions will not last.
 幻想は永続しません。

 Their death is sure and this alone is certain in their world.
 幻想が消滅するのは確実であり、幻想の世界で確かなことはただこれだけです。

 It is the ego's world because of this.
 この理由から、幻想の世界はエゴの世界なのです。

 What is the ego?
 エゴとは何なのでしょうか。

 But a dream of what you really are.
 エゴは、それが本当のあなただという夢でしかありません。

 A thought you are apart from your Creator and a wish to be what He created not.
 エゴは、あなたが自らの創造主から分離しているという思考であり、創造主が創造しなかったものになりたいという願望です。

 It is a thing of madness, not reality at all.
 エゴは、狂気の産物であり、まったく実在しないものです。

 A name for namelessness is all it is.
 エゴは、名付けようのないものに付されたひとつの名前でしかありません。

 A symbol of impossibility; a choice for options that do not exist.
 エゴは、ありえないもののシンボルであり、存在しない選択肢を選ぶことです。

 We name it but to help us understand that it is nothing but an ancient thought that what is made has immortality.
 私たちがそれに名をつけるのは、エゴが単に、作り出されたものは不滅性を持つという古来の想念でしかないことを私たちが理解しやすくするためでしかありません。

 But what could come of this except a dream which, like all dreams, can only end in death?
 しかし、こんな想念から生じうるのは、すべての夢と同じように、死によってしか終わらせることのできない夢だけではないでしょうか。



2. What is the ego?
 エゴとは何なのでしょうか。

 Nothingness, but in a form that seems like something.
 無です。無がただ有であるかのように見える形をとっただけのものです。

 In a world of form the ego cannot be denied for it alone seems real.
 形のある世界においては、エゴだけが実在するように見えるので、エゴを否定することはできません。

 Yet could God's Son as He created him abide in form or in a world of form?
 しかし、神に創造されたままの神の子が形の中に留まったり、形ある世界の中に留まったままでいることなどできるでしょうか。

 Who asks you to define the ego and explain how it arose can be but he who thinks it real, and seeks by definition to ensure that its illusive nature is concealed behind the words that seem to make it so.
 あなたにエゴを定義して、どのようにエゴが生じたのか説明するよう求めるのは、エゴが実在すると思っている者だけです。そして、その者は、定義することによって、エゴを実在するかのように思わせる言葉の背後に、エゴの実体のない本質を隠したままにしようとしているのです。



3. There is no definition for a lie that serves to make it true.
 偽りを真実に変えられるような偽りの定義などありません。

 Nor can there be a truth that lies conceal effectively.
 偽りが隠し通せるような真理などありえません。

 The ego's unreality is not denied by words nor is its meaning clear because its nature seems to have a form.
 言葉によってエゴの実在性を否認できるわけではありません。また、エゴが本質的に形を持っているように見えるからといって、エゴの意味が明白になるわけでもありません。

 Who can define the undefinable?
 定義しようのないものを誰が定義できるというのでしょうか。

 And yet there is an answer even here.
 それでも、ここにすら、答えはあるのです。



4. We cannot really make a definition for what the ego is, but we can say what it is not.
 私たちには、エゴが何であるか本当に定義することができません。しかし、私たちは、エゴではないものについてなら語ることができます。

 And this is shown to us with perfect clarity.
 そして、エゴではないものは、私たちに完璧な明瞭さをもって示されています。

 It is from this that we deduce all that the ego is.
 このエゴではないものから、私たちはエゴとはいったい何なのか演繹することができます。

 Look at its opposite and you can see the only answer that is meaningful.
 このエゴの対極を見てみてください。そうすれば、あなたは意味のある唯一の答えを見ることができます。



5. The ego's opposite in every way,–in origin, effect and consequence–we call a miracle.
 その起源、影響、そして、結果のあらゆる面でエゴの対極にあるものを、私たちは奇跡と呼びます。

 And here we find all that is not the ego in this world.
 そして、ここに私たちは、この世界の中でエゴではない唯一のものを見出します。

 Here is the ego's opposite and here alone we look on what the ego was, for here we see all that it seemed to do, and cause and its effects must still be one.
 ここにこそ、エゴの対極があり、ここだけにエゴとは何であったのか私たちは見ることになります。というのも、ここで私たちは、エゴが行っているように思えたすべてを見て、原因とその結果は依然としてひとつのものであるに違いないとわかるからです。



6. Where there was darkness now we see the light.
 闇があった場所に、今、私たちは光を見ます。

 What is the ego?
 エゴとは何なのでしょうか。

 What the darkness was.
 かつて闇だったものです。

 Where is the ego?
 エゴはどこにあるのでしょうか。

 Where the darkness was.
 かつて闇があったところです。

 What is it now and where can it be found?
 今、闇は、何であり、どこに見出せるのでしょうか。

 Nothing and nowhere.
 闇は無であって、どこにもありません。

 Now the light has come: Its opposite has gone without a trace.
 いまや光がやってきたので、光の対極は跡形もなく去ってしまったのです。

 Where evil was there now is holiness.
 邪悪さがあった場所に、今、神聖さがあります。

 What is the ego?
 エゴとは何なのでしょうか。

 What the evil was.
 かつて邪悪であったものです。

 Where is the ego?
 エゴはどこにあるのでしょうか。

 In an evil dream that but seemed real while you were dreaming it.
 あなたがそれを夢見ていた間本物に見えていただけの邪悪な夢の中です。

 Where there was crucifixion stands God's Son.
 かつて十字架があった場所に、神の子が立っています。

 What is the ego?
 エゴとは何なのでしょうか。

 Who has need to ask?
 誰が尋ねる必要があるのでしょうか。

 Where is the ego?
 エゴはどこにあるのでしょうか。

 Who has need to seek for an illusion now that dreams are gone?
 夢の去った今、誰が幻想を求める必要があるというのでしょうか。



7. What is a miracle?
 奇跡とは何なのでしょうか。

 A dream as well.
 エゴと同じように奇跡もひとつの夢です。

 But look at all the aspects of this dream and you will never question any more.
 しかし、この奇跡という夢のすべての側面を見てください。そうすれば、あなたは二度とそれ以上質問しようとは思わなくなるでしょう。

 Look at the kindly world you see extend before you as you walk in gentleness.
 優しさの中を歩みながら、自分の目の前に広がる思いやりに溢れた世界を見てください。

 Look at the helpers all along the way you travel, happy in the certainty of Heaven and the surety of peace.
 あなたの旅する道に同行してくれる救い手たちが、天国を確信し、確かな平安に包まれて幸せでいる様子を見てください。

 And look an instant, too, on what you left behind at last and finally passed by.
 そして、ついに自分がようやく通り過ぎてあとにしたものにも、一瞬だけ目を向けてください。



8. This was the ego–all the cruel hate, the need for vengeance and the cries of pain, the fear of dying and the urge to kill, the brotherliness illusion and the self that seemed alone in all the universe.
 すべての冷酷な憎しみ、復讐の要求、そして、痛みの叫び声、死の恐怖、そして、殺したいという衝動、同胞愛などないという錯覚、そして、宇宙全体の中に孤立しているように見える小さな自己、こんなものがエゴだったのです。


 This terrible mistake about yourself the miracle corrects as gently as a loving mother sings her child to rest.
 この自分自身についてのとてつもない思い違いを、奇跡は、愛情深い母親が子守唄でわが子を休ませてあげるように、優しく修正してくれます。

 Is not a song like this what you would hear?
 あなたが聞きたかったのはこんな歌声ではないでしょうか。

 Would it not answer all you thought to ask, and even make the question meaningless?
 この歌声は、あなたが尋ねたかったすべての思いに答えを与えるだけでなく、そんな質問を無意味なものにさえするのではないでしょうか。



9. Your questions have no answer, being made to still God's Voice, which asks of everyone one question only: "Are you ready yet to help Me save the world?"
 エゴが何であるのかという、あなたの質問には答えがありません。なぜなら、あなたの質問は、神の大いなる声を沈黙させようとして発せられていたものだからです。その神の声は、すべての者に「あなたはもう私が世界を救うのを手助けする用意はできていますか」と、ただひとつの質問だけを尋ねています。

 Ask this instead of what the ego is, and you will see a sudden brightness cover up the world the ego made.
 エゴが何であるのか尋ねる代わりに、この質問を尋ねてください。そうすれば、あなたは、突如として光輝がエゴの作り出した世界を覆い尽くすのを目にするでしょう。

 No miracle is now withheld from anyone.
 いまや、誰にも奇跡が与えずにおかれることはありません。

 The world is saved from what you thought it was.
 世界は、それが世界だとあなたが思いこんでいたものから救われたのです。

 And what it is, is wholly uncondemned and wholly pure.
 そして、ありのままの世界は、まったく非難の余地のない完全に清らかなものなのです。



10. The miracle forgives; the ego damns.
 奇跡とは赦すものであり、エゴとは罰するものです。

 Neither need be defined except by this.
 奇跡もエゴも、これ以外に定義する必要はありません。

 Yet could a definition be more sure, or more in line with what salvation is?
 それにしても、これにまして正確で、これ以上救済の何たるかに調和する定義がありうるでしょうか。

 Problem and answer lie together here, and having met at last the choice is clear.
 問題と答えが、ここに一緒にあります。ようやく問題と答えが一緒になったのだから、どちらを選択するかは明白です。

 Who chooses hell when it is recognized?
 それが地獄だと気づいたとき、誰が地獄を選ぼうとするでしょうか。

 And who would not go on a little while when it is given him to understand the way is short and Heaven is his goal?
 そして、天国が自分の目的地であり、そこまでの道のりが短いと理解させてもらえたなら、誰でも、もう少しだけ進んでみようという気になるのではないでしょうか。





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